1. 2. 3. 4. 初秋 その後 2. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 兄貴とは六つ歳が離れている。 留年も浪人も経験していないので、やつは今年から立派な社会人となっている。 大学も会社も実家から通っているイマドキ珍しい人種だ。 両親が共働きで留守がちな所為か、自分のカノジョをよく家に連れてくる。昔からそうだった。 そういうときは決まって俺に家を出て行けと指図する。外にいるときは後二時間くらい帰って来るなとメールがくる。はあ?なんで?とはさすがに鈍い俺も問い返したりはしないのだ。二時間という数字の響きを妙にいやらしく感じる時期もあったが、最近はさすがに慣れっこになってしまった。 行き先があれば出て行くし、なければ居座る。兄貴とカノジョがいちゃいちゃできようとできまいと、本当のところ俺には全く無関係なわけだし。兄貴は露骨に嫌な顔を見せるが俺は気にも留めない。したけりゃ、どっかテキトーなとこへ行けば?ここはラブホじゃねえんだよ。・・・とは、絶対口にはできないけどね。 協力できるときの避難場所は大抵村井。やつの家だったり、カラオケだったり。帰る前には一応確認のメールを入れたりする。なんて律儀な弟なんだと思う。でも俺が思うだけ。兄貴に感謝の言葉を貰ったことは一度もない。まあ、でも、男の兄弟なんてどこも押し並べてそんなもんだと思う。 去年の夏、両親が旅行で留守していた夜に、兄貴の友達が大勢でうちに遊びに来たことがあった。男も女もいた。十人くらい。お酒の力もあったのかもしれないが、それはもうはちゃめちゃな騒ぎだった。大人になってもああはなるまいと思わせるような乱れぶり。近所からよく苦情がこなかったものだと思う。 一緒に飲まないかと申し訳程度に声を掛けられたが、丁重にお断りした。慎ましくひとり、部屋のベッドで寛いでいた。部活でくたくただったし、大学生のお酒につき合う自信はなかった。絶対潰される。てか、未成年を誘うなよ。 風呂にでも入りもう寝ようかという時間になって、ひとりの女のひとが俺の部屋の扉を開けた。 ぽっちゃりとした体型の可愛いらしい顔の女のひと。女優の石原さとみによく似ていた。丸顔の中の愛らしい筈の垂れ気味の目が妙に怖かった。なんでだろうと首を傾げた。ああ、酔いの所為で目が据わっているのだとすぐに得心した。 でも何だって俺の部屋?もしかして部屋を間違えたのだろうか。でもここは二階で、兄貴たちが騒いでいるのは一階だ。わけがわからず、けれど身体を起こして一応、はじめましてと挨拶なんぞを試みていた。あのときの場違いに礼儀正しい俺は、はっきり言っておマヌケくんだったと思う。 「ふーん。君が桜木の弟君?可愛い顔してるわね」 酔っ払った石原さとみは俺のベッドに腰掛けると顔をぬっと近づけてきた。頬を撫でられる。ぞくっと全身が粟立ち、身の危険を感じた俺は、思わず身体を後ろに退いていた。 「よく似てる。言われない?」 「はあ・・・」 よく言われます。 「タイプ」 「は?」 赤く染まった目の縁。多分アルコールの所為。お酒の匂いがぷんぷんしていた。にじり寄ってくるし。これってやばくね? いやいや。予想以上にやばかった。 酔っ払った石原さとみはいきなり俺を押し倒すと馬乗りになり、俺の上で優雅ににっこりと微笑んだ。 「遊ぼ?」 「え」 何して? だーっ。 訊いてどうする。 酔っ払った石原さとみはキャミソール二枚を重ね着しただけの薄着だった。剥き出しの二の腕を掴んで起き上がろうとしたが、握った腕の予想だにしなかった柔らかさに驚き、咄嗟に手を引いていた。金縛りにあったみたいに動けなくなってしまっていた。 え?女のひとの身体って、みんなこんなにふにゃふにゃしてんの? 