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真冬の空(後) 1.
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 狭い部室の床に散らばる紙屑や食べかすを。腰を屈め拾っていく。
 この姿勢は結構腰にくる。それにさっきから動くたび、身体のあちこちを机やベンチ、ロッカーの角にぶつけている。痛い。この身体にこの部室は、サイズが合わない。空間のひとつひとつが狭過ぎるんだ。ここにさっきまで三十人以上もの人間がいたなんて、しかも大騒ぎしていたなんて、信じられない。
 コンクリートの床の上にはいろんなものが落ちている。
 クッキーやら飴やらの入っていたきらきらきらめく包装紙。はらってもはらっても、無限に湧き出てくるんじゃないかと思える細かなお菓子の粒。オレンジ色の水滴のついた紙コップ。なんでこんなもん落ちてんだ。自分でゴミ箱にちゃんと入れろ。さすがに憤慨しつつ、それらを手に取り分別しながら市指定のゴミ袋へ放り込んでいく。
「うへー。きちゃねえなあ。誰だよ、アーモンドチョコレート、こんな粉々に踏み潰した奴はよー」
 村井が大きな目をまんまるにして怒り狂ったフリをしている。村井が本気で怒ることは、まあ滅多にないね。
「後で犯人を見つけ出して、俺様のしあわせチョップを見舞ってやる」
 くるくる天然パーマが繰り出すくだらないギャグに、残っている数人の女子部員がくすくす笑った。
 笑っちゃダメじゃん。そう思う。うけてると勘違いした村井のパワーは怖いんだぞ。ほら。鼻の下が、すでに数センチは伸びている。
「はなみっちゃん、雑巾濡らしてきてくれるー?」
甘えた声で言ってくるが、
「あほ。そんくらい自分でやれ」
冷たく返した。
「えー。水冷たいじゃんか」
「甘えんな」
「手ぇ、かじかんじゃうだろー」
「別に構わないっつーの」
 そこに一年生の女子部員が割って入った。
「ふたり、仲、いいですねえ」
にこにこと微笑む可愛らしい顔に、村井も同じような笑みを返している。
「あ、うん、そう。俺らってそういう関係だから」
「あほか。あ、本気にしなくていいから。ってか相手にしなくていいよ」
「そんな、はなみちくんってば、照れちゃってー」
「ばか。くっつくな」
「え。ほんとはどうなんですか?」
「あ、あたし、雑巾洗ってきます」
 くだらない言い合いの中、真面目な声でそう言ったのは雨宮だった。
 ずっと大人しく、殆ど喋らす、ただ笑っていただけだった雨宮がそう言って、乾いた雑巾片手に部室を出て行こうとする。そこだけ紺色のソックスの太く膨らんだ右足を引き摺って。
「あ。いや、いい。雨宮。俺が行くから」
 雨宮の手から雑巾を奪う。間近にある雨宮の瞳がこちらに向けられているのはわかったけれど。そちらは見ないように、雑巾だけに視線を注いで、雑巾と青いバケツを手に部室を出た。その際ちらりと視界を掠めた右足首が、こちらの胸をほんの僅か、締めつけた。
「雨宮、座ってれば?」
「え、でも。何もしないのも何だか落ち着かなくて。あたし、幹事なのに」
 村井と雨宮の声を背中に聞きながら部室を出る。一階の水飲み場へ向かうべく、階段を降りた。
 三年生の追い出し会は、まあ、それなりに盛り上がったと思う。部員のみんなは数人の三年生が抜けたもののそれでも盛り上がりを見せたまま、ひと足先に二次会のカラオケ店へと流れて行った。部室の片づけを終えた後、幹事の俺らもそちらへ行く予定だ。
 蛇口を捻ってバケツに水を溜める。溜まった水に落ちてきた水がぶつかり小さな粒がはじける様子をぼうっと見ていると、横から白い手がにゅっと伸びてきて、こちらの手から薄汚れた雑巾をするりと奪った。
