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チョコレイト・ホリック 3.
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 大きな公園は桜が満開だった。
 思わず足を止め、暫し陶然と見惚れていた。白く煌く桜の大群は、暗闇の中、夜目に眩しいほどの美しさで佇んでいた。冴え冴えと。清清と。散る花びらでさえ輝きを放っている。ああいう色はコンピューターでは作り出せない。自然な美に勝る美しさはないってわけだ。
 そうか。今年の桜は早いんだな、とちょっと驚く。まだ三月の終わりだっていうのに。
 ・・・げっ。
 少し視線を落とした先には目を背けたくなるような光景、花見客の群れが広がっていて、俺は一気に興醒めた。うーん、と唸って眉を顰める。日本の自然な美を台無しにする、酔っ払いの群れと外灯にきらきら反射するブルーシートの波。
 いい具合に出来上がったひとたちの間を通り抜けながら、七尾さんとふたり連れ立って歩いた。手には熱々のカップ酒。七尾さんは時折ガーナエクセレントを口にしてはご機嫌に鼻歌を歌っている。曲は”チョコレイトは明治”だ。あれ?ガーナはロッテだって言ってなかったけ?・・・てかさ、俺、妙にチョコレートに詳しい男になってないか?完全に毒されてるよな。嫌になるよ、ほんと。
 ガーナエクセレントは二十八枚入りなんだそうだ。ふた箱買うべきかどうか菓子の陳列棚の前で随分悩んでいた。「買えばいいじゃないですか。今更何悩んでんですか」そう言ってふた箱手に取りオレンジ色の買い物籠に放り込むと、「そのひと言が欲しかったのよー」と、泣き出さんばかりに感激された。アホくさっ。
 酔っ払いの冷やかしの声がそこかしこから上がる。何だろうと視線を彷徨わせると、どうもこちらに向っての声援らしい。え。もしかして、俺と七尾さん?え?カップルに見えんの?嘘だろ。やめてくれ。
 ひひひー、と七尾さんが不気味に微笑んだ。何者?
「なんっすか?」
「あたしたちって、恋人同士に見えるみたいだね」
「そうみたいですね」
信じられないっすけどね。
 ふふふふ、と、笑いながら七尾さんが腕を絡めてきた。
 俺はちらりと横目で七尾さんを見下ろした。小さくて丸い顔に策士めいた笑みを浮かべている。顔を寄せた七尾さんにそっと囁かれた。
「ねえ、おっかむら」
「なんすっか?」
「ちゅー、しようか?」
 は?
 ちゅ。ちゅー?
 い。
「いっ、嫌ですよっ。何言ってんすか」
 俺は身を捩る。さっと七尾さんの腕と肩に乗せられた手を振り払った。
「うわっ。速攻」
「当ったり前じゃないっすか」
「傷付くなあ」
「嘘ばっかり」
「ちぇー」
七尾さんは唇を尖らせて、ガーナエクセレントの入った白い袋をぶんぶん振り回す。「ノリ悪いなあ、おっかむらは。ここであたしたちがちゅーして見せたら観客が盛り上がるでしょうが。サービス精神足りないね」
「はあ?サービス精神ってなんすか?なんで盛り上がらせる必要があるんですか?勘弁してくださいよ、もう」
 第一観客ってなんだ?俺たちは余興の夫婦漫才か?
