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シュガータイム (後)
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 一子の身体は嫋やかな脂肪からできている。
 胸や臀部はもちろんだけど、腕も背中も脇腹も、肋骨の上や肩口だって、全てがまろやかで柔らかいのだ。この脂肪の下に本当に、自分と同じ白く硬質な骨が隠れているのだろうかと、それは全くの嘘なんじゃないかと、疑念を抱くことが時折ある。確かめてみたくなる。あんまりきつく抱きしめると形を変えてしまうんじゃないか、なんて。そんな風に怖くなることもある。
 柔らかな身体はけれどとても小さくて、案外容易にこちらの胸にすっぽりと納まってくる。ぴたりと回してくる腕は、言葉では言い尽くせないくらいの幸せを与えてくれる。
 口に出して伝えたことは一度もないけれど。
 ときどき裸で寝入ってる一子の身体にいたずらをする。一子は一緒にいるときよく眠る。抱き合ってそのまま寝入る時もあれば、話をしながら急に眠りに引き込まれてこちらを驚かせることもある。
 寝入った一子の、臍の下辺りの肉を摘んだり引っ張ったり撫でたりする。滑らかな脂肪だ。一子の身体の中で一番一子らしい場所。結構気に入っている。
 一子はそんなとき大抵は眉根を寄せて困ったような顔になる。軽く苦しそうな顔をする。ふふっと口許を緩めて笑うこともごくまれにある。起きてんの? と訊ねても返事はない。瞼は閉じられたままなのだ。
 一子の丸みを帯びた身体を抱きしめてる時間はとても甘い。とろけそうなくらい甘い。そこから抜け出したくなくなるくらい甘い。
 この上なく甘美で幸福な時間なのだ。



「は? 結婚?」
 中野が眼鏡の奥の小さな目をぱちくりとさせて甲高い声を上げた。鼻の孔が少しばかり大きめに開いている。真剣に驚いているときの顔だ。
「するの? お前と一子ちゃん?」
 ビールのジョッキを置き、頷いた。重いジョッキの代わりに箸を手にし、反対の手で串を取った。タレにまみれ艶々と照るつくねが四本並んだ串。
「えええ? まじで? 何? 何で? あっ、もしかして」
─── できちゃった?
 がっ、と。
 堀ごたつみたいに凹んだテーブルの下、中野の脛を蹴飛ばした。
「いってぇ。何すんだよっ」
「くだらねえこと言ってんな」
「冗談だろう? ほんっと、足癖悪いよな、樹はよ」
 脚を撫でつつひとしきり文句を言った中野は、つと顔を上げると意味深な笑いをその顔に貼り付けた。鼻先をこちらの顔へと寄せてくる。
「何だよ」
「知ってるんだよ。俺は」
「何を?」
「お前が足癖の悪さを発揮する相手だよ」
「あ?」
「一子ちゃんと俺だけだって、知ってるよ」
「……」
「な? そうだろ?」
 何だ? その誇らし気な顔は。
「で? 何? 何の冗談?」
「は?」
「……」
 暫しの沈黙のあと。
 中野は身を引くと、
「えええー? まじ?」
さっきと同じ台詞を口にした。「まじで結婚すんのー?」
 同じ話題に二度驚くマヌケはお前くらいなもんだと呆れた。
「だから。合格してたら、だよ。ちゃんと話を聞けよ。だめだったら来年。とにかく、ゆっくりふたりで暮らせる時間が少しくらい必要かなって、そう思ったんだ」
 司法修習期間を終えてからも殺人的に忙しそうな上の兄ふたりを見て決めたことだ。この前、実家に帰ったときにそうするかも知れないってことだけは自分の親に伝えておいた。ああ、そう、と結構ツレナイ反応だった。合格しないと思われているのか、学生の分際で結婚なんて現実問題難しいだろうと思われているのか、まあ、想定の範囲内だと寛容に受け止めてくれたのか。うちの親の考えていることはよくわからない。
