NEXT

第八章 会いたい  1.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 夜の九時を回った。

 お風呂から上がり、洗面所で髪の毛を乾かしたあと、リビングにいる父と母に

「おやすみなさい」

と言って二階の自室に戻った。

 目茶苦茶精神的にハードな一日だったな、と思う。

 試験があって、佐藤君とお昼を食べて、そしたらそこへ可愛い女のコがやってきて、そのコと佐藤君が言い合いになっちゃって、で、何でかわかんないけどそれが原因でわたしと佐藤君まで喧嘩になったんだ。そのあと真っすぐ家に帰ればよかったのに、ふらふらしてたからえみりさんに出会っちゃって、そしてその後の万引き騒動。やだやだ。あんな思いはもう二度とやだ。ベッドにごろんと仰向けに寝転がった。



「お母さん、ごめんね」

 家に帰ってすぐに母に謝った。謝った途端、涙がぽろっと零れてしまってた。

「あらら」

母は呑気な声を出した。「どうしちゃったの、かれん。泣くことなんかないわよ。かれん、何も悪いことなんかしてないんだから、ね?」

「でも……」

お母さんに嫌な思いをさせちゃった。それは事実だ。ごめんなさい、ともう一度謝った。

「それにしてもねえ。かれんがねえ……」

 母はわたしの頭を抱え込みよしよしと撫でながら言った。感慨深い声。

「あの佐藤君とねえ……」

 あ。その話。

 溢れ出てた涙が止まる。

 急激に顔が熱くなった。

「ゴールデンウイークにデートしたのも佐藤君となの?」

 柔らかい声。

「う、ん……」

「そうなの。言ってくれればよかったのに。お母さん、かれんがどんな男のコとデートしたんだろうって色々想像しちゃったわ」

 佐藤君だったのね、と。もう一度確認するように母はその名前を口にした。

「お母さん」

「なあに?」

「あのね」

 わたしは顔を母の肩から離し、母の目をじっと見つめながら訊いた。

「反対、しない?」

「……反対?」

 母は首を傾げた。

「あたしと佐藤君がつき合うこと、反対、しない?」

「そうねえ……」

母は頬に片手を当てた。「今日みたいなことが度々あったら、やっぱり心配になるかしら。でも、かれんは好きなんでしょ? 佐藤君のこと」

「え」

 突然ふられてまたまた真っ赤になってしまった。きっと茹蛸みたいに赤い顔。こくんと頷いた。

「じゃあ、反対はしないわ。反対されて余計燃え上がっちゃっても困るでしょ?」

 そう言うと母はわたしの頭を再び撫でた。顔をじっと覗き込まれるとどうしてだかどきどきした。なんでだろう。悪いことをしてるわけでもないのに。変なの。

「佐藤君とつき合うのってものすごく大変な、エネルギーのいることだとお母さん思うんだけど。─── かれんは大丈夫なの? 覚悟できてる?」

「うん」

「そう」

「……」

「佐藤君がずっとかれんのこと、好きでいてくれたらいいわね」

 ずっと。

 好き。

 もう一度わたしはこくんと頷いた。

 ほんとに。ずっと好きでいてくれたらいい。

 でもね、お母さん。

 胸の内でそっと呟いた。

 わたしまだ佐藤君にちゃんと好きって言われたことないんだよ?

「あのね、お母さん」

「なに?」

「お父さんには、佐藤君とつき合ってること、まだナイショね」

人差し指を唇に当てて言った。「お願い」

「あら」

母は軽く目を見張って、それから笑った。「そうね。お父さん、落ち込んじゃうから。暫くナイショにしておきましょうか」



 父は、すでに今日の出来事の詳細を母から電話で聞いていたらしく、おかえり、と玄関まで迎えに出たわたしに、

「大変だったらしいな」

そう言った。母と同じように頭を撫でながら。微笑みながら。それだけだった。

 心配かけてごめんなさい、お父さん。それから、佐藤君のことも。話さなくてごめんね。父の広いちょっとくたびれた背中を見ながら心のなかだけでそっと謝った。

 男親はつまらない。

 なんて。

 父がよく言っている台詞を思い出して、なんだか妙に切なくなった。



 机の上に放り出してた携帯電話が鳴っている。

 はっとして起き上がった。

 飛びつくようにして携帯電話を手に取った。

 そのとき初めて気が付いた。わたしってば、ずっと佐藤君からの電話を待ってたんだって。ばかだな。待ってなんかいないで自分からかければよかったんだよ。

 ディスプレイには“佐藤明良”の文字。どきどきしながら親指で、通話ボタンをプッシュした。

「はい」

『あ。平澤? おれ』

「うん」

 電話をもらって嬉しいはずなのに。あまりにも素っ気無い自分の口調にびっくりする。なんでだろ。緊張してる?