 呆れた女だ。
「あ。あそこ、座ろう」
 唐突に七尾さんが俺の後ろ側を指差す。
「え?」
 慌てて振り向いた。
 変わり身の早さにこちらは全く着いていけない。
 七尾さんが指差したのは、小さな桜の樹の下のブルーシート。鉄杭とビニールロープでできた手製の柵がちゃんと張り巡らされていて、柵からはヒモが伸びていた。その先にはダンボールの切れ端。明日の日付と正午という文字が書き込まれている。明日の正午、ここで花見をするということなのだろうか。ダンボールは風に吹かれゆらゆらと揺れている。
「え?だめでしょ。そんなことしたら。これって予約してるってことなんじゃないんですか?」
「かまわないわよ。ここって、公共の場じゃん?誰が座ったっていいんだよ。文句なんか言われないって」
 うあっ。たった今、その公共の場でちゅーしようなどとのたまったくせに。同じ人間の口から出てくるとは思えないような真っ当な台詞じゃないか。
 七尾さんは自分の膝より高い柵を、よいしょ、っと口にしながら跨ぐ。おばさんだ。と、思う間もなく靴を脱いでさっさとシートの中央に座り込んでしまった。
「ええ?まじっすか?」
 こちらはただただ唖然とするばかりだ。思わずきょろきょろと視線を彷徨わせた。
 七尾さんは、ジーンズに包まれた脚を伸ばし、後ろに手を突いた格好で空を仰いでいた。完全に寛ぎモードに入ってる。
「あー。なんか落ち着くよー」
 気の弱い俺はまだ柵の外にいるというのに、だ。
 一応あたりの様子を窺ってから俺も柵を越えた。誰もこっちなんか見てない。当たり前か。酔っ払いばかりだもんな。
 少し離れて腰を下ろすと、俺も脚を投げ出した。確かに落ち着く。
 小さな桜の樹はまだ五分咲きくらい。それでも風が吹くたび花びらが舞い落ちる。白い花びら。
 寒い。ふたりとも厚手の上着を着ているけれど、それでもずっと肩を竦めている。春とはいえまだ三月だ。やはり夜は冷え込む。
 よく見ると炭で火を熾してるグループもある。暖かそうだ。みんな用意がいいなと感心する。
「ねえ、おっかむらぁ」
「はい」
 七尾さんは天を仰いだままだ。
「おっかむらは、脳内麻薬って言葉、知ってる?」
 脳内麻薬?突然何の話だ?
「あー。いえ。知りません」
 ふふ、と七尾さんがこちらに視線を向けて笑う。
「チョコレイト」
「はい?」
 七尾さんは自分の側頭部を人差し指でとんとんと突付いた。
「チョコレイト食べるとね、脳内でエンドルフィンっていう物質が分泌されるんっだって。エンドルフィンは知ってる?」
「聞いたことはありますね。人間の脳にあるモルヒネみたいなもんでしょ?」
「ピンポーン。正解。それが脳内麻薬」
「へえ、そうなんっすか」
 で?
「その元になるチョコレイトに入ってる物質がフェニルエチルアミンっていうやつで、これがね、別名”LOVE MOLECULE”って呼ばれてるの」
 ラブ・マルキュール?
「・・・恋愛・・・分子?物質?」
「そう」
「・・・」
「恋愛が始まる段階で目と目が合ったり、手が触れ合ったりしただけでどきどきするじゃん?ああいうときも、脳内でね、この”LOVE MOLECULE”がいっぱい出てるんだってさ。なんかそう思うと人間ってすごくない?」
「はあ・・・」
「あたしはね、これを求めて毎日チョコレイトを口にしてるってわけよ。わかる?」
「・・・」
 俺はただ七尾さんの顔を見詰める。何をどう答えるべきなのか。どう反応すればいいのかわからなかった。
「やっぱ、あたしが食べるチョコレイトの量って異常じゃん?この前、これってなんかのビョーキかなって心配になっちゃってさ。で、ネットで検索してみたの」
 異常じゃん?と言いつつも七尾さんは白いレジ袋からガーナエクセレントの赤い箱を取り出し、ひとつ手に取った。俺も、自分が手にしていた袋から七尾さん用のカップ酒を取り出し渡す。
「あ、ありがと」
 ポテトチップスとさきいかも袋から取り出して並べる。すっかり二次会の様相だ。
 カップ酒とチョコレイトを一緒に口にする七尾さん。・・・非常に甘そう。見ているこちらのほうが悪酔いしそうだ。すっかり口紅の剥げてしまった唇から白い湯気が立つ。
「あー。あったまるね」
「そうっすね」
「おっかむらはさ、例のコと今もうまくいってんの?」
 突然だ。
「あー。いや。どうっすかね」
「何よ、はっきり言いなさいよ」
「いや、もうじき終わりそうです」
