■NEXT 充と初めて会ったのは、花がK.T.化学に入社して一年半くらい経った、秋口の頃のことだった。 海外の顧客も多いK.T.化学では、社員に少なくとも年一回、TOEICを受験するよう、勧めている。強制ではないが、スコアの高い成績を収めた社員が海外への転勤や出張が増えるのは当然のことで、それが出世の近道だと囁かれてもいた。就職してまで英語かよ、と、大学院にいた際、英語の論文で散々苦労した花は不満を抱きつつ、それでもT駅に近い大手の英会話学校に通っている。英会話コースとTOEICコース、週二回通って月謝は一万八千九百円也。 その英会話コースに充はいたのである。 充は食品加工業の会社で働いていた。輸出入業も行っている為、こちらも英語ができることが必須であったらしい。学生時代に短期の留学を何度か経験したという充の英語は花のそれよりはるかに流暢だった。 そんな折、同じ教室のメンバー十数人での飲み会── コンパともいう── が行われ、一次会の席で花の隣に座ったのが充だった。つき合うようになったきっかけといえば、その飲み会だったと、花は記憶している。充は特別社交的な人柄というわけではなかったけれど、穏やかな話し方をし、こちらの言葉にもちゃんと耳を傾けてくれる聡明さを持っていた。 花が住んでいたアパートが築三十年と古く耐震性も弱いことなどから急遽取り壊されることが決まったのは、つき合い始めて割りとすぐのことだった。新しいアパートを探し始めた花に、家賃を折半して一緒に暮らさないかと言い出したのは充のほうだった。ふたりで家賃を出し合えばオートロックつきのマンションを借りられるし、いまよりもっと広いところに住めるからと。2LDKの部屋を借りればちゃんと個室も持てるよと、そうも言ったのだ。 実際一緒に暮らしてみて楽しかったのは最初の半年くらいだったと、花は当時を思い出す。どうして楽しくなくなったのかと問われれば、それはやはり充が仕事をやめてしまったからにほかならない、と自分は答えを出すだろう。 充が食品加工の会社をやめたのは、会社の業績が思わしくなくなり、退職を促されたからだった。 それはまあ仕方ないと、寧ろ充も大変だったろうなあと、花も思うのだ。 ただ、その後がいけなかった。 雇用保険。 あれが元凶だと花は思う。 働かずとも給付される雇用保険がいけなかった。あれが充をダメにしてしまった。あれを貰っている半年の間に、充はすっかりひきこもりの男のコと化してしまった。一日中ネットをさまよい、ゲームやチャットに明け暮れるようになった。きっと楽をする、ということを覚えてしまったのだろうと思う。 「小説家になるから暫く働かないで書くことに専念させてほしい」 要は、花の稼いだお金で暮らしたい、とそういうことだった。あの時点で、もうふたりの仲は終わっていたのだ。 そんな夢みたいなことばっか言ってないで働きに出なよ。 そもそも充、小説なんか読まないじゃん。 言えばよかったのに言えなかった。 花は少し焦がしてしまったトーストにバターを塗りながらため息を落とす。 だけど。 会社を辞めるまでの充は本当にいいやつだったのだ。 爽やかで、誠実で、何より優しかった。 花がまだ慣れない仕事で失敗し落ち込んでいるとき傍にいてくれたのは充だった。何を言うわけでもなかったけれど、頭を撫で、そうか、と頷き話を聞いてくれた。ベランダでお酒を飲みながら、他愛のない話をして、長い時間を過ごした夜だって、幾度もあった。 何がいけなかったんだろう。 こんな風に相手の男ばかりがだらしなく良くないほうへ転がり恋をうしなってしまうのが自分の運命とか宿命とかさだめとかいうやつであるならば。恋なんかしないほうがよほどいい人生を歩めそうだ。TOIECの成績を上げ出世街道をひた走る。それも悪くないではないか。最近ではやけくそ気味にそう考えたりもする。 午前七時六分。充は食卓にはついていない。最近の充が何時に起き、朝食や昼食に何を食べているのかを、花は知らない。 