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シュガータイム (中)
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「いや、別に、本当言うと、一緒に暮らせるんだったら、俺は同棲でもいいかなって思ってたんだけどね」
驚いて固まっているこちらをよそに、イッキは何てことないって顔でつづける。「だけど、一子んとこのおばさん、それじゃ許してくれそうにないし。まあ、それがフツーなんだろうけど。それに、俺、もう、おじさんには頭下げてるわけだしさ、一子と結婚させてくださいって」
 それは。でも。元々はうちの父が言い出した話だ。
 あたしは摘んだ赤飯の小さな塊を口のなかに押し込んだ。もそもそと飲み下す。
「だったら、別にいま籍入れたって別に構わないんじゃねえのって。そう思ったわけ」
 だけど、問題は山積みだな。
 イッキはそうつづけた。
「問題?」
「いっぱいあるだろ」
「お金のこと、とか?」
 当たり前なんだけどふたりで暮らしていくにはお金がかかる。今、あたしもイッキもバイトはしていない。学生のあたしたちが片手間にアルバイトをしただけで、ふたりで暮らしていけるだけの収入を得られるとも思えなかった。
「それもあるよな。それに、一子の就職活動にしてもさ、結婚なんかしてたら、やっぱ女のコの場合、色々良くないほうに響くんじゃねえの」
「そうなの、かな」
 イッキがこちらの顔をじっと見ている。何? と訊くと少し苦い笑いを浮かべた。
「一子、あんま嬉しそうじゃないのな」
「え?」
 きょとんとしてしまった。そんなつもりはない。でも、思いもかけなかった展開に頭のほうがついていってくれないのだ。
 イッキは曖昧な笑みを顔に貼り付けたまま空になった小皿に箸を置いた。
「そ、そんなことないよ。びっくりしてちょっと思考回路が停止しちゃってるだけだよ」
「ほんとかよ」
 ふ、っとイッキは笑いを落とし、シャツの胸ポケットの煙草の箱を触り始めた。
「嬉しいよ。嬉しいに決まってる。……ほんと言うと不安だったから」
「不安?」
「うん」
「なんで? 何が不安?」
「だって。卒業したら離れ離れになっちゃうじゃん。……イッキ、モテるから。実はすっごく不安なんだよね」
「なんだ、それ」
 イッキは首を傾げ、手にした煙草を一本銜えると鷹揚に立ち上がった。こちらの頭を軽く小突いてから台所の換気扇の下へと移動する。煙草を吸うときはいつもそう。あたしがいないときもそうしているのかどうかをあたしは知らない。
 相変わらず古い換気扇はうるさい音を立てて回っている。
 イッキはこちらに背中を向けていた。広い背中が少しだけ寂しそうに映った。
 怒ったのかな。それとも拗ねちゃった? せっかく結婚しようって言ってくれたのにぼうっとしちゃってたから。
 食べ終えた小皿を重ねて台所へ運んだ。
 隣に立つとイッキはじっと台所の天井を見上げていた。何かを考え込んでいる風に。
 紫煙はイッキの口許から立ち上り、すうっと換気扇へと吸い込まれていく。
「今日、帰ったらその話、おかあさんにしてもいい?」
 ん、と言いながらイッキがこちらに視線を移す。
「いや、俺からする」
「そう?」
「どっちにしても試験の結果が出てからだよ。自分から言い出しといて申し訳ないんだけどさ、だめだったら一年お預け、な?」
 イッキは煙草を銜えたまま、薬缶を手に取った。水を容れ火にかける。コーヒーを飲むんだなとわかる。なのでこちらもドリッパーとペーパーフィルターを準備する。
「一子はさ」
「うん」
「初恋、いつ」
 は?