小さくつんと尖がった唇が目の前に迫ってくるのをぼんやりと見ていることしかできなかった。 唇にいきなり舌を差し込まれていた。唇と唇を合わせるよりも先に、だ。え。順番違わないですが? 正真正銘それが俺のファーストキス。初めて交わしたキスは途轍もなく生々しかった。唇と舌の生温いぬるっとした質感。頬に当たる息。むせ返りそうなほど匂う口紅の香料。お酒の匂いと女のひと独特の甘い香りに強襲されて頭がくらくらしていた。 下半身はとっくに熱くなっていた。反応早すぎ。・・・やばい。 やばい。やばい。やばい。 「ちょ、ちょっと・・・」 一応拒絶の意思を見せ、ちらりと入り口に目を遣った。誰か来るんじゃないかと気が気じゃなかった。ドア開いてるし。 酔っ払った石原さとみは俺のジーンズのボタンを外しにかかっていた。耳に入ってきたかちゃかちゃという音で俺はようやくそうされていることに気がつくという朧朧ぶり。色を失った。え。いきなりそこから?やっぱり順番間違えてるよ、このひと。 だーっ。 違う違う。 俺ってこのままドーテー失っちゃうわけ?この状況で?え?まじ?いきなり?ってか、このひと、誰? 混乱していた。頭も心臓も極限のパニック状態。 このまま奪われちゃってもいいやという受身かつ狡猾な自分と、いや、そりゃやばいだろう、そこに愛がないのにするのかよ、という真摯な自分の心情とがくだらないながらも胸の内で拮抗していた。いや、ほんとくだらない。 コイビトドウシでなくても男と女がいれば、そういう行為が繰り広げられる可能性は十分有り得るということを村井から知識として教えられてはいた。でも、まさか、自分がこんな状況に陥ろうとは。そういうのは自分とはどっか違う別の人間の話だと、ずっとそう思い込んでいたのだ。 ドアが開いているのがひじょうに気になった。そこだけ思えば案外冷静だったのかも。 と。 いきなり酔っ払った石原さとみの動きが止まった。ジーンズのボタンを外した姿勢で固まっている。 「・・・」 俺の脚の上に座ったまま俯いて苦しそうに目を閉じていた。 「あの・・・」 「気持ち悪い」 「え」 「吐きそう」 「ええええっっ」 だーっ。 ・・・・。 後のことはあまり思い出したくない。思い出すと酸っぱい匂いに包まれてしまう。 散々だった。 「なーにやってたんだよ」と、兄貴からも、そしてその友達からもこてんこてんにいじめられ弄ばれた。何にもしてないっつーの。いや、まあ、キスくらいはしたけどさ。 でも。 と、今になって思う。 あのときいっそ経験しておいたほうがよかったんじゃないかと思う自分も確かにいるのだ。 そうすれば、野々村に対してもっと余裕をもって接することができるんじゃないだろうか。そんな風に考えてしまう狡くて浅ましい男が自分の中に確かに存在している。 傍らで、何も知らない野々村が電車のドアの大きな窓から外の風景を眺めている。ふたり、ドアの傍に立ち並んで揺られていた。大きなスポーツバックは背中に回している。長時間下げているので肩が痛かった。 野々村は体育館の倉庫で交わしたあれが、初めてのキスだったのだろうか。あのとき、野々村は尋常じゃないくらい身体を震わせていたっけ。 野々村と同じように窓の向こうに目を遣りながら、俺はぼんやりそんなことを思い出していた。 駅の改札を抜け、家路を辿る。いつもと違うのは隣に野々村がいるということ。 歩きながら、一応携帯で家に電話を入れる。今から友達を連れて行くからと言うと、あーそう、と、あまり気のないいつもどおりの母親の声が聞こえてきた。 「友達?」 電話を切った途端、野々村が冷やかすように顔を覗き込んできた。 「・・・」 「ふうん。あたしって友達なんだ」 別段気を悪くしている風でもない。どこか面白がっているような、揶揄するみたいな言い方だ。 