「ふーん。そうなんだ」
「・・・」
「原因は、おっかむらがプーだったから?それとも遠恋?」
「両方でしょ。お互いに環境ががらっと変わっちゃったし。ってか、俺、プーじゃなかったっすけどね。一応働いてたじゃないっすか」
 ぎゃはは、と七尾さんが笑う。
「そうだね。一応ね」
「ひどいな・・・」
 七尾さんは肩を震わせてひーひーと笑っている。よく見れば七尾さんは結構可愛い顔をしていたりもする。でも、このひとに対してやましい気持ちは全くわいてこない。こうしてふたりきりでいてもそうなんだ。なんでなんだろうな。随分と年が上だからとか、自分好みの大人しいタイプではないからとか、そういうのとはちょっと違う気がする。やっぱ、このひとの才能のせいかな。恋愛の対象から外れて、尊敬しちゃってるんだろうな。こんなふざけてても、天才は天才だもんな。恐れ多いんだ。手なんか出せるはずがない。
「おっかむらは、そのコと何年くらいつき合ってた?」
「えーと。四年くらいっすかね」
「・・・結構長いね」
「まあ、そうですね」
 七尾さんは金色の紙を剥いて、また一枚チョコレイトを齧る。俺はさきいかを頬張る。春の風が時折思い出したように強く吹く。寒い。帰りたい。早く帰って暖かい風呂に入りたい。なのに、俺は七尾さんと話すことをやめられない。
「七尾さんは、カレと結婚したいとか、思ってました?」
「思ってたよ」
 間髪を入れず答える。俺は驚いた。七尾さんは照れ臭いのかへらへらと笑ってる。
「毎日思ってた」
「仕事は?どうするつもりだったんすか?」
「辞めてもいいと思ってたよ。あいつが望むんだったらね。続けろって言われたら続けただろうし、辞めて子供産めって言われたらいっぱい産んでただろうし。好きなひとと一緒にいられるんだったら、さ。女なんてそんなもんじゃん?」
「なんすか、それ」
 呆れた。
 七尾さんほどのひとが。働く女の筆頭みたいなひとが。
 どこぞのジェンダーフリーだとか男女平等だとかを唱えるひとたちが聞いたら猛烈に怒り出しそうな台詞だ。
 なんか、俺までむかついてくる。嫌味な台詞のひとつも言いたくなる。理由はよくわからない。相手に全てを擲ってる姿が何だかいじらしすぎて気に入らなかった。
「七尾さん、古いっすね」
「古い?そうかな?でも自分の気持ちがそうなんだから、仕方ないじゃん」
「それって、相手には相当重いんじゃないっすか?だからうまくいかなくなったんじゃないんですか?」
 うあ。我ながら言い過ぎだ。
 カップ酒を唇に持っていこうとしていた七尾さんの手の動きが一瞬止まった。じろりと上目遣いに睨まれた。
「きついよ。おっかむら」
「本当のことっすけどね」
「本当のことだからきついの」
「あんまり思いが溢れて自分のほうに向ってくると逃げ出したくなるんですよ、人間ってやつは。色んなこと委ねられても逃げたくなるし。愛して欲しい愛して欲しいって毎日思われてたら七尾さんだって気味悪いでしょ?相手にばかり寄りかかってないで、もっと、こう、自然体で、自分の意志を持って前に進んでないと」
「だからさ、相手の思い通りにしてあげたいっていうのが、あたしの意志なんだってば」
「・・・」
「それじゃ、ダメなの?」
「ダメなのって・・・」
 俺と七尾さんは暫し見詰め合った。
 七尾さんの瞳は一途な色をしていた。自分がこれまでしてきたことも、今口にしている言葉も、寸分も間違っていないと信じきってる澄んだ瞳の色。
 それが相手をどれほど追い詰めるかなんてきっとこのひとの頭にはないんだろうな。
 俺は俯いてふうっと息を吐き出した。
「おっかむら?」
 俺は口を噤んでごろんと横たわった。組んだ両手を枕に空を仰ぐ。
 七尾さんが顔を覗き込んできた。
「おっかむらってば」
「もう、いいっすよ。なんか、話にならない」
 七尾さんが唇をへの字に曲げた。
「そんな言い方しなくてもいいじゃん。ってか、あんたも強情だね」
 は?どっちがだ。
 七尾さんはアホだ。アホ女だ。
 天才のくせに。真っ直ぐ過ぎて駆け引きってものを知らないらしい。頭はいいのに恋愛は下手くそなんだな、きっと。
 って。俺が怒ることでもないんだけどさ。
 俺の視線の先には黒い夜空だけが広がっていた。
 星がちらちらと儚く瞬いている。月は見えない。新月なのか、それともこれから現れるのか、あるいはもう沈んでしまったのか。