テレビではDVに悩まされた二十八歳の女性が同居している男の首を絞め殺害したと報じている。 花は事件が起きたとされるアパートを映し出すテレビの画面を見ながら、トーストをひと口齧る。かりっと、香ばしい音がした。 大仲晃平に誘われた飲み会に、美冬は結局来ないと言った。 「何でよー。来なよー。後の女のコ、みんな総務のコばっかなんでしょ? あたしひとりじゃ寂しいよー」 唇を尖らせ文句を垂れる花に、美冬は、 「だってー、かっちゃんがー、金曜日にあたしが家にいないと寂しいって言うんだもーん」 とからだをくねくねさせた。 コドモかよっ。 瀬戸夫妻は日に日に幼児化している。と、花は思う。まあ新婚の夫婦なんて、多かれ少なかれこんなものなのだろう。 「あんなに、新しい派遣の女のコに興味持ってたくせに」 「だってあたし、顔の綺麗なコ好きなんだもん。花もそうだしー」 そう言って、花の頬を指先で撫でる。こいつ、やばい。花は固まる。 「人形みたいに可愛いなんて噂されてるなんてさー。ちょっとお近づきになってみたいと思わない?」 「いや、だけど、あんた、瀬戸さんはどっちかって言うと……」 薄くなった頭。糸のように細い目。美冬の夫の顔を思い浮かべ、花はぼそぼそと呟いた。 「かっちゃんが何?」 ぎろりと睨まれ、 「何でもありません」 肩を竦めた。 「ひとりで寂しいって言うけどさ。花は葉月に相手してもらえばいいんじゃないの? 葉月も来るんでしょ?」 美冬が気楽な調子でつづける。 「……葉月ぃ?」 「あいつなら、花の相手、ちゃんとしてくれそうじゃん。飲んでくだ巻いても朝までつき合ってくれるでしょ?」 それはどうかなあ。 「葉月って、花に気があるのかな?」 美冬は屈託なくそんなことを口にする。花は眉を上げた。 「あいつ、いま、カノジョがいるんじゃないの」 「何か、もう終わりそうだって晃平が言ってたよ」 そこで美冬が声を潜める。花は耳を寄せた。 「ちょっとストーカーぽいんだって、そのコ。嫉妬深いしメールの回数も半端じゃないらしくって。最近じゃ葉月、誰かと一緒のときはほとんどケータイの電源切ってるってよ。そうじゃないとずっとメール受信しっぱなしなんだってさ」 「……ふうん」 花は唇をすぼめうなずいた。「葉月も苦労してるんだ」 結局花は飲み会に参加することにした。マンションに帰り充への不満を膨らませるより、みんなで楽しく飲んだほうがいいと思ったからだ。 「葉月、何時に出る?」 壁に掛かった大きな丸い時計が六時を指した頃、花は、作業に没頭している葉月に声をかけた。顕微鏡を大きくしたような形の分析装置を操作しながら、パソコンに出てくるデータを熱心に分析していた葉月が顔を上げ、花を見た。暫しきょとんとしてから時計へと目を遣る。ああ。と、ようやく何の話かわかったような声を出した。 「……六時半には出たほうがよさそうですね」 「そうだね」 こいつ絶対忘れてた。花は苦笑する。 「何がおかしいんですか?」 片づけを始めた葉月がむっとした顔で訊いてくる。 「何にも」 自分も機械の片づけを始める。そのすぐ傍で思い出したように胸ポケットから携帯電話を取り出す葉月の顔をつい見てしまう。目は合わない。 最近葉月は携帯電話の電源をいつも切っているな、とは気づいていた。どうしてなんだろうと不思議に思っていたが、頻繁に携帯電話が鳴るのを嫌がっていたんだと、ようやく美冬の話しからその行動を理解した。センターに溜まったメールを一度に受信しているのだろう、長いこと、葉月は携帯電話の画面に目を当てている。感情を表に出さないので、何を思っているのかはわからない。 「じゃあ、後で」 花が声をかけると、あ、と葉月は顔を上げた。 「もう外暗いですから、いっしょに行きましょう。俺、ここで待ってますから」 花はじっと葉月の顔を見る。 「瀬戸さん。来ないんでしょう?」 「うん」 「……」 「……」 「何ですか?」 「……ありがと。