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真冬の空(後) 3
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 あんなこと。
 雨宮を家に送り届けるようになって初めて知ったことなのだけれど、雨宮の家はイマドキめずらしい六人家族、だった。妹がふたりと弟がひとりいた。四人も妹弟がいる家は想像以上に賑やかだ。送っていくと、入れ替わり立ち替わり家族の誰かが物珍しそうに顔を出すので、そのたび挨拶を交わさなくてはならなかった。
 昨日。送り届けた雨宮の家に、ばたばたと足音を立てて走り寄って来る家族の姿はなかった。玄関の向こう側は明かりが乏しく、ひっそりと静まり返っていた。家族は留守なんだろうなと、すぐにわかった。
「じゃあ」
 顧問の高取の車が走り去る音が聞こえた。雨宮の家から俺の自宅までは近いので、ここからは歩いて帰ることにしている。
 玄関を出ようとするこちらの首筋に雨宮が頬を寄せてきたのはほんの一瞬のことだった。細い指先がこちらの制服の腕を掴んで、鼻先に、女のコ特有の甘い匂いをはっきりと感じた。驚く間もなく顎を柔らかなものが掠める。気づいたら雨宮の身体を強く払っていた。反射的だった。
 足を悪くしている雨宮は容易にふらついた。右足首をかばうみたいに。がくんと上がり框に、腰をぶつけた。自分がその時どんな顔をしていたのかはわからない。何も言わず、謝ることもせず、そこを後にしていた。
「そうじゃないよ」
目の前を走る子供に目を向けながら、言った。「軽蔑とか、そんなんじゃない」
「じゃあ、なんで」
「アドレス変えることは前から考えてた」
こんな言い方じゃダメだと思った。もっとはっきり言わないと。雨宮はどんどんこちらに期待する。
「もう、雨宮からのメールは受け取らない」
「どうしてそんな意地悪するんですか」
「意地悪じゃないよ」
思わず笑っていた。困ったように笑いながらつづけた。
「返事出さないのに、毎日メール送られても、困るんだ」
「いいです。変えても。部の、誰か別のひとに教えてもらうから」
「そう」
頷いた。「でも、また変えるよ。何度でも変える」
 雨宮は俯いて、膝上の手袋をいじり始めた。淡い水色とピンク、そして白い毛糸が混じりあう手袋。綺麗に切り揃えられた爪は透明なピンク色をしていた。いつ見ても雨宮の指先は綺麗だ。そのことで何か好意的なことを口にしたことがあっただろうかと、ふと思う。あったかもしれない。そう思い至って、胸が重くなった。そういう行為のひとつひとつがいけなかったのだと、今頃になってようやくわかる。
「二番目でもいいって言ってるのに」
「そんなことできるわけないだろ」
 大きな声で反応していた。
 二番目でもいいなんて。そういう発想は自分にはない。雨宮のこういうところが、こちらには全く理解できない。
 怖い、と思う。
「何でですか?」
それでも雨宮は負けない。「先輩だって迷ってましたよね、あの時も、昨日も」
「迷ってた?」
 初めて隣の女の顔を凝視した。
 雨宮は真っすぐにこちらを見る。いまにも泣き出しそうに潤んだ瞳で。
 正直、いま目の前にいる女の表情が本物なのか演技なのか、恋愛経験の乏しい自分には判然としなかった。まるでわからない。
 再び前を向いた。奥行きのある椅子の後ろに両手を突き、脚を伸ばした。走っている子供の邪魔にならないように。
「迷ってないよ。全然」
「嘘」
 きっぱりと否定される。小首を傾げ、苦笑した。
「まあ、俺も男だからさ。あわよくば、っていうのはないとは言わないよ。だけど。そういうわけにはいかないじゃん」
「どうしてですか?」
「がっかりされたくないんだよね、野々村に」
 野々村を傷つけたくないし。野々村を泣かせたくない。そう言った。
 本音を言えば、雨宮の前で野々村の名前を出したくはなかったんだけど。