「・・・恥ずかしいんだよ」 恥ずかしい、と野々村が鸚鵡返しに呟いた。 「桜木でも、そういう感情、あるんだね」 視線は自分の足元にある。茶色いショートブーツ。まだ艶があり、真新しいように見える。 「はあ?当ったり前だろそんなの」 「だって、桜木って何するのも平然としてるんだもん。あんまり恥ずかしいとか照れ臭いとか、そんなこと感じないのかなって、そう思ってた」 「・・・そんなわけないだろ」 「そうなんだ」 ふふっと俯いて笑う。笑いながら指先でサイドの髪を耳にかけた。野々村の髪の毛は肩より少し長い。ところどころ段がついていて軽い感じ。多分染めたことなんかないのだろう、艶やかな髪はいつ見ても黒々としている。野々村は案外真面目だ。 剥き出しになった耳たぶは真っ白で透明感があった。白い小さな貝殻みたいだと思う。中学生のとき初めて目にしたときからそう思っていた。変わらない小粒な白い耳たぶ。 「髪の毛、伸ばしてんの?」 「え?」 野々村が顔を上げる。「え、と。ううん。今くらいがちょうどいいかなって思ってる。これ以上は伸ばさないと思うよ」 「昔はさ、もっと短かっただろ?」 「あ、うん。中学生の時はね。桜木も、ね?」 意味もなく笑う。肩にかけているバックはこちらと違ってすごく小さい。あの中に携帯電話と財布と、他に何が入っているのだろうか。女のコのことはよくわからない。あ。さっき買ったハンカチもあの中に入っている筈だ。 畠山のハンカチを買いに行こうと俺を誘った理由は、なんとなく、ぼんやりとだが理解できる。俺に知らせておきたかったんだと思う。こちらに隠れてこそこそしたくなかったんだと思う。 ふたりで遊びに行きたかったということも。なんとなく、わかってはいる。 そういえば、ちゃんとデートしたことなんかなかったな、と思った。そう考えたら少し胸が痛んだ。「それにしても、ハンカチ一枚でこんなとこまで買い物に来なくてもさ」と言った数時間前の自分の台詞を不意に思い出し、消しゴムでごしごしと消したい衝動に駆られた。 野々村が突然足を止めた。胸に手を当てて深呼吸している。 「あ、なんか緊張してきちゃった」 思わず苦笑する。 「まじで?そんな緊張する必要ないって。フツーの家族だし」 フツーの家族は全員揃ってリビングにいた。 「ただいま」 と言っても、 「あー、おかえり」 と返しつつ誰も顔をこちらに向けない。まあ、うちの家族なんて普段からこんなもんだ。 母親と兄貴はダイニングの椅子に座ってテレビを見ていた。父親はソファに寝転んで新聞を読んでいる。くたびれた灰色のスウェットの上下。皺の寄った足の裏がこちらから丸見えだ。だらしないことこの上ないな、このおっさんは。 電話を切った後、コーヒーメーカーのスイッチを入れたのだろう、リビングはコーヒーの香ばしい匂いに満たされていた。 俺の後ろにつづいて入ってきた野々村が、 「こんにちは。おじゃまします」 と言った途端、三人が弾かれたように顔をこちらに向けた。女の声に驚いたに違いない。三人とも見事に目が丸くなっていた。笑える。 「同じクラスの野々村」 素っ気なく紹介する。「ケーキもらったから」 はい、と白い箱をテーブルの上に置いた。 「あら。あらあらあらあらあらあら」 何言ってんだ? トレーナーにジーンズ姿の母親が椅子から慌てて立ち上がった。 「まあまあまあまあ、ありがとう。いらっしゃい」 ケーキの箱を手に野々村に笑顔を向けた。 「もう。あんた、友達、なんて言うから、また村井君か、その仲間たちかと思ったじゃないの」 ばしっと、俺の背中を手加減無しにはたく。痛ぇよ。 「その仲間たちってなんだよ」 村井や他の連中に対して随分失礼な言い方じゃないかと思う。 父親と兄貴は頭を下げたくらいで、後は何も言わない。