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線香の匂い(後)
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 理不尽な暴力を、夫が初めてわたしへと向けたのは結婚式から二ヶ月が過ぎた頃のことだ。
 いや。
 それは暴力とも呼べないようなごくごく軽いものだった。今でもそう思う。
 けれどハジマリはあれだった。その後のひどい仕打ちの数々が忘却のかなたに追いやられることがあったとしても、あの日のことは決して忘れることはできないだろうと思う。
 わたしは結婚と同時に勤務していた銀行を退職し、専業主婦となっていた。
 夕食に出した煮物の味が濃いと言われ、わたしは別段深く考えもせず苦笑した。
「え? そう? でもね、揚げ出し豆腐って味が染み込みにくいじゃない? だからうすくち醤油使ったのよ。あれって時間が経てば経つほど味が濃くなっちゃうのよね。確かにちょっと塩辛いかもしれないけど、……」
 結構おいしいでしょ? と訊ねる前に口許をぴしりと打たれていた。
「口答えするな」
 痛みよりもその突き刺すような声の冷たさに、あとにつづく言葉をうしなっていた。自分の口許に指先を当て、ただただ驚いて夫の顔を見返していた。
 夫はわたしの顔は見ないままに食事をつづけていた。わたしの知らない男の顔で。
 口答え? そんな大層なもんじゃないでしょ? やだ、ふざけないでよ。どうしちゃったの? 機嫌悪いの? 会社で何か嫌なことでもあった?
 そう言って、甘えた仕草で夫の口許をつねることもできたのに。わたしたちはまだそれくらい甘い蜜月の中にいたはずなのに。
 わたしは身体を強張らせ木偶のように夫のそばに居座ることしかできないでいた。
 他人から肉体的な叱責を受けたことなどただの一度もなかった。母や父や、兄にさえも。わたしは実家では宝物のように愛され大切に育てられてきたから。
 人間に対する恐怖と呼ぶべきものが、このとき初めてわたしのなかで生まれた。それは抵抗や憤りを軽く凌駕してしまうほどの強烈さでわたしを簡単に支配した。どんよりとした黒い怯えの布で包み込まれ、上からぐるぐると縄で縛られるような感覚を身体中の皮膚で感じていた。
 このあと夫はベッドの中で泣きださんばかりの殊勝な態度で自分の卑劣さを詫びたのだ。
「ごめん。どうかしてたんだ。痛かっただろう? ほんとうにごめん」
 愚かなわたしは夫を許した。
「いいの。全然痛くなんかなかったわよ? 保さん、ちゃんと手加減してくれたんでしょう? わかってる」
容易く夫の謝罪を受け入れていた。
 それがいけなかったのだろうか。
 あのときわたしはどうすればよかったのだろうか。どのような態度をとっていれば、こんな結末を迎えずにすんだというのだろうか。
 今でもわからない。
 ただわかることは。
 わたしがどうやら間違った選択をしてしまったということくらいだ。
 夫の暴力はこの日を境に日増しにひどくなっていった。


