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ハニーに首ったけ  (後)
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 放課後の生徒会室。
 もしかしたら今日は顔を見せないんじゃないかと思っていたけれど、ドアに近い、こちらからは一番離れた長い机の隅っこに月子ちゃんは座っていた。少し色素の薄い天然パーマの髪の毛と色白の頬は見えるけれど、その顔が今どんな表情をしているのかここから窺うことはできない。
 顔を上げない。こちらを見ない。目も合わさない。
 さっきから胸がきりきりと痛い。
「えーと。今日の議題なんだけど、先生のほうから───……」
 月子ちゃんが裸の自分を置いてけぼりにしたのが一昨日のこと。携帯電話には出てくれないし。メールにだって返事はない。
 一体何をそんなに怒っているのだろうか。散々考えてみたけれど理由らしきものは思い浮かばなかった。いや。細かいことを掘り起こせば色々ある気もしたのだが、どれもこれも今さらだった。
 今日の執行委員会は計八名、全員出席。
 ここにいるやつらはみんな変わってる、と思う。今の世の中楽しい遊びはたくさんあるのに、よくこんなボランティアみたいな仕事をやってくれるよな、と思う。
 なんとなく雰囲気で座った生徒会長という名前の椅子。結構性に合ってるかな、と思い始めたのは、でもここ最近のことだ。皆、口々にやり手の生徒会長、などと言うが実感はまるでない。元来のんびりした性格なのだ。会長の名にふさわしい統率力があるとは今も思っていない。
 会議が終わってすぐに部屋を出て行った月子ちゃんを追いかけて廊下で呼び止めた。逃げられちゃうかな、と思ったけれど、そうはしなかった。相変わらず身体を硬くしたままずっと下を向いている。月子ちゃんは背が低い。表情は見えないけれど時計回りのつむじが丸見えだぞ、とおしえてやりたくなった。
 他のやつらが帰って行ったのを確認してから話を始めた。本当は場所を変えてもよかったんだけど。逃げられそうで怖くて、それを提案することもできなかった。
「機嫌、直った?」
 できうる限りの明るい声でそう訊くと、月子ちゃんは終始俯けていた顔をはっとしたように上げこちらを向いた。見上げてくる大きな目が泣きそうに潤んでいる。咄嗟に抱きしめたくなったけれどここじゃやばい。
 見当違いなことを言ってるのは百も承知だ。できればあの別れ話はなかったことにしたかった。
「そんなんじゃありません」
 強張った唇がきっぱりと言う。
 そんなんじゃありません。
 胸の中で鸚鵡返しに呟いてみた。かたい台詞だ。思えばずっと月子ちゃんはこちらに対して敬語を使っていたな、と今さらながら気が付いていた。呼び方だってつき合い始めてからもそれ以前となんら変わらず“先輩”のままだった。こちらばかりが一方的に思いを募らせたいただけで、実は距離は開いたままだったということだろうか。
 身体の奥底から湧き上がってくる寂寥感にも似た気持ちに耐えながら、腕を組み考え込んだ。
「何を怒ってるんだろうねえ」
「だから、そんなんじゃなくて」
「別れるって、本気?」
 いきなりそう切り出すと、月子ちゃんの丸い瞳がゆらゆらと揺れた。そこにはっきりと悲しみが滲んでいる。そのくせこくんと頷くのだった。
 身体が固まる。息が苦しい。襟元に一本指を挿し込み、ぐっと開いた。力を抜こうとして落とした息は思いがけずそこらじゅうに重く響いた。月子ちゃんの表情がさらに硬さを増す。
「理由、聞いてもいいかな」
「……」
「他に、好きなひとでもできた?」
 一番気になっていて、最も口に出しづらかった台詞だ。月子ちゃんの首が横に振られた。
「じゃあ、なんだろう……」
「せ……先輩のほうこそ……」
「ん?」
 顔を覗き込もうとすると嫌そうにさっと一歩引かれた。思わず青ざめる。もしかしてマジで嫌われてるのか?