 思わずイッキの顔を見つめた。にやにやと楽しそうに笑ってる。
「何、突然」
「いいから、おしえろ」
「そんなの」
唇が尖ってしまう。「いつなんてわかんない」
「その相手って、俺?」
 横目で睨んだ。他に誰がいるの、って言いたい。目だけで伝える。
「一子、顔、赤いぞ」
「だって……」
「な、他に好きになったやつってこれまでの人生のなかでひとりもいないのかよ」
「いないよ」
「ひとりも? ちょっとくらいいいなって思ったやつとか」
「いないってば。そりゃ、眼鏡かけててひょろっとしたひとはタイプだけどさ。そういうひと見かけてもね、ああ、好みのタイプのひとが歩いてるなっていうくらいで。全然、興味湧かないもん」
「なんで」
「なんでって。よくわかんないけど、だって、男のコって、怖いから」
「怖い?」
 頷いた。イッキはこちらの言葉が相当意外だったらしく目を丸くしていた。
「怖くないのはイッキと、お父さんだけ。川嶋一平さんは、お兄さんだけど、でも、まだ遠慮があるし。ちょっとだけ怖い。あと、イッキのとこのお兄さんとか、おじさんとか、中野くんとかもそう。それなりに話はできるけど、ちょっとだけ怖い」
「じゃあ、何。それ以外のやつは?」
「すっごく怖い」
「まじかよ」
 イッキは呆れたみたいに笑ってる。言いながら自分でも大人気ないなって思った。とても二十一歳の女のコの言う台詞だとは思えない。だけど本当のことなのだ。あたしは男のひとが怖い。怖いって言うと語弊があるかも知れないけど。とにかく萎縮してしまうのだ。男のひとを目の前にすると気持ちがきゅっと縮んでしまい、それに応じて心と身体に膜が張ってしまう。相手によって膜の厚さは違ってて、知らないひとだと四重五重の膜が張る。だから唇はまともに動かなくなる。逆にイッキが相手だと膜はまるでなし、だ。言いたい放題、とも言える。
 薬缶の口から湯気が立っていた。しゅんしゅん鳴いている。イッキは火を止めると布巾を取っ手に巻いて手に取った。
「ずっと女子校に行ってるとそういう弊害があるんだな」
 コーヒーの香ばしい匂いが立ち込めた。
「でも、そうでもないコもいたよ。他校の男子といっぱいつき合ったり」
 フジワラちゃんとかそうだったし。口には出さずに頭のなかで思い浮かべる。イッキも思い出してるに違いなかった。いやだな、と少し胸に痛みを覚えた。他の女のコのことを考えているイッキは嫌い。何だか別のひとみたいな感じがして怖いから。
 雪の舞うなか。イッキに告白したフジワラちゃんは、大きな目を潤ませて本当に綺麗で可愛かった。そのお膳立てをした太ったあたしは遠目にふたりの遣り取りを見ていただけ。悲しいというより惨めだった。思い出すと今でも胸が苦しくなる。
 あの頃。自分は永遠にイッキと恋に落ちることはないだろうと思っていた。
「半々くらいだったかな。あたしみたいに男子が怖くて話もできないってタイプと、寧ろ積極的に合コンとかして女子高生であることをアピールするタイプと」
「ふうん……」
「どうしてそういうこと訊くの?」
 尖った唇をイッキに摘まれた。
「参考までに」
 マグカップを手にふたりでまた元の位置に戻った。参考? 何の参考だ。
「イッキの初恋はいつ?」
 イッキはマグカップに当てた唇を、端っこだけ上げてにっと笑った。
「言わね」
「何、それ。ずるい」
 くつくつとイッキは笑っている。
 テレビのスイッチを入れていない部屋は静かだった。
 あたしはマグカップを置くと、四つん這いになって、イッキのほうへ近寄って行った。無理矢理イッキの立てた膝の間に身体を割り込ませる。
「何やってんだよ。狭いんだよ」
 イッキはこういうとき必ず文句を言う。でも、少しだけ身体の位置をずらして入りやすいようにしてくれる。
 イッキの胸に頬を寄せると、腕を回してぴたりと抱きついてみた。イッキの唇が頭のてっぺんに落ちてくる。二度。
「……ほんとに結婚する?」
「そのつもり。っつーか、俺、一子の返事ちゃんと聞いてないんだけど」
 あれ? そうだっけ。
「結婚。……してあげる」
「してあげる、かよ」
 へへへ、と声に出して笑うと、色気ねえの、と笑われた。
 結婚しようと言われたことが素直に嬉しかった。結婚したって気持ちが離れるときは離れていくんだろうけど。でも、イッキが今、自分との結婚を考えてくれたという事実が、あたしを喜ばせていた。卒業までの一年半を、ゆっくり過ごせる貴重な時間を、あたしと一緒に暮らしたいと考えてくれた、そのことが幸せなのだ。
