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  3. 感じのいいお嬢さん


 部屋の下が騒々しい。この頃は階下の物音で朝目を覚ますことが多くなった。
 ごそごそと手を伸ばし、枕もとの携帯電話を開いて時間を確認する。
 七時二分。
 早いな、と思う。高校生の朝は早い。毎度目を覚ますたび感心する。ほんの六年前まで自分も高校生をしていたはずなのに。すっかり遠い記憶になってしまっていてびっくりする。
 物語を書くことを生業としているわたしの生活は不規則である。ベテランの作家になればなるほど規則正しい時間に書いている、とはよく聞く話で、その都度おお、見習わねばと思うのだが、どうにも真似できない自分がいる。興に乗ると一気に書き上げてしまいたくなる。昨日など、寝たのは三時過ぎであった。二時くらいに締め切り間近だった原稿を書き終え、その後、ひっそりひとりで打ち上げをした。
 喉が異様に渇いている。寝る前にがばがば流し込んだアルコールと、肴に食べた塩分の高いチーズ鱈の所為だろう。
 ベッドから出ると軽い立眩みがした。思わず手を突いた机の上の、広げられた原稿が、目に留まる。原稿の最終チェックは必ずプリントアウトしてから行うようにしている。今日もう一度推敲して、担当宛にデータをメールするつもりでいる。
 あまり有名ではない小説の新人賞をもらったのが大学四年生のときだった。長編であったので、それがそのまま一冊の本になって出版された。就職氷河期と呼ばれる時代を過ぎて久しくはあったのだけれど、わたしはその時点ですでに開始していた就職活動を、やめることを決めていた。どれほど周りから甘い必ず後悔する新卒じゃないとロクなとこに就職できないと助言されても、当時すでにつき合っていた克己に何度宥めすかし諭されても、もう作家一本でやっていくことを決めびくとも心揺らぐことをしなかった。頑固、なのだろうと思う。
 ただみんなの助言が正しいことはわかっていた。当時も今も。実際甘かった。新人作家に新しい仕事は思ったほどには来ない。収入はいつも不安定である。それはそのまま精神に反映される。頑固、ではあるけれど、多少の後悔もしてはいる。時折二十代前半のいまのうちにどこかきちんとした就職先を見つけたほうが賢明なのではないだろうかと考えることもあるにはある。けれど結局最後にはいまの生活を捨てることはできないという結論に至る。とりあえず。次の仕事が決まっている間はいいやと思っている。
 幼い頃は絵本を見るのが大好きだった。読む、というよりは見るのが。両親に買い与えられた「眠れる森の美女」「シンデレラ」「白雪姫」の三冊に出てくるお姫様のうつくしい顔、髪、衣装に目を奪われ、らくがきちょうにクレヨンで描き写しては物語をなぞっていた。いまと違いロマンチストで夢見がちな子供だったのである。
 右手でぼさぼさの頭を、左手でお腹をぼりぼり掻きながら階段を下りると、ちょう度、玄関に向かう黄色い頭とばったり出くわした。真っ黒な詰襟の学生服に黄色い頭はよく映えている。黄色い髪から覗く耳に、きらきら光る宝石は並んでいない。学校へ行く時はどうやらピアスはしない方針らしい。
 黄色い頭はじっと黒い瞳をわたしの顔に当ててから、ぺこりとお辞儀をし、言った。
「おはようございます」
「お、おはよう」
 あくびを洩らした直後の大口を閉じる間もなく声をかけられ、もわもわと回らない口で返すと、寄り添うように黄色い頭の傍に立っていた祖母が、絶望的とでも言いたげな顔を横に振った。
「行ってきます」
「気をつけて行ってくるんだよ」
 祖母の声が弾んでいる。まるで恋でもしているみたいだ。わたしは、うへえ、と肩を竦め、キッチンに向かった。
 祖母とわたし、ふたりだけの暮らしに黄色い闖入者が現れてから一ヶ月。わりあいスムーズに日々は流れていた。
 やつは派手な風貌に似合わず性格は穏やかで、ひじょうに無口、でもあった。わたしと話すときなど、瞬間は鋭い意思のこもった目を向けてくるくせに、すぐに逸らし、大抵は伏し目がちに喋るのだった。長い睫を微かに震わせ、こちらの問いにだけ静かな声で答える。向こうからわたしに話しかけてくることは殆どないと言ってよかった。
「きっとまだ遠慮があるんだよ。学校にいるときはもっと明るいんじゃないのかねえ。携帯電話がしょっちゅうぴろぴろ鳴ってるだろう。友達はたくさんいるみたいだよ」
 祖母に言われ、それはそうかも、とわたしも頷いた。なにしろやつはまだ十六歳なのである。あのような生真面目な物言いが、立ち居振る舞いが、本来の姿であるはずがなかった。いくつもいくつも数え切れないほどの猫をかぶっているに違いない。
 だけど、なぜ?
