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真冬の空(後) 4.
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 白いニットの帽子が隣で揺れている。
 野々村が、いま隣にいるということが、不思議だった。まさか今日会えるなんて、思ってもいなかったのだ。ほんの一時間前までは。
 駅ビル一階にあるこの秋開店したばかりのコーヒー専門店へ一旦は入ったのだけれど、レジに並ぶ人の列があまりに長くて、結局、自動販売機でコーヒーを買うことにした。それを手にエスカレーターに乗る。野々村はいつものように紅茶花伝のミルクティーを選んだ。白い手袋に覆われた両掌で包み込むようにして持っている。三階まで上がったところでエスカレーターを下り、突きあたりのガラス張りの通路から、国道へつづく道に連なる駅前の街路樹に施されたイルミネーションを見下ろした。きらきらと星のようにきらめく灯りは、電飾だとわかっていても、それでも綺麗だった。冬の夜にとてもよく似合っている、と思う。
 自分たち以外にも、同じような歳のカップルが結構いる。親子連れも。
 ロータリーの中央にある噴水までもがライトアップされ、何だか青白い炎のように揺らめいて見えた。
「駅まで乗せてってやるよ。だけど迎えになんか来ないからな。ふたりで仲良く歩いて帰りたまえよ」
 よほど自慢の車に女子高校生なるものを乗せてみたかったのだろう。兄貴はそう言って、野々村と俺とをここまで乗せて来てくれた。
 突然だから出てくるのは無理かもしれないと思いつつ、野々村の自宅近くのコンビニまで行き、そこの駐車場から電話をかけた。
「少し時間かかるかもしれないけど絶対行くから待ってて」
 クラい、というのとは違う。でもいつもより幾分真面目な響きの声が、耳に残った。
 二十分くらい経って現れた野々村は、白いニットの帽子に真っ白なコートという格好をしていて、いつもより少し大人びて見えた。
── 野々村さんは大丈夫なの?
 あまりにも周りの人間から同じ台詞ばかり聞かされていた所為か、自分でも気づかないうちに心配になっていたらしい。野々村の顔を見た途端、ほっとしている自分がいて笑いそうになった。
「どうしたの? 何か、桜木の顔、変だよ」
「変?」
「うん。幽霊でも見るみたいな顔、してる」
と、言われた。
 久々の第一声がそれって、ひどくね?
 野々村は、いま、隣で大人しくイルミネーションを見下ろしている。
「人、多いね。びっくりしちゃった」
「うん。俺も」
「クリスマスが近いもんね。明日から冬休みだし」
 野々村は手袋を外すとペットボトルの蓋を回し、それに口をつけた。白い喉が微かに揺れている。そこからすっと視線を外し、訊ねた。
「家のひとに何か言われなかった?」
「え?」
「急に出かけるなんて、しかもこんな時間にさ。ダメだとか、言われなかった?」
「うん」
指先でオレンジ色の蓋を回しながら答える。「意外と平気だった」
「何て言って出てきたんだよ?」
「うーん。クラスのコみんなが集まって遊んでて、それであたしも来ない? って呼び出されたって言ったら、そう、気をつけていってらっしゃいって、それだけ」
「は? そんな嘘言ったの? 自分の親に?」
「うん」
「平気?」
「うーん。どうかな」
野々村が俯き、くすっと笑う。「クラスのコが集まってる、なんて聞いたら、ダメなんて言えないよね、親としては」
悪いことしちゃった。と、小さく呟いている。
 野々村はまだ俺とつき合ってるということを親に話していないらしい。知られると恥ずかしいし、きっといまより監視が厳しくなるだろうから嫌だと、以前言っていた。監視が厳しくなるという台詞にこちらがびっくりしていると、
「桜木のとこは男兄弟だからわかんないかもね」
としたり顔で言われた。
 一メートル程度の高でずっと揺れていた噴水がいきなりふわっと噴き出し高さを上げた。うわっと言う歓声が、駅ビルの中にも聞こえてくる。
「どうしたの、急に」
「え?」
 野々村は額を窓に近づけ、噴水の明かりを見つめている。
「急に出て来ない、なんて。桜木がそんなこと言うの、めずらしいから」
「……ああ、それ」
「何か、あったの?」
 心配そうな目がこちらに向けられた。大きな目だ。くっきりとした二重の、黒目の大きな、よく見ると眦がかすかに下がった目。なのに、きりりとした顔に見えるのは何でなんだろう。とても気の強そうな顔に見える。高い鼻筋の所為? やや上がり気味の眉の所為? それとも性格がそのまんま顔に出てしまっているのか? なんてね。
「いや、何にも」
首を横に振った。「たださ。会いたくなったんだ」
 野々村はこちらの「会いたくなった」という台詞に目をぱっと見開いたけれど、何も言わず、すぐに顔をまた前に向けた。怒っているみたいな顔に見えるけど、たぶん、照れてるんだと思う。
「ほんとに出て来られるなんて思ってなくてさ。だから、まだ、びっくりしてる」
 雨宮の送迎の件を野々村に話したのは火曜日の朝のことだった。
── 絶対電話してね。メールじゃなくて電話がいい。
 約束どおり野々村には毎晩電話をかけた。電話で話す野々村の声と口調は、普段となんら変わらないものだった。だけど。この三日間、教室で目が合うことはあまりなかった。口もほとんどきいていない。たぶん避けられていた、と思う。
 真っ黒な缶の、プルトップに指をかけ、それを引く。口に含むとぬるく苦い味がした。
 野々村の、整った横顔を暫し見つめていた。気づいているのかいないのか、野々村はこちらに目を向けない。一心にロータリーの噴水やモニュメントのあたりにだけ視線を当てている。
「怒ってる?」
 つい訊ねていた。
 聞かないほうがいいと、ずっと思っていたのに。
 野々村は、え? という顔を瞬間見せたけれど、こちらの問いが何に対するものなのかすぐにわかったのだろう、
「ううん」
と首を横に振った。
「ほんとに?」
「うん」
「だけど避けられてたような気がするんだよね、俺。こんとこ、野々村に」
「……」
 ゆっくりと、大きな目がこちらを向いた。澄んだ瞳は本当に綺麗で、思わず見惚れそうになる。
 少しだけ間を置いて、
「うん」
と、野々村は頷いた。素直な声だった。
 うん?
