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 誰かが頻りに喋っている。
 いくつも並ぶ銀歯を覗かせ、豪快に笑いつつ、場を盛り上げようと息継ぐ間もなく話しつづけている。
 その男がこの飲み会の幹事だということにようやく花が気がついた頃、自己紹介が始まった。
 メンバーは男女合わせて十四人。いつもより多い。うち女性は花を含めて五人だけだ。花以外の四人の女性は皆総務の人間で、花とは反対側の端っこに座っている。
「── 小石川花です。シリカ部の開発室にいます」
 すでにアルコールで頬を赤くした大仲の次に、花が自分の名を口にすると、例の人形のような女のコの花への視線が一層強くなった。飴玉のように大きな透明感を持つ目で見つめられ、全身がひやりとなる。
 ピルスナーに手を伸ばし喉を潤した。が、一向に喉の渇きは癒えない。ぐびぐび飲んでいると、すぐにピルスナーは空っぽになってしまった。
「なんか顔色悪いですね」
 自己紹介を終えた葉月が声を落として言ってくる。少し掠れたいつもの声。花は葉月の顔を見た。
「そう?」
 花と目を合わせた葉月の眉間に微かな皺が寄る。
「真っ青ですよ。具合良くないんだったら、あんま飲まないほうがいいんじゃないですか? っていうか、帰ったほうが── 」
「大丈夫だよ。心配性だな、葉月は」
「だけど」
「── 派遣社員の田神たがみエリカです」
 透きとおるような声が響いて花と葉月はそちらを見た。ごちゃごちゃ話をしている間に自己紹介は次々進み、そろそろ終わろうとしている。やばい。名前も部署もわからない人間がたくさんいる、話しかけられたらどうしよう、とすでに酔いの回り始めた頭で花は考える。
「三月から総務部の経理課で働いています。今日は初めてお目にかかる方も多いので少し緊張しています。よろしくお願いします」
 “はな”が喋っている。花はじっと、田神エリカと名乗った女の唇を見た。横幅の小さなぷっくりとした唇。
 “はな”はあんな声をしていただろうか。首を傾げ思い出そうとするがはっきりとしない。
「いくつー?」
 遠慮のない質問が飛ぶ。田神エリカは一瞬だけ目を丸くしたが、その目を蒲鉾のような形に変え、笑った。
「二十二です」
「え。若っ」
 二十二。花は思わず唇だけで唱えてしまう。
「じゃあ、短大卒? 専門?」
 訊ねたのは、総務の女性陣に近い位置にちゃっかり席を取った福田だ。それにしてもその質問は少々失礼ではないだろうか。
「いえ、高卒です」
 遣り取りに耳を澄ませ、花は運ばれてきたばかりのビールに口をつける。そうしながら田神エリカという女のコの歩んできた二十二年の歳月を思い描いてみようとした。
 勘違い、だったのかな── 。
 あそこに座っている人形のような女のコは“はな”ではない。と、ここへきてようやく花は、大きな誤りに気がついた。そうだ。当たり前のことだった。田神エリカには田神エリカの田神エリカとしての二十二年という歳月があり、それは花と“はな”が過ごした時間と明らかに重なっている。
 花は困惑する。
 じゃあ── 。
 じゃあ、どうしてあんなに似ているのだろう。あれは“はな”そのものだ。“はな”が二十二歳の女のコに姿を変え、十五年ぶりに花の前に現れた。一瞬の間に確信したのに。
 花のなかで膨らんでいた荒唐無稽な考えが急速に萎んでいく。
 そういえば先週、社内食堂で見かけた“はな”によく似た女のコ、あれこそ田神エリカだったに違いない。花は益々混乱し、ふう、と重いため息を落とすと共にうなだれた。
「花さん、今日は大人しいじゃないっすか」
 大仲晃平が声をかけてくる。
 長いテーブルの、入り口から遠い側に総務の女性職員はひと塊になって座っており、自己紹介を終えた後は、周りの男性職員とだけ談笑していた。
「あっち、行かなくていいの?」
「俺っすか?」
「大仲、いま、カノジョいないんでしょ?」
