1. 2. 3. 4.    

チョコレイト・ホリック 2.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 プレゼンは見事成功。
 某駅前西開発事業に苅谷建築設計事務所はめでたく参画できることと相成った。
 プレゼン用CGの作成に携わった俺も、これで俺を拾ってくれた苅谷所長にまたひとつ恩返しができたかな、と、肩の荷がちょびっとだけ下りた感じ。
 よかったよかった。


 時計が五時を回った。
 バイトの俺は今日は定時であがりだ。
 窓際に立ち、雨の降り始めた外を見る。この事務所はビルの四階にある。見晴らしは、まあ、それほどよくはない。でも、ここからの眺めを俺は嫌いではない。横に走る大きな車道。その両端を沿う二本の歩道。ぽつりぽつりと立つ緑の植木。向かいに立ち並ぶ背の高いビルの群れ。
 道行くひとたちが広げる傘がゆらゆらと行き交う様をじっと眺めていた。雨の所為で、まるで水の中を漂う熱帯魚のようにも見える鮮やかな色たち。
 都会では季節を感じられないというけれど、外を歩くひとたちの服装で、もうとっくに春がきていることを俺は知る。淡い色のコートが一番よく目につく季節だ。スプリングコート。そういえば、カノジョも春になると着てたっけ。
 七尾さんは現在九州入り。
 今年の秋開かれる博覧会のコンペに入賞して、その打ち合わせに行っている。今日で三日目。来週には帰ってくると、さっきPCにメールが来ていた。


 七尾さんは天才肌のひとだった。
 この業界で今、彼女の名前を知らないひとはいないらしい。普通に工業大学の建築科を卒業し、一級建築士の資格とインテリアコーディネーターの資格をその何年か後に取り、いわゆる留学などの華やかな経験もない普通の女建築士。でも、彼女の作品はひとの目を捕えて離さない、誰もが認めざるを得ない魅力に長けていた。それは、俺みたいな、全く建築に携わっていない者にもわかるくらい。斬新さとそして相反するレトロさと、女らしい細やかなまでの穏やかさ。彼女の作品はよくそう評されるのだそうだ。うーん、言い得て妙だ。でも、なんか随分抽象的じゃないか?
 苅谷所長は一年くらい前から七尾さんに独立を打診しているのだという。
「もう、俺がお前に教えることは何もなくなったよ。お前はここでは抱えきれないくらい大きな人間になったんだ。自分でもわかるだろ?いい加減ひとりでやってみろ」
 でも、七尾さんはその都度考えてみますと答えるものの未だ結論を出せずにいるらしい。
 なんでなんだろうな。誰もが喉から手が出るくらい欲しほどの有り余る才能を持っていながら、でも、彼女はあまりそのことを自分の美点だと思っていないようなフシがある。
「多分、一緒に暮らしてるあの男が関係してるんだろうとは思うんだけどな」
苅谷所長はそう言っていた。「あの男と別れたら多分、独立の決心もつくんじゃないか」
 え。七尾さんってそんなオンナオンナしてますかね?
 思ったけど、口には出さなかったよ。苅谷所長の言うとおり。多分、そういうことなんだと思う。一緒に暮らしてる男に振り回される都合のいい女。俺の知らない七尾さんは、きっとそんな弱っちい、案外どこにでもいる古臭いタイプの女だったりするのだろう。そして満たされない心を埋めるためにチョコレイトを食べる。食べる。食べる。でもきっとチョコレイトじゃ満たされない。でもやめられない。中毒患者。
「アホめ・・・」
「あ?誰がアホだ?」
 唐突に背後から声を掛けられ、びくっと肩を震わせた。苅谷所長だった。俺はついへらへらと笑ってしまう。ノミの心臓。俺って気が弱いんだな、ほんと。
「いや、あの、あめ、雨め、なーんつって」
 うわああ。なんちゅう恥ずかしい取り繕い。苅谷所長は訝しげだ。当たり前か。
「何だ?傘忘れたのか?俺の貸してやろうか?」
「いえ、いいっす。持って来てます」
 朝から降ってたっつーの。
 所長はワイシャツの胸ポケットに手を突っ込み、何でもない風に白いメモ用紙を取り出した。俺に差し出す。
「これ、七尾からプレゼントだ」
「は?」
 受け取ったメモ用紙に目を落とした。七尾さんからのプレゼントだと言われたが、そこには苅谷所長のへたっぴな字で、”惣田そうだデザイン事務所”と書かれてあった。よく知っている中堅のデザイン事務所の名前だった。広告、出版物からパッケージデザイン、それから確か最近は建築物のデザインにまで手をだしていたはず。住所と電話番号と、それから惣田文夫ふみおと所長名が記されてある。あと、なんだかよくわからないが有名な製菓会社の名前とURL。
「なんっすか、これ?」
 顔を上げると目を合わせた苅谷所長はにっと笑った。笑うと右頬にえくぼができる。案外可愛い顔。
「来週の頭に面接にきてくれってさ。お前、前に見せてくれただろ?学生時代のデザイン画。あれ持って」
「・・・」
 まじ?