 父親は弁護士をしていて、母親は父親が独立した時からその事務所の経理を担当している。忙しい上に元々そういう性質なのだろう、うちの両親はあまり子供に干渉しない。放ったらかしにされた男四人兄弟は、案外すくすくと育っている。
 中野はうへえ、まじ、とまだ言っている。
 箸の動きは完全に止まっていた。
「まあ、そういうひと、いるって聞くけどな。だけど、修習生になる直前になって相手に迫られて、とかって言うよ。結婚してくんなきゃ別れるう、とかって。樹たちのはあれだろ? 言いだしっぺはお前だろ?」
 頷いた。そうしながら焼き鳥の皿を少し中野のほうに移動させた。
「食えよ。つくね、うまいよ」
「ああ……」
 中野のテンションが急速に下がっていくのがわかった。何だ。またカノジョと何かあったのか。どうせそんなとこだろう。こいつに真っ赤なホンダのフィットを買わせたカノジョ。
 中野とカノジョは今年、二度別れの危機を迎えていた。一度目は論文式試験の前。二度目は口述試験の直前。ほとんどカノジョと会わずに勉強に没頭してしまう中野にカノジョのほうが耐え切れなくなってしまうらしいのだ。……アツいよな。
 三年生の中で、最後の口述試験まで行ったのは中野と俺だけ。四年生は三人くらいいるらしいけど。
 一子は中野のカノジョのような、その手のわがままを言ったことが一度もない。寧ろ試験が近くなると一子のほうがこちらを避けるようになる。メールも電話もぱたりと途絶える。……全然アツくない。
「なんだってまたそんなに盛り上がったわけ? ふたりとも喧嘩ばっかしてんのにさ。……や、ちょっと考えられない。樹が結婚なんて」
「お前、ショック受けてんの?」
 にやっと笑って揶揄うように言ったのに、中野は真面目な顔で頷いた。
「ショックだよ。樹にそういう面で先越されるとは思わなかったな。お前って女ったらしとかモテモテくんとか言われてた割にはあんま真剣につき合わないもんだから相手の女のコに怒られて愛想尽かされてすぐにふられたりしてただろ、高校生の頃とか。てっきり一生独身を通すタイプだとばかり思ってたんだけどな。それがこんな若くして、なんで、って、そりゃショックも受けるだろ」
 何気に失礼なこと言われてんな。中野はレバーの串を手に取った。
「だけど、あれだね。一子ちゃんだから、か」
「……」
「だろ?」
 中野に例の婚約の件は話していない。
 突拍子もない一子の父親の申し出。でも最終的に決めたのは俺自身だ。両親はその件に関しても何も口を挟んでこなかった。
 チーズの天ぷらを一枚箸で摘んだ。取り皿に乗せながら、これって誰が頼んだんだよ、って思う。俺じゃないんだから中野だな。チーズの天ぷらの皿にはクラッカーとジャムも乗せられている。ジャムはクラッカー用だよな?
「一子の初恋ってさ」
「うん」
「俺、なんだって」
 中野はつまらなそうにふーんと一笑に付す。
「何だ、それは。自慢か? あ?」
「違うって。そんなんじゃねえよ」
 いつもより少しだけランクを上げた居酒屋。和風と洋風を混ぜ合わせたような不思議な赴きのある店だ。店内の灯りは仄暗い。
 前祝いしようぜ、と。誘ってきたのは中野のほうだ。こいつも試験のあと数日はカノジョと一緒に過ごしたみたいだった。
「あいつさ、俺以外の男、知らねえんだよ」
 言ってから気が付いた。なんかいやらしいな、この台詞。そんなつもりは全然ないんだけど。向かいの中野が呆れ果てた顔になった。
「だから、それは自慢だろ?」
「いや、そうじゃなくて」
 中野はやってらんないとばかりにぐいっとビールを煽るとテーブルの隅っこの白いボタンを押した。やって来た店員に生ビールを頼む。ふたつね、それから刺身の盛り合わせと、サラダ、シーザーサラダ、これもね、なんてこっちの意見も聞かずに勝手に頼んでいる。シーザーサラダってどんなんだ?
