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チョコレイト・ホリック 1.
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 マウス右手にパソコンを操る俺の、隣の席にそのひとはいる。
 二十代後半の女。多分、二十代後半。た、ぶ、ん。ここ重要。
 年齢をきちんと訊ねたことは一度もない。だって、当の本人が、「女のひとに歳を訊いちゃ、いっけないんだー。失礼なやつぅー」と、いつだったか電話にむかってふざけた口調でそう言っていたから。相手は顧客。そんな話し方でいいのかよ、と、バイトでここへ来るようになったばかりの俺は内心ぎょっとしていた。相手が怒って電話を切るんじゃないかと、隣の席でひっそり心臓発作を起こしそうになっていた。ノミの心臓の持ち主なんだよ、俺はよ。
 今日は営業仕様らしく、きっちりかっちりいつもとまるきり様子の違うスーツに身を包んでいる彼女。本人曰く、シャネル。だそうだ。もし本当なら三十万はくだらないだろ?ほんとかな。上着を脱いだら、席を立ったときにでもこっそりタグを確認できるのに。チャンスはなかなか訪れない。ってか、上着を脱ぐ気配もない。嘘かもしれない。
 いつも来ているのはよれよれのTシャツとジーンズ。ときにはジャージ。ジャージだぞ。ジャージ。住んでるマンションが近いからっていうのもあるかもしれないけど、それにしても、職場にジャージで来る二十代後半の女なんているのかよ。
 そんなだから、初めてスーツ姿で隣に座られたときには、「もしもし、事務所をお間違えじゃないですか?」と、まじで声をかけそうになったもんだ。
 髪の毛だってそうなんだ。いつもは梳かしているのかいないのかわからない、いや、絶対梳かしていないぼさぼさの髪を黒い輪ゴムでひとつに纏めているだけなのに。今日は間違いなくきちんと櫛で梳いている。おまけにストレートアイロンでもあてたみたいに真っ直ぐで艶がある。ヘアクリームの柑橘系の匂いのする髪に、俺は朝っぱらから度肝を抜かれた。誰だよ、あんた。
 営業仕様。なんだそうだ。
 今日は大きな仕事のプレゼンがあるから。
「仕事を取るには見てくれがなにより大事」
人差し指をぴっと立て、仁王立ちして豪語していた。
 いやいや。見てくれが大事だと思うんならさ、普段のカッコも何とかしたらどうだろね。
 そのひとの机の上には、いま、セロハンの屑が一、二、三・・・七枚散らばっている。そのひとの周りだけ仄かに漂う甘い香り。いつもの匂い。
 あ。
 また手を伸ばしている。きっと無意識。頭の中は今日のプレゼンの文言のことだけでいっぱいのはず。慣れた手つきでくるりと結び目をほどき、茶色く四角い小粒なそれを口に放り込む。放り込んだ途端その頬が緩む。ほんとに味、わかって食ってんのかね。あんなにたくさん。俺だったら三つ目あたりで胸焼けしてる。
 ふっ、と顔を上げ、目を丸くした。自分の机に広がるセロハンの数に茫然としているようだ。首を傾げ、不審気に俺の顔をちらりと見た。慌ててぶんぶんと顔の前で手を振ってみせた。勘弁してくれ、俺は食ってない。あんたが全部食べたんだよ、あんたが。
 隣の机にはいつも手の届く場所にチョコレイトが常備されている。チョコレイトなんて、そんなたくさん食えるもんじゃないよな?俺の常識はこのひとによって覆された。この世に生を享け二十四年。世の中にはチョコレイトを主食にして生きている人間が確かに存在しているようだ。
 そのひとはチョコレイト・ホリックなのだった。


 チョコレイトが好き。
 と言っても何でもいいというわけではないらしい。以前、友人が酒のつまみに持ってきたままうちで何ヶ月も寝かされていたピーナッツチョコレイトの大袋を持って来て、「これ、あげます」と差し出したことがあった。絶対狂喜乱舞すると思っていたのに。彼女はブツをじっと見詰め、素っ気無く「ああ、ありがと」と言っただけだった。ああ?なんだそのすげない反応はよ?めちゃくちゃ腹立つ。前に同じ事務所で働く建築士のひとりからアルファベットチョコレイトの大袋を貰ったときには抱きつかんばかりに喜んでいたくせに。その態度の違いは一体どこからくるものなんだ。解せない俺に、その建築士が教えてくれた。彼女はチョコレイト菓子はそんなに好きじゃないらしいということを。ピーナッツやクッキーなどの混じり物はチョコレイトの味を損ねるんだとさ。はああ?