「せ、先輩のほうこそ、あたし以外にも、つき合ってるひと、いるんじゃないんですか?」
「え? 僕? まさか。僕はずっと、月子ちゃん一筋だよ」
「嘘」
 ぱっと顔を上げ鋭い視線を向けられた。
 きっと自分のあずかり知らないところで何かよくない話が彼女の耳に入ったんだな、とここへきてようやく察した。
「嘘? どうしてそう思うの?」
「先輩、また噂になってるんですよ? 知ってます?」
 噂。
 ああ。あれか。と、思う。
「うーん、それね。僕の耳にも入ってるんだけどさ、参るよね。でも、違うから」
「違、う?」
「うん。それ、僕じゃないよ。他のやつ。誰だかはわかんないけどね」
「……」
「安心した?」
 顔を覗き込もうとしてやめた。また逃げられちゃうと嫌だから。
 月子ちゃんはそれでも首を横に振った。
 じわじわと。焦る気持ちが湧いてくる。
「困ったね。なんでかな?」
「先輩のこと、……何て言うか、信用、できなくて……」
 信用できない。
 ずん、と胸に重く響いた。
「へえー。そう。あれ? そうなんだ。なんでだろうねえ」
 努めて明るく振舞うのにも限度があるのだとこのとき初めて知ることとなった。笑おう笑おうとするのに徐々にうまくいかなくなってきている自分に気付く。
 月子ちゃんの手の甲が、血の気をうしない白くなっているのが目に入った。黒地に赤のチェックの入った制服のスカートを、長いことぎゅっと握り締めているからだ。その裾から伸びた脚はすらりと細い。他の部分が細いから、胸ばかりがやけに目立って嫌なんだと、他の女子と話しているのを知らぬふりで盗み聞いたことがあったっけ。へえ、そんなことを気に病んでいるのかとひどく驚いた記憶がある。確かに月子ちゃんの胸は大きい。だけど片手に余って仕方ないというほどでもない。
 それにしても。
 性の処理の道具、はないんじゃないかと言いたかった。こちらだけでなく月子ちゃん本人をも貶める言葉だ。月子ちゃんはこちらのことをずっとそんな目で見ていたのだろうか。そんな人間だと思いながら今までつき合ってきたのだろうか。そう考えるとこちらのほうも、月子ちゃんという人間がどうなんだかわからなくなってくる。
 視線が絡んだ。
 おそらく。機嫌の悪さがありありと顔に表れていたのだろう。月子ちゃんの顔にさっと怯えが過ぎるのが見て取れた。不機嫌な顔を他人に見せたことなんかこれまで一度もなかったのに。まずいなあ、とは思う。
「わたし、帰ります」
「まだ話、終わってないよ」
「先輩、怒ってるから」
「そりゃ、怒るよね」
 上向いた月子ちゃんの頬のラインが少し震えていた。こちらの発する声がこれまでにないほどの冷たさを帯びているからだろう。いじめるつもりなんかまるでないのに。どうすりゃいいんだと思いつつ、言葉は攻めることをやめてはくれない。
「月子ちゃんは、こっちがアソびだったみたいな言い方するけどさ。そっちこそ、どうなの? 信用できないってことはさ、月子ちゃんだって僕のことそれほど好きじゃないんじゃないの? なのに僕とああいうことしてきたのは何でなの? こっちが聞きたいよね。そっちの気持ち」
 見上げていた目が大きく見開かれた。爆弾でも投下されたみたいな、ものすごい衝撃を受けた顔。その表情に胸を衝かれ、はっと我に返った。
「あ、いや、ごめん。言いすぎた。ほんと、ごめん。今の忘れて。あー、いや、どうしちゃったんだろうな。僕らしくないよね。びっくりした?」
 頬に右手を当てて、もごもごとみっともなく言い訳をしていると、下から弱々しい声が聞こえてきた。
「そうかも知れない……」
「え?」
 は?
「そうかも、……知れません」
 え?
「何が?」
 心臓がばくばく鳴っている。
 目には涙が滲み、顎はずっと震えているのに、目の前の可愛い女のコは今度はこちらに爆弾を投げ込んできた。
「あ、あたし、先輩のこと、本当は好きじゃなかったのかも……」
 は?
