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「いーや。それは絶対、ふ、こ、う」
 不幸。
 と。
 きっぱり断言され、花は社員食堂のテーブルの上、両腕を伸ばし突っ伏した。がっくりと。
 友人の瀬戸美冬せとみふゆには遠慮というものがまるでない。見た目はふんわかあったかい聖母マリアのような面立ちをしているくせに。距離をとっている間はまだよいのだ。仲良しの境界線から一歩踏み込んだ途端、びしばしびしばし容赦なく叩かれてしまう。
「不幸も不幸、大不幸だよ。もう、はっきり言って、サ、イ、ア、ク」
 箸の先をこちらに向け、強調された。美冬は左利きだ。薬指に光るプラチナのリングがやけに眩しい。
 花は妙に重くなった頭をふらふら持ち上げため息を落とす。
「そこまで言うかねえ……」
 唇を尖らせ食べかけのうどんを箸で突っついた。大不幸って言葉なんかあったかよ。
「別れちゃいなよ、そんな男。働かないで一日じゅう家でごろごろしてる男なんて、さいってーだよ」
「別にさー。家にいるからって、一日じゅうごろごろしてるわけじゃないと思うんだよね」
「だって掃除も洗濯も食事の仕度もぜーんぶ花がやってるんでしょーが」
「うん、まあ」
 それでもまあ、時々は掃除くらいならしてくれていることもある。おそらくはご機嫌取り。
「何だっけ。小説家になるからいまは時間をくれって言ってるんだっけ」
「うん」
 ごにょごにょと返したのは、口の中がうどんでいっぱいになっているからだ。別に。そう宣言した充をバカにしたり蔑んだりしているわけではない。
 はあーっと。美冬は顔面に掌を当て、仰け反って見せる。
「美人で才女で仕事もきれて、きっぷのいいオトコマエの花ちゃんが、男に対してだけどうしてそんなに女っぽくなっちゃうのよー」
「オトコマエって……」
 花は目の前で揺れている、美冬の豊かな胸をちらりと見遣る。痩せて肉の薄い花に比べ、美冬はどちらかと言えば肉感的だ。ふっくらした頬とぷっくりとした唇がいやらしくもあり母性的でもある。喋らなければ、ほんっと、いい女、なのにね。
「花って。なあんか、どこかで人生諦めてるところ、あるよねえ?」
 言われ、花はどきりとした。
「そんなこと、……ないよ?」
「人生なるようにしかならないって、内心、思ってるでしょ」
 花は視線を逸らせ、うどんを啜った。何だか腑抜けた味がすると思ったら、七味を入れ忘れていた。花はテーブルの中央に置かれた調味料入れに手を伸ばし、朱色の小瓶をさっと抜き取る。
「そういや、昔、何かをやらかしたから、自分は多くの幸せを望んじゃいけないんだっていうようなこと、前に花言ってたよね」
 七味の瓶を振っていた手が、思わず止まる。
「え。あたし、そんなこと言った?」
「言った言った」
「いつ」
「んー。ふたりで飲みに行ったときだから。あたしが結婚するちょっと前だったかなあ。何やったのか知らないけど、そんな大袈裟に考えることでもないんじゃないのー?」
 花は朱色の蓋を閉め、小瓶を元の位置に戻した。
 そうか。そんなことを言ったのか。あの出来事についてはあまり思い出さないように、口にしないように、自分なりに気をつけているつもりでいたのに。酔って口にしたということは、まだ心のどこかに罪悪感のようなものを抱えているのだろうか。少しだけ驚き、同時にそりゃそうだなと納得もする。
 あの頃自分の身の回りで起こった不思議な現象。そこから逃れるために起こした自分の異様な行動。暫くは罪悪感に苛まれ夢にうなされ明るい朝の陽射しのなか、夜が来ないよう祈るような毎日を過ごしていた。
 ただし。いまは違う。あれはただの子供のいたずらみたいなものだと、そう思っている。実際その程度のことだった。
 けれど、と。花は首を傾げないではいられない。
 本当にそうだったのだろうか? それならばどうして自分はあの出来事をいつまでも忘れられないでいるのだろうか。こんなにも固執しているのだろうか。
 目の前のはっきり物を言う女の、意外と女っぷりの高い顔を見つめる。
 ふと、美冬に全てを話し、判断してもらいたいような衝動に駆られた。判断というより安心させてほしいのかもしれない。大丈夫だよ、と、まるで大したことではないかのように、軽くあしらってもらいたいのかもしれなかった。
 横をすうっと暗い影が過ぎった。美冬と同じ部署にいる四十半ばの男性社員がのっそりと、ふたりの横の通路を通って行った。美冬に気づかなかったのかどうなのか、挨拶もしない。普段から滅多に笑うことのない無口な男だった。日の当たらない場所で苔生していく岩のような男だと、花は男を見るたびそう思う。
