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初秋 その後 1.
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 出会いは中学の入学式の日。
 出席番号順に並んだ廊下。
 着慣れない詰襟。
 襟と首の間に指を挟みこみぐぐっと引っ張った。朝から何度もそうしていた。首に擦れるように当たるそれがもの凄く気持ち悪かったのだ。
 真新しい黒い学生服。女子は紺のセーラー服。青いリボン。
 その群れの中。
 彼女は同じクラスの女子の誰よりも背が高かった。彼女の頭だけ抜きん出ていた。背が高くて細い。ぴんと伸びた背筋からつづく長い首筋が大人っぽくて、はっとするくらい印象的だった。周りに知っている人間が誰もいないのか、にこりともしないで正面を向いたその顔は、つんと澄ましているようにも見えた。
 今と比べれば多分、もっとずっとあどけない顔をしていたのかもしれないが、その時の俺の目には圧倒されるくらい大人びて映っていた。
 おかっぱ頭。いや、本当はもっと違うおしゃれな言い方があるのかも知れなかった。でも、頬のラインで切り揃えられた髪の、他の呼び名を思いつかない。顔にかかる部分だけ少し梳いてあった。
 目じりは下がっているのに、眉毛はきりっと上がっている。右と左の形が微妙に違う大きな目。鼻筋は通っているし、唇はぽってりとしてて、同じ一年生だとは思えないしっかりした顔立ちだった。ああいう顔を美人というのかな、とふと見惚れている自分に気が付いた。
 でも。
 きつい顔をしている。
 気が強そう。
 それに、ちょーでかい。
 あんまり仲良くなれそうにない部類の女子。そう思って視線を外した。傍にいる同じ小学校出身の連中とはしゃぎ始めた。
 あんま、仲良くなれそうにない気の強そうな女。
 それが、野々村紗江の第一印象だった。


 学校からも自宅からも少し離れた場所にあるショッピングモール。その中央に位置する噴水の前で手にしていたペットボトルの蓋を捻った。約束の時間よりちょっと早く着いてしまった。
 土曜日の午後。
 結構な賑わいだ。
 家族連れやら制服姿の女子高生のグループやら、カップルやら。
 自分も制服を着ている。部活を終えてそのまま来たから。肩から下がるでかいスポーツバックがひじょうに邪魔くさかった。
 部室で、普段滅多に鏡の前に立たない俺が髪を整えていると、にやついた村井が身体を擦りつけてきた。男ばかりの部室ははっきり言って臭い。入った瞬間は顔を顰めてしまうほど。なのにずっと中にいると気にならなくなってくる。不思議だ。
「何よー、はなみっちゃん、これからおデート?」
 お前はおかまかクレヨンしんちゃんか。完全無視を決め込み、心の中でだけ突っ込みをいれる。
 鏡に映る全員がこちらに視線を向けていた。なんでみんな、にやついてんの?
 動揺を悟られないよう表情を変えないまま知らんふりで鏡の前から離れた。
「おりょ、無視かよ。そういう意地悪すると、後着けてくぞ、このやろう」
 どっと笑い声が響いた。
 思わず苦笑する。
「村井、うるさい。ほっとけ」
 それでも村井はまだ身をくねらせて、あーらはなみちくん、冷たいのねー、などと言っている。勝手にやってろ。
 呆れ顔でブレザーを着つつおかまな村井を見た。村井のギャグはみんなにウケる。いっつも笑いを狙うおかしなやろうだ。でもれっきとした男バスの部長だ。三年生が部活を引退したこの秋に就任したばかり。バスケの実力も統率力もなかなかどうして、立派なのだ。
 三枚目に見せておいて、昔からコンスタントにカノジョがいたりもする。ひとりとして長く続かないのに途切れることがない。とんでもないやつだ。多分口が上手いのだと思う。どんな手練手管で女を口説き落とすのか、俺は知らない。つき合ってるコは大抵他校の女子か年上の女。無論ドーテーなんかとっくの昔に捨てている。
 小憎たらしいやろうだ。
 ふっと、鼻先を真っ赤な風船が掠めていった。思わず身体を仰け反らせた。
「あー、あー」
 下のほうから幼い声がした。
 小さな女の子が風船を視線で追っていた。両手を広げた格好で。
 あ、と思い、反射的に腕を伸ばした。白い糸の先をどうにか掴む。
「あー・・・」
 女の子の声が小さくなった。
 俺はにっと唇の端を上げると、身体を折り曲げて、まだ覚束ない足取りの女の子にそれを渡した。
「はい、どうぞ」
 女の子は風船の糸を両手で大事そうに握りつつもきょとんとした顔で俺を見詰めている。
