前.  後.
ハニーに首ったけ  (前)
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ベッドの縁に座っている先輩の、うなじにかかる茶色い毛先が汗でしっとり湿って光っているのが目に付いた。さっきまであの首筋にしがみついていた。先輩の行為はこちらの理性を簡単にどこか遠くに追いやってしまう。いつもそう。だから、嫌。
 身体を丸めた途端、中央を走る骨がごつごつと浮かびあがった。いらない脂肪の一切ない痩せた身体だ。
 長いこと見つめていると胸が苦しくなってきて、そうっと視線を外した。
 何も身につけていない、こちらも裸の胸を見下ろす。
 世間一般で言うところの巨乳と呼ばれても少しも不思議ではないたわわな胸の膨らみ。自分でも大きいなって思うし、他人からそういう目で見られていることもわかってる。捲れ上がった上唇の形と相俟って「あのコはえっちっぽい」って言われてることもずっと前から知っている。実は自分の中の大きなコンプレックスであったりもする。その右の膨らみの内側にふたつ。赤い内出血の痕が残ってて驚いた。先輩ってこんなものつけるひとだったっけ?
 あーあ。と思う。
 やっちゃった。
 結局今日もやってしまった。
 最後くらいこういうことはしないで終わりたかったのに。まあハジマリがハジマリだから仕方ないか。
 初めての日から今日まで三ヶ月間、先輩は有り得ないくらい優しくて穏やかで、けれどここまできてもまだ、このひとの本音がどこにあるのやらさっぱり自分にはわからない、そしてこれから先も決して見つけ出すことはできないだろうと、しみじみと感じ入らずにはいられなかった。
 先輩のあまり日に焼けていない背中をじっと見つめたあと、ベッドの隅で皺くちゃになっている制服を掻き集め、上下おそろいの下着、スカート、セーラーの上着と一枚ずつ手早く身につけていった。
 泣くまい、あまりにもみっともないから泣くのだけは絶対やめようと思うのに。そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど涙と嗚咽が迫ってくる。まずい、まずいぞ、垂れてきちゃうぞ、と慌てた頃には時すでに遅く、一旦垂れ下がった鼻水をすすり上げる豪快な音が、静まり返った部屋に必要以上に大きく響いてしまっていた。
 あれ? ととぼけた声が聞こえてくる。
「……月子つきこ、ちゃん?」
 いつもどおりの温厚そうで優しい声だ。こちらの気持ちなど微塵も感じ取っていない。ある意味鈍感で無神経な男。
 避妊具の処理を呑気にしている先輩を尻目にわたしはとうに制服を着終え、黒地に赤いチェックのリボンの垂れ下がった片方のボタンをセーラーの襟の下で留めていた。紺色の靴下に包まれた二本の足をベッドから勢いよく降ろし立ち上がる。
 途端、先輩もあとを追うように腰を上げた。遠慮なんかまるでない。ぬっと顔を突き出してくる。
 無理矢理目を合わせる。鼻先がくっついちゃいそうな距離。さっと顔を背けると、素っ頓狂な声が追いかけてきた。
「あれ? あれ? あれあれあれれ?」
 このひとは本当によく舌が回る。テンポはいつだってのんびりなのに。
「どうしたの? どうしちゃったの、月子ちゃん? 何? 何で、泣いてるの?」
 ずずずずっともう一度鼻水をすすり、目許を威勢よく拭うと、確固たる口調で宣言した。
「わたし、もう、ここには来ません」
「え?」
先輩の喋り方は真面目なんだかふざてるんだかいつだってわかんない。「えええ。なんだってまた、そんなことに?」
 こいつっ。一度でいいから頭をはたいてやりたい。と思う。
 背けていた顔を元の位置に戻し、視線を合わせた。
 トランクス一枚と、眼鏡だけをかけた格好で呆然とただ立ちつくしている男。
 月本卓也つきもとたくや
 生徒会長なんかやってるし、長身だしスマートだし、何より眼鏡がよく似合うからずっとかっこいいと思っていたけれど、こうやって見てみればなんともマヌケな男だと思えなくもないではないか。と。懸命に自分に言い聞かせてみたりする。
