1.  2.  3.  4.

初秋 その後 4.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 野々村を家まで送って戻ってくると、キッチンには兄貴が立っていた。カウンター越しにその手元を覗く。兄貴は至極真面目な顔で長ネギを切っていた。
「ただいま」
「おう」
 シンクの上にはネギの他に白菜と春菊としいたけが並んでいる。
「何?今日って鍋?」
「いや。すきやき」
 兄貴は顔を上げないまま答え、慣れた手つきで切った野菜を大皿に並べていく。母親のいない土日の夕食はいつもこんな感じだ。兄貴はデートで家を空けることが多かったりもするけれど、大抵はこんな感じ。
 気が付くと兄貴が俺の頭をじっと見ていた。
「お前、頭、濡れてんじゃん。何?雨降ってた?」
「ああ。さっき。帰って来る途中で降り始めた」
 くしゃりと湿った髪をかき上げ、二、三度頭を軽く振るった。
 自転車に二人乗りして野々村の家まで行った。片道せいぜい自転車で十分の距離を、三十分近くかけて走った。
 主の消えたソファを見遣る。
「親父は?」
「ビール買いに行った。冷蔵庫見たら一本しかなかったから」
顔を上げてにっと笑う。「お祝いだってよ」
「何の?」
「お前が女を初めて家に連れてきたお祝い」
「げっ。やめてくれ」
 俺はキッチンに回ると、棚に手を伸ばし、卓上コンロを取り出した。背が高いので簡単に取り出せる。横にいる兄貴は俺より少しだけ背が低い。それでも175センチは軽く超えてると思う。父親も母親も長身痩躯だ。この体型は遺伝なのだ、きっと。
「すっげえ、美人だよな」
「あ?誰が?」
「誰がってな。お前のカノジョだよ。モテるだろ?」
 カノジョなんて言って紹介してないのにな。極めつけてやがる。
 俺は首を傾げた。野々村がモテるという話は聞いたことがない。「野々村って怖くない?」と問われたことなら何度もある。多分、あの気の強そうな顔がネックなんだと思う。まあ、実際気ぃ強いしな。
「どうかな・・・」
「ああいうタイプは高校生にはモテないかもしれないな。ガキには簡単に手を出せないタイプだよな」
「・・・わかったようなこと言ってんな」
 兄貴は顔の前で包丁を振りかざし弁舌をふるう。
「でも、ああいう女は大学生になると途端にモテるようになるんだよ。社会人になったら尚更だな」
「・・・」
「そのとき、お前は、間違いなくお払い箱だ。な?」
 何だか嬉しそうだね、兄貴。
「うるせえよ。自分がそうだったからって、そういうこと言うな」
 俺の言葉にむっとしたように兄貴が口を噤んだ。兄貴は高校生のときにつき合っていたカノジョに卒業後、僅か一ヶ月足らずでふられるというなんとも哀れな経験をしている。
 村井同様、兄貴もつき合う女の回転が速い。惚れっぽいのか飽きっぽいのか遊び人なのか。イマイチよくわからない。
 テーブルの上を布巾で拭いてから卓上コンロを乗せた。ビールを飲むと言っていたので食器棚から透明なグラスも出す。
「そう言えばさ・・・」
「ん?」
「この間、あいつに会った」
 兄貴はしらたきを笊にあげ、水洗いしている。
「あいつ?」
「覚えてるだろ?お前の腹の上にゲロ吐いた女」
 ・・・忘れるかよ。でも俺は黙していた。黙ったまま冷蔵庫を開け、卵を取り出す。
「お前のことしきりに気にしてたぞ」
「知らね」
「冷たいな。いいことした仲なんだろ?」
 いいことって何だよ?
「してねえっつの」
 兄貴はにやにや笑っている。ムカつくな。これだから大人は嫌なんだ。
「っつーかさ。あのひと、兄貴に気があんじゃん?俺のこと兄貴の名前で呼んでたし」
 嘘を言った。なのに兄貴の顔からは笑いが消え、表情さえもなくなってしまった。一気に冷え込む空気にこちらまで固まってしまう。
 何だよ。ビンゴかよ。
 そりゃそうか、とも思う。あのとき、あのひとは俺を兄貴に似てると言っていた。そう言ってからキスをしてきた。
 向こうの片思いだったのだろうか。いや、ちょっとくらいは何かあったのかもしれない。大人の恋愛はよくわからない。コドモの知らないところで複雑に絡み合ったりしているものだ。
 ふと畠山の顔を思い出していた。あの男だって野々村にちょっとくらいは気があるかもしれないけれど、本命はちゃんと別のところにいる可能性が多分にある。北川先生との関係だって、全く何もないとは言い切れない。
 大人は複雑だ。純粋に、ただ好きだという気持ちだけで生きてはいけないイキモノみたいだ。
 俺たちが気が遠くなるような時間をかけ歩き進んでいる道を、乗り物を使って簡単に通り過ぎて行ったりしてしまう。足跡なんかまるで残さないで。助手席に乗っている相手だって、ときに違っていたりするみたいだし。
 兄貴がフライパンを火にかけ、白い脂の塊を乗せる。血の色をした肉を敷いた途端激しく焼ける音がキッチンに響いた。ネギも入れ菜箸で混ぜる様子を暫く黙って見続けていた。
「・・・あのひとって仕事、何してんの?」
「・・・」
「兄貴?」
「あ?ああ。・・・ガッコーの先生だよ。高校教師。でも採用試験落っこちたから臨採だ、っつてた」
 げ。あのひとって教師なの?なんか男子生徒のひとりやふたり、平気で食っちゃいそうな感じがするんだけど。
 勿論口には出さない。そんなこと言ったら、やっぱり何かあったんだなと、勘繰られてしまうから。
 箸も取り皿も並べたし、することがなくなってしまった。椅子に座ってまだカーテンを引いていない外を見る。すっかり暗くなっていた。窓ガラスに小さな雨粒がいくつもはり付いている。醤油と砂糖の入り混じった甘辛い匂いが漂ってきて鼻腔をくすぐられた。
 大人になっても、俺だったら隣に並ぶ誰かと手を繋いでのんびり進んでいきたい。隣にいるのが今と同じ相手だったらもっといい。
 玄関先で大きな音がした。父親が帰って来たらしい。何か大声で叫んでいる。ただいまと言ったのか、買ってきた荷物を取りに出て来るように求められたのか、声がくぐもっていてよく聞き取ることができなかった。兄貴に顎の動きだけで「行ってこい」と命令される。やれやれ。この家で一番身分の低い俺は仕方なく腰を上げた。