 思わず絶句した。
 間を空け、絶叫にも近い声を上げる。
「ええーっ。そ、そりゃないでしょ、月子ちゃんっ」
 うわあ。どうよ。この情けない台詞。
 月子ちゃんは、震えながらもきちんと喋る。このコはとてもしっかりしている。手の甲は変わらず真っ白だ。ぎゅっとスカートの生地を握ったままだった。
「あ、あたし、よく考えてみます。なんか、色々、考えてたら、わからなくなってきた……」
「え、そんな、何にも考えることなんかないって。何をそんなに悩むのさ。僕は月子ちゃんを好きだよ。ちゃんと好き。もう寝ても覚めても月子ちゃんのことしか考えられないんだってば。ほんとだよ? こういう気持ち、えーっと、何て言うんだったっけ? 思い浮かばないな。えっと。もしも、もしもさ、月子ちゃんが僕とそういう、何ていうのかな、いやらしいことするの、本当に嫌だって、もし、何にもしないんだったら僕のこと信用してくれるって言うんなら、もうこれから先しなくていいから。一生しなくていいから、別れるなんて言わないでほしいな」
 ぱっと、月子ちゃんの顔が輝いた。
「ほんとに? ほんとに約束できます?」
「……へ?」
 えっ。何でそんな嬉しそうな顔でそこに食いつくの? 月子ちゃんは僕とするのがそんなに嫌だったわけ? 今までずっと嫌々ながらしてたわけ? そんな風には全然見えなかったんだけどな。
 うわ。すんごい複雑だ。一気に気持ちが萎んでしまった。
 ってかさ。無理だろ。一生しないなんて絶対、無理。
「あー。いや、え、と。あんまり自信はないけど、一応、約束します」
「一応……」
 あからさまな落胆の表情。こっちもショックだ。
 やがて月子ちゃんは俯くと困ったように小さく笑った。くすり、と。ああ。久しぶりに見る笑顔だな、と思う。やっぱり可愛い。
「あのね、月子ちゃん」
「はい」
「月子ちゃんのこと、なんていうか、そのためだけにつき合ったとか、全然そういうんじゃないから。そこだけはさ、誤解してほしくないんだけど。ていうかさ、気持ちと身体、別々に考えるのやめてほしいんだけど」
「あの……」
「え?」
「寝ても覚めてもって。それは……本当ですか?」
「あ。うん。本当だよ。それくらい好き」
 ぬけぬけと言い放った。呆れられても構わなかったけれど、そんなこともなく、月子ちゃんは嬉しそうに笑っている。少なくともそう見えた。
「あの、先輩?」
「はい?」
「あたし、ほんとにもう一度よく考えてみます」
「え? あれ? あー、そう。そうか。そうだね」
「今まで本当にありがとうございました」
「え? ちょ、ちょっとそれってなんだか別れの台詞みたいで嫌なんだけど」
「じゃあ、これで」
 何だか憑き物が落ちたみたいな清々しい顔で頭を下げると踵を返した。
「月子ちゃん」
 ああ。どこまでも女々しいな。未練たらしい。さっさと解放してあげればいいものを。
「はい?」
 くるっと顔だけ後ろを振り向いた月子ちゃんは、
「あのさ、待ってるから。会いたくなったらいつでも電話して」
こちらの言葉に、瞬間きょとんとして、それからまたにっこりと微笑んだ。もう一度頭を下げると今度は本当に僕の前からきれいさっぱり姿を消した。
 意気消沈して生徒会室の扉を開ける。誰もいないと思っていた部屋には更科がいた。聞こえていないはずはないのに、知らんふりで机の上の書類に目を落としている。
 こいつはいつだって冷静だ。恋愛なんかしたことあんのか?
 ふ、っとこちらに視線を寄越した更科の唇が、ばーか、と。容赦なく動いた。
 何を言うっ?