『聞いた』

「え?」

『今日、えみりに何されたか。平澤がどんなひどい目にあったか。聞いた』

「……」

『悪かったな』

「……」

『平澤?』

「……どうして?」

『え?』

「どうして佐藤君が謝るの?」

 すっごくやな感じ。えみりさんと佐藤君の距離の近さを感じてすっごくいや。胸のあたりが苦しい。何か痞えてるみたいに苦しい。

 電話の向こうの佐藤君はこちらの口調の強さにたじろいだみたいに沈黙していた。

『……あー。うん。それはそうなんだけどさ』

 そうなんだけど? 

『あいつが平澤にちょっかい出すのって、やっぱ、俺の所為だと思うし。この前、えみりは俺のこと好きなんじゃないかって平澤に訊かれて、そんなこと言われたことねえよって答えたけど。それは本当なんだけどさ。でも、俺、あいつの気持ちわかってたし。あいつがあんな風になったのって、あんなちょっといかれた風になったのって、なんていうか俺の所為ってとこもあるって、ほんとはわかってたんだ』

「佐藤君の、所為?」

『うん』

 気持ちに応えられなかったから? でも、そんなの仕方ないじゃん。そんなこと言うなんて佐藤君らしくない。……って。口に出しては言えなかった。

「……」

『……』

 電話なんだから、何か言わなくちゃって思うんだけど。全く言葉が出てこない。困ったな。

 佐藤君の声は途切れ途切れだった。声量も大きくなったり小さくなったり。多分外にいて歩きながらかけてるんだと思う。

『あー。上手く言えね。ごめん』

「うん」

『あのさ』

「うん」

『俺、さっき駅に着いて、今、歩きながらかけてんだけど』

やっぱり。

「うん」

 くすっと佐藤君が笑った。

『平澤、さっきから“うん”ばっかだな』

「あ。うん」

 また言っちゃった。はは、と。佐藤君の笑い声が耳に染み入る。心地いい。ほっとする。

『あのさ』

「うん」

『平澤、今から出られねえ?』

「え」

─── 会いたい。

 会いたいんだけど。

 って。

 佐藤君はそう言った。

『俺、今、平澤に、すっげえ会いたい』

 机の上の時計を見た。DULTONの真っ赤な丸い目覚まし時計。長い針は4を指している。九時二十分。父の顔が浮かんだ。大変だったなって言ってくれた父の、こちらを気遣うような顔。本当は心配でたまらないのに、わたしをそっとしておいてくれようと、詳しく聞きたい自分の気持ちを無理に抑えてる、そんな顔をしてた。それから。母の顔も。

