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初秋 その後 3.
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 昨日のことだった。
 野々村と一緒に帰る約束をしていた俺は、野々村が現れるまでの待ち時間、ひとり、体育館でバスケの練習をしていた。といっても、制服に着換えているのでボールと戯れる程度の練習。取り敢えずの暇つぶしだ。茶道部に所属している野々村は、十一月の文化祭が終わるまで水曜日と金曜日に部活がある。一週間のうちその二日だけ一緒に帰る約束をしていた。週に二回しか練習がない所為なのかどうか。茶道部の一回の部活時間はやたら長い。いつも大抵待たされるのはこちらだ。
「よう」
 何の前触れもなく唐突に背後から声を掛けられた。低い、でもよく通る声。男の声だ。誰だかは直ぐにわかった。
 ボールを手にしたまま振り返って頭を下げる。一応先生、だから。
 畠山は濃紺のシャツにチノパンを穿いた格好で、いつものごとくのらりくらりとした呑気な風情で近寄ってきた。手には銀色の鍵をふたつ持っている。多分、体育館と体育教官室の鍵。体育教師の誰かに頼まれたのだろうか、数学教師のくせに体育館の戸締りに来たみたいだった。
「何だ、桜木。ひとりで残って練習してんのか?」
「・・・」
 声は出さずに首だけで頷いた。
「案外熱心だね、お前も」
 畠山はポケットに手を突っ込み体育館の二階の窓をぐるりと見回した。それほど背は高くない。170センチちょっとくらい。人差し指で二階を指差す。
「二階の窓、閉めたか?」
「さっき、一年のやつらが確認してました」
「そうか」
 畠山は頷く。一階には大きな錆付いた扉が四箇所ある。今度はそちらの戸締りを確認し始めた。
 ゴール下の扉を閉じようとするので、
「あ、いいです。後で、俺やっときますから」
 そう言うと、色素の薄い灰色の瞳がこちらを向いた。じっと俺の顔を見て、それからにやりと笑った。不敵な笑み。あー、そうか。と勝手に納得して呟いている。
「あれか。ここで待ち合わせしてんのか。誰かさん、今日お茶のお稽古だっつってたからな」
「・・・」
 答えないで手にしていたボールをゴール目がけて放った。ごんっと鈍い音がした。リングと板の間に当たって跳ねたボールは、バスケットの中を通らないまま左側に弧を描いて落ちた。静かな空間にボールの跳ねる音が響く。床がびりびりと震動していた。
 俺はそのボールは拾わないまま、傍にある籠の中から別のボールを取り出した。
 畠山はよくわからない先生だと思う。
 いつものんびりした感じ。やる気がないように見えるのに、この男ほどわかりやすく数学を教えられる先生を俺は他に知らない。二十五歳で公立の教職員採用試験に受かるまで、大手の予備校で講師をしていたという噂もある。
 教え方が上手いだけじゃない。生徒のこともよく見ている。
 来客用の茶色いスリッパ。男物のハンカチ。消毒液の匂いのする保健室。
 ボールを二度ゆっくりとドリブルさせてから右手で掴んだ。バスケを始めたばかりの小学生の頃はボールがとても大きく思えて、片手で掴むことができるなんて信じられなかった。今は易々とできる。
 両手で持ち、額の前で構え、膝を曲げた。
 俺は、最近畠山にきちんと向かい合えていない。
 今も。
 早くあっちに行けよ、と思う自分がいる。
 原因はよくわかっている。
 もう一度ボールを放った。
 今度はリングの手前に当たって弾かれた。下唇を噛んで首を仰け反らせた。・・・何で入んないんだよっ。
 畠山はゆっくり歩いて、入ってきたばかりの扉のほうに向った。靴下で歩く畠山の足音は殆ど聞こえない。
「後でもう一回確認にくる。一応窓の鍵は全部閉めといてくれよな。頼むぞ」
 畠山の言葉に目を合わせないでテキトーに頷いた。
 籠の中のボールに手を伸ばす。静かな足音が不意に止んだのを背中に感じた。
「・・・桜木」
 やや間があって、躊躇いがちに聞こえてきた低い声。
「はい」
 振り向きもしないで答えた。ボールをドリブルさせる。僅かに自分が動揺しているのがわかった。
「野々村のことだけどな」
 野々村のこと、と。はっきりとその唇から野々村の名前が零れ出た。心臓をとんっ、と軽く衝かれた気がした。
「・・・」
「野々村のこと、あんま、泣かすなよ」
 ドリブルさせていた手が止まった。ボールが俺の手に触れないまま何度か跳ねて転がった。俺は足元で小さくバウンドし、やがて動かなくなったボールを見詰める。
 ゆっくりと振り返った。
 畠山はポケットに両手の親指だけ突っ込んだ格好で、腰を捻って上半身をこちらに向けていた。顔にはいつもどおりの余裕の笑み。のんびりとした表情。
 のんびり?