 怒りつつも笑いが洩れた。髪の毛をかき上げ、リノリウムの床を見つめた。クリーム色の床を軽く蹴るともう一度失笑した。
 確かにばかだな、と思った。色々順序を間違えたのだ。でももう取り返しはつかない。


 初めて会ったとき、ああ、可愛いコだな、と思った。
 色が白くて茶色い天然パーマの髪と丸い目が愛らしくて、捲れ上がった上唇がブリジッド・バルドーみたいに色っぽくて、こんなコに生徒会役員が務まるのかと忽ち不安になるくらいふわふわした印象のコ、それが森本月子ちゃんだった。でも月子ちゃんにそんな心配は不要だった。
 森本月子ちゃんは、その見た目のか弱さとはウラハラに、ときに毒舌も吐く、真面目でしっかりした女のコだった。
 新入生の歓迎会の打ち上げの夜。気分が悪いと嘘を吐いてふたりきりになるチャンスを手に入れた。
 実は狙ってた。
 でも、いきなり最後までいこうなんて思ってなかったんだ。それはほんと。少しくらいお近づきになれたらいいな、なんて軽い気持ちで家に招き入れたのに。思いのほかするすると上手くコトが運ぶので逆に焦ってしまっていた。もしかして月子ちゃんは経験ありなのかと勘違いしてしまったのだ。この小さな身体を抱きしめた男が過去にいたのかと思うと何だか無性に腹立たしくなって性急にコトを進めていた。
 あのときの月子ちゃんの顔。
 ひどくショックを受けた顔をしていた。謝ったところで一度飛び出した言葉を取り消すことなんかできない。
 もしかして初めてなの? なんて。
 女のコに向っていう台詞じゃない。ましてや自分の好きなコに。
 取り返しのつかないミスだった。


「今日も来なかったわね、森本さん」
「あー。うん。そうだねえ」
 更科の言葉に力なく頷く。
 定例の執行委員会は月二回。
 月二回、ここにくればコトは足りるのだけれど、大抵のやつは用がなくとも放課後生徒会室に顔を覗かせる。くだらない話をしたり、細かい雑用を手伝ってくれたり。
 月子ちゃんもそうだった。ほぼ毎日やって来てはてきぱきと雑務をこなしてくれた。
 でももう一週間。あの執行委員会の日以来、月子ちゃんはここへ姿を見せていない。
 会いたいな、と思う。
 別にもうカノジョでいてほしいなんて言わないから顔だけでも見せてくれないものだろうかと思う。
 同じ学校にいたって学年が違えば顔を合わせることなんか滅多にない。
「やめちゃうかな、生徒会」
「……かも、ね」
 弱々しい声を出した途端、ぎょっとするくらいきつい目つきで睨まれた。
「姑息な手を使って手ごめにしたりするからよ。まあ、いい薬よね。ちょっとは苦しみなさい」
「手ごめ……。古い言葉使うね、君も」
 更科はむっとした顔のまま立ち上がるとキャビネットに向かい、インスタントコーヒーの瓶を取り出した。マグカップもふたつ。慣れた手つきでコーヒーを淹れる。
「森本さんね、えっちっぽい顔してるって言われたり、胸が大きいって言われるの、すごく気にしてるって、月本知ってる?」
「……知ってる。本人から直接聞いたわけじゃないけど」
 更科はこちらに背中を向けたまま続ける。見上げる身体はひょろりと高い。こちらと比べてもそれほど違わない背丈。でっかいな、この女。なんて思いながら次の言葉を待つ。
「胸が大きく見えるのが嫌で、下着のカップなんかワンサイズちっちゃいのつけてるのよ。健気よね。自分の身体にすんごくコンプレックス持ってるの。そういうの、月本、ちゃんとわかってる?」
「わかってますよ……」
「じゃあ、どうしてそういうコに軽々しく手を出したりするわけ?」
「だから。後悔してます。こっちも」
 カップを机に置いた更科は大きく溜め息を落とし首を横に振った。絶望的。そんな仕草。
「気の毒だわ、森本さん。こんな男に本気になっちゃって」
「本気?」
思わず反応していた。「本気って思う? 月子ちゃん、僕に本気だって、そう見える?」
 勢い込んで訊ねると、思い切り引かれた。ばーか、とまた悪し様に罵られた。くそう。
