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シュガータイム (前)
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 目覚めると少し黄ばんだ古い壁が視界いっぱい広がった。見慣れた自分の部屋の壁紙じゃない。
 えーと。どうしてだっけと考えながら寝返りを打った。
 古びた木製の机。椅子の背凭れに掛けられた赤と黒のネル素材のチェックのシャツ。メタルラックに並べられた本の数々。
 そうだ。イッキのとこに来てたんだったと思い出す。閉じたカーテンの向こうはまだ明るかった。お昼を少し過ぎたくらいの時間だろうか。
 そのまま暫くぼんやりとして、部屋の主の気配がないことに気が付いた。どうしたんだろう。買い物にでも出かけたのかな。
 剥き出しの肌に触れる空気が冷たかった。眠っていた所為で瞳の上のコンタクトレンズが乾ききっている。何度も瞬いてみた。
 もう十月も終わる。この部屋は築年数がとても多く、その分建物が古いというわけで、傷んだ部分から隙間風はひゅうひゅうと入り込み、冬は途轍もなく寒いのだった。毛布と布団の端っこを身体の下に押し込んで空気が入ってこないようにした。そうやって蓑虫みたいに丸まった。
 イッキが今週頭にやっと司法試験から解放された。といっても最終合格発表はまだ少し先だけれど。
 今週末はどう過ごそうかと問われてのんびりしたいと答えたのは寧ろあたしのほうだった。
 どこかに出かけてもいいんだぞ、とイッキは言った。一応カレシらしくそれなりに気を遣ってくれてはいるらしい。いいの。イッキのとこでゆっくりしたいの。きっぱり言い切った。
 ベッドの下にはあたしの服が、ぞんざいに畳んで置かれている。
 さっきまで畳の上で抱き合っていた。
 ぎしぎしと揺れるベッドの音が、階下に響くんじゃないかと気になって妙にそぞろでいると、
「何だよ、ちゃんと集中しろよ」
イッキに本気で怒られた。ひどい。こちらも真剣にむっとした。
「だって、音が」
「音?」
 気分を削がれてあからさまに不機嫌になったイッキの顔を睨み返した。ばか。鈍感。みなまで言わすな、って思った。
「ベッドの音っ」
そう口にしたとき。きっとあたしの顔は、茹蛸みたいに真っ赤になっていたはずだ。
「ベッドの音、ちょっとひどくない? さっきから気になって仕方ないんだけど」
 間近にあるイッキの目が点になる。
「おっ前なあ……」
そのままがくんと項垂れた。「そういうことはもっと早く言えよ。なんかこっちの遣り方に不満でもあるんじゃねえかって、そう思うだろ」
「遣り方とか、言わないで」
 あたしたちは抱き合ってるときですら喧嘩する。
 そういうわけでベッドから降りたのに。どうしてまたベッドの上で寝てるんだろう、戻った憶えが全くないのだった。もしかして寝入ったあたしをイッキが抱え上げてくれたのかもしれない。だとしたら少しだけ申し訳ない気がする。きっと重かったろうなと気の毒になる。
 がちゃっと。玄関のほうから音がした。部屋の主のお帰りだ。
 ドアの閉まる音。靴を脱ぐ音。鍵を投げる音。かさかさと響くレジ袋の音。イッキの存在がここに戻ってきたとわかるそれだけで、口許が緩んでしまう自分がいる。
 壁際に寝返りを打って丸まったまま寝たふりを決め込むことにした。
 キッチンとの間の戸が引かれる音がした。がたがたと。こちらも相当建て付けが悪く、引くたび部屋全体が揺れるのだ。イッキが近づいてくる気配を背中で感じた。ベッドの端っこが沈み込む。
「一子?」
「……」
返事をしないでいると、たぬき、と小さく笑われた。息のかかる距離で声が響いている。
「起きてんだろ?」
 目を開けるとばっちりと視線が合った。イッキはこちらの身体に覆いかぶさるようにして顔を覗き込ませていた。