 こういうのは集団見合いみたいなものだと花は思っている。おそらくはここにいるほぼ全員が何がしかの期待を胸に抱いてこの席へやって来たことだろう。研究職に就いている男性職員は女のコと出会うチャンスに、びっくりするぐらい恵まれていないのだ。
「今日女のコと仲良くならなくてどうすんの?」
 花が言うと、
「んー。俺はいいかなー」
 大仲は甘辛そうなタレのたっぷりついた焼き鳥の串の先を見つめながら返事をした。
「どうして?」
「あっちのやつら、ほんと、今日の飲み会楽しみにしてたから」
 俺はいいっす。そう言って、今度はジョッキを呷る。
 そう言えば、さっき大仲晃平は何か言いかけていなかったか、と花は思い出す。そうだ。田神エリカのことを、やばいところのある女のコだと言っていたのだ。
 どういう意味だったのだろう。
 今すぐ聞きたいような衝動に駆られたが、たとえ席が離れているとはいえ、本人のいるところで話すわけにもいかない。
 花は、
「もう飲まないほうがよくないですか?」
という葉月の言葉に首を横に振って応えた。
「小石川さん」
 白いボタンに手を伸ばす。今度は日本酒を注文することにした。


 公園のベンチに腰掛け空を仰ぐと夜風が冷たく頬を撫でてとおり過ぎていった。
「あー。すっきりしたー」
 マンションへ帰る途中、気分が悪くなり公園のトイレに駆け込み嘔吐した。
 ハンカチが差し出される。受け取ると、それはひんやりと濡れていた。
「ありがと」
「体調悪いのに日本酒なんか飲むからですよ」
 葉月が嫌味たっぷりな口調で言う。花はへへへー、と笑った。
「うーん。そうだねー」
 唇にハンカチを当て遠くを見る。大きな桜の木が一本、外灯に照らされ薄暗い公園のなか白く朧月のように浮かび上がっていた。このあたりの桜は先週がピークだった。遅咲きの桜だ、と花は暫し見惚れた。
 葉月とふたりベンチに座り、ただ黙って桜を眺めていた。こんな時間だというのに、繁華街の中央に位置するこの公園は、存外人通りが多かった。
 ふたりの前を一組のカップルが通り過ぎる。十代にしか見えない幼い顔立ちのふたりだった。そのふたりが、花たちから二メートルと離れていない場所でいきなりキスし始め、花と葉月は同時にぎょっとした。盛り上がっていて周りが視界に入っていないのか、カップルのキスはどんどん深さを増していく。この公園を出て北に向かうと、一キロと離れていない場所に大きなラブホテルがある。そこに行くのかな、とぼんやり思う。
 再び吐き気が込み上げてきて、花は身体をふたつに折った。
「うー。気持ち悪ー」
「もう一回吐いてきますか?」
 花は地面を見ながら首を横に振ったが、結局またトイレに駆け込んだ。
 口をゆすぎ、手を洗う。鏡に映る女はひどくだらしのない顔をしていた。
 あーあ。何やってんだ、自分。花は濡れた人差し指の先で、鏡の女の頬をぴんと弾いた。
 よたよた歩きながらベンチに戻ると、先ほどまで熱く口づけを交わしていたカップルは、もういなくなっていた。
 葉月も。姿が見えなくなっていた。
 置いて帰られたのだと認識するまでに数分の時間を要した。
 暫し呆然と誰も座らないコンクリートのベンチを見つめた。思いがけず泣きたいような衝動が込み上げていることに気づき、花はさらに落ち込んだ。
 自分は葉月に何を期待していたのだろう。
 途方に暮れる思いでベンチに腰を下ろす。スニーカーで土を踏む足音が近づく気配がして顔を上げると、ペットボトルを手に歩いてくるパーカー姿の男が見えた。花は心底ほっとし笑顔を見せた。葉月も。子供のような笑いを返す。
「大丈夫ですか?」
 ミネラルウォーターの蓋を開けてからそれを花に手渡してくる。
 胸元のA&Fのロゴ。中央に位置する口の大きく開いたポケット。あそこに仕舞われているはずの携帯電話を思う。
 花は、もしいま自分がホテルへ行こうと誘ったら、葉月はどんな反応を見せるだろうかと想像した。
 そして自分は。花自身はどうするのだろう。充を裏切ったあと、あのマンションへ帰り何食わぬ顔で同じ暮らしをつづけるような器用な真似は、自分にはできそうになかった。
 充と別れる── ?