 玄関の扉を閉め鍵をかけた。
 わたしの腕に抱かれた真由香は、自分の手の甲を口に当てちゅぱちゅぱと吸いつき始めた。
「あれ? 真由ちゃん、お腹空いちゃった?」
 話しかけるとにっと笑った。えへ。そうなのよ。そんな表情で笑う。そうしてまた自分の拳にちゅうちゅうと吸いつくのだった。
 抱っこしたまま冷蔵庫の前に立ち、解凍しておいたおかゆのパックを取り出した。おかゆは一度に大量に作り、すり鉢でどろどろに潰した後、小分けにして冷凍する。真由香の離乳食はまだ始まったばかりだ。うさぎの絵の入った小さなお皿にパックの中身を移し替え電子レンジの皿に乗せ、レバーを回し温度を40℃に設定してからスタートボタンを押した。それら全てを真由香を左腕で抱っこしたまま、空いている右手だけで行った。
 真由香が生まれてからわたしの二の腕は間違いなく太くなった。左腕は右腕よりさらに逞しくなっているはずだ。
「ちょっと拝んでおこうか?」
 そう言われても真由香はきょとんとしている。濁りのない透明な瞳でわたしの顔を見返すばかりだ。
 リビングダイニングからつづく和室。線香の匂いはずっと漂ったままだ。
 白い布の張られた台の前、座布団の上に正座した。真由香はわたしの膝の上で自分の拳を味わいながら黒い額縁の中の男を見つめていた。
 遺影の夫は笑っている。
 夫の小学校時代からの親友だというひとがわたしたちの結婚式に撮影してくれたものだった。遺影として数々の写真の中からその一枚を選んだのもその友人本人だった。彼は就職先こそ夫とは違うものの同じ都内に住んでいた。夫が死んだ際、わたしの家族を除いて一番に駆けつけてくれたのも彼だった。
「この写真がいいんじゃないかな? どう?」
 差し出された写真の夫は少し照れ臭そうに、大人しい、けれど紳士的な顔で笑っていた。
「この写真がさ、なんていうか、一番保らしいだろ? あいつのひとの良さがちゃんと表れた笑い方じゃないかな?」
 涙にくれた目でわたしはじっと笑顔の夫に見入っていた。これは誰だろうかと、わたしの結婚相手は本当にこの男だったのだろうかと、こんな笑い方をするひとだっただろうかと、湧き上がる疑問に返事をすることも忘れて一心に見澄ましていた。
「ショックだったんだね」
夫の親友は心底同情の詰まった声でそう言ってくれた。「大丈夫。葬儀は保の会社のひとと、僕とに任せてくれればいいから。真衣さんは泣きたいだけ泣いたほうがいいよ」
 不思議と涙は次から次へと湧いてきた。
 その涙の意味が未だわたしにはわからない。
 リンを鳴らし厳かな音が尾を引くなか手を合わせ瞼を閉じた。
 真由香は黙って手を吸っている。
 まだ世の中の穢れを知らない平和な澄んだ瞳で。写真の人物をじっと見つめている。
 
 
 夫がわたしに手をあげる回数は日に日に増えていった。それでも初めてのときから次までは一ヶ月近く空いていたと思う。忘れていた頃についうっかりと口答えをし頬をはられた。このときは奥歯で口腔内を切った。打たれた頬はじんじんと痺れるように痛かった。だめだ、と思った。このひとはこういうひとなんだと頭の中ではどうにも手立てがないことをこのときはっきりと確信した。けれど、そのあとどういう行動に移せばいいのかがわからなかった。知識はあってもコトを起こす踏ん切りがつかなかったのだ。
 それからは手を上げられる日の間隔がどんどん狭まり、ほぼ毎日何かしら理由をつけては罵倒されるようになっていった。わたしは同じ屋根の下にいる人間に日々怯えて暮らすようになっていったのだ。
 わたしを殴り、蹴り、まるでボールのように壁や床に頭を叩きつける夫は、けれど別人のようにわたしの傷の手当てをしてくれるのだった。泣きながら。ごめんねごめんねと繰り返しうわごとのように呟きながら。
「もうしない。もう絶対こんなことしないから。真衣、ぼくを見捨てないで」
 嘘だとわかっていた。このひとは病気なのだ。治ることのない病気。
 一度ひどく暴れた夫がダイニングの椅子を壁に投げつけたことがあった。咄嗟に避けていなければわたしに当たっていたと思う。大きな穴が壁に空き、半ば呆然と見つめていた。やがてぞっと粟立った。
 友人からもらった海外土産のタペストリーを取り出し貼ったのはその翌日のことだ。夫が出勤するのを玄関で手を振り見送ったあとのこと。この家のインテリアにはそぐわないと仕舞っておいたものをわざわざ探し出しフックを取り付け掛けた。
 感情の一切ない表情のままにタペストリーを垂らしながら、わたしは実家の夫の部屋を頭に思い浮かべていた。
 壁にびっしりと隙間なく貼られたポスターの数々。
 きっとあの裏側にも大きな穴がいくつもいくつも開いているに違いなかった。それはあまりにも容易く想像でき、わたしの全身は氷のように冷えていった。暗く深い果てのない穴蔵で、年老いた夫の両親が震え小さくなり蹲っている様がまざまざと目に浮かび、急速に全身が冷え込んだ。
─── 見捨てないで。
 見捨てられない。
 心のどこかでそんなふうに思っていた部分もあったのかもしれない。認めたくはないけれど。
 ただあの頃は前向きにものごとを考えることが途轍もなく億劫になっていた。それは本当だ。感情のどこかを痛めつけられ感覚が麻痺していたのかもしれなかった。 
 地獄のような日々だった。
 ひとの目が触れる場所に傷があるときは友人にも会えない。実家に帰ることもできなかった。
 何より。
 嫉妬深い夫が日に何度も家に電話を入れ所在を確かめるのだから外出もままならなかった。
「今日、昼、一時ごろだったかな。電話したんだけど。真衣、いなかったよね?」
 そんなときわたしは全身を小刻みに震わせながら答えなくてはならなかった。
「買い物に出ていたのよ」
「嘘、だな」
「嘘じゃないわ」
「嘘だ。あの男に会っていたんだろう?」
「会ってない。会ってないわよ。もう何年も会ってないわ。どうしてそんなこと言うの?」
「そういう口をきくなって言ってるだろうっ」
 夫は夫と知り合ったとき関係のあった不倫相手の上司の話をよく持ち出してはわたしを殴ったものだった。夫の行動はわたしの愚かさを自覚させる。自分の過去の過ちを恋人になど話すべきではなかったのだ。
 本当に地獄のような日々だった。光の射さない未来。新築のこの家が牢獄のように感じられた。終身刑を言い渡された囚人も同然だった。
 わたしは夫が亡くなる前の半年間。日常の買い物以外での外出は一切していなかった。
 次第に友人は減っていった。