 忘れろ。忘れちゃえ。こんなウナギみたいにつるつると逃げ回り、心を捕まえることもその手中に留めて置くこともさせてくれない、そのくせ女をコマす手口だけは巧みで手だれた男なんて、金輪際忘れてしまえと声がする。
「先輩は、わたしと、せ……」
 こちらはダメだ。全然ダメ、絶対無理。この男のようにするすると言葉をうまく操ることなんか到底できない。
「え? 何?」
「わ、わたしのこと、何だと思ってるんですか?」
「え? それは、え、と……」
顎に親指と人差し指を当て、考える仕草を一応して見せている。「君は、森本月子ちゃん、でしょ?」
 真面目に言うなっ。真面目にっ。
「ふ、ふざけないでくださいっ」
「いや、全然?」
「わ、わたしは、先輩にとって、こういう、な、何ていうか、その、せ、せ、性の処理の道具、みたいな、そ、そんな存在、それだけなんですか?」
「え? 何言ってるの?」
 先輩の顔から笑みは消えない。まだ笑ってる。図星ではないのか? うろたえないのか? いやそれとも逆に、全てが演技なのだろうか。
「だ、だって、先輩、会えば必ず、っていうか、そ、それしかしないって言うか……」
「ちょっと待ってよ、月子ちゃん。聞き捨てならないね。それしかってことはないでしょ? 映画にも行ったし、ちゃんとデートもしたよね? それにセックスの回数なんて、ひとそれぞれだと思うし、でもだからって僕ら健康な高校生でしょ? 特に多いとは思わないけどな。……え? 何? 月子ちゃん、もしかして嫌だったの?」
 ぐっと返答に困っていると、先輩がえ? まじで? とつづける。
「え? だって、月子ちゃんいつだって気持ち良さそうにしてるから、僕はてっきり……」
 かあっと顔が熱くなった。気付いたら、その左頬を力いっぱいはたいてた。
「い、たっ……」
 こちらの手も思いのほか痛かった。痛くて熱い。頬に手を置いた先輩の顔が心底痛そうに見えたので、怒っているのも忘れてつい弱々しい声を出していた。
「ご、ごめんなさい」
 頬に触れようと伸ばしたその手をぎゅっと握られた。間近で見つめてくる先輩の顔からはもう笑みは消えていた。
 怒ってる? ビンタしたから怒ってるの?
「もうここに来ないってどういう意味?」
 先ほどまでとは打って変わった低い声だ。初めて聞くみたいなふざけたところのない冷静な声。
「どういうって……」
 言葉に詰まる。
「まさか別れるとかそういうこと?」
「そう、です」
「ふざけないでよ。いきなりそんなこと言うなんて、信じられないな。今さっきまで、僕らここで抱き合ってたんだよ」
「だから、それは……」
「月子ちゃんだってちゃんと感じてたよね」
 今度は左手が飛び出していた。さっきよりはやや弱めの音が耳に響く。わあ。こういうのも往復ビンタっていうのかな。
 今の衝撃に因って右手を解放されたのをいいことに、わたしは鞄をさっと手に取り部屋をあとにした。先輩がどんな顔をしているのかはわからなかった。階段を駆け降りる。先輩の家は両親が共働きで、年の離れたお兄さんはすでに家を出ているので昼間は誰もいないのだ。それをいいことにこの男はここで日々ふしだらな行為を繰り返しているに違いない。まさか、わたしとつき合ってる間くらいは、他の誰かとなんてことはなかっただろうと信じていた。そこまでただれてはいないはずだと信じていたのに。
「月子ちゃんっ」
 先輩が追いかけてくる。玄関を飛び出しそうな勢いだったので、親切心からおしえてあげる。
「先輩っ。裸ですっ」
「えっ」
 先輩ははたと気が付き自分の姿を見下ろした。さすがに足が止まっている。ちらっと見えたそれは何も履いていない裸足だった。それを確認してから踵を返し、また走り出した。
 先輩はもう追いかけてこなかった。


 出会いは去年の秋。生徒会の役員室で。
 先輩は名簿とわたしの顔とを確認するように、交互に見比べた。
森本もりもと月子、ちゃん?」
「はい」
「へえ。月子ちゃんって珍しい名前だね」
「ええ。まあ……」