「ごめんね。無理、だよ?」

泣きたい気持ちでそう言うしかなかった。「今日は無理。あんなことあったばっかりだし。これ以上家族に心配かけられないよ。だから。出られない」

 佐藤君は何を考えているんだろう、束の間黙り込んでいた。沈黙のなか、車の行き交う音に時折雑音が混じる。

『……そうか。そうだな』

もう時間、遅いもんな。

 無理に笑ってるみたいな声だった。胸がきゅっと締めつけられる。

『ごめん。変なこと言ったよな。明日また学校で会えるのにさ。……悪ぃ』

 相手に見えるわけでもないのにわたしは携帯電話片手に首をぶんぶんと横に振っていた。

「こっちこそ、ごめんね」

 せっかく会いたいって言ってくれたのに。すっごく嬉しかったのに。

『平澤、謝ることねえよ。─── じゃ、また明日な』

「うん……」

 佐藤君が切ったのを確認してからこちらも電話を切った。

 携帯電話右手にもう一度時計に目を当ててみた。

 瞼を閉じる。

 佐藤君は今何を思ってるんだろう。そんなことを考えていた。

 しんとした部屋。

 佐藤君の声がまだ耳の奥で響いていた。本当に静かだ。階下の音も、二階にいるはずのしおりちゃんやひかるちゃんの気配もしない静かな夜。

 長い時間そうしていたわけでもないのに。

 ぱっと瞼を開けると白い灯りが妙に眩しく感じられた。

 電灯を暫く眺めたあと、腰を下ろしていたベッドから立ち上がりパジャマを脱いだ。クローゼットを開き、抽斗を開け、ブラを取り出し身につけた。それからセントジェームスの長袖のボーダーTと白い綿のパンツも。クローゼットの中には靴もある。もう殆ど使わなくなった靴。古いスニーカーだけどいいや仕方ない、とそれを手に取りぎゅっと両手で握りしめた。

 灯りを消してからそっと部屋を抜け出した。

 すっごくどきどきしていた。

 こんなこと。自分がするなんて信じられないよ。

 わたしはおかしくなってしまったみたいだ。

 会いたいって言ってくれた。

 佐藤君が、今、すっげえ会いたいんだけどって。

 その言葉が今自分のなかで何度もこだましみちみちている。

  わたしは足音を立てないようにゆっくりと階段を降りていった。

 リビングとは階段を挟んで反対側にある和室へと向かう。リビングのドアから漏れ聞こえるのはテレビの音と両親の喋る微かな声。

 ごめんなさい、と心の内では謝りながらも。和室に入り縁側に立つと、音を立てないようにそうっと大きな窓の鍵を開けた。スニーカーを地面に下ろしたところでもう一度確認するみたいに後ろを振り返った。

 襖の陰に立つ人影。思わず身体を揺らしていた。

 ばっ。

 ばかばか。心臓、止まるよ、ひかるちゃん。

 ひかるちゃんだった。

 ひかるちゃんの大きくてまん丸な目がふたつ、こちらを向いていた。きっとわたしのほうも同じようなびっくりマナコを返しているはず。束の間そうして見つめ合っていた。背中を丸め、片足だけを地面に下ろすという途轍もなくマヌケな格好で。

 ひかるちゃんはすっと視線を逸らすと、そのままリビングのほうに顔を向けた。何かを窺うように。わたしは息を詰める。ひかるちゃんは右手を胸の前まで上げると手首から先だけを二度動かした。追い払うように。早く行けという風に。顔は横に向けたままで。

 うわわ。

 感謝っ。ひかるちゃん。

 抱きつきたい気持ちをなんとか抑えて靴を履き、窓を閉めた。もう後ろは振り返らなかった。



 深閑とした人通りの少ない道を抜け、車の多い通りへと出る。後ろポケットから携帯電話を取り出した。番号を打つ親指が震えてる。心臓が飛び出しそうにどきどきしている。

『平澤?』

 佐藤君はすぐに出てくれた。わたしのほうから電話があって驚いてる声。

「うん。─── あのね、佐藤君。あたし、今、四丁目の交差点にいるんだけど」

 ややあって、は? と声が聞こえてきた。

「あのね。あたし、家、抜け出してきたの」

『……』

「佐藤君?」

『え? まじで?』

「うん。まじで」

 小さく、大丈夫かよ、とひとり言みたいに呟く声がした。わかんないよ。大丈夫かなんて。ひかるちゃん次第だな。きっと。

「佐藤君、今、どこにいるの?」

『もうウチに着いた』

 そりゃそうか。さっきの電話からずい分時間が経ってるもんね。

「あたし、これから、どこに行けばいい?」

 こちらの問いに佐藤君はやっぱり暫くの間考え込んでいた。何を考えてるんだろう。この沈黙は結構痛い。家出少女と会うのはやっぱ迷惑なのか? でも、誘ったのは佐藤君だよ。

『平澤?』

「うん?」

『ウチ、来る?』

「え?」

『じいさん、今日旅行に行ってていないんだ。俺、ひとりだから。いまから、ウチ、来る?』

「え? 行ってもいいの?」

『……。いいよ』

「うん。じゃあ、行くね」

 迂闊にもわたしは元気よくそう返事をしていた。佐藤君に会いたい一心で。佐藤君ひとりしかいない部屋にこんな時間に訪ねるということがどういうことなのか。深く考えないままに返事をしていた。そりゃもう元気よく。


NEXT

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

HOME
 
/ NOVEL /  AKIYOSHI TO KALEN