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チョコレイト・ホリック 4.
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 街を彩る欅の木が、その緑の葉を徐々に秋色に変える頃。
 俺は久しぶりに苅谷建築設計事務所の扉を開いた。
 その日、二級建築士のふたりは営業の為外出中で、事務所には苅谷所長と奥さんのふたりだけがいた。
 七尾さんは年度が替わってすぐにこの事務所を辞めている。
 でも、以前この事務所で取った仕事はここを通してしているらしく、時折顔を出してはいるそうだ。俺は一度も出会ってないんだけど、ね。
 苅谷所長は近所の店から弁当の出前を頼んでくれた。
 三人で応接セットに座って食事をする。七尾さんがいたころも時折こうして顔をつき合わせて弁当を食べたっけ。七尾さんは喋ってばっかであんまり食わなかったけど。
「どうだ。仕事のほうは。うまくいってるか?」
 俺は玉子焼きを頬張りながら頷く。随分と水っぽいだし巻き玉子で、噛んだ途端口の中に水分が充満した。
「楽しいっすよ。事務所の雰囲気も悪くないし。まあ、惣田所長に怒鳴られることもしょっちゅうあったりしますけど、俺、まだ半人前ですし、仕事が楽しいから怒られるのも苦にならないっていうか」
 苅谷所長はえくぼを見せて笑った。
「そうか。よかったな」
 俺は例の事務所でパッケージデザインの担当になった。平面ばかりでなく立体のデザインを扱う仕事は実は初めてだった。二年近いブランクはあったものの、でも、前よりいいものが作れているんじゃないかと、自分ではそう思っている。一旦離れてみることも大事だったのかもしれない。
 ここでの経験は無駄にはなっていないはず。・・・多分。ね。
「そう言えば、昨日、七尾が来たんだ」
 俺は箸を止め、でも顔は上げないままで応えた。
「そうなんっすか。七尾さん、元気にしてますか?」
 え。と、苅谷所長の箸も止まる。
「何?そっちの事務所で会ったりしてんだろ?」
「いや、なんか、すれ違っちゃって、全然会ってないですね」
「え?全然?」
「はい」
「え?」
苅谷所長の声がオクターブ高くなった。「ここ辞めてから、全然会ってないの?」
「はい」
「連絡とか取り合ってないのか?」
「はい」
「携帯とかメールのアドレスとか、知ってるんだろ?」
「はい・・・?」
 苅谷所長は少しの間ぽかんと俺の顔を眺め、
「なんだ。そうか・・・」
落胆したような声色でそう言った。
「なんっすか?」
 苅谷所長は割り箸の持ち手の先で鼻の頭を擦りながらちらっと奥さんのほうを見た。奥さんはふふ、と笑っている。いつもの女らしい穏やかな笑顔だ。
「なんですか?」
 もう一度問うと苅谷所長は困ったような顔になった。
「いや、あんま気にしないで聞いてほしいんだけどさ」
再び箸を動かし始める。「岡村と七尾、結構馬が合ってたみたいだからさ。なんていうか、うまくいけばいいのにって、俺、よくこいつに話してたんだ」
「はあ?」
 うまく?うまくって、何だ?
「いや、まあ、な。俺が勝手に思ってただけなんだけどさ」
「・・・」
 苅谷所長は箸でエビフライを摘みながら喋る。
「七尾、お前には、何ていうかこう、甘えてただろ?七尾はあんまりそういうタイプじゃないから。そういう相手がいてよかったな、とか、まあ、老婆心でそんなことを考えてたわけだ。こいつはさ、七尾はカレひと筋ってタイプだからちゃんと別れてからじゃないとそういうことにはならないだろうとか、言ってたけど」
こいつ、と言って奥さんを親指で指差す。このふたりは仲がいい。四六時中一緒にいて、嫌になったりしないのかね。
「で、七尾、例のオトコと別れたみたいだからさ、もしかしてお前とどうにかなってんのかな、とか思ってたんだけど。お前もカノジョと別れたって言ってたし」
「なってないっすよ。老婆心っすね。ただの」
 俺はむっとしながら答える。口の中ではきんぴらごぼうがもごもごしていてうまく喋れない。
 七尾さんとの送別会の翌日。
 俺はカノジョに別れの電話を入れた。携帯電話片手に相当迷ったよ。別れ話を切り出すのって、切り出されるより精神的によっぽどきついと俺はそのとき初めて悟ったね。いつもはふられてばっかだったからわかんなかったんだけどさ。何だか自分自身に脅迫されてる感じ。掌にぐっしょり汗を掻きながら、もう終わりにしようとか、これ以上つき合っても互いの為によくないとか、月並みでありきたりな別れの台詞をいくつも並べ立て、自分のものとは思えないような硬い声で話しをしたんだ。
「ごめんね」
 ひと通り俺が喋り終えた後、電話の向こうでカノジョが泣きながらそう言ったときには、いや、やっぱなし。今の嘘。って言ってやりたくなった。俺の気が小さいからってだけじゃなく、なんていうか、四年もつき合ってたら気心も知れちゃっててさ、遣り直しもできるんじゃないかとか、カノジョの涙声を聞いてたらついそんなことも思っちゃったわけ。
 でも、カノジョのごめん、は実は意味が違ってた。
「ごめんね。あたし、今こっちでつき合ってるひとがいるの。同じ会社のひとでね。三ヶ月前に転勤してきて・・・」
 え。
 そうなの?