「一子ちゃん、可愛くなったよな。高校生の頃より痩せたからかな、正直かなりイケてると思うよ。印象がふんわりしてるっていうか。あの幼そうな顔立ちがいいんだよな」
唐突に中野がそんなことを言い出した。「知ってる? 一子ちゃん、狙ってたやつ結構いたみたいなんだぜ」
「……」
「だけど一子ちゃんコンパにも滅多に顔出さないし、真面目だろ? 声かけたやつもいたみたいなんだけど、きょとんとしてて反応がないんだって。だからみんな諦めて遠目に見てたみたいなんだけどさ、いきなり樹とつき合ったりなんかしてるから、びっくりだよ。樹は知らないと思うけどさ。お前らふたり、暫く注目の的だったんだぜ」
「……ふーん」
 声かけたやつなんかいたのか。知らなかった。一子はそんなこと全然言ったことがない。きょとんとしてたっていうのは、多分、よく知らない男から声をかけられてどうしたらいいのかわからなかったからだと思う。
「樹の初恋はいつなんだよ」
「は? あー。いつだろうな。憶えてねえな」
「憶えてないわけないよな。で? 相手は一子ちゃん?」
 思わずく、っと笑った。
「いや、違う」
「ふーん。……やっぱお前は女ったらしだな」
 一子のことを好きなのかなと意識し始めたのは、おじさんがうちに婚約話を持ってきたあのときからだ。自分以外の男と一緒にいる一子を想像して、嫉妬めいたものを覚えた。めいた? ちょっと違うな。もっと強烈だった。例えば一子の周りにもう少し男っ気があったなら、もっと早く一子のことをそういう対象として見ることができていたかもしれない、とは思う。
 シーザーサラダはチーズ臭かった。こういうのが今流行りなわけ? 試験勉強にのめり込んでいた間にすっかりウラシマタロウになっているなと、最近ひしひしと感じている。
「お前、チーズ、好きなの?」
「あ? うん、好きだよ」
「こういう料理、中野はどこで知るわけ? カノジョとデートして?」
「ま、そんなとこかな」
 煙草の箱を取り出すと中野に視線を送った。一応許可を得ないといけない。中野は白い陶器の灰皿をこちらへ寄せた。
「初恋の人と結ばれるってわけか。一途な一子ちゃんらしいな」
 中野は自分のことのように嬉しそうにそう言った。
 一途な一子。
 こちらは気難しい顔になっていたのだろう。中野の表情が少し曇った。
「何? 樹、もしかして一子ちゃんのそういうとこ、実は重いの?」
「いや、違う」
 重いとかそういうんじゃない。
「じゃ、何?」
「……」
 目を細め、煙を天井に向かって吐きだした。煙は形を横に広げながら天井へと昇っていく。自分の胸の内にある思いを口にするのは難しい。煙草の灰をとんとんと、軽く落とした。
「一子ってさっきも言ったみたいにさ、ほんと世界が狭いんだ。あいつにとって、まともに話ができる相手って、男のなかでは俺と一子の父親の、ふたりしかいないんだってさ」
「……」
 中野は暫くぽかんと口を開けていた。
「ちょっと有り得ないと思わねえ? 二十一の女で他にそんなやついる?」
「いや、俺とだって木庭とだってちゃんと話してるよ。まあ、遠慮がちではあるけどな」
「……」
 シーザーサラダにはクルトンが入っていた。結構うまかった。けれど青臭いようなチーズの味は、煙草のぴりぴりと痺れるような強烈さに簡単に負けた。
「……それってさ」
「え?」
「恋って言えんのかな?」
「は? 何? どういう意味?」
「……いや」
 首を傾げてからビールを口にした。「いい、いい。俺にもよくわかんねえや」
 自分でもよくわからない。でもずっともやもやとしたものが胸の片隅に存在している。
 一子が就職しないとだめかなと口にしたとき、しなくてもいい、と心の奥ではそう思っている自分がいた。他の世界なんか見なくてもいいとそのままの一子でいてほしいと、そんな風に思ってる自分が確かにいた。ずい分と浅はか。
 中野はこちらの真意がよくわからないようで途方に暮れた顔になっていた。
 途方に暮れた顔でチーズの天ぷらを取り皿に乗せた。箸でジャムを摘むとそれをチーズの天ぷらに軽く塗る。
 え。まじ?
 思わず目が釘付けになった。
 中野は構わずそれを頬張る。うまそうに食べている。
「それってあれだろ?」
 チーズはどうやら中野の食道をちゃんと通ったようだった。
「ん?」
「たまたまそばにいたのが自分だったから選ばれただけなんじゃないかって、例えば一子ちゃんが他の人間とも仲良くしてたら、自分は選ばれなかったんじゃないかって、……そういうことだろ?」
「……」
「樹がそれを言うかね。俺にはお前のその感覚のほうがよくわかんないや」
「……」
 いや、俺には、チーズの天ぷらにジャム塗って食べるっていう、そういうお前の感覚のほうがよっぽど信じられないんですけど。
 ぼそりと呟くと中野は、
「え? これ? 結構イケるよ。樹も食ってみ」
そう言ってべっとりとジャムを塗った天ぷらをこちらの口許へ差し出してきた。