「……どうしてわかるの?」
「わかるんだよ」
 鼻を摘まれた。いやいやをするように何度か振ってから顔を上向かせた。
「だから、どうして?」
「さあねえ」
 鼻を摘んでいた手がそのまま滑って前髪をかき上げた。二度、三度。優しい仕草でかき上げられる。広いおでこが無防備に晒されているのがわかる。でこぴんされるのかと思いきや、黒い瞳は案外真摯で手の動きも優しいままだった。再び眠ってしまいそうなくらい心地いい愛撫だ。
「もう、大丈夫かよ?」
 イッキに問われたけれど意味がわからなくて小首を傾げた。理解した途端、かあっと頬が熱くなった。
 さっき。イッキの腕のなかで。何度も何度も身をくねらせ小さく声を上げた。途中怖くなって必死にイッキの身体にしがみついた。あのとき自分はどんな言葉を口にしていたのだろう。記憶はあやふやだ。意識がうっすら遠のいてそのまま寝入った。ああいうときの自分はつくづくイッキの意のままだと思う。そしてどんな時もイッキのほうには余裕がある。
「大丈夫」
 悔しいので素っ気無く返した。全然平気、とつけ加えることも忘れない。
「あ、そ」
「ね。服、取って」
「やだね。自分で取れよ」
「もう。ケチ」
 布団から出ないままに腕だけを伸ばし取ろうとすると、イッキが足でそれを遠くに移動させた。
「何すんのよ」
 ばしっと肩を叩いてやった。イッキはあはは、と声を上げてコドモみたいに笑ってる。ガキ。
「もうっ」
「今更だって。服なんか着ないで裸でいろ。部屋、暖房つけてやるからさ」
「……ばかっ。えっち。意地悪っ」
 毛布を身体に巻きつけて上半身だけをベッドから降ろすとイッキがさらに服の塊を遠くにやろうと足を伸ばした。やめてよ、と言いながらそれを押さえつける。畳の上で身体を泳がせるようにしてきゃあきゃあ言いながら服を取り合った。じゃれ合ってるっていうのかな、こういうの。はっきり言ってバカップルだ。
 結局、気づいたときには裸の身体をすっぽりイッキに抱え込まれていた。こちらも甘えるように額をイッキの胸元に擦りつけると、煙草の匂いが鼻をくすぐった。イッキの匂い。こうやって会えたのは本当に久しぶりだ。胸の奥から突き上げるように懐かしいような愛しいような気持ちが込み上げてきて、思わずイッキの首に腕を伸ばしていた。
「一子、すんげえ柔らかい……」
 耳許で囁かれ身体の芯が熱くなった。イッキの手の動きが危うさを孕んできたので、
「ねえ、お腹空いたよ。さっきからいい匂いしてる」
ごまかすみたいにそう口にした。
「あ? ああ。おでん、少し買ってきたんだ」
 イッキは言うなり呆気なく身体を離していった。ほっと安堵し、でもちょっとだけがっかりした。もぞもぞと下着を身に着けながら振り返る。小さな座卓の上に置かれたコンビニの袋から、イッキは丸い筒みたいなパックを取り出していた。
 小さな取り皿とおにぎりが並ぶ。セーターとスカートを身に着けると、こちらもキッチンに立ってお茶を淹れた。
「一子、今日、帰らねえとまずいんだろ?」
 座卓に着くなりイッキが訊いてきた。
「……うん。お母さん、泊まるのは絶対だめだって言うから。そういうとこはきちんとしなきゃいけない、って」
 今更なんだけどね、と小さくつづけた。
 家出していた母は八月の終わりに帰って来た。母に気を遣っているのか或いは本心から離れ難いと思っているのか、母が留守の間は仕事で忙しく飛び回っていた父も、最近は家にいることが多くなった。元の家族の形に戻ってきてはいるけれど、微妙に空気が違うような気もしている。どう説明すればいいんだろう。変貌を遂げた家族が、以前の家族を演じてる感じ。だけど、やっぱり母が戻ってきてくれたことは嬉しい、と思う。離婚も有り得るかな、なんて覚悟もしていたから。
 それにしても。外泊できなくなるとは思わなかった。だって相手はイッキだよ? 一応結婚の約束までしてるんだよ?