 女子部員は幹事の雨宮とあと三人残っている。そのうちのひとりで、俺らと同じ二年生の女子部員が横に立ち、隣の水道で雑巾を洗い始めた。バスケをしている割りに、背が低い。155センチくらいだろうか。まあ、うちは弱小バスケ部だから、身長が高くなくとも運動神経がなかろうとも、いつでも誰でもカモンな状態ではあるのだけれど。ショートカットの頭が、かなり下の位置にある。てきぱきとした動きで洗った雑巾を絞っている。
「ぼうっとしてるといつまでたっても終わんないよ」
 はきはきと言われ、
「ああ。うん。悪い」
返しつつ、水を止め、雑巾を受け取り、水を満たしたバケツを片手で持ち上げた。
「ちょっと。桜木っ」
 さっさとその場を立ち去ろうとしたこちらを、少々きつめの声が呼び止めた。その声の剣呑さに驚いて振り向く。眉間に皺の寄った顔がこちらを見ていてまた驚いた。
「何?」
 女子部員は難しい顔を近づけると、チョコレートの匂いのする息で、
「雨宮」
と、言った。
 雨宮、の後の少々の間。その名を耳にしたこちらがどんな表情を見せるのか確認するみたいに、まるで本心を探ろうとでもするみたいに、じっと瞳を見つめられた。
「雨宮?」
「……」
「雨宮が、何?」
「甘やかす必要、ないと思う」
「……」
 何で、とは。敢えて訊ねなかった。
「仮病でしょ、あれ。ほんとは桜木だって、気づいてるんでしょ?」
「いや」
首を傾げた。「みんなそう言ってるらしいけどさ。俺はそれはないと思うんだよね。捻挫したっていうのも病院に行って安静にしてろって言われたのも、ほんとだと思う」
 否定されたのがよほど気に障ったのか、相手の眉がきりりと上がった。
「そうやって桜木が期待もたせるようなことするから、雨宮、どんどん変になっていくんじゃないの」
 変になっていく。すごい言われようだ。
「変って何だよ」
 苦笑した。
「変だよ」
二年生女子部員は唇を尖らせた。「何か、姑息っていうか。前はあんなコじゃなかったのに。っていうか、桜木のことに関してだけなんだよ、雨宮が変になよっちくなっちゃうの。みっともなくて見てらんないんだよね。もっとさ、桜木もきっぱり無視したほうがいいんじゃないのかな。そのほうがよっぽど雨宮の為になるよ」
 ふたりでコンクリートの階段を上がる。最初はひそひそと小さめだった声を、隣の女子はいまはもう抑えない。
「野々村さんは大丈夫なの?」
「ああ。それは、ちゃんと話してあるから」
「ほんとに?」
「うん」
 隣の女子は疑り深いというよりは、寧ろ不服そうな顔で、ほんとかなあ、と呟いている。
── うん。事情はわかったから。大丈夫。
 足を捻挫してしまった雨宮をちょっとした事情から、自分が送迎しなくてはいけなくなったと話す俺に、野々村は笑ってそう言ったのだ。こちらの気持ちに負担をかけまいと無理に作った笑顔だった。大丈夫、と頷いた後、「でも家に帰ったら必ず電話して」とつづけた。メールじゃなくて電話がいいと。そう言ったのだ。
「あたしだったら絶対やだな。自分のカレシが他の女子の、しかも、カレシに気があるってわかってる女子の送り迎え、してるなんて」
 は、っと、笑った。笑うしかなかった。
「そんな甘い顔で笑ってもダメ。もう一回言っとくよ。雨宮のあれ、絶対仮病だからね」
 怒れる女子部員は数歩先に階段を上がり、こちらを見下ろしながら断言した。その上から、足を引き摺るようにして雨宮がふらりと現れた。
 いまの会話、絶対聞かれてたな。
 そう咄嗟に思ったけれど。少しも罪悪感を持たない自分をも同時に自覚していた。寧ろ、きっぱり断言した女子のほうが、よほど間の悪い顔を見せた。でも、それもほんの一瞬のことだ。すぐに気の強い顔に戻り、擦れ違いざま雨宮に、
「雨宮、もういい加減にしときなよ」