「見えるわよ。じゃなきゃ、あんな真面目なコがいきなり最後までいっちゃうわけないでしょ。びっくりしたもの。あの夜、予定通り更科先輩のとこにいることにしてくださいって森本さんから電話があったときは。誰といるのって訊いたら月本と一緒って言うじゃない? やばいからすぐにこっちに戻りなさいって言ったら、もう手遅れですって。森本さん泣きそうな声で、でも笑いながらそう言うのよ。こっちまで切なくなるような声だった。あの声聞いたときにわかっちゃった。森本さんも月本のこと好きなんだなって」
 変な男にひっかかっちゃって、可哀相よね、ほんと。
 更科はぽんぽんと軽い調子で悪態を吐く。
「よく喋るね、君、今日は」
「なんかね、思い出したら腹立ってきた……」
「すみません」
「もっと大事にしてあげなさいよ」
「してるつもり、だったんだけどな」
 インスタントコーヒーは苦かった。苦くて熱い。舌先が縮こまる。
 黒い液体をじっと見つめた。
 ずっと気になっていることがあった。
 背の低いふたりの男女の背中。ハルと月子ちゃんは同じ二年生同士の役員ということもあってかよく一緒に肩を並べている。真面目なふたり。何ていうか。似合ってると思う。こちらよりずっと。
「あのさ」
「何?」
「君の可愛いいとこのハル君は、月子ちゃんのことどう思ってるんだろうねえ?」
「ハル?」
 更科の動きがふと止まった。首を傾げている。
「ああ。この間、ふたりでいたから……。それで気にしてるの? でも、ないわね。ないない。」
「そうかな?」
 どうしてそんなにはっきりと断定できるんだ? 更科は相変わらず冷めた様子でコーヒーを飲んでいる。
 両手を頭の後ろで組んで天井を見上げた。白い板に点々と穴のあいた天井だ。
「それにしてもさ。なんで僕と君がここでキスしてた、なんて噂になったんだろうねえ」
 不自然な間が空いた。こちらの問いかけに答えはなく。言葉はふわふわと宙に浮いていた。さっきまで喋り捲ってた女は貝のように唇を閉じている。
 あれ? と思い、更科の目を見遣るとビミョウに視線が泳いだ。
「え?」
「……ごめんなさい」
「え?」
ごめんなさい?「え? あれ? え?」
 更科の頬が赤く染まっていた。有り得ない現象。
 まさか。更科が?
「何? まじで? え? 誰と? まさか僕じゃないよね。寝込みを襲ったとか」
「何言ってんのよ、バカっ」
「じゃあ、誰───」
あっ。と思い至った。
 もしかして。
「ハル?」
 びくっと更科の肩が震えた。
 うわ。更科が本格的に真っ赤になってる。首まで赤いぞ。そのくせ顔は怒ったみたいにむすっとしてるんだ。どこまでも偉そうだな、このやろう。
「え? 君らってそういう関係?」
「う、うん。まあ、ね。ちょっとビミョウなんだけど」
「うわっ。なんだよ、それ」
椅子の背凭れに背中を預け、身体を大きく仰け反らせた。「それならそうと早く言ってくれよー。もしかして月子ちゃんとハルの間に何かあるのかなって、この間から死ぬほど悩んでたんだぞ。心配して損したじゃないかよっ」
 そうなんだ。商店街で抱き合うようにして寄り添い合っているふたりを目撃し、途方もなく動揺した。あの日、ひどく乱暴に月子ちゃんを抱いてしまったような気がする。普段残さないキスマークまでつけた。恥ずかしい。勘違いでとんでもない真似をしてしまった。穴があったら入りたい。
 隣で身を竦めている女をじろりと睨みつける。
「……ごめんなさい」
「こんな場所で年下のいとこを襲うなよ。信じられないな」
「だって、あのコ、自分のほうから絶対そういうことしてこないから。なんかむかついちゃって、困らせたかったのよ」
唇を尖らせる更科なんて見るのは初めてだ。「まさか、あんな風に噂になるなんて思ってなくて、びっくりしたの。あのね、ちゃんと誤解は解いたから。ハルがきちんと森本さんには話したみたいだから。ほんと、ごめん」
 誤解は解いた?