「まあ、女のコを持つ親なんて、みんなそうなんじゃねえの」
「でも久しぶりに会えたのに。すぐに帰らなくちゃいけないなんてつまんないよ。イッキ、ずっと勉強が大変だったから、ここに来たのだって二ヶ月ぶりくらい? なんだよ」
 うちからここまで来るのに一時間以上かかる。明日も会うのだから、このまま泊まっていったほうが効率がいい。そのままイッキに伝えると、
「効率ってなんだよ。もっと色気のある言い方しろよな」
と、苦笑いされた。色気のある言い方? たとえばどんなんだ。離れたくない、とか、そんな言葉だろうか。本音はそうなんだけどさ、恥ずかしくてちょっと言えない。
「いいよ。送ってって、俺、そのまま実家に泊まるから」
「いいの?」
「うん。たまには帰んねえとさ、存在、忘れられそうだし。……親に話しておきたいこともあるしな」
「ふうん。そうなんだ。珍しいね」
 イッキは男四人兄弟の三男坊だ。殆ど親と関わりを持たないで、放ったらかしと言ってもいいくらいのびのびと生きてるように見え、ひとりっ子のわたしからすると、そんな風に自由にさせてもらえることがひどく羨ましかったりもしてた。というか。今もしてる。
 おでんの玉子はふたつ。ひとつを箸で摘んで小皿に乗せた。
「一子にもさ。話、あるんだけど」
「え? 話? 何?」
「真面目な話」
「ふうん」
あ。もしかして、と。つい口を滑らせていた。
「別れ話、とか?」
 がっ、と。座卓の下で脛を蹴られた。
「いっ、た」
 イッキを睨むとまるで何事もなかったかのような顔でおにぎりを頬張っている。下半身の仕出かしたことを上半身の俺はシリマセン、みたいな顔で。シーチキンマヨネーズのおにぎりが好きだなんて、まるでコドモだ。
「何よ、冗談じゃないのよ。イッキってば、ほんと、足癖悪いんだから」
「笑えねえんだよ」
「……」
 変なの。そんな真剣に怒ること、ないじゃん、と思う。
 もそもそと白身を噛み潰した。黄身は崩れ、小皿のなかで細かい粒を散らせていた。
「一子さ、就職どうするつもり?」
「え?」
「お前、何の活動もしてねえんだろ?」
「あ。うーん。まあ、ねえ」
 卒業まであと一年と半年。この時期から就職活動を始めている人間は決して珍しくない。イッキと同じく難易度の高い資格試験に挑戦したり、来年の国家公務員I種採用試験に向けて勉強に取り組んでいるひとだってたくさんいる。
 一子さ。とイッキがこちらを見ないまま、視線をおでんの具、厚揚げに落としたまま言った。
「一子、もしかして、『みたむら』を継ぐ気だったんじゃねえの?」
 喉に、白身が詰まった。ぐっとむせたあと、激しく咳き込んだ。
「おい」
「……だい、じょう、ぶ」
 顔を伏せ、右掌を見せながら応じた。お茶を飲んでみたけれど、白身は喉に詰まったまま上手く流れ込んでくれない。
 当たりかよ、とイッキが言った。
「違、うよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ」
もう一度お茶を飲んだ。「……そこまで本気では考えてなかったもん」
「ってことはさ。少しは考えてたってことだろ?」
 確かに。川嶋一平さんが現れなければそうするつもりでいた。それは本当だ。
 父の仕事に興味があった。安価で流行だけを追った服を売る。決して洗練された仕事ではないけれど、面白そうだなとずっと関心を持っていた。別のところではそうしなければならないと考えている自分もいた。ひとりっ子の悲しさだ。
 イッキが養子に来てくれることになったと父は喜んでいたけれど、それは姓の話であり仕事とはまた別な話で、イッキが司法の道に進むことは明確だったし、そちらへ行かせなくちゃいけないと周りのみんなが思っていたし、だから、『みたむら』の仕事を継ぐのは自分の使命だと、疑うことなくそう信じていたのだ。
 だけど川嶋一平さんが現れた途端、父はひらりとあちら側へ身を翻していってしまった。それはもう呆気なく。おそらくは、あたしが女、だからなのだろう。父は案外古い考えを持っている封建的日本の男だったのだ。正直悔しかった。
 いまひとつ就職活動に身が入らないのも、そのショックから抜け切っていないというか、気持ちが切り替わっていないというか、そういう理由からなのだ。甘えていると言われればそれまでだけど。実際あたしが就職しなくても我が家は食べていくのに少しも困らない。
 けれど自分のそんな思いを誰にも話したことはなかった。父にも母にも。どうしてイッキにはあたしの考えてることがわかっちゃうんだろう。
 時折喉をごほごほ鳴らしながら、黙々と食べた。暫くそうしていた。
「これはさ」
 唐突にイッキが口を開いた。
「う、ん」
「まあ、試験に通ってたらっていう仮の話なんだけどさ」
「うん……」
 ちらりとイッキの顔を見る。