「でも、それだけじゃ、今のお前の実力はわかんないから、そこに書いてある製菓会社が今、秋向けの新作菓子のパッケージを一般公募してるらしくってさ。そのパッケージデザインをみっつ描いて持って来いって」
「・・・」
 みっつ・・・。
「お前、明日から、面接の日までうちに来なくていいから」
「しょちょう・・・」
「今からうち帰って死に物狂いで作れ。な?」
「・・・」
 喉になんだかぐっとくるものがあった。
 所長は腕組をして窓の外に目を遣っている。
「そこの事務所、建築デザインの仕事もやっててさ。そこの所長と七尾、何度も仕事取り合ってるんだ。でも、七尾の人柄と作品を随分気に入ったらしくてさ。すっかり仲良くなってやがんの」
くっと、苅谷所長は目を細めて笑った。「惣田所長の自宅造るときに、七尾も随分知恵しぼってやったりしてさ。で、最近はそこにお邪魔してはお前のことを売り込んでたらしい」
 咄嗟に言葉が出なかった。あのチョコレイトばっか食ってる七尾さんが?あのカカオと砂糖で侵された脳内の片隅でちゃんと俺のことを考えてくれてたわけ?
 なんか泣いちゃいそうなんすけど、俺。
「あ、ありがとうございます・・・」
「俺よりも七尾によく礼言っとけ。但し、採用されるかどうかはわかんないぞ」
 お前の実力次第だな。そう言って、肩をぽんと叩いた。
 実力?
 めちゃくちゃ怖い言葉だ。俺には七尾さんのような天性の才能はない。それに最近はすっかりデザインから離れている。俄かに不安になった。俺はメモ用紙を見詰めて呟く。
「パッケージって。何の菓子なんすかね・・・」
「あ、さっき見たよ」
 所長はそう言ってからまた面白そうに、くっと笑った。
「なんすか?」
「チョコレイト、だとよ」
 俺は思わず目を見張ってしまった。
 チョコレイト・・・?


「おめでと」
「あ、ありがとうございます」
 七尾さんとふたり、おでん屋のカウンターに座り生ビールのなみなみ注がれたジョッキを傾け乾杯した。
「やったじゃん?」
 ぐぐっと半分くらいビールを飲み干した後、七尾さんはにやーっと笑ってそう言った。俺は七尾さんのほうに改めて身体を向けると、膝に手を当て深々と頭を下げた。
「ほんっと、七尾さんと所長のおかげです。ありがとうございました」
「そうだよ。あたしのおかげだよ。感謝しろよな、おっかむらぁ」
 なんちゅう恩着せがましい言い方だ。でも全然腹は立たない。
 ふふん、と笑ってから七尾さんは箸を手に取った。大根をふたつに切り分ける。今日は普段仕様でも営業仕様でもない格好だ。化粧はちゃんとしているけど、服はTシャツ素材のグレイのカットソーに下はジーンズというラフな格好。でもまあ、割とかっこいい。七尾さんに似合ってる。
 俺の苅谷事務所での仕事は三月いっぱいで終わりだ。僅か一年四ヶ月足らずのおつき合いだった。
 学生時代の画はともかく、新しく描いたチョコレイトのパッケージデザインをいたく気に入られ、俺は例のデザイン事務所で四月から働くこととなったのだった。
 事務所の送別会はすでに終了してて、その日出張でいなかった七尾さんとこうしてふたりだけの送別会となったわけ。その上七尾さんは来週からまた出張だ。事務所で会えるのは今日で最後だと言われた。ちょっと寂しいよな。
 隣の女は食べることはあまりしないでぐびぐびとビールを煽る。
 酒豪だと聞いている。あんまり飲まされないようにしないといけない。
「七尾さんは独立しないんすか?」
 乾杯してから一時間経ったくらいの頃。ずっと訊きたかった言葉を俺はやっと口にできた。
 九州から帰ってきてからずっと七尾さんは元気がない。その分口にするチョコレイトの量が明らかに増えている。仕事はうまくいったみたいだったから、原因はやっぱあっちだろ?