 喉を潤す水は冷たくすうっとひと息に鳩尾まで落ちる感覚がした。
「ねえ、葉月」
「はい」
 どうしてそんなに葉月は自分に優しいのかと訊こうとして、やめた。どんな言い方をしても誘っているみたいに響きそうで嫌だった。
「何ですか?」
「葉月はさ」
「はい」
「葉月は……、幽霊とか超常現象とか、そういうのって、信じるほう?」
 口にしてから、しまったと思った。
 ふたりで束の間見つめ合う。
 葉月は目をぱちくりとさせ、え、と呟いた。
「何ですか?」
「だから。えーと、……幽霊?」
 眼鏡の奥の切れ長の目が、ぱちぱちと何度か瞬きをした。
「俺ら、一応ふたりとも理学で修士とってるんですよね?」
 自分と花とに交互に人差し指を向け、真面目な顔で葉月は言った。
「そ、それは、そうなんだけどさ……」
 言葉に詰まる花が可笑しかったのか、葉月は肩を揺らして笑い始めた。
「わ、笑わないでよ」
「いや、小石川さんの言ったことが面白くて笑ったんじゃないんです」
「嘘」
「いや、ほんとに。超常現象って言葉、久しぶりに聞いて、ちょっと思い出したことがあって。そのときの自分の慌てぶりがほんとおかしくて、それを思い出して笑ったんです」
 慌てる葉月、というのは想像できない。
「何?」
 うーん、と、葉月は首を傾げ、まだ笑っている唇でつづけた。
「あれがいわゆる幽霊とか超常現象とか、そういう類のものだったのかどうかは、いまでもよくわかんないんですけど」
「……」
「俺、小学生の頃に岡山県に住んでたことがあって」
 花同様、葉月も高校生になるくらいまでは親の仕事の都合で転校を繰り返していた、と聞いている。父親は国家公務員らしかった。
「友達に神社の神主の息子がいて、そいつがある日、面白いもの見せてやるからうちに来い、って言うんです。うちって言ってもそいつの口ぶりから自宅じゃなくて神社のほうだっていうのはすぐにわかりました。何だろうって、友達三人と行きましたよ、わくわくしながら。連れて行かれたのは、蔵みたいなところで。そんな古い建物でもなかったんですけど、外観は蔵そのものでした。鍵を開けながらそいつ、言うんです。もちろん親には内緒だからなって」
 花は小学生の頃の葉月、というものを想像してみる。いまよりちょっとくらいは愛想というものがあったかもしれない。
「蔵って。それだけで、オカルトって感じじゃん」
「そうですね」
 俯いて少し笑った。葉月はその後、暫く口を開かなかった。後にして思えば、話そうか話すまいか迷っていたような、案外長い間だった。
「……蔵に、何があったと思います?」
 切れ長の目が花を射抜く。顔を上げた葉月は真面目な顔をしていた。花はどきりとしながらも、さあ、と首を捻った。
「何だろ。わかんないな」
「人形です」
 人形── 。
 花は胸を突かれるような衝撃を覚えた。
「……人形、だけ?」
 花の問いに葉月は首を縦に振った。
「最初真っ暗で、黴臭いだけの部屋だったんですけど。それだけでも小学生には充分怖いじゃないですか。で、電気点けたら、蔵いっぱいに人形があって」
 花は思わず視線を逸らし、手元を見た。ペットボトルの冷たさを急速に覚える。
 蔵は八畳程度の広さがあり、壁全部と中央に、白木でできた棚がしつらえられていた。その棚全部を人形が埋め尽くしていたのだと、葉月は説明した。