 思わず身を乗り出していた。
「でも、月子ちゃん、出てこないね。……それっていつの話?」
「今週に入ってすぐ、月曜日くらい、かな?」
 声のトーンがすっかり落ちている。遠慮がちに喋っているのがありありと伝わる。同情されてるのか。
 今日は木曜日だ。
 噂の真相が判明したくらいでは月子ちゃんの心は取り戻せないらしい。やっぱり最初に犯したミスが命取りだったんだ。
 椅子の上で膝を抱えて、ついでに頭も抱え込んだ。ダンゴムシみたいに丸まった。
 うわ、っと。更科が声を上げた。
「どうしたの、月本。らしくないなー。そこまで女のコのことで悩んだことなんて、あんた今まであったっけ?」
「今までとか言うな。そういう不用意な発言が月子ちゃんの不信感を煽るんだよ」
 八つ当たりもいいとこだ。そんなことわかってる。
「だって、ほんとのことじゃない」
「うるさい」
「ねえ、やっぱりあれよ。この前聞こえてきたんだけどさ。禁欲よ。森本さんがいいって言うまで手を出さないって約束、もう一回ちゃんと交わせば?」
「簡単に言うな」
 ってか。盗み聞きするなっ。
「そんな約束はできない」
「どうして?」
「自信ない」
 自分の声が遠く虚しく響いて聞こえた。
 膝を抱えたまま少し顔を上げコーヒーの入ったマグカップに目を当てた。
 本当にそうなんだ。
 ほしくてほしくてたまらなかった。
 抱きしめても抱きしめてもすぐに渇き飢えてしまうのだ。次から次へと欲が湧く。どうしようもなかった。
 上向いた唇も、胸の膨らみも、細い脚も、微かに漂う甘い香りも、先輩、と呼ぶ声も。全部が愛しかった。つき合う前よりももっと、どんどん好きになっていた。
 それだけじゃない。
 本当のことを言えば。いつも、くそがつくほど真面目でつんと澄ましている月子ちゃんの悩ましい顔だとか身悶える姿を見たくて仕方なかった。自分の腕の中でだけ、そんな姿を晒すのかと思えば尚更だった。
 ヘンタイ。
 こんなこと死んでも言えない。誰にも言えない。
 感情のコントロールなんて容易いと思っていたのに。
「大好きなコがそばにいてさ。何にもしない、なんてできないね、そんな約束」
「呆れた……」
 呆れてろ。呆れてろ。女のお前にはわかんねーよ。
「口八丁手八丁の月本でもうまくいかないことってあるのねえ……」
「だーかーらー」
口八丁手八丁とか言うなってーの。
 更科は首を傾げ、黙り込むと、机の上の書類に目を落とした。もうこれ以上相手をしていられない。そんな態度だ。
 しんとひと息に静寂が訪れる。
 窓の外はオレンジ色と紫色の交じり合った夕刻と夜の狭間の空を映し出していた。
 会いたいな、と思う。
 月子ちゃんに会いたい。
「ねえ。月本」
 更科が顔を上げないまま口を開く。
「ん?」
「そういうの、何て言うか教えてあげましょうか?」
「は?」
「今の月本」
「……」
 何?