「あのさ」
 花は思い切って口を開いた。
「何?」
「うん……」
「あ。花さんと瀬戸さんだ」
 若い男の声が背後からして振り返ると、瀬戸美冬と同期の大仲晃平おおなかこうへいが定食を乗せたトレイを持って立っていた。後ろにはもうひとり同期の男── 失礼だが名前を忘れてしまった── と、葉月の姿も見える。皆、揃いの作業服姿だ。グレイの地味な上衣に、下は同色のズボン。花と美冬も研究職なので同じ格好だ。以前は私服に白衣を羽織っていたらしいのだが、袖口が締まっていない、裾がひらひらしているので生地が機械に挟まれ事故につながり易い、などの理由から、花が入社する前年から、この作業服が支給されるようになったらしい。安全第一の無骨な服。色気も何もあったもんじゃないと、花も美冬も少々不満に思っている。
「そこ、座っていいっすか?」
 長い食堂のテーブルの端っこに、花と美冬は向かい合って腰掛けていた。大仲が花の隣に、その隣には葉月が、そして大仲の向かいにもうひとり同期の男が座った。皆、同じ定食を頼んでいる。今日の定食のメインは豚肉のしょうが焼き。大盛りご飯のアイボリーの器を左手に持ち、大仲が訊く。
「楽しそうに話してましたけど、何盛り上がってたんですか?」
「んー。花の男の話」
 ずずずっと。豪快にうどんを啜りながら美冬が答える。うへえ、男、とか言うなよなー。花は思い切り顔を顰め美冬の顔を睨みつけた。
「花がね。どうしてだめんずにばっか惹かれてしまうのかっていうのを、女ふたりで検証してたの」
 花は呆れた。検証とかじゃなかっただろ。ただけちょんけちょんにけなされていただけじゃないか。それに、だめんずにばかり惹かれるというわけじゃない。自分が男をダメにしてしまうのだ。……おそらくは。
「花さんの男ってだめんずなんっすか?」
 大仲が真面目な声で訊ねる。美冬の同期の男のコはみんな花を花さんと呼ぶ。律儀に小石川さんと呼ぶのは葉月くらいのものだった。
「どうかな」
 花は首を傾げた。実際充はだめんずだよなー、と思いつつ。
「じゃ、もしそのだめんずと別れることになったら、俺とつき合いません?」
 唐突に美冬の隣の男が身を乗り出してきた。目をきらきらさせて。えーと。名前。なんだったっけ? トクイじゃなくて、えーっと……。
福田ふくだ、カノジョいるでしょーが」
 美冬が福田の腕を肘で突つく。そう。福田だ。福田。
「あ。そうだった」
「そうだった、ってねえ」
 福田はあははと軽い調子で笑う。
「俺、実は入社したときから、ずっと花さんのファンなんですよねえ。いっしょに働ける葉月が羨ましくて羨ましくて」
 フ、ファン?
「お。葉月羨ましがられてるぞ」
 大仲が言い、皆が葉月を見たが、葉月は曖昧に笑いながら、黙々と箸を口に運んでいるだけだ。眼鏡のフレームが昨日と違い、今日は黒い。
「そういや」
と、大仲がまた口を開いた。大量に積まれたキャベツの千切りを箸で摘みながら。
「来週の金曜日、飲みに行こうって話しがあるんですけど、もしよかったら花さんと瀬戸さんも来ないっすか?」
「誰が来るの?」
「総務のコたちと、後はいつものメンバーっすね」
 いつものメンバーとは、葉月や大仲と同期の男たちの数人だ。K.T.化学は女性職員に比べ、男性職員の数が圧倒的に多い。花の同期で研究職の女性は花以外誰もいなかった。美冬の年もまた然り。花が同期でもない美冬と仲良くなったのは、だから自然な成り行きだったのである。話し相手になる歳の近い女性職員が他にいなかったから。もちろん、気が合ったからこそこうやって言いたいことを言い合い親しくつき合っているのではあるけれど。
 美冬は入社年度だけはふたつ下ではあるものの、年齢は花と同い年だ。大学に入るときに一年、院に入るときに一年浪人した、と本人から聞いている。頭悪くってさー、おまけに勉強が嫌いでさー、と甘ったれた声で美冬本人は話していたけれど、出身は花の卒業した大学よりランクがひとつもふたつも上の国立大学だった。
「なーんか、すっげえ可愛い派遣社員の女のコがふたり、総務に入ったらしいんっすよ」
「え。マジ」
 なぜだか美冬が反応する。
「そのうちのひとりが、もう人形みたいに顔もスタイルもいいって噂なんっすよねー」
「で、そのふたりが、来るの? その飲み会に」
 美冬が興味津々といった様子で訊ねる。何でだ? と花は美冬の顔を見遣る。
「そう。来るんですよ」
「じゃ、行こっかなあ」
「瀬戸さん、来ます?」
「うーん。かっちゃんに聞いてみないとわかんないけどー」