 よく言われます。
「ほんと。お月様みたいなまあるい顔だね」
「は?」
 し、失礼なっ。
「僕と結婚したら月本月子ちゃんになれるよね」
「はあ?」
「月本月子。可愛いよねえ」
「はあ……」
 何だ? この男は。
 どこが可愛いんだ、そんな名前。
 いや、でも結婚しませんから。間違っても。
 初めての会話がこれだからたまらない。
「よしなさいよ。いきなり新人のコ口説いてどうすんの。怯えてるじゃない」
 そう言って副会長の更科さらしなさんに嗜められていた。更科さんは170センチを超えた長身の美人さんだ。こちらも会長と同じく銀縁の似たような眼鏡をかけている。
「あれ? もしかして君、妬いてる?」
「……いちいち言ってることがくだらないわよね」
 そう言えばこのふたり、実はつき合ってるんじゃないかと一年生の間で噂になっていたな、ほんとのとこはどうなんだろうと、ぼんやり背の高いふたりの遣り取りを眺めていた。
 それにしても、なんとまあにやけた顔の生徒会長だこと。
 それが第一印象だ。
 口が上手くて、誰と対峙しても臆面もなく調子を合わせることができる男。それが月本卓也という男。
 だから一般的な生徒会で起こりがちなあらゆる種類のいざこざは、この生徒会の中では今のとこ驚異的に皆無だ。起こりようがないと言っても過言ではないほどに。
 どれほど大きな不満を持って現れた輩も、先輩と会話を交わしたあとでは不思議と機嫌を直して帰っていくのが常だった。ぶんぶんと金棒を振り回して現れた鬼が、キビ団子を持った猿に姿を変えて帰っていく。敵を短時間で手懐ける手練手管は見事としか言いようがなかった。
「うん。うん。そうだねえ。僕もそう思うよ。君の言うこと、間違ってないと思う。そう。そんなことがあったんだ。君も大変だっただろう?」
 まずは相手の意見の肯定から入る。労い敬い必要以上に慰め、とことん相手に喋らせる。先輩は全体の会話のうち約八割を相手の愚痴を聞く時間に割いている。
 傍で聞いているこちらが、うげえ、と声を漏らしそうになるような明らかに手前勝手な視点の話にさえそのパターンは変えない。ひたすら相槌を打ち耳を傾け続ける。辛抱強い。
 そうしておいて、相手が喋り疲れ自分の話を聞いてもらえた喜びに浸っている頃合を見計り、こちら側の意見を述べ始めるのだ。あくまで低姿勢で。
 そういう先輩の姿を幾度となく見つづけていた所為かもしれない。
 結局最後まで、わたしは先輩に言いくるめられているような、いいように扱われているような気がして仕方なかった。好きだとか、可愛いだとか囁かれたところで、イマイチ信用できなかったのだ。
 

 ハジマリは二年生に進級したあとのこと。
 生徒会主催の新入生の歓迎会が滞りなく終わり、その打ち上げが行われた日のことだ。
 その頃すでにわたしは、二度も先輩のキスシーンを目撃する羽目におちいっていて、いかに先輩が女のコにだらしないかを身をもって知らされていた。一度目は階段の踊り場で。二度目はなんと生徒会室で。二度とも別の人物とだった。先輩はあろうことかふたりのキスに唇を動かしちゃんと応えていたのだ。
 軽蔑の視線を向けるわたしに、
「参ったなあ。月子ちゃん、そういう目で見ないでよ、傷付くからさあ」
「別に……」
「向こうからしてきたんだよ。しかもいきなりだからねえ。避けようがないでしょ? ……まあ、悪い気はしないんだけどさ」
 にこやかな顔でさらりとそんな言い訳をした。女ったらしめっ。
「言い訳なんかする必要ないですよ。先輩がアソんでるっていう噂は聞いてますから。今さらですよ」
「ひどいな、それ。でもびっくりしたんでしょ? なんかすごい、鬼みたいな顔してる」
「え。だって、それは。あんな場面見ちゃったら誰だってびっくりしますよ?」
 先輩は困ったようにくすりと笑った。
「そりゃそうだねえ。なんで月子ちゃんに二度も見られちゃうかなあ」
 打ち上げは書記をしている先輩の家で行われた。なんとアルコール飲料まで用意されているではないか。不良生徒会だっ。