着換えたら、また、来るね」 「はい」 花は開発室を出ると、更衣室へと歩を進めた。金曜日だからなのか、まだ残業している人間は多く、挨拶を交わしながら廊下を歩く。 葉月は優しい。 自分はおそらく葉月に惹かれ始めている。 だけど葉月と恋をするわけにはいかない。葉月が良くないほうへ転がり落ちていく姿なんか見たくない。 花は唇を引き結び、歩いた。 花と葉月が店の個室へ通されたとき、メンバーはまだ半分くらいしか揃っていなかった。大仲の向かいに花が座り、その横に葉月が腰を下ろす。ふたりで同じメニューを覗いていると、じーじーと携帯電話のバイブの音が聞こえてきた。音のするほう、葉月のパーカーのポケットへと花は視線を向ける。葉月はメニューに目を当てたままポケットから携帯電話を取り出すと、そのまま電源を落としてしまった。 「出なくていいの?」 驚いて花が訊くと、 「いいんです」 しれっとした顔で答える。 「お前さ、嫌なら嫌だってちゃんと相手に言ってやれよ」 向かいに座る大仲が、やけににやけた顔になって言った。 「言ってるよ。何度も。だけど、変わんないんだよ」 「きついくらいの口調で言わないとダメなんだって。どうせ葉月のことだから、あんまりメールしてきちゃダメだよー、とか優しい言い方してるんだろ。相手に嫌がってるのが伝わってないんだと思うね。葉月はつき合ってるカノジョにめっちゃ甘いからな」 カノジョにめっちゃ甘い。 「へえ……」 カノジョに甘い葉月の姿は、何となく花にも想像できた。「そう、なんだ」 「うるさいよ、お前」 葉月が大仲を睨みつける。 「ねえ」 花は話題をかえた。「例の、人形みたいに可愛い女のコって、今日来るんでしょ?」 揃っているメンバーはまだ男ばかりだった。総務の女子職員はきっとみんなで一緒に来るのだろう。 「ああ。そのコ……」 大仲の声が急に暗くなる。 「あれ? 来ないの?」 「いや、来るのは来るんですけど、それが」 「何よ」 「何かちょっと、そのコ、やばいとこがあるらしくって」 「やばい?」 いつの間にか顔を近づけ声を潜め合っていた。葉月がわざとらしい咳払いをするので見ると、総務の女子がちょうど遣って来て、個室の入り口で靴を脱いでるところだった。大仲も花も慌てて居住まいを正す。 「お疲れさまです。遅くなりましたー」 「お疲れー」 一週間の仕事の疲労を 花は再び葉月の持っているメニューを覗いた。そうしながら総務の女子が座る様子をちらりと眺める。人形のように可愛いコってどのコだろう。 迷うことはなかった。 息を詰めるほどにうつくしい女のコがひとりいた。 花は目を見張る。 嘘── 。 「マジで可愛いでしょう?」 離れた場所に総務の女性職員が座ったのをいいことに、大仲が耳打ちしてくる。けれどそれは空気のように花の耳の横を擦り抜けていった。 がちがちと。テーブルの上に乗せた指先が震え出した。抑えようと思うのに、抑えられない。 人形のように可愛いと噂される女のコは花と目が合うと、一瞬だけ、あれ、という顔になった。 花はいっとき吸い寄せられるように目を合わせていたが、向こうのほうが不思議そうな顔で先に視線を逸らせた。頭の血液が全部下に流れ落ちてしまったように頭が真っ白になっていく。 どうして── 。 心臓の音が耳許で強く打っている。 離れた場所に座る男に何か声をかけられたような気がした。花も条件反射のように笑い、言葉を返す。けれど心は何ものかに奪われたみたいに空っぽだった。がんがんと頭のなかで得体の知れない警鐘が鳴り響いている。 そっと。また顔を上げた。 ああ、と。花は呻き声を上げそうになる。 は、な── 。 間違いない。 あれは“はな”だ。 またどこかで自分は“はな”と再会する── 。 十五年前。ほんのいっとき自分を支配した予感。 十五年経ったいま、予感は現実となってしまった。 だけど何故? どうして今頃? 花の眼前に、暗く冷たい湿気た匂いのする絶望にも似た洞穴があらわれ、じわじわと深さを広げていった。 |