 かっちゃん、とは、美冬のオットの美冬だけの呼称だった。同じ会社の主任をしている、美冬より十歳年上の頭髪のそろそろ寂しくなりかけたおじさんで、どう見てもかっちゃんってツラじゃないよな、と花は内心思っている。
「花も来るでしょ?」
「うん。仕事、入ってなかったら、行けると思う」
 花は箸をトレイの上に置き、口許をハンカチで拭いた。たぶん、行ける。充はそういうことに関してはうるさく言わない。
「場所は?」
 花が訊ねると、大仲は、
「『ZEN』がいいんじゃないかって。あそこ、全室個室だから。俺ら
騒がしいですからねえ。この間『空』で飲み会やったときなんか、あそこってちょっとしっとりした雰囲気の店じゃないですか、もう少し声のトーン落としてもらえますかって、三回くらい言われちゃって」
 笑いながら答えた。なすびのように面長の顔に、肉のたっぷりついた頬を上げ笑うと、この男は本当に愛らしく見えるな。と、花は思う。
「本当は、外で花見でもって言ってたんですけど。でも、まだ寒いし、場所取りも大変だから」
「花見か。それもいいねえ」
 美冬が腕を組みうなずく。やっぱりどこかおっさんくさい仕草だ。顔は聖母マリアのくせに。
「そういや、俺、この間の日曜日、初めてわか山城跡地に桜、見に行きましたよ」
福田が言う。「あそこ、すっげえ桜、綺麗ですね。それに、うちの工場が上から一望できるんですよ。俺、あんな大きくて立派な工場で働いてるのかって、それ見て、ちょっと感激しちゃいました」
「カノジョとデート?」
「え。そりゃ、まあ」
 わか山城跡地。
 桜。
 一瞬だけ。花の笑いが凍りつく。
 そっと立ち上がり、トレイを持った。
「ごちそうさま。そろそろあたし、行くね」
「花さんと瀬戸さん、メンバーに入れといて、いいっすか?」
「オッケーオッケー」
花は軽く頷いたが、美冬は、
「かっちゃんに聞いてみないとわかんないってばー」
と甘えた声で言っている。新婚だからのろけたいらしい。大仲が面倒臭そうに、
「いますぐ、ケータイで連絡とってみればいいじゃないっすか」
と返すのを背中で聞きながらその場を離れた。
 事務服を着た女子職員の三人連れが目の前を過ぎった。思わずぶつかりそうになり、花はさっと、トレイを引っ込める。視線が、真ん中にいる女のコの、襟足にふと留まった。長い栗色の髪をふたつに分けミツアミにしている。そこから覗く細く白いうなじ。ツクリモノのようにきめの細かい肌、光沢。まるで人形のようだった。
 唐突に全身を貫く強い既視感。花は大きく息を吸い込み、動けなくなっていた。
 目だけが事務員の横顔に奪われる。
 華奢な顎。小さな顔。三日月のような曲線を描き、つんと先端だけが丸みを帯びた愛らしい鼻。ぷっくりとふくらんだマシュマロのように白い頬。アーモンド型の目を縁取る長い睫毛。その細い毛先。
 ── 。
 がしゃん、と。大きな音が自分の足元から聞こえてきて花は我に返った。
「花、何やってんの」
 呆れたような美冬の声。見ると、トレイも器も自分の足元で見事にひっくり返っている。うどんの汁が飛び散り、ズボンの裾の色を点々と変えていた。
「あ。やだ……」
 慌てて腰を屈め、器を拾う。器はプラスティックでできているので割れてはいない。さっと、目の前に大きな手と雑巾が差し出され、床の上を這う。花は顔を上げ、葉月の顔を見た。目は合わない。
「ありがと、葉月」
「いえ」
「自分でやるから。ごめん。手、汚れちゃったね」
 花は葉月から雑巾を貰い、そっと視線を葉月の頭よりさらに上へと上げてみた。
 事務服姿の女のコはもういなかった。ほうっと、震える息が落ちる。
「大丈夫ですか」
 トレイに器と箸を乗せている葉月に訊かれ、花は、
「え? 何が?」
と返した。
「顔色。悪いですよ」
「……」
「小石川さん?」
「あ。うん。大丈夫」
 花は笑いながら雑巾で床を拭いた。小刻みに震えている自分の手を見て、尚更動揺した。心臓が早鐘を打っている。
 まさか。
 だって。有り得ない。
 胸の内で何度も否定する。
 否定するうちに、胸の動悸も震えも治まり、いまのはただの見間違いなのだというような気持ちになってきた。
 そうだ。見間違いだ。
 きっと。わか山城跡地などという懐かしい地名を聞いた所為だろう。だから少しだけ、昔のことを思い出しただけなのだ。
 花は雑巾を手に立ち上がった。
 美冬にズボンの替えがあるかどうかを心配されたが、ロッカーに予備があるから大丈夫だと答え、花は社員食堂を後にした。
 
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