 イッキは仮定の話をするような人間じゃない。多分。合格する自信があるのだ。本当に? 新司法試験の導入に伴って今年から旧司法試験の合格者は格段に減らされるって話なのに。イッキはそれでも最終試験まで残ってて、それだけでも周りのみんなは、すげえな、あいつおんなじ人間かよ、って感心してるっていうのに。
「一子もわかってると思うけど。司法修習生って殆ど缶詰状態って言われてて、全然遊べないっていうだろ? で、そのあとどの職に就いたとしても相当忙しいと思うんだ」
「う、ん」
 そのことについてはあまり考えないようにしている。
 司法修習期間は一年と四ヶ月だ。埼玉の研修所に四ヶ月と、実習は全国各地に飛ばされる。
 おそらくは。
 まともに会うこともできないだろう。
 それが原因でダメになってしまったカップルが掃いて捨てるほどいるというのは司法の道を目指すものの間では有名な話だ。そして近くにいる司法修習生同士が容易くくっついてしまうというのも、これまた当たり前みたいな話だった。イッキの上ふたりのお兄さんたちも、当時つき合っていたカノジョとは自然消滅みたいな形で別れたと言っていたし、新しくできたカノジョは同じ司法修習生だったけれど、そのカノジョとも今は会っていないということだった。それくらい時間に追われた生活を強いられているのだそうだ。
 自分の気持ちがイッキから離れるとは考え難いんだけど。イッキのほうはわからない。
 第二第三のフジワラちゃんやら田辺さんやらがこれから先現れないなんて、どうして言えるだろう。こんなこと言うとイッキには怒られちゃうかもしれないけど。あたしにはイッキの気持ちを繋ぎとめておく自信がないのだ。正直全然、ない。幼なじみの特権で婚約までしてるからって、結局は気持ちという途方もなく危ういものの問題だし、そしてひとの気持ちはそんな結婚の約束くらいじゃ引きとめられないとわたしは思ってる。それでも傍にいることができれば気持ちの変化に気づくこともできるけれど、そんなに長い間離れ離れになっていたら、それすらわかり得ない。
 不安だ。あたしとイッキの未来は不安だらけだ。
 なので。
 先のことはあまり考えないようにしているのだった。取り敢えず、いまの幸せだけを見ていようと思う。こういうのって後ろ向きとは言わないのかな。前向きとも言えないんだろうけど。
「一子。聞いてんのかよ?」
「うん。聞いてる。……で?」
「クライよ、お前」
「……そう?」
「だから。ゆっくりできるのって卒業までの間だけだと思うんだ」
「うん」
 玉子を食べ終えたところでおにぎりに手を伸ばした。赤飯のおにぎり。これがたまらなく好きなのだ。イッキはこちらの食べ物の好みもよく把握してくれている。
「その間、一緒に暮らせねえかな、と思ってんだけど」
「うん、そうだねえ」
 もちもちとした食感と塩の効き具合を楽しみながら食べる。おいしい。にこにこと顔をあげるとイッキが睨んでた。え、と。何の話だったっけ。
 真面目な話。
「え? 一緒に? 暮らすの? え? 誰と? あたし?」
 また喉に食べ物が詰まっちゃいそうだった。イッキってば何を言い出すんだろうかと焦っていた。
 イッキのほうはかなりむっとしている。
「そう。お前、本気で聞いてる?」
「え。無理だよ。お母さん、泊まるのだってだめだって言ってるのに」
「だから」
「ここで?」
「え? いや、ここじゃ狭いだろ」
 イッキと暮らす。卒業までの一年半を一緒に過ごす。夢みたいな話だ。でも。
「うーん。いい考えだとは思うけどさ。同棲は無理だよ。絶対無理」
「だから。同棲じゃなくてさ」
「は? 同棲じゃなくて一緒に暮らすの?」
「籍、入れたらどうかなって思ってる」
「セキ? セキって何?」
「おっまえなあ」
 がっ、と。再び足を蹴られた。痛い。
「何すんのよ」
 イッキの顔が珍しく赤くなっていた。なんでだろう。それほど怒りまくってるってこと?
「真面目に聞けっつってんだろ」
「聞いてるよ。聞いてるけど、意味、わかんないんだもん」
「何でわかんねえんだよ」
「そんなに怒んなくってもいいじゃん」
「にっぶいな。結婚しようって言ってんじゃねえかよ、さっきから。どうしてこんな簡単なことがわかんねえんだよ、ばかっ」
「ばかぁ? ばかって、何よ……」
 掌に力を入れすぎた所為で、赤飯のおにぎりがぼろぼろと座卓の上に零れ落ちていた。勿体無いとばかりに摘んで口に入れたところで手が止まった。
─── え? 結婚?
「えええええ」
思わず仰け反り膝を後退させていた。「けけけ、けっこんっ?」
「おっせーんだよ。ったく」
「あ、あたしが? あたしがイッキと結婚すんのー?」
 目を丸くして問いかけると、イッキは膨れっ面のまま、
「他に誰がいんだよ」
 このばか、と、繰り返し乱暴に、でも少しだけ照れ臭そうに呟いた。
 

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