 いや、違う。
 ひとを喰ったような顔、だ。
「先生は・・・」
「ん?」
「先生は、保健の北川とつき合ってんだろ?」
 床をきゅっと蹴った。軽くそうしたつもりだったのに、その音は存外大きく反響した。
 畠山は瞬間ぽかんとし、それからすぐに眉を下げて困ったように笑った。色の白い顔だ。
「あのな。お前らガキはそうやって直ぐに先生同士をくっつけようとするけどな。大人はそんな簡単じゃないんだよ」
 俺はただじっと怒ったような顔で畠山の顔を見遣っていた。畠山が更に眉尻を下げて笑う。
「なんだよ。心配しなくてもな、生徒になんか手ぇ出さないよ」
 唇を噛んでぷいっとそっぽを向いた。もう一度床を蹴る。
「生徒じゃなかったらどうなんだよ・・・」
 喉に張り付いたような硬い声。自分の声じゃないみたいだった。
 畠山がまた笑った。背中を震わせてくつくつ笑っている。なんだろ。すっげえムカつくな、こいつ。
 再びボールの入った籠に手を伸ばした。バカな質問をした愚かな自分にも、ひとをひととも思わないような態度の教師にも、無性に腹が立って納まりがつかない気分だった。
 早く帰れ。エロ教師。
「・・・野々村は可愛いよ」
 可愛い。
 ぽつりと聞こえた声に俺は目を見開いた。
 ボールを掴もうとした手が止まる。
 ゆっくりと顔を上げた。
「な、に・・・」
声が微かに震えていた。「何言ってんだよ。あんた、教師だろ?」
 畠山は笑っていた。でも、無理にそうしているような、さっきまでの笑顔とは明らかに違う作り物めいた笑み。ひとのよさそうな表面の皮を一枚剥ぎ取った感じだ。
「お前が言わせたんだろ?・・・別に深い意味なんかないし」
 深い意味なんかない、と力のない声でもう一度呟いた。
 ほっとけないんだよな、と畠山は言って俯いた。紺色の靴下の先でぐるぐると足元に円を描いている。
 体育館はしんとしていた。開いた扉から聞こえてくる帰宅する生徒達の笑い声。すでに薄闇が広がっていた。
 心臓がばくばく音を立てている。
「できの悪いコほど可愛いって言うだろ?他の教科はできるのに、あんな数学だけ極端に苦手な女のコ見たことなくってさ」
そこまで言って、何かを思い出したみたいに、ふっと頬を緩めた。誰の顔を思い浮かべているかなんて考えるまでもない。
 全身の血が顔に上る感覚。
「可愛くて仕方ない」
 のうのうとそう言った。野々村が誰とつき合っているのかちゃんと知っているくせに、そう言った。
 こちらは石のようにただ身体を硬くすることしかできない。バカみたいだ。
 暫く俯いたままで何かを考えている風だった顔を不意に上げ、目を合わせた。そこに何が映っているのか、俺には全くわからない目だ。
「そんな心配しなくても、野々村はお前に夢中だろ?・・・今のとこはさ」
 今のとこ?