 ほっぺも、風船の糸を握る手も、脂肪がついてぷくぷくだった。女の子の後ろに立っている空っぽのベビーカーを押した母親らしき若い女のひとが、ありがとうございます、と言って頭を下げてきた。こちらも慌てて頭を下げる。
 腕時計を見た。約束の時間まで後少しだと思ったそのとき。
「桜木」
 後ろから静かな声がした。女のコにしてはそれほど高くない声。落ち着いた声。
 ペットボトルの蓋を閉め、スポーツバックの外側のポケットに突っ込み振り返る。
 野々村は私服姿で、片手をひらひらさせながらゆっくりと近寄ってきた。頬が少しだけ赤い。
「もしかして、待たせちゃった?」
「いや・・・」
 校外で会うと最初はなんだか照れ臭い。
 視線を遠くにやった。
「ごめんね。つき合わせちゃって」
 首を横に振る。
「いいよ、別に、することないし」
 素っ気無い言い方になってしまった。
 野々村が大きな目で真っ直ぐにこちらを見上げている。
「いきなりハンカチ見に行ってもいい?桜木は今日何か買いたいものあるの?」
「いや・・・。あ、でも、CD見にいきたい。ってか、その前になんか食いたい。俺、昼飯まだ食ってないんだよね」
「え?そうなの?」
 頼む。食わせてくれ。
 泣きそうな顔を作って拝むと、野々村は笑いながら頷いた。


 畠山のハンカチを買いに行きたいからつき合ってほしいと言われた。
 はあ?なんで?なんで畠山にハンカチ?
 そう思いながらも、そんな思いは微塵も表情に出さない。
「いいけど、いつ?」
「今週の土曜日でもいい?桜木空いてる?」
「午前中部活あるけど、昼からなら大丈夫」
「いい?」
「いいよ」
 頷いてから、これってもしかしてデートってことになるのかな、とふと思った。
 エスカレーターの二段下に立つ野々村を見る。野々村は見慣れない格好をしていた。
 白いシャツブラウスに長めのスカートを穿いて、上にGジャンを羽織っている。足元は茶色いショートブーツ。
 野々村は普段化粧をしていない。学校の大半の女子は口紅なり、マスカラなり、ひどいやつは顔全体を塗りたくってるやつもいる。でも、多分、野々村は学校では口紅さえつけていないと思う。
 そっと上から見た野々村の唇は濡れたように艶やかだった。睫もくるんと上向いている。
 じっと見ていると、なんとなくあの日の野々村を思い出してしまった。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔と、泥だらけの服。今の野々村とは全く対照的な姿。
 思い出すと喉元に苦い味が込み上げてきた。
 なんであそこまで自分は野々村を追い詰めてしまったのだろうか。もっと早く野々村の抱えている悩みに気付いてやれていたら、あんないざこざは絶対起きなかったはず。それどころかそんなことに気付きもしないで別の女のコと仲良くしていた自分。情けなさに顔が火照る。掌に嫌な汗を掻く。自分がいかに鈍くて能天気で平和な男かを、あのとき否応無しに自覚させられた。
 そのくせあの日の野々村は妙に可愛かったと、そんな風に思う自分もどこかにいたりするのだから始末に悪い。
 そっと視線を外して立ち並ぶ店を見る。食品店の並ぶフロアは雑多な匂いにまみれている。
 腹が鳴る。身体が空腹を訴えていた。
 

 ラーメンと、おにぎりが運ばれてきた。
 あっさり醤油ラーメンには葱ともやしがたっぷり乗っかっている。
 おにぎりはふたつ。
「一個、食う?」
 皿ごと野々村に差し出すと、いい、いい、と顔の前で手を振って笑う。割り箸を手にラーメンをすすった。野々村がこちらをじっと見詰めている。そんなにまじまじ見られると正直食べにくい。でも平気な振りで箸を進める。
「桜木はよく食べるよね」
「そっか?」
「そうだよ。うちね、お姉ちゃんがいるんだけど、女ふたりきょうだいだからダイエット意識しちゃってふたりともあんまり食べないの。だから桜木の食べっぷりに最初びっくりしちゃった」
「へえ・・・」
「夏休みに桜木につき合ってマックに行ってたじゃん?実はあれでね、あたし三キロも太ったんだよ」
「え?まじ?」
 野々村は、まじだよ、と言いながら頷く。
「夏休み終わって制服のスカート穿いたらウエストきつくって、びっくりしたんだから。まあ、その後自然に落ちたからよかったけど・・・」
 知らなかった。っていうか、三キロくらいどうってことないと思う。実際野々村が太ったなんてちっとも気がつかなかったわけだし。いや、やっぱ、俺は鈍いのか?