「えー?うーん。考え中ー」
七尾さんは少しも酔ってないくせに、わざと酔っ払ったみたいな口調でそう答えた。「ってかねえ、もう、この仕事、つづけるかどうかもずっと悩んでたの。なんにも知らないくせにみんな独立独立って、簡単に言わないでほしいよねー」
「はあああ?」
俺はくちゃくちゃと噛んで細かくなってしまった蛸を、思わず口から吹き出しそうになっていた。いや、なんとか留めたよ。汚ぇもんな。ごくんと無理矢理喉に押し込んでから口を開いた。
「まじで?建築の仕事、辞めるつもりだったんですか?」
「うーん。そうだよー。悪いー?」
「何言ってんすか。そんなことしたら、建築業界全体に激震が走りますよ」
「へへへ。そうかな」
 へへへって、あんたね。
 七尾さんはまだ大根をつついている。このひとは案外食が細い。チョコレイトばっか食ってるからかな。身体には絶対よくないよな。現にあんなカロリーの高いものを四六時中口にしているくせに、痩せている。薄っぺらな身体だ。胸なんか全然ない。
「七尾さんはどうしてこの仕事選んだんですか?まさか、この道に天賦の才能があるなんてわかってて進んだわけじゃないですよね?」
「天賦の才能ー?」
 七尾さんは目を丸くしてそう叫ぶと、ぎゃはは、と大声で笑った。褒めてやってんのにえらく失礼な態度じゃないか。あ?
「あたしね、本当は大工になりたかったんだよね」
 カウンターの向かいにずらりと並ぶ、焼酎と日本酒の壜を見詰めながら七尾さんが言う。どこか遠くに思いを馳せるような喋り方。
「大工・・・」
「そう。うちの父親が大工だったの。中卒で、頭も悪かったんだけど、娘のあたしが言うのも、あれなんだけどね。もう、もっのすごく男前でかっこよくってさ。なんていうの、重い木材肩に担ぎ上げたり、メジャーであっちこっち長さ測ったり、鋸や鉋使ったり、そういう仕草のひとつひとつがね、娘心にほんと、かっこよく映ったの。でも、あれって、男の世界じゃん?うちの父親、頭硬くってさ。女に後継がせるわけにはいかねえ、とかって相手にもされなかったわけよ」
「・・・で、設計のほうに走ったってわけですか?」
「ん。まあ。そんなとこかな」
「へえ・・・」
「まさかねえ、こんなに次から次へ仕事が来るようになるなんて思ってなかったから、あたしが一番びっくりしちゃってるの。面食らってる」
「お父さん、喜んでるでしょう?」
 七尾さんは首を傾げた。
「へへ。どうかな。あたしが中学生の時に死んじゃったからね、わかんない」
「・・・」
 そうすっか。変なこと言ってすんません。思わず俯いてそう呟いた。訳もなくおしぼりに手を伸ばす。白いタオル地のおしぼり。来た時は暖かかったそれは、今はもうすっかり冷たくなっている。
 七尾さんは黙ってまた大根を口にする。でもビールはもう三杯目だ。空きっ腹にアルコールはよくないよな。悪酔いしないのかね、このひと。
「九州から戻ってきてから、七尾さんずっと元気ないですよね?なんか、あったんすか?」
 俺の言葉に七尾さんは一瞬、きょとんとした。それからまたけたけた笑い始めた。笑いながら頭を両手で抱え込んだ。俯いたまま、まだ笑ってる。
 なんかあったな、こりゃ。
「七尾さん?」
 それがさー。
「それがさー。まいっちゃってんのよねー」
「何がっすか?」
「あいつ」
 あいつ。
「同居してるカレシっすか?」
 こくん、と頷く。
「あいつ、あたしが九州行ってる間にうちのマンションに女引っ張り込んでたみたいなの。信じられるー?」
「・・・」
 ごくん、と唾を飲み込んだ。
「今までにもさー、何回か修羅場はあったしさ、ここんとこ女の影はちらついてたから、まーた浮気してるんだろうな、とは、まあ思ってたわけ。でも、こんなひどいことされたの初めてで、もう、どうしたらいいのか、ほんっと、わかんないのっ」
 七尾さんはカウンターに両腕を敷いてそこに右頬を置いた。そのまま寝ちゃいそうな態勢。顔は笑っているけど、声が泣いてるみたいに聞こえた。
「・・・なんでわかったんすか?」
 七尾さんは唇を尖らせて喋る。
