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線香の匂い(前)
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 電話が鳴っている。
 リビングの入り口近く。
 玄関に立って掃除をしていた手を止めると、箒を立てかけ中に入った。階段の傍をとおるときふと左半身に翳が差した気がした。この時間、ここは強く日が射すのだった。吹き抜けの窓から入る陽射し。洒落た高く突き抜ける吹き抜けの天井に一目惚れし、建売のこの家を結婚と同時に購入した。秋と春はぽかぽかと暖かいが、真冬はしんしんと冷えるし真夏は暑くて仕方ない。これは住んでみて初めてわかったことだ。それでも都心に近い一軒家だ。わたしの実家にも近いし、それなりに気に入っている。
 輸入物のチェストの上の白い電話。FAX機能もある電話機。その横の壁には友人の海外旅行のお土産であるアジアン風なタペストリーを飾っている。
 コードレスの受話器ではなく、ついコードが繋がったほうの受話器を取ってしまっていた。
 相手は夫の母親だった。
 瞬間胸が騒いだ。
 この夏。一歳に満たない子供がいることを理由に一周忌も盆も夫の実家には帰省しなかった。もしかしたらそのことを責められるかもしれないと思ったが、心根の優しい義母はしきりに頭を下げるばかりだった。
 奥の和室からは線香の匂い。
 まさかそんなものが必要になるとも思わず、この家を購入する際、仏壇を置くようなスペースの確保がないことなど気にも留めていなかった。位牌と黒い額に納まった写真、火立てと香炉、リン。それらを白い布を被せただけの背の低い台の上に並べている。百合の花を供えてはいるけれど、花の香りはしなかった。
 線香は家にいる間は欠かすことなく焚いている。
 築三年のこの家はすっかり線香の匂いが染み付いているが、それでいいとわたしは思っている。
 それでいい。


 夫の母親は方言で喋る。のんびりと。温厚な性格そのままに。
「ほんとうにねえ。まさかたもつがこんなねえ、親よりも早く逝くなんて全然思わんかったけえねえ。真衣まいさんにはほんと、悪いことしたなって思っちょるんよ。こんなことならあの時結婚するのを反対しちょったほうがよかったんじゃないかってねえ、お父さんとも毎晩話しよるん。大変じゃろ? 真由香まゆかをこれから女手ひとつで育てていかんといけんのじゃけえねえ。あのコもねえ。せめて真由香が産まれるのを待ってから逝けばいいものをねえ。そりゃ欲を言えば、成人するまで、とか思うんじゃけどいね。何で、ほんと、こんなことになったんかねえ。小ちゃい頃からおっちょこちょいなとこはあったけど。あんな事故で。ほんと、バカな子いね」
 バカな子。
 そこに自分の子供への愛情を感じる。
 夫は夫婦が四十を過ぎて初めてできた子供だった。年老いた夫の両親はそれはそれは深い慈愛をもって夫を育てたに違いないとわたしは想像する。
 親が子へ注ぐ例えようのない愛情は、自分が子を生して初めてわかるというものだ。産まれてみなければその深さはわからない。
 夫はどうなのだろう。
 自分の娘を見る前に亡くなってしまった夫。彼は両親の自分への愛情をどうとらえていたのだろうか。
 