 なんじゃそりゃーーーっ。
七尾ななおさん、チョコレイトと、チョコレイト菓子の違いって、何なんすかね?」
 でも、結局ピーナッツチョコレイトは三日くらいかけてひとつ残らず彼女、七尾さん、の胃に納まったんだけどね。
「えええ?そんなこともわかんないのぉ?全然違うじゃんか」
「えええ?全然わかんないっすよ。殆ど同じじゃないっすか」
 唇を尖らせる俺に彼女は伝授する。うっとりとした表情で。
 チョコレイトそのものが、口の中でねっとりべっとり甘くとろける感じがたまらないのだとのたまった。ふうわりとカカオと砂糖の香りが舌と歯を溶かすくらい纏わりつく感触。あの粘り気。
「なあんかね。頭も心も満たされるって、感じなのよー」
 脳内完全にやられてるって感じなのよー。
「他の食べ物が混じってたらさ、あのとろける感じが半減すんの。わかる?」
「はあ・・・」
 そうっすか。全然わかんないっす。わかるのは、このひとちょっと異常かなってことくらい。
 聞いてるだけである筈のない虫歯が疼く気がする。まじで。
「いっちばんねっとりくるのはね、ロッテのガーナ。もう、後をひくったらないよー。あんたも今度チョコレイト買う機会があったら、ガーナ、食べてみ?ガーナ。ちょーおいしいから。」
「・・・」
 市販のチョコレイトの味なんてそんな変わんないっすよ。
 また、隣からかさこそとセロハンの音がした。
 俺はそっと彼女の顔を盗み見る。今、彼女の口の中でチョコレイトはゆるゆるととろけ、ねっとりべっとりその口腔内を満たしているに違いない。
 顔、ゆるんでますよ、七尾さん。


「おっかむらぁ」
 俺の苗字は”岡村おかむら”だ。”おっかむらぁ”ではない。でも何故か七尾さんは、小さな”つ”と”あ”が無駄に挿入されたそんな呼び方をするのだった。
「そろそろ、出よ?お昼ご飯、あんた、持って来てるの?どこかで食べる?」
「や、持って来てないっすけど。でも、七尾さん、いつも食わないじゃないっすか。食わないでひとの顔じっと見て。ひとりで食うの嫌ですよ、俺」
 七尾さんは俺の顔を瞬間まじまじと見て、それからふんっ、と鼻で笑った。
「そんなこと気にするなんてさ。あんたも結構ケツの穴の小さい男だね」
 ケツっ?ケツっつった?ケツって。しかも穴って言ったな。
 俺は渋々腰を上げると、ノートパソコンとソフトの入った黒い鞄を手に取った。
「いいっすけどね。今日は店の中でチョコレイト食ったりしないでくださいよ。恥ずかしいんですから」
「・・・わかってるわよ」
「行儀悪いっすよ、七尾さん」
「へいへい」
 へいへい?へいへいだと、こらぁ。
「お。お前ら、もう出るのか。もうそんな時間か?」
 窓際の席で、ずっと眉間に皺を寄せたまま図面と睨めっこしていた苅谷かりや所長が、俺たちが出掛けるのに気付いて二時間ぶりくらいに立ち上がった。「あんまり緊張しないで普段どおりにやって来い」
「大丈夫ですよ、所長。絶対取りますからね、この仕事」
 七尾さんが顔の下でぐっと拳を握る。まるで演歌歌手みたいだ。
「もう俺は取った気でいるからな。今回は大手が何社か入ってるみたいだけどな、七尾の仕事ならまず間違いないだろ」
 この事務所にいるもうひとりの女のひとも顔を上げ、柔らかく微笑んだ。所長の奥さんで、経理の仕事を担当している。
「いってらっしゃい」
 ああ。いい感じの声だな。いい感じの笑顔だよ。女のひとはこうでなくっちゃな。七尾さんに会ってから俺はこれまでの女性観をことごとく変えられたからな。たまには癒されたくもなる。
 俺は思わずにへら、と笑い返して言った。
「いってきます」


 苅谷建築設計事務所。
 苅谷所長と奥さんと、七尾さんと、あと、二級建築士の資格を持った男のひとがふたり。小規模な個人事務所だ。
 俺がここでバイトを始めるようになったのは今から一年と三ヶ月前のことだ。
 美大のデザイン情報学科を卒業した俺は、おととしの春めでたく大手広告制作会社に就職した。