そう言い放ち部室のほうへと姿を消した。
 薄暗い体育館裏の階段の上。能面のように表情のない白い顔が浮かんでいる。こちらはもう直視することを避けないで、真っすぐその顔を見返した。


 雨宮と一年生の女子部員ふたり── 以前雨宮が仲の良かったふたりではない── 、そして自分と村井と一年生の男子部員がひとり。この六人で三年生の追い出し会の買い出しに、近くの中型のショッピングモールへ出かけたのは、日曜日のことだった。
 大量のお菓子とペットボトルのお茶、ジュース。紙コップ。紙皿。クラッカー。ビンゴの景品の文房具やいかにも女子の好きそうなファンシーグッズ。そういうのを徴収した会費の範囲内で買えるよう、あれこれ吟味── 主に女子部員が── しながら揃えて行った。
 全部の買い物を終え、みんなでモール内にあるケンタッキーで遅い昼飯を取りながら、ぐだぐだ話をした。
 その帰りのことだった。
 店内の階段を降りている俺たちの後ろから、子供の騒ぐ声が聞こえてきた。だだだっと、駆けおりてくる足音も。こちらは大きな袋を抱えている。咄嗟に危ないと思い、反射的に足音がするのとは反対のほうへ身体を捻っていた。肩が、誰かの身体にぶつかるのはわかったけれど、その状態ではどうしようもなかった。すぐ横を歩いていたのは雨宮だった。あ、と思ったときにはもう、バランスを崩した雨宮の身体が残り数段の階段を駆け下りるように足から落ちていくのが、見えた。堪えきれず最後の段で、ぺたんと尻餅をつく姿も。
「悪い、雨宮。大丈夫?」
 慌てて駆け寄り、謝る。
「大丈夫です」
立ち上がった雨宮は服についた埃をはらいながら、「ほんとに。別に何ともないですよ。大丈夫です」
恥ずかしそうに真っ赤な顔で笑った。確かにそのときはどこも痛くなかったのだろうと思う。そのまま普通に歩いて帰って行ったわけだし。
 いっしょに買い出しに行った一年の男子部員が教室に現れたのは翌日の昼休みのことだった。うかない顔で、雨宮が、今朝二時間遅刻して学校に来たのだと言うのだった。しかも、足首に包帯を巻いて。
「何、どういうことよ、それ」
さすがにいつもの呑気な声ではなく、真剣な声で村井が訊いた。咄嗟に頭に浮かんだのは、前日階段の下でぺたりと尻餅をついた雨宮の、無防備な後ろ姿だった。
 近くには野々村と堀口と原の三人もいた。野々村はこちらを見ないように顔を反対側に向けていたけれど、原は、雨宮の名前が出ただけで、耳をそばだてるのがありありとわかる表情になった。目もらんらんと輝いている。その表情があまりにも露骨過ぎて、不謹慎だけれど、思わず笑い出しそうになっていた。
「なんか、朝起きたら足首がすげえ腫れてたらしくて。病院に行ったって言うんですよ。歩けないから、病院から学校までタクシーで来たって」
「マジ?」
「マジっすよ」
「それって、やっぱ、昨日の買い出しのときの?」
 村井の言葉に一年生男子部員は真面目な顔で頷いた。
「冬休みに入ってすぐ三校合同の練習試合があるじゃないですか。あれに出られないって泣きそうな顔して言ってました」
 泣きそうな顔。
 昨日ぶつかった際の軽い衝撃は、まだ肩に残っている。いや、違う。本当はとっくに忘れていた。いま、話を聞いて思い出しただけだ。自分のあまりの身勝手さに、胸の内側がひえびえとするのを感じた。
「そんな、悪いの?」
 声をひそめ、訊ねた。
「なんか、捻挫らしいっす」
「捻挫……」
「一週間から二週間くらいは安静にしてろって医者に言われたって。捻挫だからってバカにしちゃいけないって」
男子部員は眉をひそめつづけた。「これってやっぱ、俺らに責任、あるんですかね?」

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