 イッキの心臓の音が耳許で鳴っている。少し回転が早い。あたしとこうやって触れ合っているとき、イッキのほうも少しは胸ときめかせたり、してるんだろうか。
 今日はまだもう暫く、ふたりきりでこうしていられる。
「イッキ」
「ん?」
「あたし、就職しないとダメ、かな?」
 イッキは束の間黙り込んでいた。こちらの言いたいことはわかってると思う。
「したほうがいいだろ」
 静かな落ち着いた声でそう言われた。
「だよねえ」
「専業主婦になりてえの?」
 暫く返事をしないでいた。そんなつもりはさっきまで全然なかったけれど。
「せっかく大学まで行ったのに、とは言わねえけどさ。一子は人見知りが激しいから、逆に一度社会に出たほうがいいと思うよ。俺は」
「……そっか」
 やっぱり。こちらの気持ちは容易く見抜かれていた。
 人生そうそう楽な道ばかりは歩けない。
「怖い男のひと、いっぱいいるんだろうなあ」
 イッキが飲みかけていたコーヒーにむせた。あたしの頭上でごほごほ音がする。硬い肉が蠕動するのを頬に感じていた。
「一子、そういう発想になるわけ」
「うん。ほんと言うとね。大学に入るときもちょっとだけ怖かったんだ」
「……そのうち慣れるよ」
「慣れる、かな」
 イッキが頷いたのがわかった。
「社会に出たらさ、嫌でもいろんな人間と会話したりたまにはさ、言い合ったりもしなきゃならなくなるだろ? そうすっとやっぱ慣れていくもんだよ。人間っていろんなことにちゃんと順応していけるイキモノだって、俺はそう思ってる」
「そうだといいけど」
 イッキの広い胸に身体を預けていると、ほんのりと温かくて心地いい。保護されてる気分。このままずっとこんな風に、ぬくぬくとのんびりと、イッキに頼って甘えて生きていけたらいいなって思ってる根性のない自分がいる。
 だけどそれじゃダメだって憤ってるもうひとりの自分もちゃんといたりする。心の隅っこのほうに。ちょっぴりだけど、確然と、存在してたりする。
 しんと乾いた部屋。
 イッキの手がこちらの頭を撫でる。イッキは優しい。
 以前、もう少し優しくしてほしいって、へんてこりんなお願いをしたからかどうかはわからないけれど、ふたりでいるときイッキは少しだけ優しくなった。……ような気がする。そういえば、結局誕生日プレゼントはお預けにされたままだった。こちらもイッキにあげていない。なんかわたしたち、すでに何年も連れ添って枯れちゃってるカップルみたいじゃない?
 こうなってくると、指輪をもらってもいいかな、なんてことを思ったりもする。エンゲージリングなんていう立派なものじゃなくていいから、いつも身につけていられそうなやつ。一万円以下の可愛らしいファッションリングでもいい。イッキにはシルバーのごっついやつ。うーん。イッキが指輪してるとこはちょっと頭に思い描けない。
「ちゃんと社会に出たらさ」
 イッキが言う。
「……う、ん」
「一子にも、俺とおじさん以外にいいなって、怖くないな、ってそう思える男、現れるかもしんねえよ」
「え……」
 目を見開く。びっくりして思わず胸から顔を離していた。
 イッキは普通の顔でうっすら笑っていた。
「どうして、そういうこと、言うの?」
「深い意味なんかねえよ」
「そうなったほうがいいみたいに聞こえる」
「んなわけねえじゃん」
「そう、かな」
 間近でイッキの黒い瞳を覗き込んだ。イッキの顔はすごく整っている。テレビに出てる男のコなんてまるで目じゃない。なんて思うのは幼なじみの、婚約者の、欲目だろうか。
 初め微笑んでいたイッキの顔から、少しずつ笑みが消えていった。真面目な顔になっていく。そのまま見つめ返される。射抜くような瞳の強さに、胸がきゅうっと苦しくなる。
 ゆっくりと髪の毛に触れてみた。頬にも。耳にも。イッキはこちらのされるがままになっていた。何を考えているのかわからない。ふざけたところのない顔。
「……好、き?」
「……」
 何も言わない。その代わり、頷くみたいにゆっくりと瞬きをひとつ。長い睫だ。
「あたしも、好き」
 また。瞬きを大きくひとつ。
 どちらからともなく唇を近づけた。さっき、散々裸の身体を絡ませ合ったのに。いつだってこの瞬間、胸の高鳴りは激しさを増す。
 何度も角度を変えて、唇を触れ合わせた。
 どきどきする。
「イッキ、大好き」
 言うなり視界がぶれた。
 イッキにかき抱かれていた。
 

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