 こつこつと真面目にやってきた甲斐があって、念願の東京での就職も決まり、しかも自分の得意とするCGを使うデザインを任され、順風満帆の様相で社会人としての一歩を踏み出した。俺の人生は薔薇色だ。と思っていた。ほんの数ヶ月の間だったんだけどね。信じて疑ってなかったよ。
 その大手と言われた広告制作会社が呆気なく倒産したんだ。ほんと呆気なかった。不渡りを出したことを知ったのは学生時代から借りてたアパートの一室。テレビのニュースで。まさか、と思ったよ。無知だったからさ。たった一回不渡り出したくらいであんな大きな会社が潰れたりしないだろうって。楽観してた。潰れたんだなこれが。銀行なんかだったら、いろんなところがあの手この手で再建に向けて手助けもしてくれるんだろうけど、広告会社の末路なんてほんとに敢え無いものだった。
 僅か半年余りで無職になった俺は、学生時代からの作品の入ったデザインケース片手に再び辛く悲しい就職活動を始めたってわけ。大学にも顔を出し、教授や講師に媚を売り捲くり、先輩や友人にも頭を下げて回ったよ。
 友人の中にはいきなりフリーでやってるやつもいたりするんだ。あと、何人かでデザイン事務所を起こしてるやつも。そういうやつらは大抵、学生時代にそれなりの賞を取ったりしてるかなりの実力派だったりする。「デザインだけで食ってくのってまじできついよ」なあんて愚痴りながらもその顔には自信と誇りが満ち溢れているのだから眩しいったらありゃしない。悔しいけど羨ましい。大手の広告制作会社に入社できたからって喜んで浮かれてた俺は、デザイン界ではほんとはちんけな人間だったってわけだ。
 そう。この世界は実力なんだ。実力と才能だけがモノを言う世界だ。
 俺はただ真面目にやってただけ。会社員向けの性格だったってわけ。あと、パソコンの扱いに慣れてるってとこくらいしか取り柄がなくってさ。まいったよ。先行きが全く見えない不安って、ちょっと言葉じゃうまく言い表すことができないね。ものすごく孤独。砂漠で迷子になった感じ。手持ちの磁石までイカれちゃって、どこに向って歩き出せばいいのかわかんなくて右往左往した挙句、自分を見失ってしまった感じ。
 パソコンの専門学校のCG講師募集。
 そんな求人広告に目を奪われてしまうまでに俺は落ちぶれてしまっていた。というかもうここまでくると死活問題。食えないと田舎に帰らないといけなくなるし、かといって、グラフィックデザインに全然関係のない仕事はしたくなかった。
 でも落ちた。その場で見事不採用決定。がーん。
 その上、CGの人物かと見紛うような作り物めいた化粧を施した若い女に、「もしよろしかったら、ステップアップの為に、こちらの学校の上級者コースに入学されませんか?」なんて勧誘までされてしまった。俺って中級クラスレベルってわけ?だーっ。ふっざけんなよー。
 帰りのエレベーターの中で、この世の終わりみたいな青い顔をしてふらふらと立っている俺に声をかけてきた人物がいた。四十代前半くらいの男。それが苅谷所長。何でも、俺が不採用を告げらていた直ぐ横のパーティションの向こう側で所長はCGの授業内容の説明を受けていたらしい。自分は建築の仕事をしてて、CGの勉強をしようかと思ってたんだけど、君が来てくれるなら、自分はそっちの勉強をしなくて済むから助かる。仕事探してるんだったらうちで働いてみないか。そう言われた。うあ。さっきのあの恥ずかしいやりとりを聞かれてたわけ?俺は思い切り身を退いた。スカウトされた喜びよりも、羞恥のほうが上まわった。エレベーターのボタンを全て押して、とにかく一番最初に停まった階で飛び降りてしまいたい衝動に駆られた。
 ・・・・。
 全く。何やってんだ、俺はよ。
 意気消沈していた俺はこれで逆に目が覚めた思いだった。
 同じ箱の中にいる初対面の男のひとに全て話した。
 美大を出て就職した広告会社が倒産した為、次の職場を探していること。でも、デザインの世界の求人なんて殆どないこと。
 今日はCGの講師の仕事を求めてきたけれど、それは間違いだったと今はっきり悟ったこと。自分は本当はデザインの仕事がしたいこと。それだけは譲れないこと。