 俺は目が点になった。
 それを早く言ってよ。早く。
 汗を掻いてた場所がすうっと急速に冷たくなる感じがした。
「ずっと言えなかった。ごめんね」
 そうか。そうなんだ。
 安堵と衝撃が入り混じった複雑な心境で、それでも、
「いいよ、気にするなよ、よかったな」
と明るい声で言ってやった。それだけ言うのが精一杯。電話を切った途端、カノジョを手放してしまった自分の愚かさに胸が苦しくなってのた打ち回った。情けないことにちょっとだけ泣いたりもした。変だよな。自分から別れようって言っといて。でも、どうしてだか、頭の中ではカノジョとの楽しかった思い出だけがぐるぐる回るんだ。きっと他のやつに渡すのが惜しくなったんだ。せこいよな。我ながら嫌になるよ。
 それが半年前の出来事。
 今は冷静に考えられる。あれでよかったんだと思う。カノジョは結婚という形を望んでいたのだから。大手保険会社の社員なら手堅いとこなんじゃないだろうか。デザイナーなんちゅう胡散臭い職業の俺よりよっぽど安心できる相手だ。
 俺はお茶を啜りながら首を傾げてみせた。
「七尾さん、俺に甘えてましたっけ?」
「甘えてただろ。すぐちょっかい出したり、こうやって弁当食ってるときでも、自分の弁当ろくに食わずに、お前の弁当つついたりしてたじゃないか」
「・・・」
 確かに。でも、それって甘えてたってことになるのかな。もしそうなら、七尾さん、小学生レベルじゃん。
「幼稚っすね」
「七尾は幼稚だろ?」
 それはそうかも知れない。苅谷所長は懐かしむような目になった。
「でもなあ。仕事だけはきっちりやるやつだったんだよなあ。女にしとくのが惜しいくらい男っぽいとこもあったし。一緒に仕事しててあんなに頼もしいやつ、ちょっといないよな」
 コーヒー淹れるわね、と言って、苅谷夫人が立ち上がった。ふわりと香水の匂いが立ち込めた。思わず後ろ姿を眺めてしまう。いい女だよな。七尾さんとは大違い。七尾さんからはチョコレイトの匂いしかしないんだもんな。
 苅谷所長は俺の視線を辿って奥さんの後ろ姿を眺めてからまた口を開いた。
「七尾に一度、聞いたことがあるんだ。あんな若くして建築の世界で成功してさ、欲しいものなんてもう何もないだろって、何か、痛烈に欲しいもの、あるのかって」
 七尾さんの欲しいもの。
「・・・なんて言ってました?」
「あいつ、お父さんっ子だったんだってな。大工してたんだろ?親父さん」
「はあ・・・」
「だけど厳しいひとだったらしくてさ、あいつ、ちっちゃい頃から誰かに甘えた記憶っていうのがないっつってた」
「・・・。そう、なんすか」
 俺はそんな話は聞いていない。
「だから、何の気兼ねもしないで思い切り甘えられる相手が欲しいってさ。七尾のやつ、そう言ってたんだ」
 甘えられる相手。
 そこまで言って、苅谷所長はエビフライを実にうまそうに頬張った。白いご飯も一緒に口に入れて、それを飲み込んでからまた口を開いた。
「一緒に暮らしてる男がいるじゃないか、そいつに甘えろよ、って言ったらさ、やー、だめですね、って。恋愛してると押せ押せモードに入るから、どうしても尽くしてばっかりになっちゃって、甘え方がよくわかんないんですって、笑ってたよ」
「・・・」
「甘えられる相手なんてカレシ以外に誰がいるんだよ、なあ?」
「はあ・・・」
「なんか、そのときの七尾の話が妙に頭に残ってたから。だから、お前と七尾見てると、そのときの話を思い出してさ、老婆心ってやつがつい働いたって訳よ。まあ。でも、勘違いだったんだな」
「・・・そうっすね」
 勘違いも甚だしいっすよ。苅谷所長。
 俺は黙って冷えたご飯を割り箸で突付く。
 俺と七尾さんの間に恋愛感情はなかった。
 少なくともここで働いている間にそんな感情は一度もわいてこなかった。向こうだってそうだったと思う。
 今でも七尾さんは俺にとって、元バイト先のとても才能ある先輩、という存在でしかない。