 何だ。
 思わず肩から力が抜けた。
 やっぱ避けられてたのか。そうか。そりゃそうだよな。
 胸が痛かった。この三日間野村が、何を思い何を悩んでいたのか、想像しただけで変になりそうだった。野々村には悪いことをしたな、と。それは思っている。
 意味もなく、掌の黒い缶を見つめる。
 嫌いになった? と訊ねたい衝動に駆られたけれど、ぐっとそれを呑み込んだ。そんな質問はバカげているとか、意味がないとか、そういう高尚なことじゃなく、ただ単に答えを聞くのが怖かったからだ。
 コーヒーをまた口に含む。こんなに近い距離にいるのに。こちらが落としたバカな問いかけの所為で、一気に野々村の存在が遠くなった気がした。
「怒っては、ないよ」
 柔らかな声が聞こえた。
「……そ?」
「だけどやっぱり気になるじゃん」
「……」
「桜木とあのひとの間に何があるのかなんて、あたしには全然わかんないし。そういうのってきっと第三者じゃわかんないもんなんだよね。言葉に出して説明してもらったって、例えば傍にいて見張ってたとしても、耳に聞こえる言葉とか目に見えるものだけがほんとのことじゃないだろうし。それ考えるとね。嫌っていうか、なんかずっともやもやしてた。ほんともやもや。この辺が。ずっと、だよ?」
野々村は胸の辺りに掌を当て笑いながら言った。「だから、桜木のことちゃんと見ることできなくて。避けてた」
 またペットボトルの蓋を開ける。ごくり、と、白い喉が動いた。
「桜木、ほっぺ、赤いよね」
「え?」
「さっきから、時々頬押さえてる」
「あ……」
 何か言おうと思うのに、何を言えばいいのかわからずにいた。言葉が上手く思い浮かばない。
「もう、終わったんでしょ?」
 もう、送ったりしなくていいんだよね?
 野々村にしては少し心許ないような声で訊かれ、胸が苦しくなった。こっくりと頷く。
「そう」
 野々村は安心したように言い、また外を見た。後ろを、ベビーカーを押す若いカップルが通る。
「……何にもないよ」
「え?」
「俺と、雨宮の間になんて。何にもない」
 たとえもし何かあったとしても。それはほんのいっときだけの、瞬間だけの、ただのまがいものなんじゃないかと思う。迷った、と雨宮は、言っていたけれど。そのことにどんな意味があるのか、よくわからなかった。
「うん」
と野々村は頷いた。「ほんとはちゃんとわかってる」
「……」
 ここで、野々村だけを好きだとちゃんと伝えられればいいんだろうけど。あまりにも陳腐で嘘っぽくて自分らしくない気がして、言えなかった。
「下におりて、少し歩く?」
そう訊かれ、こちらは素直に頷いた。残ったコーヒーを一気に飲み干すと、それを手に、下りのエスカレーターのあるほうへ向かった。


 駅ビルを出ると、思わず首を縮めてしまうくらい空気が冷たくなっていた。
 あちこちの木や柱に吊るされた黒く大きなスピーカーから聞き覚えのある曲が流れている。何だっけ、この曲。賛美歌みたいな宗教的なメロディ。ものすごく幼い頃に歌った記憶があった。幼稚園に通ってた頃とか。そんくらいの時に。グロリア、の部分だけ単語が聞き取れるけれど、題名はまるで思い出せない。
 背の低いサンタクロースが、母親に手を引かれた幼稚園に通うくらいの子供に、お菓子の詰まった袋を配っているのが見えた。そのサンタクロースの前をふたりで通り抜けたけれど俺たちふたりには何の反応も見せない。少し歩いたところで、
「お菓子」
と野々村が言った。
「え?」
「お菓子、くれなかったね」
 ね? と見上げる野々村と目を合わせ、ふたりでぷっと吹き出した。
「何言ってんだよ、野々村」
「だってさ。もしかしてって思うじゃん。結構わくわくして通り過ぎたんだけど」
「もらえないっつーの。こんなデカいなりしてさ」
「えー。そういうもん?」
「そういうもんだよ。俺も野々村もどう見てもお菓子もらえるようなガキじゃないだろ。あのサンタクロースより、デカかったし」
「結構おっきな袋だったよね。お菓子、たくさん入ってそうだった」
 ふたりで肩を揺らし笑った。
 ふと、手に触れるものがあった。視線を下げると、野々村の手袋だった。にっこりと微笑む野々村。同じように笑い返して、手袋の指先を握りしめた。
 野々村の吐く息が白い。先程よりずっと。
「今日ね、嬉しかったよ」
 ふいに、そんなことを言った。
「今日?」
 うん、と頷く。
「電話もらって、こうやって会えて。あたしも嬉しかった」
 めずらしく野々村が素直だ。めずらしく、っていうのはよけいか?