「そういや、野々村、ハンバーガー食わなくなったよな。最近はコーヒーばっかだもんな」
「そうだよ。しかもブラックなんだよ。ちょっと可哀相じゃない?」
「太ったっていいじゃん」
「えー、やだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
 首を傾げながらおにぎりを頬張った。女のコの美の基準がイマイチわからない。こちらは男ふたり兄弟だ。ダイエットなんて言葉、出たこともない。野々村は透明なコップで水を飲んでいる。
 暫く食べることに専念した。その間、野々村は頬杖を突いた格好で、小さな嵌めこみ式の窓から黙って通路を眺めていた。
 時刻は一時半。食事時を過ぎた所為か、店内は人があまり多くなかった。醤油とねぎと豚骨スープの匂いに満ちた店。
 野々村が横を向いたままぽつりと言った。
「桜木は、何も訊かないんだね」
「え?」
 こちらに向き直って言う。
「畠山にハンカチを買うって言っても何にも訊かないよね?何にも訊かないでつき合ってくれる。桜木って優しいのか無関心なのか、ときどきわかんなくなる」
「・・・」
「あんまりあたしのすること気にならない?」
「いや、気になるよ」
 間髪を入れず答えてやった。めちゃくちゃ気になる。
 目の前の女が目を丸くする。
「ほんとに?」
 黙ってラーメンをすすりながら頷いた。
 気にならないわけがない。
 畠山のハンカチ。あの日、泣いていた野々村が握りしめた男物のハンカチに嫉妬したアホはこの俺だ。
 っていうか、嫉妬の原因はハンカチだけじゃなかった。野々村の傷の手当てをしていた畠山に呆然とし、それを無防備に受け入れていた野々村に無性に腹が立った。
 何やってんだよ。何で、他の男にそんなことさせてんの?と。
 ざわざわと。どろどろと。込み上げてきた初めての感情。あの日の自分は最低だった。本当はもっと優しい言葉をかけるつもりで保健室まで行ったのに、出てきた台詞はひどいものだった。
 野々村を泣かせてしまった。
 あの後ひどい自己嫌悪に陥った。
 自分はもっと淡白に淡々と恋愛できるタイプだと信じていた。そう、冷静な男だと思っていた。そんな傲慢な自信が根幹からがらがらと崩された瞬間だった。
「保健室で借りてたハンカチだろ?洗って返せばいいんじゃないの?」
 ほらまたこんな風に、どういうわけか冷たい言い方になるのだった。
「うん。でも、あの日、あたし顔に怪我してたから、血がついちゃってて、洗濯しても落ちなかったんだよね。だから買って返そうと思ったの」
「ふうん」
 それにしても、ハンカチ一枚でこんなとこまで買い物に来なくてもさ、と口にしたら、野々村の表情がちょっと変わった。
「だから、それは・・・」
「何?」
 唇を結ぶと、何でもない、と言ってそっぽを向かれた。ぷっと頬が膨らんでいる。
 え?何怒ってんの?