 わたしはもうひとりの二年生の生徒会役員、久保田温くぼたはる君と顔を見合わせどぎまぎしながら会に参加した。ハル君はすごく無口な男のコだ。先輩の百分の一くらいしか喋らない。小柄で大人しくて、どうしてこんなひとが生徒会に、って思ったんだけど、聞いてみるとなんと副会長の更科先輩といとこ同士なのだということだった。
「まあ。ほとんど無理矢理。もっと積極的に世の中に出なさいって言われて」
 苦笑いしながらそう言った。
 えっちっぽいと言われるわたしは男のコの友達がとても少なくて。だって、みんなすぐにわたしのことをそいう対象として見てくるのがわかるから。だけど、ハル君はちょっと違った。全然そういう性差を感じさせない。話をしていてとても気が楽な貴重な相手だった。
「ちょっと気分悪い」
 ハル君とは反対側の右隣に座る先輩がわたしに耳打ちしてきたのは夜の八時を回った頃だ。
「僕、ぬけるから」
 顔色はそれほど悪くはなさそうに見えた。
「大丈夫ですか? 送って行きましょうか?」
「いいの?」
「だって途中で倒れたりしたらどうするんですか。危ないじゃないですか」
「悪いね。まあ、そう言ってくれるかな、とは思ってたんだけど」
 食えない男だ。
 外はとっぶりと日が落ちていた。
 ふたりで川べりの道を歩いた。草は夜露で湿っていた。青白い月の灯りが煌々と落ちて、とても明るい夜だった。
 外の空気を吸ったら幾分気分はよくなったと先輩は言った。
「満月だね」
「そうですね」
「月子ちゃんみたいだ」
「……先輩、それって褒め言葉には聞こえませんよ。顔が丸いって言われてるようなもんじゃないですか」
「えー? そう?」
「そんなんでよく女のコにもてますよねえ」
「きれいだって言いたかったのにな。おっかしいなあ」
「今さらそんなこと言ってもダメですよ」
 ふたりで月を見上げながらゆっくりと歩いた。手が届きそうなほど低い位置にある大きな月は本当に綺麗だった。
「月子ちゃんはよくちょこまかと動くよね」
「はあ?」
「いや、生徒会の仕事をよくしてくれるって言いたかったの。二年生のハルと月子ちゃんがよくやってくれるからさ。僕らも助かってるんだよ」
「……」
 先輩の家は割合新しい一軒家で、家の灯りは点っていなかった。
「ちょっと上がって行ってよ」
「いいんですか?」
「うん。いいよ。今日、両親ふたりで旅行に行ってて、誰もいないけど」
「え」
「何にもしないよ」
 笑った眼鏡の奥の瞳は柔らかくて、ついその言葉を信用してしまっていた。
 それがいけなかったのだ。
 気付いたらベッドの上で裸で寝ていた。
 いや。記憶はあるんだけど。
 何ていうか。
 やられた、と思った。
 やられた。
 もしかすると書記の先輩の家で、気分が悪いと言ったのも嘘だったのかもしれないと思った。
 先輩がわたしのなかに入ってきた瞬間、身体をふたつに引き裂かれるような、これまで経験したことのない強烈な痛みが全身を走り、わたしは目茶苦茶に顔を歪めた。
「え」
と、上から声がした。
 目を開けると、先輩の愕然とした顔がそこにあった。
「もしかして、初めて、なの?」
「……」
 あまりのことにわたしは返事をできずにいた。痛みとショックで言葉を発することができなかったのだ。
 えっちっぽいと言われているわたしは経験ありだと、どうやら先輩にはそう思われていたらしい。傷付いていた。月の出ていない暗い夜空の下に、ひとり放り出された気持ちになった。
「どうする? つづけていい? やめとく?」
 そんな。今さら。
 痛みで目尻に涙が滲む。瞼を閉じ首を横に振った。
「いいの?」
 こくこくと頷いた。先輩は躊躇しているようだった。
「ごめん……」
 別に処女性を重んじていたわけじゃない。中学生の頃からちらほら大人になっていく友達を横目に、なんとなく、自分はせめて高校を卒業するまではそういう経験はしなくてもいいかな、なんて思っていた。
 それが、こんなにもあっさりと。いとも簡単に。自分自身信じられなかった。わたしの貞操観念はいったいどこへ?