 ・・・こいつっ。
 ひとのよさそうな顔して信じらんねえやつだな。
 俺は愕然としていた。
 わざと怒らせようとしているのだ。
 ひとの憤怒の在りかを傍若無人に探り当て、否応無しに引っぱり出す。そうする術を心得ている。そうして、あたふたと動揺するこちらの反応を面白がっているのだ。
 そうとしか思えなかった。
 畠山は大人だ。経験からくる余裕をたっぷり持った、嫌な大人だ。
「じゃ、な。戸締りだけはちゃんとしといてくれよ。後で来るからさ」
 言うだけ言って背中を向けた。
 俺は茫然とその場に立ち尽くしていた。
 時間が経つにつれ、むかむかと胸に込み上げてくるものがあった。
─── 別に深い意味はなんかないし。
 嘘だ。
─── 野々村のこと、あんま、泣かすなよ。
─── 野々村は可愛い。
 あいつ。
 あいつ、絶対野々村に気があるっ。
「・・・っ」
 床をだんっ、と激しく蹴った。
 頭をくしゃくしゃっとする。ひとつ大きく息を吐き、散らばったボールを拾って歩いた。
 ・・・何やってんだろ、俺。
 ゴール下の扉の前に立ったとき、ふっと、視線を感じた。誰かに見られている。ボールを拾い、顔を上げると、校門へと続く道に立ってこちらを見ている雨宮と目が合った。
 雨宮はにっこりと微笑みかけてくる。
「・・・」
 抉り出されていた憤りを咄嗟には隠しきれなくて、曖昧に笑って片手を上げた。
 雨宮は頭を下げ、ひとり、校門へと歩いていく。背が高くて細い後ろ姿だ。青く暮れた空気の中に、溶け込むみたいに縹渺として見えた。
 最近、雨宮はひとりでいることが多い。以前つるんでいたふたりとは、まあ、色々あったから、一緒にはいられないのかもしれない。
 そう。
 色々あった。
 俺は雨宮に言いにくいことをはっきりと伝えた。でも、その後も雨宮は変わらぬ態度で話しかけてきて、俺は随分びっくりさせられたっけ。
 話しかけられれば、無視するのもどうかと思うのでこちらも普通に返す。それだけなら、まだいい。
 時折携帯電話に送られて来るメールには正直参る。
 野々村とつき合い始めるよりも前に交換していたアドレス。深く考えないでそうした。
 あの体育館の裏での出来事以来、返信のメールを送ったことは一度もない。それだけはしちゃいけない、って気がするから。なのに雨宮は思い出したように週に一、二度、メールを送ってくるのだった。部活のことだったり、学校の行事のことだったり、途方もなく私的なことだったり。
 まいる。
 ボールを全部籠に放り込むと、籠を引いた。がらがらと床と車輪とが硬い音を立てる。
 雨宮は。
 今も俺のことを好きなのだろうか。
 倉庫の扉を開けながら溜め息を落とした。気持ちが重い。
 好きという気持ちは厄介だと思う。
 自分でもどうにもならない。俺が野々村に対してそうだったように。抑えようとすればするほど溢れ出す。
 雨宮の一途な気持ちは今の俺には重い。気持ちに応えてやれないぶん、こちらが幸せなぶん、メールが送られてくる度比重を増す。
 とてもとても重くなる。
 

 野々村は珍しそうに部屋の中を眺め回していた。
 部屋のドアは閉めてある。母親にその昔、「女のコが来たときにはドアを開けておくように」と躾けられた気がしないでもないが、全然気にしない。高校二年生の男子が親の言うことなんかきく筈がないのだ。
「座れば?」
 声をかけるとうん、と頷いたくせに、野々村はまだあちこち触っている。俺は小さなガラステーブルにケーキの乗った盆をそのまま置くと、ベッドを背凭れに腰を下ろした。野々村がいるのに着換えるわけにはいかないので制服のままだ。窮屈。ブレザーだけ脱いでハンガーにかけた。
 野々村が一番興味を示したのはスチールラックに綺麗に並べられたCDだった。棚の一段全部を埋め尽くしている。
「桜木って、音楽聴くの、好きなんだ」
「まあ。ってか、ほんと聴くだけだよ。薀蓄はゼロ」
 野々村は、あは、と軽く笑った。
「桜木らしいね」
 そう?