「人形って、結構色々種類があるんですよね。ガラスケースに大切に納められた日本人形とかフランス人形とかだけじゃなくて。俺でも知ってるような有名なキャラクターのぬいぐるみもあったし、大きなテディ・ベアとか、フラダンスを踊ってるような小さな人形までありましたよ。何だよ、ここ、って聞いたら、魂が宿ってしまって処分できない人形をここで供養してるんだって。神主の父親でさえ、ここへはあまり来ないんだぜって、そいつ、自慢げに言うんです。どうも自分は平気だけどな、てところを俺らに見せたかったみたいで。いま思えば、ただ単にそいつには霊感ってものがなかったんじゃないかな、って、そういう話なんですけど」
「霊感」
「そうですよ。俺も全然平気だった。だけど、残りのふたりはそうじゃなかったみたいで、ひとりは、もう顔が真っ青っていうか、白いくらいになってた。で、そいつが、言うんですよ、がちがちがちがち身を震わせながら」
「……何て?」
「遊んでって声がするって」
 遊んで── 。
「もうここを出たほうがいいって、もうひとりが言って、さすがに俺もその神主の息子も怖くなって、じゃあ出ようって、いざ扉に手を掛けたらびくりとも動かなくなってた。本当に。俺も手伝ってみたんですけど、釘をそこらじゅうに打ってるんじゃないかってくらい、がたっとも動かないんですよ。で、開けてくれー、って神主の息子が大声を出した瞬間、蔵の灯りが落ちて」
 花は大きく息を吸う。それで? と声に出して訊くことはできなかった。 
 葉月はポケットに手を突っ込み、伸ばした爪先で地面に円を描いている。呑気な仕草に見えたが、本心はどうなのだろう。顔はずっと真摯なままだった。
「漆黒って言葉があるけど、ほんとそれくらい滑って光ってるような黒い闇でした。全然前が見えないんです。手探りでお互いの身体に触れて抱きしめ合って。距離感がわからないから指を伸ばせば突き指しそうになるし、どこをどう握り合ってるのかもわからないくらいもう四人が四人、全員パニックになってて」
 そのときの自分の慌てぶりがよほど可笑しかったのか、葉月は自嘲じみた笑みを浮かべた。
 暗闇のなか。奇妙な音がし始めたのだ、とつづけた。
「奇妙な音?」
「そうなんです。ぱたぱた。ぱたぱた、って。何だろう。雨とかみぞれとかっていうより、もっと軽い、金平糖みたいなものが、ぱらぱら低い位置から降ってくるみたいな音。その音が少しずつ大きく近くなってくるんです。マジで怖かった。暗くて何も見えないのに、得体の知れない音だけがするのって、ほんと恐怖ですよ。何だよ、何の音だよって、俺ら、もうがっちり、バカみたいに抱き合って」
 やがて音は止み、直後に灯りが点いた。
「眩しくて。何度か瞬きして、ようやく近くの棚に焦点を合わせたんですけど。人形が、一体もなくなってたんです。呆然としましたね。ほんの一分かそこらで、棚が、空っぽになってたんですよ」
「空っぽ?」
 そうなんです、と、葉月はうなずいた。
「隣で、誰かが息だけで叫ぶ声がして、何だよ、ってそいつの顔見たら、目が、見たこともないくらい剥き出しになってて。俺、怖いながらもその目線を恐る恐る追っちゃったんですよね。そしたら── 」
 足元に人形がいたのだと、葉月は言った。
「人形に取り囲まれてたんです、俺ら」
「え── 」
「蔵のなかにあった人形全部が棚から降りてきて俺らを取り囲んでたんですよ」
 ぱたぱたと聞こえていた軽く丸みを帯びた音は人形たちの足音だったのだと、爪先で地面を軽く蹴りながら、葉月は言った。
 
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