「だってさ。掃除してないから、なっがーい髪の毛がそこかかしこに散らばってるしさ、灰皿に口紅のついた吸殻が混じってるしさ、それに、ベランダのゴミ箱に生ごみ捨てようと思ったらさ・・・」
「・・・」
 七尾さんの顔から笑いが消えた。目をぎゅっと瞑る。
「使用済みのコンドームがよっつもあったの。しかもむき出しで」
 あたしとはもう何ヶ月もやってないのに、あんのやろー・・・。
 いや、そんなことまで話さなくてもいいんすけどね。それに怒りの矛先、なんかどっか、違うでしょうが。
 固まった。俺は石みたいに固まったよ。泣き出されたらどうしようかと思ったね。
 七尾さんは弾かれたみたいにぱっと身体を起こすと、カウンターの店主に向って、
「日本酒っ。日本酒飲みたいっ。熱燗、ちょーだい」
明るい声でそう言った。「銘柄はお任せで。あたし、よくわかんないから」
 白い上っ張りを着た店主が真面目な顔で頷く。愛想も何にもないけど、おでんはうまい。
「飲も。ね?今日はとことんつき合ってよ、おっかむらぁ・・・」
「それって・・・」
「え?」
「それって、わざと、ですよね?」
 七尾さんが打ち切ろうとした話をつい蒸し返してしまった。
 わざとだ。
 天才と呼ばれる女と、ヒモと呼ばれる男。
─── どうか俺を切ってくれ。もう切り捨ててくれ。
 男の悲痛な叫びが聞こえてくるような気がして俺の心臓は一気に冷えた。
 みっともない。
 本当にみっともない男だ。
 誰かさんにそっくりじゃないか。
 七尾さんの顔が泣き笑いみたいになった。
「やっぱ、そう、なのかな」
「そうっすよ」
 カウンターにお銚子と猪口が並ぶ。萩焼だ。薄桃色と茶色が混じったような淡い色調。ぷっくりと底の部分が膨らんだ女らしい形。それを手に取って、中身を猪口に注いだ。
「もうそんな男、捨ててやればいいじゃないですか。飼い殺しみたいにしてないで、甘い餌で無理矢理繋ぎとめたりしてないで、出てけって、追い出せばいいじゃなですか。七尾さん、そのひとのこと今も本気で好きなんすか?ただひとりになるのが怖いだけなんじゃないんですか?そんなひどいことされてまで、一緒にいる理由がどこにあるって言うんですか。なんか、そういう女々しいのって、ぜっんぜん、七尾さんらしくないっすよ」
 まずいな。自分の言葉に煽られて、歯止めが利かない。なんか、言わなくていいことまで言ってる?
「・・・」
「向こうだって、そうされるのを絶対待ってる」
 再就職が決まったことを俺はカノジョに報せることができなかった。本当だったら、いの一番に報告すべき相手だろ?何故なんだろうな。露骨に喜ばれても、大手ではないことに落胆の色を見せられても、どちらにしても、俺は嫌だったんだ。カノジョの反応がどうであっても、もう、受け容れられないってことなんだ。それくらい違っちゃってるのに、つき合ってるって、恋人同士だって、本当にそんなことが言えるのか?
 俺は、七尾さんの為に注いだ日本酒を自分で飲んだ。七尾さんは顔をカウンターにうつ伏せたまま動かなくなってしまった。泣いてんのかな。肩は震えてないけど。もしかして寝てんのか?
 もう。
 もう終わってるんだよな。
 女々しいのは、俺だ。
 いつまでも別れを切れだせない俺なんだ。
「おっかむらぁ・・・」
 呻くような声が聞こえてきた。
「はい・・・」
「言い過ぎだよ、おっかむら。あたしは、あんたより年上なんだからね。目上の人間と話すときはもっと言葉を選べっつーの」
 今更。何言ってんだ。
 俺は黙ってお銚子を傾ける。
「あたしは今、猛烈に傷付いてる」
 ゆっくりと七尾さんが顔をこちらに向けた。恨みがましい目で睨みつけてくる。涙の跡は見えなかった。
 俺は、ひょい、と軽く頭を下げた。
「すみません。言い過ぎました」
「・・・おっかむらぁ」
「はい?」
 七尾さんの顔が本当に切なそうに歪んだ。もう、我慢ができないの、とばかりにぎゅっと目を閉じ、コドモみたいに甘えた声で言い募った。
「チョコレイト」
 あー。
「チョコレイトが食べたい」
 そうっすか。


NEXT
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

HOME / NOVEL