 先輩は何度もわたしの上唇にキスをした。はむように。唇と唇で繰り返しはさんではキスをした。
 コトを終え、すごすごと服を着ていると、
「そんな急いで帰らなくても、泊まってけば?」
背中側からそんな声が聞こえた。
「いや。でも……」
「どうせ、今日は更科んちに泊まる予定だったんでしょ?」
「……」
 そんなことまで調査済みとは。この男っ。
 腹が立つというより呆れていた。これって用意周到に準備された罠だったんじゃないかと疑いさえ生まれていた。
 けれど。
 こちらを見る先輩の目は温和で穏やかで安寧としていた。こちらの穿った考えなんか容易くその瞳の中に呑み込まれてしまう。
 じっと見返しながら、ああ、わたしはこのひとが好きなんだとここまできてようやくそれを認めざるを得なくなっていた。
 呆れたことだ。
 他の女のひととキスをしてても、簡単に女のコを家に招き入れたとしても。わたしは半年以上このひとの傍にいて。このひとのいいとこも悪いとこもとことん知って。女にだらしがないとわかっていても、いや、案外そういうところにさえ惹かれて、いつの間にか恋に落ちていたのだと気が付いた。
 そうでなければこんな状況になり得るわけがなかった。のこのここんなとこまでついて来てしまうわけがなかった。
 ハジマリはこんな感じ。
 よくよく考えてみればこんな関係。
 長くつづくはずもなかったのだ。
 

 先輩が生徒会室で、また誰かとキスをしていたらしいという噂がわたしの耳に入ってきたのはつい最近のことだ。
「神聖な場所でそういういことしちゃダメだよ」
と、別の生徒会のひとに諭されて初めて知った。しかし困ったことに相手はわたしではなかった。身に覚えが全くない。
 途方に暮れてしまった。
 ふたりきりでいるとき、先輩はとても優しかったのだ。ふわふわと相変わらず掴み所はないけれど、でも、まさか二股をかけられるなんて思いもしなかった。会うたび身体を重ねることに、先輩がわたしとつき合う理由は何なのだろうかと不安を抱えることはあったけれど、わたしたちは案外うまくいってるかもしれないとさえ思っていた。
 相手は誰なんだろう。
 見たことのない相手を想像してはふつふつと生まれてくる強い嫉妬を胸の中で持て余したりもした。先輩に尋ねることはどうしてもできなかった。怖かったから。確認したら最後、この関係が終わりそうで怖かったのだ。
 どうやら相手は更科先輩らしいという噂を聞きつけ、それが間違いなく本当のことだと確信できたのは、ハル君と一緒に広報誌に広告を載せませんかと、いわゆる営業活動で商店街をまわっているときのことだった。前を歩く同じ学校の制服を着た女のコの集団の声に、ふたりで身体を硬くした。
「あの後ろ姿は更科だってー。更科が、椅子に座ってる会長に、こう、覆いかぶさるようにしてちゅうしてたのー。それがずい分長いことしてたんだよねー」
 人目も憚らない大きな声。ぎゃはは、と大勢で笑っている。
「でもさー。月本会長、ほら、あのなんてったけ。胸の大きい、二年の森本だっけ。あのコとつき合ってるんじゃなかったのー?」
「アソびじゃん、あんなの」
「あのコ、やらしい顔してるもんねー。胸でかいしー」
 自分の悪口を直接聞いたのは初めてだった。
 ショックだった。
 足はアスファルトの地面の上に縫いつけられたように重くなり、まるきり動かなくなっていた。
 意識さえ遠のきそうだった。必死にハル君の腕に縋っていた。ハル君はとても華奢で、女のコのように細い腕をしていた。
 制服の集団がどんどん遠ざかっていくのだけはわかった。
「嘘だよ。あんなの」
 ハル君にしては珍しくきっぱりと強気な声だった。いとこである更科先輩の噂話を聞いた所為か顔が赤くなっている。どうやら彼も怒っているらしかった。
 こくこくと頷きながら、でも、本当に嘘なんだろうかという疑念に苛まれてもいた。
「森本さんくらい真面目なひと、僕は知らないよ。生徒会のひとはみんなわかってる。あんなひと達が言ったこと、全然気にすることなんかないって」
「で、でも……」
「森本さん、顔、真っ青だ。どっかで休む?」
「でもね。ハル君。あたし……」
「何?」
「先輩が他のひとと生徒会室でキスしてるの、見たことあるの。あたしとつき合うよりもずっと前のことだったんだけど、それに……」
「それに?」
 ハル君の純情そうな澄んだ濁りのないふたつの目がわたしを見下ろしていた。
 先輩、わたしのこと、そういうことするの初めてじゃないって思って抱いたみたいなんだよ、それに会うたび、身体を求めてくるんだよ、そういうのって、変じゃない? ねえ、それってアソびじゃないって言える?