「知ってると思うけど。俺、ずっと野々村に片思いしてたんだよね。中学校の頃なんか、一度告白してふられたこともあるんだ。だけど、何でだろうな、ずっと好きでさ」
「……」
「高二になって同じクラスになったら、もっと好きになってた。みっともないけど、好きだってまた告ってさ、それでようやくつき合えるようになったんだ。だから、いま、すっごい幸せなわけ。そういうの。自分の不用意な行いで台無しにしたくないんだよね」
 雨宮の強気な目がこちらの身体に絡みつく。
 ごくりと唾を飲み込んだ。
 いつの間にか、走っていた子供ふたりはいなくなっていた。
「もし、こっちの態度が雨宮に期待もたせてたんなら謝るよ。自分じゃそういうつもり、全然なかったんだけど」
「期待、しましたよ」
「……」
「だって。先輩、すごく優しかったじゃないですか。バスケ教えてくれたり、帰り道いっしょになったら家まで送ってくれたり。あの状況で期待しないほうがどうかしてると思います」
 膝を折り、腕を腿に乗せ、俯いた。
「……ごめ、ん」
 確かに。俺たちは仲が良かった。村井や他の男子や一年生の女子と、部活の後、いっしょに遊んだ。雨宮とは帰る方向が同じということもあって、ふたりで肩を並べ帰ったりもした。まだ野々村とつき合っていなかった頃のことだ。
 ずっと好きだった女のコと同じクラスになれて、いくぶん薄くなっていた好きという気持ちの度合いが、また濃くなり始めていた。だけど。一度ふられてしまった相手にもう一度告白することもできず、自分の気持ちを持て余していた頃のことだった。
 いや。違う。野々村とつき合うようになってから後も、何度か雨宮といっしょに帰ったことがあった。雨宮の気持ちに気づくまで、そういうことが何度もあったのだ。
「……のに」
「え?」
 雨宮が、自分の膝を拳で何度も何度も叩いている。強く叩きながら何か、小さな声で言っている。
「もっと、ひどい、骨折とか、すればよかったって言ったんです。そうしたらもっと先輩といっしょにいられたのに。先輩に責任とってもらえたのに」
「バカなこと言うなよっ」
 周りの視線が先ほどからこちらに向いているのはわかっていた。一階のフロアは広いけれど、それでも順番待ちの人間が次から次へと現れる。高校生カップルが別れ話でもしている、と思われているのかもしれない。
 雨宮は泣いていた。膝の上に乗せた手の甲に、雫がぽたぽた落ちている。
「こんなひとのたくさんいるところで、こんな話するなんて、先輩、ずるいですね」
 それはそうかもしれないけどさ。こっちだって、ふたりきりになるわけにはいかなかったんだ。
 ……言えないけどさ。
 全面透明な窓の向こうに、ハザードを点滅させた車が一台停まっていた。母親が来るものとばかり思っていたのに。濃紺のクーペは兄貴のものだった。三人で乗るには後ろの座席が狭いからダメだって。あれほど言っておいたのに。自慢の車を女子高生に見せびらかしたかったに違いない。バカ兄貴め。
「兄貴、来たから。行こう」
 立ち上がりながら言った。
 雨宮は動かない。
 俯いたまま、鼻をずるずる言わせている。涙は次から次へと溢れてくる。
 暫く黙ったままその小さな頭を見つめていた。
 雨宮は髪の毛が短いから、俯いていてもその表情はよくわかる。睫がひどく濡れている。鼻も真っ赤だ。
 コートのポケットに入れっぱなしにしていた携帯電話が、震えた。
 たぶん、バカ兄貴からだ。着いてるよーとか、早く出て来いーとか、そんなとこだろう。電話には出ないで、
「雨宮」
もう一度声をかけた。少し強い口調で。
「いいです」
鼻と目の下を制服の袖でこすり、軽くしゃくり上げながら言う。「ひとりで帰れます。もうほっといてください」
「だから。そういうわけにはいかないって」
 ポケットに手を突っ込み、じっと動かない頭を見下ろす。
 柄の悪い男がふたり、二階へつづく幅の広い螺旋階段でうろうろしていた。上から下りてきた超短いスカートを穿いた女のコふたりに声をかけている。ナンパってやつ?