でもこちらを見ている。兄貴なんかすっごい強い視線で野々村を見ている。値踏みしてるに違いない。失礼なやろうだ。父親のほうはと言えば若い女に免疫がないのか、なんだか照れ臭そうにしているだけだった。 「すぐ二階に上がるから。あ、ケーキもらってく。野々村サンが食いたいそうだから。な?」 茶化すように言うと、みるみる野々村の顔が赤くなった。唇を噛んで睨んでいるようにも見える。あれ?もしかして怒った? 「コーヒー淹れてるけど、飲むでしょう?あ、ジュースのほうがいいかしら、え、と、・・・ノノムラさん?」 「あ、いえ。コーヒーで・・・」 声が緊張のあまり小さくなっていた。これもなんだか笑える。 「あ、いいよ、俺やるから」 キッチンから母親を追い払う。コーヒーをマグカップに注ぎ、ケーキを皿に乗せた。野々村にどれがいい?、と訊いたが、どれでもいい、という殊勝な返事。あまりのしおらしさに思わず吹き出すと、家族から見えないとこで足首を蹴られた。野々村もなかなかやるね。 リビングから出るとき、母親に呼び止められた。 「お母さん仕事だから、四時には出るからね。あんまり遅くならないうちにちゃんと送っていきなさいよ」 「あー、はいはい。了解」 背中を向けたまま適当に返事をしておいた。 「桜木のお母さんって、今から仕事なの?」 リビングを出た途端、野々村の声色が元に戻った。緊張が解けた感じ。皿やコップの載ったお盆がかちゃかちゃと音を立てる。 「あー、うん。あのひと、看護士してんの。今日夜勤なんだろ」 「お兄さん、びっくりするくらい桜木にそっくりだね。でも、お父さんともお母さんとも似てないよね?」 「それ、よく言われる」 野々村がふふ、っと笑った。あんなにがちがちに緊張しているように見えたのに、そういうところはしっかり見澄ましているもんなんだと感心した。そのくせ兄貴に食い入るように観察されていたことには全く気が付いていないみたいだ。 野々村は家の間取りを確認するみたいにぐるっと視線を彷徨わせた。そうしてから階段を上がる俺の後をついてくる。スリッパを履いていなかった。そういえば、野々村にもスリッパを出していなかったっけ。・・・ま、いいか。 「なんか、桜木がちょっと年取った感じ。いくつ違うの?」 野々村はまだ兄貴の話をしている。 「六つ」 「へえ。桜木も六年経ったらあんな感じになるのかな」 「どうかな?」 階段を上りきる。お盆を持った左手の人差し指だけ立てて言った。 「あ、そっち、左側のドア開けて」 「うん」 野々村が返事をしつつも俺の顔をじっと見る。 「何?」 「桜木って、女のコ連れてくるの、あたしが初めて?」 「・・・初めてだよ」 「ほんとに?」 大きな目が探るように俺を見詰める。嘘をついてるわけでもないのにどきどきした。 「何でさ?」 「なんか、家族のひとたち女のコが来ることに慣れてる感じがしたから。うちの家族だったら、もっと身構えてると思う。多分、大騒ぎになる。・・・桜木も、全然平気っぽいし」 あー。なんだ。そんなことか、と思う。 「それはね、兄貴がよくカノジョ連れてくるから。それで慣れてんの。俺もあのひとたちも」 「ふうん」 「いいから開けてください。重い」 「あ、ごめん」 何の変哲もない普通の木目のドアに金色のドアノブ。なのに野々村はそこに何か重大な秘密が隠されているかのように怖々と躊躇いがちに、でも、開けてはいけないと念を押された扉をそうするみたいに隠しきれない好奇心をもその顔に漂わせて、そんな風にそうっとドアを開いた。 てか。フツーの部屋だし。 これも。 なんか、笑えた。 NEXT ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ HOME / NOVEL / SHYOKA |