 たぶん。さっきから、野々村は努めて明るく振る舞っている。少々気落ちしているこちらを思い遣って、気を遣ってそうしてくれてるんだと、そう思う。
「そういえば、桜木のお兄さん、かっこいい車に乗ってたよね。あたしあんなスポーツカーみたいな車に乗ったの初めてだよ」
「あー。そう?」
 思わず笑ってしまった。
「どうして笑うの?」
「いや、兄貴に言っとく。きっと喜ぶよ」
「喜ぶの?」
「何か、自慢らしいよ。自分の車」
「そうなんだ」
 ふふ、と。笑う野々村の顔を見つめた。
 少しずつ、行き交う人が少なくなる。やがて樹木を彩る装飾が途切れ、大きな道へと出る。そこの信号を左に折れれば、じき野々村の家へと辿り着く。距離はまだある。寒いけれど、いつまでも、家に着かなければいいのにと。そんなことを思った。ずっとふたりでいたかった。
 頬の感覚がなくなるほどに触れる空気は冷たい。それでも繋がった手は温かだった。
 野々村は真っすぐ前を向いていた。白いニットの帽子に隠れて、あの透きとおる貝殻のような耳たぶは見えない。残念。風がゆるく吹いて、野々村が目を細めた。唇が、さむい、と形づくるのを見ていると、何だか、そこに触れたくなった。
 どうすっかな。
 考えていると、
「……だよ」
唐突に野々村が言った。
「え?」
「ダメだよ、って言ったの」
「あ?」
 ちらりと横目で睨まれる。
「外でキスとかするのは、もうなしだからね」
「あー」
 ばれたか。
「ばれたか、って何。ほんとにする気だったの?」
 目を丸くしてこちらを見る。くっと笑った。
 一度、駅の近くで野々村にキスしたことがあった。秋の初めのことだった。人通りはとても多かったのに、隣を歩く野々村がすごく可愛く見えて、ついそんなことをしていた。
「誰も気づいてなかったよな、あん時。あんなにひとがいたのにさ」
 いまも、誰も見てないよ、とふざけた調子で言うと、
「そんなのわかんないじゃん。絶対ダメだからね」
 真剣な目で睨まれた。
「ちぇー。残念」
「残念って何よ。っていうか、桜木、大胆過ぎっ」
 こんな風に。ふたりでくだらないことを言い合いながら歩くのが、バカみたいに楽しい。こんな時間は、野々村以外の誰とも作れない。
 真っ黒な空に、虫のように小さな粉ががちらちらと舞っているのが見えた。降る、というより、舞うという感じ。ふわふわと、風に乗って、そこらじゅうをいったりきたりしている。
「あれ? 雪?」
 野々村が繋いでいたほうの手を離して、両の掌をそっと宙に差し伸べた。
 白いコートと手袋が黒い背景にぼうっと浮かんで見えた。その姿がとても儚く見えて、そのまま暗い真冬の空に連れ去られそうに見えて、思わず腕を掴んでいた。思い切り、ぎゅうっと。
 野々村の、何? と、問いかけるような目とぶつかる。
「あ……」
「どうしたの? 桜木」
「いや」
 何でもない。泣きそうな気持ちで、首を横に振る。
「帰ろう」
 それだけ言って、また歩き始めた。
「変なの、桜木」
「変って、何だよ」
 俯き、また笑った。
「もうじき冬休みだね」
「うん」
 野々村との約束はちゃんと頭にあった。野々村が冬休みの初めに、うちに泊まりに来る約束。だけど今日は口にしないでおこうと思った。野々村のほうも何も言わない。メールのアドレスを変えるということも。今は言わないでおこうと思う。
 今日もらった成績表のこと、冬休みのこと、三学期になってからのこと、村井や原や堀口のこと。そんなことを乾いた空気の中、話しながら、歩きながら、家路を辿った。
 小さな粉のような雪は、量を増やすことも粒を大きくすることもなく、ずっと静かに舞っていた。
 
真冬の空 後編(完)

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