 同じ中学校区内にある野々村の家は、うちからそう遠くない。
 野々村を自転車の後ろに乗せ、他愛のない話をしながらところどころ遠回りもして送って行った。
 離れがたかった。
 いつもそう。
 でも今日は普段の比じゃないくらい離れたくなかった。こういうとき早く大人になりたいと思う。痛烈に。
 大人だったら、朝まで一緒にいたいとか、きっと平気で口に出せるんだろうな、と思う。実行だって容易くできそうだ。
 高校生じゃ、まるきり不可能。
 別れ際、
「また来る?」
と訊ねると、こっくりと頷いた。ぷっくりとした唇から白い歯を見せて笑った野々村は、もう一度抱きしめて家に連れて帰りたくなるくらい可愛かった。
 素直な野々村の様子があまりにも面映いので思わず、
「素直すぎて気味悪いな」
と言うと、
「今日だけね」
涼しい顔で返された。
 さすがだ。くっ、と下を向いて苦笑した。
「じゃあ、月曜日にね」
「ああ」
「水曜日は一緒に帰れるよね?」
「・・・だな」
「桜木」
「ん?」
「今日、つき合ってくれてありがと」
 ペダルに足をかけ左手を上げた。
 野々村の家の中には灯りが点っていた。車二台が楽々と停められそうな立派な駐車場は空っぽだ。それを横目で通り過ぎる。
 暫く走って曲がり角の手前でブレーキをかけ、振り返ってみた。
 野々村はまだ玄関の前に立っていた。目が合うと照れ臭そうに笑って手を振った。
 スピードを上げて走る。今にも泣きだしそうな空。風が頬を嬲るように、強く向ってくる。
 力いっぱい抱きしめた。
 力いっぱいだ。
 野々村の細く柔らかい身体の感触が、今もまだ腕にはっきりと残っている。髪の匂いも。頬の熱も。さくらぎ、と小さく呼ぶ甘い声も。
 やわいやわい身体だった。
 あんまり大したことはできなかった。スケベ心は猛烈に膨らんでいたというのに。触れれば触れるほど、これまで築いてきたふたりの関係を崩してしまいそうで、怖くてとても先には進めなかった。
 もどかしいな、と焦れる。
 幸せなのにもどかしいのだ。
 あ。でも、耳はいただいた。うまかった。それだけでもかなりの進歩かもしれない。
 国道沿いの自転車道を、来た時の倍以上の速さで走った。緩やかな下りの道。向ってくる風は刺すように冷たく寒かった。黒いウインドブレーカーがぱたぱたと音を立て、俺の脇腹で旗のように揺れている。
 冷たいものがぽつんと鼻先に触れ、思わず空を仰ぎ見た。水滴が今度は瞼に落ちてきて瞬いた。
 雨が降り始めていた。


(完)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

HOME / NOVEL /  SHYOKA

|||||||||||||||||
© Chocolate Cube 2006