「やめろ」
「いや、そう言わずに。まじうまいって」
「おっ前なあ……」
 思わず苦笑いする。
 中野は結局それも自分の口に入れた。
 団体の客が入ってきた。サラリーマン風の男の集団。くたびれているような、でもどこかはしゃいでいるような、歳も二十代から四十代くらいと幅広い感じ。スーツ姿が板についていた。
 奥の広い部屋へと入っていく集団を見送ったあと、
「俺らはもうダメかもなあ……」
中野が遠くを見る目になって、ぽつりとそんなことを言った。中野は煙草を吸わないので、飲むペースがこちらより早い。目の下が赤く染まっていた。
「なんで? また喧嘩した?」
「いや。今はいいんだけどさ。来週結果が出るだろ? もし落ちてたらまた同じように勉強しなきゃいけなくなるかと思うとなあ……」
中野は首を横に振った。「そうなったらもうダメだな。終わりだ」
 絶望的。そんな仕草。
 こちらは箸をゆっくりと動かして刺身を口に入れた。
「女のコって、あれだよ? 長くつき合ってても一緒にいてくれないカレシなんかよりさ、傍にずっと寄り添っててくれる新しい男のほうが断然いいみたいなんだぜ、樹、知ってた?」
「……」
 ゆっくりと奥の部屋に視線を映した。
 男ばかりの集団だとばかり思っていたけれど、若い女のコがふたり、隅っこのほうに座っている。隣にいる三十代くらいの男に何か耳打ちされ、くすくすと肩を揺らし笑っていた。
 ぼんやりとその様子を見つめていた。
「樹、聞いてる?」
「……あ?」
「発表があるまで生きた心地しないと思わない? 俺は飲まずに夜は越せないって感じなんだよな。もう毎日がそう。 っつーかさ。樹は落ち着いてるようなあ。実は自信があんの?」
 は、っと笑った。
「あるわけないだろ。そんなやつ、いるのかよ」
 後は中野と彼女のこれからについての話に終始した。こちらは殆ど聞くだけ。中野は少し酔っ払ったみたいだった。
 合格発表は来週の木曜日だ。


 辿り着いた自分の部屋はいつもと変わらず冷えていた。外とそれほど気温が変わらないのが肌でわかるのだから堪らない。まいる。
 ヒーターのスイッチを入れると、ピピピっと三回、こちらの指の動きを拒絶するような音が鳴った。眉間に皺が寄る。給油マークが点滅していた。
 うへえ、と呟きながら立ち尽くした。暫しそのままで、やがて溜め息を落としエアコンのスイッチに手を伸ばした。エアコンは電気代が高いので、冬は滅多に使わないことにしている。だけど今日はもういいや、と思った。
 眠い。
 上着を脱ぎ捨てただけでベッドの上に横になった。
 時計は深夜の一時を回っていた。
 ジーンズのポケットを探り携帯電話を取り出した。
 着信履歴はなし。
 中野の携帯電話には、一緒にいる間だけでも二度、電話が入った。無論、二度ともカノジョからだ。多分、それがフツーのコイビトドウシのあるべき姿なんだろう。
 一子、もう寝てるかな。そんなことを思いながらも、僅かも迷うことなくボタンを押していた。中野だけじゃなく、どうやらこちらも酔っ払ったみたいだった。
─── イッキ?
 数回の呼び出し音のあと。少し眠そうな声が耳をくすぐった。
『どうしたの? イッキ? 何かあった?』
「……」
 ふ、と。一子の真剣な声に思わず笑いが洩れていた。
『イッキ?』
「いや、何にも。一子、寝てた?」
『寝てたよ。こんな時間だもん。イッキ、もしかして酔ってるの?』
「うーん。そうかもな」
『中野くんと飲んでたんでしょう? ねえ、楽しかった?』
「……」
 うつ伏せになって一子の声を聞いていた。一子が何か喋ってんなあ、そう思いながら。
『イッキ? 起きてる?』
 うーん。起きてないかもな。
 声には出さずに笑う。瞼が重い。睡魔はもうすぐそこまで来ていた。
 イッキ? イッキ?
 一子の心配そうな声が耳に心地よかった。何でだろうな。幼い頃を思い出すから? 聞き慣れているから? いや、それもあるんだろうけど。きっとそれだけじゃない。
 一子とこちらを繋ぐものは何も古い思い出ばかりじゃない。あの雪の日からずっと。一子への思いは募っている。一子のほうも同じ思いを抱いてくれているのかどうか。それは正直よくわからない。マヌケな俺は一子を傷つけてばかりいるから。
 一子は甘い。舌の先で触れるとすうっととろけ、甘味だけをそこに残すみたいな、そう、まさに砂糖菓子みたいな甘さをもっている。脂肪に包まれた嫋やかな身体を抱きしめるたびそう思うんだ。声さえも甘かったんだな。だからだろうか、今も、甘美な身体に包まれてる気分でいられた。
 重くなってきた瞼をゆっくりと閉じた。甘く柔らかな一子の声がいつまでも耳許で響いていた。
 

(完)
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© Chocolate Cube- 2006