 ハジマリからずっと抱えていた不安。
 でも、ハル君にその質問をぶつけることはできなかった。ぶつける相手を間違えている。
「ハル?」
 唐突に女性にしては低い声が聞こえてきて、ふたりでぎくりと身体を揺らした。
 ハル君の身体越しに後ろを見ると、噂のふたりが立っていてぎょっとした。握っているハル君の腕の筋肉が形を変えるのがわかった。
 つい更科先輩の唇に視線を当てていた。あまり厚みのない赤みがかった唇だ。見つめすぎていたのか目を合わせた更科先輩は怪訝な顔をしていた。わたしは笑うこともできずにそっと顔を背ける。嫌な女。
 更科先輩の少し後ろにいる先輩は、ものすごくびっくりした顔でわたし達を見ていた。でも、すぐにいつものにやけた表情になった。
「何してるの?」
「広報活動です」
 ハル君の声に剣呑なものが含まれているのがわかった。更科先輩にも伝わったみたいで、少し眉を上げる仕草を見せた。
「ああ、そう。お疲れ様。なんかねえ、遠目に見ると抱き合ってるみたいに見えてびっくりしたよ」
 何てことを言うのだろうかと思った。そっちこそ、何でふたりでいるのかと問い質したかった。
「あれ?月子ちゃん、顔色悪いね。どうしたの?」
 思わずハル君と顔を見合わせていた。
「え、ちょっと」
 答えたのはハル君のほうだ。ふうん、と先輩は首を傾げる。
「偶然だね。こんなとこで会うなんて。どう? 四人で一緒にまわって、そのあとお茶でもしていく?」
「遠慮するわよ。お邪魔でしょ? あたしハルと帰るから、ふたりで行けば?」
 更科先輩はいつもどおりに冷めた口調でさらりと交わした。そのままハル君と帰っていく。
 噂は本当なのだろうか。更科先輩の今の様子からはとんと想像がつかない。心臓はずっと大き目の音を立ててわたしを脅かしている。なのに一歩も踏み出せないのだ。
「じゃあ、僕らも帰ろうか?」
「え? でも……」
「今日はもういいよ。今度一緒に回ろう?」
「はい……」
 こちらは気まずかったけれど、先輩はいつものコトを荒立てようとしない温和な様子の先輩だった。わたしは頷き先輩のあとに従った。
 辿り着いたのは先輩の部屋だ。部屋に入った途端、ベッドに押し倒されていた。見慣れた天井を見つめながら、もうダメかなあ、なんてぼんやりと考えていた。
 それが今日のできごとだった。


 わたしはちゃんと知っている。
 先輩が本当に、心底真面目に、生徒会へ苦情を持ってきたひとたちを相手に対応しているということを。決して手玉に取ろうとか、言いくるめようとか、そんなことを考えているわけではなく、あれが先輩の真に懸命な姿なのだということを知っている。
 でも、わたしは結局、わたしと一緒にいる先輩を信用することできなかった。
 ハジマリがいけなかったのかもしれない。先輩とつき合っている間じゅう、わたしは、自分のコンプレックスに悩まされつづけていた。そしてそのことを先輩に伝えることができなかった。
 机の上で携帯電話が震えていた。マナーモードに設定されたそれは、虚しく横滑りしている。
 誰からの電話なのか見ることもしないで、無視を決め込み、カーテンを開けた。
 暗い夜空を見上げる。
 雨でも降るのだろうか、墨で塗りたくったような果てのない暗さを湛えた夜の闇が、ただ眼前に広がっていた。
 星も、月も、見ることはできなかった。


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