「首ったけ」
「は?」
「首ったけって言うの」
 首ったけ。
 舌の上で転がしてみるとなんとも甘酸っぱい味が広がる。そして苦い。インスタントコーヒーよりももっと苦い。我慢できずにくっと笑った。
「何よ?」
「古いね、君も」
 手ごめとか首ったけとかさ。何時代の人間だよ。


 月が出ていた。
 川縁の道。
 そういえば、大きな青白い月を以前月子ちゃんと一緒に見たことがあるな、と思い出していた。そう。あの夜。ちょう度ここで、だ。
 今夜浮かんでいる月はかなり高い位置にある。色だって、ぼんやりと赤い。
 でもあの時と同じくまん丸い、満月だ。
 携帯電話を取り出した。
 もういい加減覚悟を決めなくてはいけない。月子ちゃんを解放してあげなくてはいけない。少しは男らしいとこも見せないと。
 ボタンを押すとやや間を空けて呼び出し音が鳴り始めた。
 呼び出し音が二回。すぐに音が途切れ驚いた。静かな中に微かな雑音が混じっている。
 すぐ耳許で月子ちゃんが呼吸しているような、そんな気がしていた。
「……」
 咄嗟に言葉が出なかった。当たり前。電話に出てくれる可能性はかなり低いと思っていたから。
「月子、ちゃん?」
『……はい』
 小さな声だ。弱くてぽきりと折れそうな声。
「月本です」
『はい』
 何を話せばいいのかわからなかった。用意していた言葉は忽ち雲散霧消していた。真っ白だ。
 まさかいきなり別れようとは言えない。言いたくない。だからといって君に首ったけですとも言い出せない。
 困った。
 足を止め天を仰いだ。
 瞳に飛び込んでくるのは丸い月。赤い月だ。
「月子ちゃん?」
『はい……』
「今ね。川のそばの道を歩いてるんだ。前に一緒に歩いたでしょ」
『はい』
「今、外を見ること、できる?」
『え?』
「月がね」
 月が出てるよ。あのときと同じ。
『……』
 返事はないけれど、かたかたと物が触れ合う音が響いていた。今、月子ちゃんはどこにいるのだろう。自分の部屋だろうか。だとしたらこちらの言葉に従い窓を開けているのかもしれなかった。
「満月なんだ」
『……あ。ほんと。そうですね』
 いつもの月子ちゃんの声が聞こえてきた。胸にじんわりと染み入ってくる。
「月子ちゃんの顔みたいに丸い月、でしょ?」
 やや間があって、くすりと笑う声が聞こえた。
『先輩、それ。褒め言葉じゃないですよね?』
「あれ? そうだっけ?」
『そうですよ』
 あとはもう言葉にならなかった。お互い黙って月を見ていた。月子ちゃんの姿は見えないからわかりようはないけれど。多分。月子ちゃんも月を見上げていると、確信していた。
 川の水が流れる音が微かにしていた。虫の鳴き声も。
 心の中で溜め息をひとつ。覚悟を決める。
 まあ、いいか、もう仕方ないよな、と自分に言い聞かせていた。やり直せるならここをふたりで歩いたあの時間から。そう思わないでもないけれど。うしなった時間は取り戻せない。それが現実だ。
 最後くらいカッコつけないとな。
 別れの言葉を用意し、口を開こうとしたそのとき。
 ずずっと。鼻をすする音が耳に飛び込んできた。こちらが用意した言葉を口の中でもごもごさせ躊躇っていると、再び豪華に鼻をすする音が聞こえてきた。
「月子、ちゃん?」
「……」
 返事の代わりに耳に入るのはまた鼻水の音。
「もしかして、泣いてるの?」
『先、輩……』
「うん」
『会いたい……』
「え?」
会いたいです─── 。
 視線を小さな川に移した。
 水面にも赤い月がゆらゆらと浮かんでいる。
─── 会いたくなったらいつでも電話して。
 月子ちゃんがすぐに電話に出てくれた理由がなんとなく想像できて、戸惑った。それが自惚れでなければいいと思った。
 大きく息を、ひとつ吸い込む。
「今、家にいるの?」
『はい』
きゅっと絞り出すような声。『先輩?』
「うん」
『今からそこに行っても、いいですか?』
「いいけど、大丈夫? 家族のひとに怒られない?」
『はい』
 鼻にかかった声だ。でもとても力強い返事だった。
「じゃあ、出ておいで。待ってるから」
 はい、という声のあと、すぐに電話は切れた。
 暫く携帯電話を耳に当てたままぼうっとしていたが、やがて携帯を折り空を見上げた。胸が熱い。熱くて苦しい。
 会いたいです。
 その言葉だけで十分だった。
 男らしくかっこよく、月子ちゃんを迎えたかったけれど、だらしなく口許が緩むのだけはどうにも抑えられそうになかった。
 見上げた空に浮かぶ赤い月が、照れ臭そうに雲の波間に半分、姿を隠した。
 

(完)

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