 そう。一番肝心なのはこれだ。
 俺はそれすら見失いそうになっていた。
「なんか、さっきの出来事って、合コンで全然趣味じゃない女のコに声かけてふられたときの感じと似てるんですよね。あの程度の女だったら俺でも落とせるだろうと思って声をかけてみたら、やだ、あんたなんか全然趣味じゃないって断られたときのあの拍子抜けした感じ。で、あとからすっごい後悔して恥じ入ったりするんですよ。あれを第三者に聞かれてたっていうのは、ちょっと、たまんないですね」
 俺は苅谷所長の人懐こい笑顔につられてそんなことまで白状していた。
「面白いこと言うね、君」
苅谷所長は更に相好を崩して笑った。「じゃあ、次の仕事が決まるまでのつなぎでいいよ。そういう、譲れないものを持ってるのって、俺も嫌いじゃないし。それに、建築も一種のデザインだからさ、勉強になると思うし、広告業界に全然コネクションがないわけでもないしね」
 最後の台詞が決め手となって、あ、ここで働いちゃおう、と速攻決意した俺に、苅谷所長が更につづけた。
「それに、すごい才能の持ち主がうちの事務所にひとりいるんだ。彼女と一緒に仕事をすることはきっと君のプラスになると思うよ」
 
 
「おっかむらぁ」
「何っすか?」
「そのから揚げうまそう。一個ちょうだい」
 言いながら、すでにつまんでいる。
「あ。何するんすか。から揚げ定食のメインですよ。メイン。食いたいんだったら、自分で注文したらいいじゃないっすか。俺の昼飯奪わないで下さいよー。貧乏なんですからねー」
「ケチ」
「ひとの昼食つまんで食ってるくせに、言われたくないですね」
 七尾さんは昼飯をあまり、というか殆ど食べない。まあ、チョコレイトをあれだけ食べてればお腹も空かないんだろうけど。
 から揚げの乗った皿にはつけ合わせにレタスとキャベツとトマト。小鉢には小松菜と油揚げのおひたし。それから豆腐とワカメのお味噌汁。大盛りご飯。普段節約に励んでいる俺にとっては久しぶりのごちそうだ。
 時給1,300円。そんなしょっちゅうCGの仕事ばかりあるはずもなく、雑務も引き受けている自分には、高い時給だと思う。でも一か月分で二十万ちょっと。ボーナスなんかある筈もないのだから生活はそれなりに厳しい。
 俺が食べてる間、最初は大人しかった七尾さんがやがてそわそわしてくる。きょろきょろしたり、テーブルの上のいろんな物を触ってみたり。
「出てますよ」
「え?」
「中毒症状」
「え?何?」
「チョコレイト」
「・・・」
「持って来てないんですか?そんなんで、ちゃんとプレゼンできるんですか?」
 七尾さんが両手で頬杖を突いた格好で上目遣いに俺を見る。おわっ。女のコみたいで気持ち悪い。
「持って来てない。だって、おっかむらが、行儀悪いっていうからさ」
「ほんとのことですけどね」
「・・・」
「後で、コンビニに寄りましょうか?」
 俺の台詞に七尾さんの顔がぱっとほころぶ。そんでにやーっと笑った。にやーっと。
「やっぱ、おっかむらはいいコだねえ」
「七尾さんのカレシはそのビョーキのこと、何にも言わないんですか?」
 信じられないことだが、このひとには一緒に暮らしているカレシがいるのだった。もう七年だっけか八年だっけか、そのくらいの長いつき合いになるんだそうだ。フリーの家具デザイナーさん。世の中には色んなデザイナーさんが存在する。
─── 俺も何度か会ったことあるんだ。昔は結構いいやつだと思ってたんだけど。でも、あれは、もうダメだね。完全に七尾の収入を当てにしてる。殆どヒモだ。
─── デザイナーつったてさ、フリーなんだから結局営業が大事だろ?ひとに頭下げることができなくて、だから、仕事がないみたいなんだな。
 ひとの悪口なんか絶対口にしなさそうな苅谷所長がはき捨てるみたいにおしえてくれた。
─── その上、家のことは全然やってないみたいで、七尾のやつ、晩ご飯作ってやるだけの為にわざわざ夕方になると家まで帰ってるんだぜ。・・・あいつもな。あんな男のどこがいいのかわかんないけど、ほんと、相手の言うなりなんだ。