 やつは国立の工業高等専門学校の学生であった。以前の家からだと、「原チャリで十分くらいでした」の距離にあった学校が、今では、「電車で一時間近くかかります。駅から学校までがまた距離があるんで、そこからは原チャリを使ってます」くらいに離れてしまったというのだから大変だ。朝は七時過ぎにはここを出るので、宵っ張りの朝寝坊なわたしとやつが今日のように顔を合わすことはほとんどなく、だから、スムーズに日々が過ぎていると、言えなくもなかった。
「どうしてあのコ、わたしたちといっしょに暮らそうなんて思ったんだろうね」
 しつこいと思いつつも、わたしは祖母に訊ねずにはいられなかった。
 あの黄色い頭がわたしたちと暮らすことを望む理由が、どうにも見つからないでいたのである。
 たとえあの豪邸にひとり住むのがいやであったとしても。図々しく我が物顔で遣って来た親戚と暮らすのがいやであったとしても。それならば、学校の寮、あるいは学校の近くに小さなアパートを借りひとりで暮らす、などすればよかったではないか。誰に遠慮することもない。そのほうがよほど気楽であったろうし、わたしがやつの立場であったなら、間違いなくそちらを選択したことだろう。何も、こんな、偏屈な女と、もう七十を過ぎたおばあさんのいる家へ引っ越して来ずとも、だ。
 実際わたしはやつの礼儀正しい態度と敬語が気になって仕方なかった。
 あんな風な態度で日々を送る十六歳の少年など絶対いない。
 この家でわたしたちと暮らすのは、窮屈なんじゃない? と、訊ねたい衝動に駆られることは、幾度となくあったのだ。
「あんた、それ、本人に言ったり訊いたりしちゃダメだよ。そんなこと、改めて言われたら、絶対傷つくからね」
 めずらしく祖母に咎めるような口調で言われ、わたしはむっと唇をへの字に曲げた。
「わかってる。そんなこと」
 いくら何でも。そこまで意地悪じゃありません。
 確かに。見知らぬ男のコと暮らすという事実に、最初、わたしは大きな抵抗を持っていた。それはいまもそうである。変わらない。けれど。自分の気持ちがどうのこうのと主張するより先に、寧ろいまは、あまりにも小さくなって暮らしているあの黄色い頭の気持ちのほうが、気にかかってしようがないというのが本音であった。
 急須に残る冷めてしまった緑茶を桜色の湯呑みに注ぎ、ごくごく喉を鳴らして飲んだ。
「あんた今日はやけに早かったね。朝ご飯、食べるかい?」
「うん。あ、いい、自分でするから。片づけもやっとく」
「そうかい。ありがたいねえ。うちには女のコはいないのかと思ってたけどねえ」
 ……。
「今日、おばあちゃん、家にいるんだっけ?」
わたしはご飯をよそいながら訊いた。「木曜日は俳句、だっけ?」
「昼はそうなんだけどさ。夜は、歌舞伎を観に行くって、前から行ってあっただろう?」
「あ。俳句で知り合ったお友達と行くって言ってたやつね。あれって今日だっけ」
 キッチンの壁に掛けてあるカレンダーに視線を遣ると、確かにピンクのペンで“俳句11:00〜”“歌舞伎18:30〜”と書いてある。ピンクのペンは祖母の予定。オレンジはわたし。そしてやつは緑色。と、ここへ黄色い頭が引っ越してきて三日目に祖母が決めた。何で黄色じゃなくて緑なの。思ったけれど口には出さなかった。カレンダーにはピンクの文字がやけに多い。緑色の書き込みはほとんどない。と、言ってよい。今日の日付の欄にだけ“カラオケ”と角ばった字が躍っている。実はわたしと夜ふたりきりになるのがいやで、敢えて予定を入れたのではないかと疑っている。それならそれでまあ仕方ない。……ふん。
「俳句はいいよう。季節をさあ、前よりずっと意識するようになったからねえ」
 祖母がとあるショッピングセンターに入るカルチャーセンターの初心者俳句クラスに入会したのは、春、四月のことであった。
「あんたも小説書くんなら、始めてみたらどうだい。季節の花とか言葉とか、色々勉強になると思うよう」
 なんて言って楽しそうに通ってる。
 祖母の鼻唄が聞こえてきた。そっと見遣ると、何だか頬が薔薇色に染まっているように見えて、え、と目を見開いた。
 この頃祖母は機嫌が良い。いや、そういう言い方は正確ではないかもしれない。もともと穏やかで怒ることなど滅多にない人ではあるのだから。
 輝いている、が正解だろうか。
 あの黄色い頭が来てからだな、と考えて、飲んでいる味噌汁を吹き出しそうになった。
 まさか。
 思わず祖母の顔に視線を当てると、やっぱりにこにこ微笑んでいる。鼻唄全開。曲目は「私の青空」。狭いながらも楽しい我が家、と高音部も正確な音程で歌い上げている。
 恋? 祖母が、悠季に恋?