 内心慌てつつ、何でもない顔で丼を抱えて汁を飲んだ。
 あっさり醤油ラーメンは、でも、なんだか妙に脂っぽい味がした。


 コムサ・デ・モードで買ったそれは、黒にグレイのラインの入った畠山には勿体無いくらいカッコいいハンカチだった。
 その後、CDショップに入る。
 野々村は暫く傍にいたが、DVDコーナーを見つけると、吸い寄せられるようにそちら側に行ってしまった。
 普段聴くのは洋楽が殆どだ。部屋にいるときはずっとコンポを働かせているような状態。だからといって特にマニアというわけでもない。音質なんか全然気にならない。要するに耳に音楽が入っていればそれで満足するタイプなのだ。
 ジョン・レジェンドのCDを手にする。ちょっと前のアルバム。十一月に新しいやつが出るらしく小さく広告が貼ってあった。
 野々村のほうを見ると、熱心に何か見入っている。
 近寄っていくと、振り返って微笑む。なんか、その顔が思いがけず可愛くて、笑い返すのも忘れて見下ろしたまま固まってしまった。
「桜木?」
 野々村が不思議そうに首を傾げている。
「・・・何?」
「ねえ、桜木は映画、よく観る?」
「・・・いや、あんま観ない。観てもエイリアン系」
 系?エイリアン系ってなんだ?自分で自分の発した言葉に突っ込みを入れる。
「ふうん。そうなんだ」
 でも納得してるし。
 野々村が手にしているDVDのパッケージにはデ・ニーロと小さな女の子が載っている。ロバート・デ・ニーロくらいは知っているのだ。でも、そのDVDがどんな話なのか、そういう知識は全くない。
「じゃあ、映画誘ってもつまんない?」
「え?いや、行くよ」
「ほんと?映画館で寝ちゃったりしない?」
「あー、それはちょっと約束できない」
 笑いながら答えると、野々村は苦笑した。腰を屈めてDVDを元の位置に戻し、まだ何やら物色している。
「野々村・・・」
「何?」
 野々村は視線をこちらに向けないで答える。
「この後って、時間ある?」
「え?」
きょとんとした顔で振り返る。「何かあるの?あ、もしかして、村井君たちとカラオケ?」
 何でだよ。
 そっぽを向いて口を開いた。
「帰りさ、うちに来ない?」
 さらっと言ってみた。何気ない風を装って。
 野々村にもさらっと答えてほしかった。いいよ、と。軽い調子で。
 野々村が目を丸くした。さあっと顔に戸惑いが滲んでいく。
 ・・・だめか。
「え?え?今から?」
「うん。今から」
「え?でも、おうちのひと、いるんでしょ?」
「いるよ」
・・・多分ね。もしかしたらいないかも。連れてくなんてわざわざ言ってないし。
「え。どうしよう」
「やなの?」
「だって、恥ずかしくない?おうちのひとに会うの」
「は?なんで?」
 野々村の唇がとんがった。
「何となく・・・」
 ふうん。そうか。そういうもんなんだ。
 野々村が視線を外して考えている。自分もそちらに視線を送ってみる。ずらっと並ぶクラシックのCDと、それから何だか暇そうにしている店員。
 気が付くと野々村に見上げられていた。
 どきっとする。野々村の目はいつも真っ直ぐだ。直線的できっぱりはっきりしている。下心を見透かされてるようで心臓に悪い。
「ほんとに、行っていいの?」
「・・・いいよ」
「じゃあ、行く。桜木の部屋、見たいし」
 白い歯を見せて笑う。
「・・・」
 こちらは返答に窮した。
 野々村は無邪気だ。


 つき合い出したのは夏の初め。
 それから何度もふたりで会った。学校から一緒に帰ったりとか、公園で話したりとか。会うのは大抵、外だった。
 初めてキスしたのは体育館の倉庫。
 唇がちょっとだけ触れ合う程度のキスとも呼べないようなキスだった。
「ねえ、桜木」
「ん?」
「何か、買ってかないとまずいよね?ケーキ、とかさ」
「え?うちに?」
「うん」
「いや、いいよ」
「でも、手ぶらじゃまずいんじゃない?」
 そう言えば六つ年上の兄貴のカノジョたちも、来るたび何か手土産を持参している。
「ケーキ、買ってく」
 そう言ってモール内のケーキ屋を探し始める。
「や、まじでいいって。金、もったいない」
「でも、初めて行くのにそういうわけにはいかないじゃん?」