 あとにして思えば。
 誰にもこの日々を知られなかったことがよかったのだと思う。
 だから疑われずに済んだのだ。
 身重の妻が仲睦まじく暮らす夫を二階から突き落とすなどといったい誰が想像するだろうか。
 ただ。唯一。わたしの父だけは何か勘付いていたかもしれないと思うことは何度かあった。夫との結婚にあまり良い顔をしなかった父。父は、善人面した夫の裏側にある臆病で姑息で粗暴な本性を見抜いていたのだろうと思う。口に出したことは一度もないけれど。
 父が夫の死に関する何かをわたしに訊ねることは無論なかった。父は真由香を可愛がってくれている。目に入れても痛くないという表現がぴたりと当てはまるように。世の祖父母同様孫である真由香を愛してくれている。慈しんでくれている。
 
 
 自分のお腹に胎児がいるとわかったとき。
 わたしは更なる絶望の淵へと追いやられた気がしてならなかった。もう引き返せない。誰もわたしを救い出すことはできない。
 取り替えたばかりの芳香剤がまだきつく香るトイレの中で。わたしは呆然と一本の白いスティックが示すピンク色のふたつの丸を見つめていた。
 夫はこの夜死んだのだ。
 妊娠していた所為だろうかわたしはその頃身体がだるく重く一日中眠くて仕方なかった。
 夫の帰宅を待たずして眠りに落ちればどんな目に合うか。わかっていながらうっかりベッドの上で横になり、そのまま睡魔に引きずり込まれてしまっていた。
 夫が玄関から猛る声で目を覚まし跳ね起きた。
 しっとりと汗で髪が数本こめかみや頬にはりついていた。どんなに取り繕ったところで眠っていたという事実は隠しおおせないだろうと焦り泣きたくなった。
 それでもわたしは寝室を飛び出し短い廊下を走り、階段の上から、
「おかえりなさい」
と声をかけた。
 階段の下、鋭利に光るふたつの瞳がわたしを見上げていた。どんな謝罪も受けつけない憎悪にのみ支配された矢に容赦なく貫かれ、わたしの心臓は石のように固まりぽろりと転げ落ちた。
 ああ。
 もうだめだ。
 殺される。
 そう思った。
 また今夜もあの意識さえ遠のきそうになる苦痛に耐えなければならないのかと。いや今夜はきっとそれだけでは済まないだろうと。そう考えるだけで全身の力が萎んでいくようだった。
 夫はアルコールでまだらに赤くなった醜悪な顔を狂ったように歪ませていた。
 わたしが死ねばお腹の子供はどうなるのだろうか。
 妊娠という事実にあれほどの絶望を覚えながらも、わたしはそんなことを考えていた。
 小さな命がその瞬間愛しくてたまらなくなった。
 夫が一歩一歩近づいてくる。
 酒臭い臭いが徐々に強くなり鼻を突き上げる。
 恐怖が足元からせり上がってきた。叫び出したいほどの恐怖とお腹の子供を守りたいという気持ちとが混ざり合い破裂しそうに膨れ上がるのを実感していた。風船のように膨張したそれはわたしの身体さえ突き破り視界を遮り、やがて眼前で弾け、きらきらときらめいた。それは途轍もなく長い時間の出来事だったような気もするし、一瞬のことだったような気もする。
 けれど覚えているのはそこまでだ。
 あとはもう、夫が両手を伸ばし無様な格好で階段を転げ落ちる姿しか思い出すことはできない。
 救急車の中でわたしはずっと両手を組み祈りつづけていた。救急隊員の目にどんな風に映っていたのかはわからない。ただただ必死に祈りつづけていた。
 死んでください。死んでください。死んでください─── 。