 隣で膝を抱えて座っている七尾さんも、同じように空を見上げていた。色の白い横顔だった。あれだけ大量に飲んだアルコールは一体どこに消えたんだ。ちっとも酔ってるように見えない。肩まで伸びたストレートの黒髪が風に揺れている。
 月は新月になってもまた満ちてくるけれど、変化してしまった恋の形が元に戻ることは、ない。多分、ない。
 そんなもんなんだ。
「あいつと別れてもさ」
七尾さんがゆっくりと口を開いた。「あたし、また、恋愛できるかな?」
 知るかよ。俺は怒ってんだよ。何に対して怒ってんだかは自分でもわかんないんだけどよ。
「・・・できますよ。恋愛のひとつやふたつやみっつやよっつ」
 むっとした声のまま答えてやった。
「そうかな」
「そうですよ。ただし、チョコレイトにばっかりラブなんちゃらを求めてたらダメっすけどね」
「そうか」
七尾さんが薄く笑う。「食べる量、もうちょっと減らしたほうが、いいのかな」
 もうちょっとだと?かなりだろ。か、な、り。自覚が足りないっつーの。
「そうっすね。そのほうがうんと健康的じゃないですか?」
「へへ。そうだね」
 七尾さんの声は少しだけ震えていた。やだな。泣く気かな。
「十年だよ。十年。長すぎて絶対手放せないと思ってた」
 十年。
 確かに長い。
 でも、もう終わりにしないとね。
 あいつ、解放してやらないと。
 あいつがダメになっちゃう。
 力なく七尾さんが呟いた。
 そうか。
 俺はゆっくりと白い息を吐く。
 やっぱ縛ってたのは七尾さんのほうだったのか。
 七尾さんは少し顔を俯けた。膝と膝の間に顔を埋める。おいっ。泣くなや。
 俺はがばっと立ち上がった。
「酒」
そう言って、少し離れた場所で片づけを始めた集団を指差した。「あっちのグループから残りの酒少し貰ってきますから。飲みなおしましょう、七尾さん」
 月見なのか花見なのか花より団子なのか酒なのか。いや、元々俺の送別会だったはずなんだけど。
 よくわかんないけど、まあこういう夜も悪くはない。
 きょとんとする七尾さんを尻目に、俺は靴の踵を踏んづけたまま駆け出した。
「すっみませーん」
つとめて明るい声を張り上げて見せる。七尾さんが少しでも元気になるように。見知らぬ酔っ払いたちにおどけた仕草で両手を振って近づいていった。
「今あの女のコ口説いてるんですけどね。なかなか手強くて。酒、足りないみたいなんすよ」
 赤い顔をしたおっさんばかりの集団は、俺の嘘にころっと騙され、「兄ちゃんがんばれや」と、上機嫌で残りの酒を譲ってくれた。
 いやいや、まじで、ありがたい。


 それから後は、途中何度もトイレに立ちながら、カノジョの話もカレシの話もしないでバカ話に終始した。
 小学校の時にしょっちゅう犬の糞を踏んづけて登校してくる同級生がいて、靴箱周辺がいつも鼻が曲がりそうなほどの異臭を放っていた話だとか、中学生の頃、マヨネーズご飯にはまってしまって気がつくと掌がクリーム色に変色し体重も五キロ増え、当時つき合ってた女のコにマジキモイマヨネーズオトコと罵られてふられてしまった話だとか、朝、顔を洗ってる最中に石鹸で滑った指先が鼻の孔の奥深くを傷つけて鼻血が止まらなくなってしまい倒産した広告制作会社を遅刻しそうになった新人時代の話だとか、無職だった頃に、金の無心の電話を実家にかけたところ、実の母親に振り込め詐欺と疑われてしまって、その後何度電話しても出てもらえなかった話だとか。フィクションだかノンフィクションだかわかんない俺の、くだらないしょーもない話を七尾さんはお腹が捩れるほどに笑ってくれた。
 夜の闇に薄っぺらな下弦の月がようやく姿を現した頃、ふたりで仕事を押し付けあいながら片づけをした。ブルーシートを準備したひとたちが、明日、ここで気持ちよく花見ができるようにと偉そうに言い合いながら、随分といい加減にそして大雑把に片付けた。
 それから。
 最後に小さな桜の樹の下で、俺と七尾さんはさよならのキスを交わした。
 なんでそうなったのか。
 実のところ、酔ってたのでよく覚えていないのだった。
 性の匂いの全くしない健全で清らかな、でも、長い長いキスだった。あんなキスもあるんだな。
 寒さで冷え切った七尾さんの唇は、思っていたとおり、甘いチョコレートの味がした。
 それだけは今でも記憶に残ってる。


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