 再び見下ろした雨宮は、まだ鼻をすすっている。
「雨宮。帰ろう」
「……」
「いいけどさ。置いて帰っても」
わざと、意地の悪い口調で言った。「さっきから変なやつ、いるし。声かけられても知らないよ、俺」
「……」
「まあ、そういうやつと雨宮がめでたくくっついてくれたら、それはそれで、こっちも助かるけど……」
 顔を斜め後ろに向け、自分の肩越しに入り口のほうを見ていた。そこから、見知った顔が入ってくるのが目について、あ、と唇を開いた。さっき話をした女バスの部長だった。
 わ、す、れ、も、の。
 舌を出して笑っている。雨宮の様子がおかしいことに気づいたのか、すぐに、どうしたの、という表情に変わった。
 次の瞬間。
 耳許ですごい音がした。目いっぱい膨らませた紙袋を叩いたみたいな、強烈な破裂音。
 頬を張られたのだと気づいたのは。少し時間が経ってからのことだった。耳が熱かった。じんじんと、そこだけ強く、脈が打ち始める。
「さいってー」
 震える声で言い捨てると、雨宮は背中を向けた。足を引き摺りながら歩いていく。
「雨宮、車」
「いりませんっ。自分の親に迎えに来てもらいますっ」
背中を向けたまま言った。部屋が空く順番を待つ人間は少なくなり始めていたけれど。その全員の視線を浴びながら、雨宮は自動ドアをくぐり抜け、外へ出て行こうとする。それを、女バスの部長が追いかけて行った。自動ドアをくぐりぬける際、こちらに目を向け、首を二度横に振った。来ないほうがいい。そういう顔で。
 そりゃそうだな。
 もう、追いかけることはしなかった。
 ゆっくりと、また椅子に腰を下ろす。
 これでいいや、と思った。
「いってえ……」
 頬を、手の甲で擦った。熱くて痛かった。まだ耳のあたりが痺れたように鳴っている。
 脱力した身体を動かすことは、当分したくなかったけれど、携帯電話がまた鳴ったので、それを開きながら立ち上がった。見ると、兄貴からのメールだった。
── 着いてるぞー(ハートの絵文字とにっこり笑う絵文字)
 再び脱力した。がっくりと。


「何だ、帰っちゃったのか。あの女のコ。ちぇ。来るんじゃなかったな。このクソ寒ぃのにさ」
 隣で兄貴がくさっている。
「自分が好きで来たんだろ」
「だって女子高生がこの車に乗る、なんてこと、二度とないかも知んねえじゃん。昨日の朝は親父の車だったからさ。俺、ちょっとショックだったんだよね。俺の車があんな親父くさいと思われたらさ── 」
 こちらは何も言わずに笑いながらシルバーの携帯電話を掌で弄んでいた。
「しっかし、お前もあれだね。人がいいっていうかなんていうか。他の女のコの面倒なんかみて、カノジョ、怒んないの?」
「うるせーなあ」
 どいつもこいつも。おんなじことばっか言ってんなよ。
「おふくろも心配してたぞ。あの綺麗なカノジョにふられちゃうんじゃないのかしら、とか、まさか二股かけたりしてないわよねえ、とか。まああの子はそういう子じゃないとは思うけどって、散々あれこれ言っといて結局ひとりで解決してたけどさ」
 く、っと笑った。笑ってから、外を見た。
 街はクリスマス一色だ。
 カジュアルな服や、きっちりきめた格好の大人たちに混じって、制服を着た高校生カップルの姿もちらほら見える。サンタクロースが黄色いチラシを配っている姿が見えていたのだけれど、すぐに霞んで見えなくなった。
 窓に自分の息がかかるくらい顔を近づけていたことに気づいて、コートの袖でごしごし拭った。
「なあ」
「何だよ」
「ちょっと、行き先変えてくんない?」
「は?」
 野々村の家の近くのコンビニで下ろしてくれるよう頼むと、兄貴はにいっと目尻を下げて笑った。やめろその笑い方。誰かさんにそっくりで気持ち悪いんだよ。
「りょーかい」
 言うなりウインカーを上げ、車線をひとつ移動した。

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