 夫は優しいひとだった。
 人前では大人しくあったけれど、ふたりでいるときは案外冗談も言う、ひょうきんで明るい性格をしていた。声を荒げることもなく常に穏やかで、独身時代、わたしたちはおよそ喧嘩というものをしたことがなかった。
 大手の保険会社に勤務する夫と都銀に勤務するわたしは友人の結婚式で隣同士の席に座り、知り合った。そのテーブルは新郎新婦の独身の友人が集められた席だった。まんまと罠にはまったわね。友人はそう言ってわたしたちをからかった。
「真衣みたいなきれいなコが僕とつき合ってくれるなんて夢みたいだよ。一目惚れなんだ」
 そんなことを臆面もなく言っては、彼はしょっちゅうわたしを喜ばせていた。
 夫と知り合ったとき、わたしは上司との不倫に陥っていた。底のない沼に嵌まり込み肌に染み込む泥に埋まり全身を汚れた臭いに絡め取られ、どうにも抜け出せないともがいていた。
 夫は救世主のようにわたしをそこから救い出してくれたのだと、今でもそう思っている。とても感謝している。
 プロポーズはつき合いだして一年が経った頃。夫のほうからだった。一も二もなく受けたのは言うまでもない。わたしも夫を愛していたから。
 男前ではないけれどとても包容力のある夫と、ずっと生涯未来永劫変わることなく寄り添い幸せに生きていけると、わたしは世の中をまるきり知らない幼子のように信じていた。
 わたしの実家は父と母と兄の四人家族だ。母と兄のふたりは心から祝福してくれたけれど、父だけは何故かこの結婚を渋っていた。まるで、未来が見えるかのように、不幸せな結末が訪れることがわかっているかのように、最後までこの結婚にいい顔をしなかった。
 そう。結果的には父の予想したとおりとなってしまった。
 幸せが終わるのは呆気ないものだった。ほんとうに呆気なかった。


「真由香は元気にしちょるかね?」
 風船が割れるようなぱん、という破裂音が二回聞こえてきた。家の隣にある児童公園で遊ぶ子供たちの声。蝉の鳴き声。開け放した窓から入ってくる草いきれの匂い。それら全部が線香の匂いと混じり合う。
 フローリングの床の上。
 お昼寝用の布団の上で仰向けになって真由香は寝ている。壁に掛かった時計を見上げた。もうそろそろ起きる時間だ。
「はい、とても。今、お昼寝してて。もう体重も7キロになったんですよ。よその子と比べると小さめなんですけど、でもお座りも上手にできるようになって。ずりばいもするようになったから、起きてるときは目が離せないんですよ」
「ああ。そうかね。この前産まれたばかりじゃって思っちょったけど。そうかね。もうそんなかね」
 声を聞きながら、きっと義母は真由香に会いたいのだろうなと思った。それはそうだ。たったひとりの孫なのだから。
 彼女が真由香を見たのは、真由香を出産した折に病院に来てくれたきりだった。
 夫の両親は真由香を抱き上げると、涙を隠そうともしないでおいおいと泣いた。夫が赤んぼうだったころを思い出しているようだった。
 けれどまだわたしは真由香を伴って夫の実家へは行けないと思っている。
 まだ無理だ。
 夫の実家へは結婚が決まってから一度、結婚したあとは二度、ふたりで帰った。
 夫の匂いのする部屋。南向きの八畳ほどの部屋だった。高校生まで過ごしたというその部屋は夫が出て行ってからは掃除機をかけるくらいで殆ど手を入れていないらしく、まるでタイムスリップしたかのようにそこだけ妙に古臭かった。当時アイドルだった女のコのポスターが何枚も壁に貼られてあった。
「こんなコが好きだったのー? ただ胸がおっきいだけじゃない。やっぱ高校生の男のコはいやらしいのねー」
からかう私に夫は、
「いや、どうだったかな。好きは好きだったんだけど。胸が大きいからっていう理由からじゃなかったと思うよ。それはね、ほんと」
照れ臭そうに真っ赤になってそんな言い訳をしていた。「もしかして、妬いてるの?」
「ちがうわよ」
 夫はわたしの頬に掌を当てそっと口づけした。そのあと、階下に義父母がいるにもかかわらず身体を重ねた。物音を立てないように。ひっそりと愛し合った。
 あの部屋は彼が若い時分、どのように過ごしたかを思い起こさせるには十分な場所だ。夫が亡くなってそれほど時間が経っていない今、あそこへ行く気分には到底なれない。
 けれど気持ちが落ち着けば、もう一度足を運んでみたいとは思っている。