 不思議なのはこうやって拝んでいる今でさえ。
 罪悪感はまるでないのだ。
 もしあの階段の下に佇む、首を不自然に捻じ曲げられぼうっとただ立ち尽くしているだけのあの男が、いわゆる霊ではないのだとすれば、あれはわたしの罪悪感が見せる幻なのかも知れないと思うこともできたのだけれど。どうやら真由香にも見えるらしいことがここ最近の行動からわかったきてのでそれも違うらしかった。
「真由ちゃん、ごはん、食べようか?」
 真由香は言葉の意味がわかっているのかどうか、にっとまた微笑んだ。小さな身体を抱え上げダイニングに向う。
 途中開け放されたドアの向こう、こちらに身体を向けている男の姿が視界に入った。
 魂の抜け落ちた、感情のまるでこもらない黒いふたつの穴がわたしと真由香に向けられている。
「消えてよ」
 吐き捨てるように言った。
 男はぱんっ、という大きな破裂音とともに一瞬にして消え去った。
「もう二度と来ないで」
 言ったけれどまた現れるだろうことはわかっていた。それでも少しも怖くはなかった。
 あの首を捻じ曲げられた気の毒な男は、わたしに手を上げることができないようだった。それさえわかれば少しも怖くなどなかった。小指の先ほどの恐怖も感じない。
「さ、真由ちゃん、食べよ食べよ」
 真由香を木製のベビーチェアに座らせ電子レンジの中のおかゆを取り出した。
 何に怯えることもなく真由香と女ふたりで暮らせる今、わたしは日々幸福というものの有難さを実感している。
 夫は大手の保険会社に勤務していただけあって、この家の残りのローンを払ってもまだ大金と呼んでもいい金額が余るほど、いくつもの保険に加入してくれていた。真由香がもう少し大きくなればわたしも働きに出ようとは思っているけれど、生活の心配はまるでない。とても幸せだ。
 真由香の口許におかゆを運ぶ。真由香はおいしいのかおいしくないのか、にこりともせずどろどろのごはんを丁寧に噛み下す。
 真由香の顔には夫に似たところが少しもなかった。これも幸せのひとつだ。
「真由ちゃん、おいしい?」
 話しかけるとにやっと笑う。口許から飲み込みきれない白い粒が涎と一緒に流れ落ち、布巾でそっと拭ってやった。
「おいしいねえ」
 言いながらスプーンを小さな口許に再び運んだ。
 隣の児童公園から子供たちの騒ぐ声が聞こえてくる。競うように鳴く蝉の声。車の走り去る音。もうじき夏休みが終わる。
 風が窓から窓へと吹き抜ける。ここ最近少しだけ気温が下がったように感じられた。
 今、階段の下にあの男はいない。
 線香の匂いはずっと漂っている。


(完)


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