 でも。
 七尾さんが俺に甘えたいと望んでいるのだとしたら。
 いくらだってそうさせてあげたい、と俺はそのとき思った。胸が痛くなるくらい強く思っていた。
 七尾さんの望むとおりにさせてあげたい。
 七尾さんは俺にとってそいういう存在なのだ。
「まあ、あれだな。七尾の歳考えたら、お前には随分失礼な話だよな。悪い悪い」
 苅谷所長は苦笑いしている。
「別に、年齢は関係ないと思いますけど・・・」
 むっとして言った。
 部屋中にコーヒーの匂いが漂っていた。まだご飯とおかずが少し余っていたけど、蓋をして輪ゴムで止める。応接用のテーブルの上に置くと、顔を未だ残っている七尾さんの机に向けた。無論チョコレイトは乗っかっていない。隣には俺が使ってたPCもちゃんとある。今は誰が操作してるんだろうな。
 七尾さんは甘え方のわかんないひとだったんだな。知らなかった。
 俺、あの日、なんかひどいこと言ってなかったっけ?
─── あんまり思いが溢れて自分のほうに向ってくると逃げ出したくなるんですよ、人間ってやつは。色んなこと委ねられても逃げたくなるし。
─── 愛して欲しい愛して欲しいって毎日思われてたら七尾さんだって気味悪いでしょ?
 あちゃー。
 あまりの恥ずかしさに頭に血が上る。
 なんつーことを言ったんだ。俺は。えっらそうに。
 アホは俺だな。俺のほうだ。
 ・・・傷つけちゃったな。きっと。
「どうぞ」
 コーヒーカップの乗ったソーサーが差し出され、俺は視線を元に戻した。
 コーヒーを飲みながら三人で他愛のない話をする。苅谷建築設計事務所は七尾さんを失った痛手が全くないというわけではなさそうだったが、でも、「元の状態に戻っただけだから」と、所長は気楽に笑っていた。
 帰り際、俺は持って来ていた袋からおもむろにチョコレイト菓子の箱を五箱取り出し、テーブルに重ねた。
「おー。これか。とうとう商品になったか」
 苅谷所長が相好を崩す。
「あら、可愛い」
「ありがとうございます」
 照れ臭くて後ろ頭をぼりぼりと掻いた。
 今のデザイン事務所に雇われる経緯となった製菓会社の一般公募のチョコレイトパッケージ。一般公募なので、会社からではなく個人でどれかひとつ応募しとけば?と、惣田所長に軽い調子で薦められ、俺は描いたデザイン三点のうち、秋という季節を意識した薄い茶色と桃色を配色したデザイン画を選んで応募した。まあ、賞金も微々たるものだし、と気負わず出した。新しい仕事に変わって嘘みたいに忙しい日々がつづき、応募したことすら忘れていた夏の終わりに受賞の報せが届いたのだった。応募総数2,150点のうち、二点、採用されることとなったらしい。そのうちのひとつに選ばれたというわけだ。
 出来上がった商品が、ダンボール箱ひと箱分、先週アパートに送られてきた。
 げ。と俺は呻いて仰け反った。甘いものはどちらかというと苦手なのだ。今の事務所とここに持ってきて、残りは実家に送ることで何とか捌けた。
 マロン味のクッキーにチョコレイトがたっぷりとコーティングされているチョコレイト菓子。「マロン・チョコ・マロン」。ネーミングのほうも一般公募したほうがよかったんじゃないか?
 ひとつだけ食ってみたけど、まじで甘ったるかった。ふたつ目にはとてもじゃないけど手が伸びなかった。
「これひとつ、七尾に渡しとくよ」
 苅谷所長が言う。俺は首を傾げた。
「あー。でも、どうかな。七尾さん、チョコレイトは好きだけどチョコレイト菓子はそんなに好きじゃないって言ってたし。あんま喜ばないかも」
 俺の言葉に奥さんはそうね、と応じたが、苅谷所長はきょとんとしていた。チョコレイト菓子の箱を手に首を捻る。
「・・・チョコレイトとチョコレイト菓子、って何が違うんだよ?」
 あー。わかってないな。このひとも。
「何言ってんすか、所長。全然違うじゃないっすか」
 何年七尾さんと一緒に働いてたんですか?