 
 真由香が目を覚ました。
 真由香は寝起きが悪くない。起きて途端に泣き出すのが赤ん坊だと思い込んでいたけれど、真由香が寝起きにむずがるのは、本当にごく稀だった。
 義母の声に耳を傾けつつ真由香に神経を集中させる。
 暫く天井を見つめたあと、ごろんと寝返りを打ち腹這いになった。最近はすぐずりばいをする。まだ腰を上げたはいはいはできないので、ずるずると腕だけで前に進むずりばい。下半身はばたばたとみっともなく踊り、まるで溺れているみたいな動きだ。
 真由香はわたしをみとめると、ずりずりと寄って来た。顔には満面の笑み。下の前歯が二本だけ生えた顔で笑いかけてくる。こちらも自然に笑いが込み上げた。
 今すぐ抱きしめたい。柔らかく、ぷくぷくした身体。独特の汗の匂いと、口許から漂う乳臭い匂い。むせ返るほどの熱を発する小さな頭。赤ん坊のそれら全てを今すぐ実感したかった。
 真由香はわたしのそばへと来たものの、すぐに開け放したリビングのドアの向こうへと身体を向けた。ゆらゆら揺れる首を懸命に伸ばそうとする。ドアの向こうは廊下だ。吹き抜けの窓からたくさんの日を受ける廊下。
 真由香はじっと何かを見つめていた。
 わたしはそうする真由香の姿を上から眺める。
 綿のサンドレスのようなキャミソールが捲くれ上がり、ピンク色のギンガムチェックのブルマに包まれたお尻がふっくらと膨らんでいるのが丸見えだ。
 やがて見つめることに飽きたのか、真由香は少し首を傾げまたわたしへと向き直った。腹這いのまま。
「おかあさん、真由香が起きました」
「ああ。そうかね」
「ちょっと、声だけでも聞かせてあげてもらえますか?」
 しゃがみ込むと、真由香の耳に受話器を当てた。
 真由ちゃん、真由ちゃん、と。義母の声が洩れ聞こえる。
 真由香はじっと受話器を見つめていた。不思議そうな顔。赤ん坊にはまだ電話の仕組みがわからない。
 苦笑しつつそのまま聞かせていた。途中、義父の低い声に変わった。
 真由香も何か応えてあげればいいのにと思う。あーでも、うーでも構わないから。
「ぶー……」
 真由香は唇をすぼめると口の中に溜まった唾を飛ばすように声を上げた。義父母はそれだけで大喜びしている。受話器から洩れる声が大きくなった。
 わたしの目も細くなる。
 夫が亡くなったとき、真由香を妊娠してまだ七週目だったわたしは、産もうか産むまいか散々悩んだ。
 産んでよかったと今では思う。
 本当に。
 産んでよかった。


 受話器を置いてから真由香に向き直り、抱き上げた。頬擦りし、ちゅっとほっぺに口づけする。
 ぱんっ、と。大きな音がまた聞こえてきた。
 階段の下からだ。
 わたしは真由香を抱っこしたまま玄関に向う。掃除の途中で電話が鳴ったので、鍵は開けたままだった。
 階段の下に、ひっそりと佇む影があった。
 ああ。またか。と思う。また現れた。
 階段の下を通るとき、冷凍庫を開けたときのような冷たい風を感じた。けれどもう慣れっこだ。いつものことなのだ。
 真由香はじっと階段の下を見つめている。細い首の上の頭を揺らしながら向きを変え、階段の下の影を不思議そうに見つめている。


 夫は泥酔状態で階段から転げ落ちて亡くなった。首の骨を折り、頭も強く打っていた。病院に運ばれる救急車の中で息を引き取った。
 夫が亡くなった夜、警察の人間が何人かここへやって来たという話だが、わたしは立ち会っていないのでどんなことを調べたのかはわからない。実家の母に来てもらって全てを任せた。わたしはその頃病院の暗く冷たい霊安室で横たわる夫と一緒にいたのだ。
 警察は事故死と判断した。夫はその日、救急車の中がアルコールの匂いで充満するほどの多量のお酒を飲んでいた。それが決め手となったのかどうかはわからないが、解剖されるまでには至らなかった。
 でも本当は違う。
 わたしは知っている。
 夫は事故死なんかじゃない。殺されたのだ。
 だから夫は未だにこうしてここにいるのだ。
 何かを掴むように両手を伸ばした格好で、どたどたと大きな音を立て階段から転げ落ちる夫の醜い様を、わたしは今でも鮮明に思い出すことができる。
 夫は二階から突き落とされ殺されたのだ。 
 そう。殺したのは。
─── わたしだ。


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