「いや、ないない。それは、さすがにないよ」
 首を横に振り、ひとりごちた。


 瞼を開くと、鏡張りの見慣れない天井が、視界を支配する。暗闇、と表現してもいいほど明るさの乏しい部屋。自分の置かれた状況が咄嗟に思い出せず、ふいに大きな不安に駆られてしまう。
 どうしてこんなところで眠っているのだろう。原稿はどうなったっけ。と考えて、ああ、そうだ、原稿を担当の編集者にメールした直後、克己から電話がかかってきたのだったと思い出す。
 克己と会うのは本当に久しぶりのことだった。
 デートのさなか、祖母からの電話で呼び戻されたのはひと月前のことになる。その後克己に再び海外への出張が入り、またもそれが三週間以上の滞在となってしまった為、本当に一ヶ月ぶりの逢瀬となった。
 食事に行く約束をしていたのに。会った途端、ぐいぐい腕を引かれていた。連れ込まれた、と言っても過言ではない勢いだった。
 克己もわたしも自宅で暮らしているからか、会えば必ず寝るということにはならない。克己は大概冷静で、お洒落なシティホテルへ行こうと誘いをかけてくる。ラブホテルに入ることなど滅多にないことではあった。
 今日は何だか違っていた。頬を冷たいシーツに押しつけほんの数十分前まで繰り広げていた行為を思い出す。
「もう、当分、小春に触れてない」
 どうしたの、と訊ねるわたしに怒ったみたいに返した克己は、シャワーを浴びることも許さず二度、わたしを抱いたのだ。
「起きた?」
 シャツを羽織った克己が、背中を向けたまま、顔だけをこちらに向け言った。
「うん」
「シャワー浴びる? もうあんまり時間、ないんだけど」
 時計を見て、わたしは慌てて浴室に飛び込んだ。
 あたふたと、シャワーで濡れてしまった毛先を大きな鏡の前で乾かしていると、
「残り時間あと十分」
 いたずらっぽく笑いながら後ろに立った克己が、柔らかくこちらの肩を抱いてきた。鏡越しに見つめ合う。からかうような、性急だった先ほどの自分を恥じているような、はにかんだ笑顔が、可愛い。
「時間ないのに」
「わかってる。こうしてるだけだよ」
「どうして起こしてくれなかったの?」
「疲れてるみたいだったから。……ごめん。無理させた」
 言いながら、わたしのお腹の前で両手を合わせ、肩に顔を埋めた。めずらしく克己が甘えている、と、わたしはドライヤーを置き、今度は軽くお化粧を直しながら、鏡に映る克己の頭のてっぺんを見つめた。
「……心配だな」
心配だ、と。くぐもった声が言う。
「心配?」
 何が心配なのだろう。
「その、高校生の男のコだよ、黄色い髪の」
「え?」
「小春にちょっかい出したりしてない?」
 わたしは意味がわからずきょとんとしていたが、すぐに察して、ああ、と笑った。
「全然心配することなんかないってば。八つも歳が違うのよ」
「歳は関係ないだろう?」
「会ってみればわかるって」
わたしはくすっと笑った。「十六歳のコって、こんなにもコドモっぽいのかってきっと克己もびっくりするから。もしかしたらあのコがトクベツ幼いのかもしれないけど……」
 やつの、あどけない頬の線を思い出す。やけに高く聞こえる声も。
「向こうから話しかけてくることもないし。ただのおばさんにしか見えてないわよ。克己のいまの台詞を聞いたら、間違いなく気を悪くすると思うな」
「……小春は自分をわかってないな」
「え?」
 克己が顔を上げ、わたしを見つめる。切れ長のきれいな目がゆらゆら揺れている。
「小春はきれいだよ。十六歳の男が小春を見ておばさんなんてこと、思うわけがない」
 わたしは可笑しくなった。鏡に映る自分の顔。決して小さくはないけれど腫れぼったい奥二重の目。ただ高いだけでさして形が良いわけでもない鼻。この鼻の所為で顔全体が男っぽく見えるとわたしは思っている。ぽってりと分厚い唇もまた然り。どれもこれも気に入らない。わたしにコンプレックスを抱かせる要因ばかりだ。