 呆れたように言う俺の台詞に苅谷夫人は声を上げて笑った。


 それから二週間くらい後のことだ。
 その女のひとはスーパーマーケットの食品売り場の、お菓子が整然と並ぶ陳列棚の前で随分長いこと悩んでいた。
 黄色い籠の中には出来合いの惣菜のパックがひとつと発泡酒の缶がひとつ。それからセロリの葉っぱが顔を覗かせていた。あれが今日の晩ご飯なのだろうか。相変わらず食が細いみたいだ。ってか。チョコレイトが主食なのだからあっちのほうがデザートってことになるのかもしれない。
 ベリーショートの髪。
 襟ぐりの開いたニットのカットソーに膝上丈のスカート。膝から下の脚はブーツに覆われている。全体的にモノトーンで纏められた格好。随分と女らしいじゃないか。ジャージはもう着ないのだろうか。
 折り曲げた細い首筋に骨の隆起がぽっこりと綺麗な形に浮き出ていた。変わらない薄い身体だ。
 髪型が激変してても誰だかはすぐにわかった。
 それにしてもめちゃくちゃ短くなってる。おサルさんみたいだ。顔が小さくないと似合わない髪型だな。失恋したから切ったのかな。古いか。でも、七尾さんは古いタイプの女だったっけ。
 七尾さんはガーナエクセレントの赤い箱をふたつ手に取って長いこと悩んでいた。真剣な顔をしている。図面に向かっている時だってあんな真面目な表情を見せたことはない。一体あの頭のなかで何を思い巡らせているのだろうか。
 脳内麻薬については俺もあの後ちょっとだけ興味を持って調べてみたよ。チョコレートに限らず、油モノを摂ったって分泌されるし、食事だけじゃなく、パチンコに嵌まったひとが大当たりを出したときだとか、後、マラソン選手がランニングハイ状態になったときだとか、恋愛の初期症状のみならずいやらしい行為に及んでいるときだとか、そういうときにも脳内モルヒネは頭の中でわさわさと湧いて出ているらしい。
 結局七尾さんはチョコレイトが好きなんだよな。
 なのにそれらしい理屈をつけて自分はチョコレイト中毒なんだと、だからやめられないんだと、自分自身に言い訳しているのだ。きっと。
 あ。
 ガーナエクセレントの箱をひとつ棚に戻した。
 今日はひとつだけ買うことにしたらしい。その表情が今生の別れを惜しんでるみたいに悲しそうで、余りにもバカらしくて、俺は思わず吹き出しそうになった。
 その後七尾さんは新製品のコーナーに立ち寄った。
 嫌な予感。
 ・・・やっぱり。
 七尾さんは「マロン・チョコ・マロン」を手に取っていた。俺はうわー、と小さく声を上げた。俄かに顔が熱を持つ。側を通る五十歳前後のおばさんが白い目で俺を見て行った。そりゃそうだ。まるきりストーカーだもんな。白々しくその辺にあるものを手に取り物色する振りをした。
 七尾さんは口許を緩めてじっとパッケージに見入っている。さっき、ガーナエクセレントを手に悩んでいた時とは打って変わった柔かな笑みが滲んでいた。
 今、七尾さんの頭の中には俺がいるのかな。
 俺のことを思い描きながらあんな顔をしているのだろうか。
 そう思うとなんだか照れ臭い。
 やばい。
 にやける。
 俺は口許を右手で隠しながら七尾さんから視線を逸らした。
 声をかけずに立ち去ろうと思ったそのとき。
 七尾さんがふっと顔を上げた。僅かに視線が絡んでしまった。
 七尾さんは俺を認めると、少しだけ目を見開いて、その小さな丸い顔を傾げた。
 途端、にやーっと微笑んだ。にやーっとだ。揶揄の色が顔いっぱいに広がっている。手にしているパッケージをネタにどういじめてやろうかと、瞬時に目論だに違いない。そんな顔付きだ。
 仕方がないのでこちらも軽く手を挙げ引きつった笑みを返した。
 七尾さんが歩み寄りながら楽し気に俺の名前を呼んだ。
 おっかむらぁ。
 と。
 久しぶりに聞く声だった。


(完)
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© Chocolate Cube- 2006