不服そうな目でこちらを見る。
「あー」
前髪をくしゃっとかき上げた。「そうか。そうだな。じゃあ、今日だけ。半分俺出すし。次からはなしで、な?」
「次から・・・」
 野々村が言葉尻を捉えるが、俺は聞こえない振りをした。
「あ、あそこ」
「え?」
 小さな間口の店だった。ガラス張りのドアに真っ赤な細長い取っ手がついた可愛らしい店。窓枠もドア枠も白い。いかにも女のコウケしそうな店。ショーケースの中ライトアップされ、宝石のようにきらきらと光るケーキがずらりと並んでいるのが見えた。
「この前さっちんが、あそこのケーキおいしいって言ってた。買ってくるね。何個くらいいるかな?」
「あー。どうだろ。うち四人家族だから・・・」
「じゃあ、六個、ううん、七個くらい買っとく?」
「まかせる」
 野々村は嬉しそうに微笑むと店の中に入っていった。なんか必要以上にウキウキしている。
 さっきダイエットがどうのって言ってたのは誰だよ。
 苦笑しつつ、よく磨かれたガラスの向こう、ショーケースを覗き込む野々村の後ろ姿を見詰めた。
 野々村紗江は思ったとおり気の強い女のコだった。でも、とっつきにくく見えた外見とはウラハラに、席が近くなり、話してみれば、案外気さくでそして鈍くさいとこもある普通の女のコだったりもした。いつの間にか好きになっていた。告白は俺のほうから。そのときは見事にふられた。今こうしてつき合ってることが、時折嘘みたいに思えることがある。
 足元を見る。灰色のタイルの上に煙草の吸殻と小さな紙くず。紙くずをちょんと足先で突付いてみた。
 気が付くと野々村のことばかり考えている。ずっとそうだった。最近はよからぬことを想像したりもしてたりする。そんな自分を正直持て余している。ウザい。煩わしい。疎ましい。こんな自分がいることを野々村にだけは知られたくない。
 店内の野々村はケーキを選び終えたのか、ショーケースの中を指差して、店員になにやら話しかけていた。
 通路の手摺りから下を覗いてみる。先ほど待ち合わせした噴水を上から見ることができた。その少し向こうに携帯電話のショップがあり、店頭ではオレンジ色の上着を羽織った店員が行き交う子供たちに風船を配っている。赤、青、黄、オレンジ色の風船たち。さっきの女の子はまだあの赤い風船を大事に持っているだろうか。あのぷくぷくと肉のついた手首に巻きつけてあげたほうがよかったかもしれない。
 そのまま視線を上げて、屋根のかかっていない空を見上げた。雲に覆われた空は乳白色をしていた。明日は雨かもしれない、と気象予報士の真似事をしてみる。顔を上げたまま息を吐いた。
 二度目のキスは人通りの多いとこでした。自分でも大胆だったと思うが全く以って平気だ。全然恥ずかしくなんかない。したかったからした。野々村は目茶苦茶怒ってたっけ。長いこと膨れっ面をしていたので、「さーえちゃん、まだ怒ってんの?」とふざけて顔色を窺うと真っ赤になってそっぽを向かれた。思い出すと笑える。
 腰を折って手摺りを握り腕をぐっと伸ばしストレッチをした。
「桜木」
 後ろから声がして振り返る。野々村は白い箱を手にいつもの笑顔を見せていた。こちらも両手をズボンのポケットに入れ何食わぬ顔で笑いを返す。
「すっごいおいしそうだよ。食べるの楽しみだね」
「何?それって土産じゃないの?野々村自分で食う気満々だな」
「・・・そういうこと言わないで」
 ははっ、と笑う。
 睨みつけてくる野々村が、もう、と言って肘で突付いてきた。暫くそうやってじゃれ合った。一緒にいるといつもこんな感じだ。
 でももうこんなんじゃ満足できない。
 もっと近づきたい。
 もっと距離を縮めたい。
 外じゃキスさえままならない。
 だから、今日、家に誘ったのだ。
 キス以上のことをしたいから。
 こんな気持ちで誘ったと知ったら、気の強い彼女はどう思うだろうか。やっぱり真っ赤になって怒るだろうか。
 野々村の唇は今日初めて会ったときと同じような艶をまだたっぷりと残していた。真っ直ぐ目を当てることができなくて、たまらず視線を外した。


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