 それに比べやつの顔のなんと可愛らしいことか。わたしの母によく似たぱっちり二重の大きな目。高く細い鼻梁。華奢な顎。あっちは明らかに女顔だなと思い、羨ましさに内心舌打ちをする。
「そんなこと言うのは克己だけね。学生の頃、あたしがどれだけもてなかったのか、克己だって知ってるでしょう?」
それに、とわたしはつづけた。「あのコの耳にはね、右側によっつ。左側にいつつもピアスが並んでるの。そもそも世代がちがえば価値観がちがうのよ。そんな心配するようなことにはなりっこないって」
 克己はまだ納得のいかない顔をしていたが、ふいに話をかえてきた。
「例の話は? 考えてくれてる?」
 例の話。さっと、鏡に映る自分の顔が暗くなるのがわかった。慌てて俯き、化粧をばたばたとポーチに仕舞い、克己の腕を逃れ、浴室を出た。
「小春」
「考えてるわよ。だけど、お母さん、亡くなったばかりだから」
 取ってつけたような台詞に、ああ、と克己は納得したような声を出した。ずるいことを言ったと、自己嫌悪に陥っているこちらには気がついていない。バスローブを脱ぎ捨て下着を着ける。残り時間はあと五分といったところだろうか。克己のほうはもう何もすることがないのか、呑気にベッドに腰を下ろしてさっき開けたビールを飲んでいる。
「今回みたいに何日も会えないとめちゃくちゃ辛いんだ。小春が、結婚に対して懐疑的になるのもわからなくはないけど。僕は結婚って、それほど悪いもんじゃないと思ってる」
 それはあなたの育った家庭が円満であったからだ。経済的に恵まれ、両親に心から慈しまれ、家庭というものに対し疑問を感じる出来事の一切ない人生を、歩んできたからだ。わたしだって。できることならそうありたかった。
 克己のことを大好きで、克己がいなくては生きていけないとさえ思っているのに。わたしの心はこの話をするときだけ雨雲に覆われたみたいに暗く翳る。呑気に幸福な結婚論を語る克己のことが、憎らしくてたまらなくなる。
「親父も、小春のこと、感じのいいお嬢さんだって言ってたよ」
 感じのいいお嬢さん。
 わたしは薄手のコートとストールを手に取ると、
「そう」
 にっこり笑って、出ましょうか、と微笑んだ。
 このあたりでは有名なラブホテル街。狭い舗道を挟み、東側に五軒、西側に四軒並ぶホテルは、先ほど通ったときは七軒が満室だった。いまは全軒、満室のネオンを灯している。目の前をわたしたちと同じ歳格好の男女が歩いている。驚くくらい年配のカップルもいる。顔は見ない。それがこういう場所での暗黙のルール。けれど首から下を見ただけで、年齢というものは察知できるものではある。紫色に輝くアーチをくぐり抜け出てきた男女に、思わず目を奪われた。高校生の男女、である。しかも制服を着ているのである。最近のガキはませている、そう思いながら、こちらに向かって歩いてくるふたり連れの、お洒落に着崩した制服に目を這わせていた。女のコの制服はブレザーに赤いリボン、極端に丈の短いスカートは校則違反なのではないだろうかと、そんなことを考える。ブラウスの胸元は大きく開けているのに、マフラーは巻いている。バーバリーのマフラーにソックスはポロ。むちっとした太腿と、鞄にいくつもぶら下がるディズニーキャラクターのぬいぐるみがアンバランスだ。などと考えながらちらちら視線を這わせた。男のコのほうは、黒い学ランと白いシャツのボタンを全部開け、スパンコールよろしく派手にきらめく模様の入ったTシャツを覗かせている。足にはバカでかいナイキのスニーカー。
 あれ、と。そこで思考が一時、停止した。
「黄色」
 呆然とした口調で呟く克己の声が耳を捉えた。
「え?」
「真っ黄色だ」
 真っ黄色。
 はっと。目の位置を僅かに上げた。
 黄色い頭とばっちり視線が合わさった。
 向こうもひどく驚いたのであろう。黄色い前髪の隙間からのぞく黒い目は。これまで見たことがないほど大きく開かれていた。

※「私の青空」堀内敬三 訳詞
 
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