 信じがたい話だ。目の前にいる女は、ヒモを養う尽くし耐え忍ぶタイプの女には全然見えない。どっちかつーと、そんな男、足蹴にして家から追い出しそうな感じ。
 ひとは見かけによらないもんだ。
「言わないね。何にも言わない」
 頬杖を突いたまま他所を向いて、ヒトゴトみたいに言う。
「・・・そうなんっすか」
「・・・おっかむらぁ」
「何ですか?」
「あんた、就職活動してるの?」
「いや、ここのとこ、こっちの仕事が忙しくて、全く」
「ダメじゃん。あたし、前に見たあんたのデザイン画、結構いいと思ったよ」
「そうすっかね?・・・もう、いっそこのまま苅谷建築設計事務所の正社員にしてもらおうかな、なーんて考えてるんですけどね」
「ダメだよ」
 強い口調だった。頬杖を外して、ぴんと姿勢を正した。
「・・・」
「ダメだよ、絶対。流されちゃダメ。あんた、デザインの仕事がしたいんでしょ?それだけは譲れないって所長に言ったんでしょ?じゃあ、ダメ。絶対」
七尾さんはびしっと、俺に人差し指を向けた。あ。今日はマニキュアまで塗ってるな。可愛い淡いピンクがかったオレンジ色だ。
「信念曲げるなよ、絶対な」
「あー、はいはい」
「はいは一回でよろしい」
「・・・はい」
「ところでさ」
そこで七尾さんはにやーっと再びいやらしい笑いを浮かべた。おっさんみたいだ。
「遠恋のカノジョとはうまくいってるの?」
「あー。まあ、ぼちぼちですよ」
 俺は歯の間に詰まってしまった鶏肉を舌で気にしながら答える。
 遠恋のカノジョ。なんか、しくしくと胸が痛む言葉だ。


 カノジョは俺と同い年で、もう四年くらいのつき合いになる。
 別の大学の女のコとの合コンで知り合った。か弱そうな見た目も、思慮深そうな無口なとこも、悶えるくらい、もろタイプだった。
 カノジョは大学卒業と同時に、元々親とそういう約束だったらしく、地元に帰り、大手保険会社の一般職に就いた。
 カノジョ曰く、仕事はとても単調で、女ばかりの職場はとても居心地が悪い、のだそうだ。誰がやってもできる仕事。いつ自分が辞めてもこの会社に支障はない。そんなことを、就職してから三ヶ月を過ぎた頃から聞かされ始めた。
 「辞めたいの?」と訊くと、電話の向こうのカノジョは黙り込んでしまった。嫌な沈黙だった。俺はこっそり背中に冷や汗を掻く。カノジョが望んでいる言葉に気が付いてしまったから。でも、俺はその言葉を口にしなかった。わかっていながら頑ななまでに口を噤んで黙していた。
 それがふたりの間にちいさなちいさな溝を作ってしまった発端。更にその三ヵ月後の倒産事件で溝は深く広がった。慰めてもらおうと思ってた甘ったれの俺の期待をカノジョは見事に裏切ってくれた。初めカノジョは涙を見せたんだ。お。俺の為に泣いてくれてる、なんて感激してたらそういうことではないみたいだった。「どうしてそんなことになるの?」眉間に深い皺を寄せ、まるで俺が何かとんでもない悪さを仕出かしたみたいな目で睨まれた。・・・思慮深かったカノジョは一体どこへ?
 無職のときも。今の職にありつけたときだってそう。カノジョと話していると、何故だか、叱られてるコドモみたいな気分になる。まあ、でも、カノジョの期待に添える俺でなくなったのは確かだから、仕方ないのかもしれない。
 次第に会う回数が減ったよ。電話の回数だって。メールにしてもまた然り。
 大学生の頃はあんなにお互いわかり合えてた気がしていたのに。環境が変わっただけでこんなにも気持ちがかけ離れてしまうなんて、思ってもみなかったね、ほんと。
 でも、まだ続いてるんだ。多分、まだ恋人同士。会えばきっと、抱擁だってキスだってセックスだってするだろう。
 はっきり言ってきつい。まじできつい。
 どうか俺を切ってくれ。もう切り捨ててくれ。
 最近はそんなことばっかり思ってる。


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