 野々村は俺のことをどんな人間だと思っているのだろうか。さっきから聞いてると、何にも考えていないもの凄く軽い人間だと思われてる気がするんだけど。それはちょっと本意ではない。
 部屋にはマライアの曲が流れている。チョイスしたのは野々村だ。好きなの?と訊くと、首を横に振った。あんまり洋楽は聴かない、という答え。
「ねえ。クラシックもあるけど、桜木が聴くの?」
「それは、親父の趣味。勝手に持って上がって置いてくんだよ。気が向けば聴くけどね」
「へえ・・・」
 あんまりじろじろ見られると、なんか、照れ臭い。見られてやばい物は置いてないはず。
「野々村サン、座れば?」
 ちょんちょん、と俺の横の床を掌で叩いた。野々村がちらっとそこに視線を置く。
「う、ん・・・」
 曖昧な返事。笑みが硬い。
「コーヒー冷めるぞ」
 ケーキだって、あんなに食べたそうにしてたくせに。
「ねえ、桜木?」
「あ?」
「CD少し借りて帰っていい?」
「いいよ」
 野々村は並べられたCDの群れの中から三枚だけ抜き取ると、ゆっくりと俺の横に腰を下ろした。横、といってもかなり距離をとっている。不自然なくらい。
 くっ、と笑った。
「何よ」
「意識しすぎだよ、野々村」
「・・・」
 野々村はつんと顎を突き出すと、マグカップを手に取った。頬が赤い。
「いただきます」
 野々村が選んだのは、クラシックのCDが二枚ともう一枚はペット・ショップ・ボーイズのモノ。相当古いやつ。
「このクラシックのふたりって、美人、だよね。もしかして、桜木のお父さんってメンクイなのかな」
「さあ・・・」
ピアニストの仲道郁代と、ヴァイオリニストの千住真理子。「でも、そういえば、親父が買ってくるやつって、全部女のばっかだな」
 新たな発見に、げっ、と言うと野々村が笑った。
 笑いながら髪の毛を耳にかける。自然に目が吸い寄せられた。
「桜木、ケーキ、どっち食べる?」
「・・・」
「桜木?」
「あ?・・・え、と。どっちでもいいや」
「じゃ、あたし、木苺のタルトにしよ」
 ふふ、と笑って手を伸ばした。かなり伸ばさないと手が届かない距離。
「野々村、もっとこっち寄れば?」
 野々村がケーキの乗った皿を手にちらっと俺の顔を見る。木苺のタルトは赤く艶があった。
「・・・桜木、なんか、今日、いやらしい」
「はあ?」
「もしかして、あたしのこといじめて楽しんでる?」
「・・・」
立てた膝に顔を埋めてくつくつと笑った。「まあね。野々村の反応はとても面白い。デスネ」
 野々村は不貞腐れ気味に、いただきます、と言うと、ぐさりとフォークをケーキに突き刺した。木苺のタルトがジグザグに、まっぷたつに割れぎょっとした。

 
 野々村と仲良くなったのは確か、中二の一学期だったと思う。夏の初めの頃だった。
 席が前後になったとき。
 野々村はその頃から数学が苦手で、俺は英語があまり得意ではなかった。俺たちは互いに宿題を教え合う程度の仲になっていた。 
 野々村が後ろを向き、俺の机で数学の宿題をチェックする。それはいつものことだった。俺は頬杖を突いた姿勢で、じっと野々村のおかっぱ頭のてっぺんの白いつむじを見詰めていた。
 野々村が顔を起こした。
「あっついね」
 ぱたぱたと下敷きで顔を仰ぐ。確かにその日は暑かった。気温も高かったし、湿気が半端じゃなかった気がする。
 俺はやや上気した野々村の顔をじっと見ていた。長い睫だな、と思った。
 ふっと、野々村が横を向いた。つられて俺もそちらを見る。
 同じクラスの斉藤が、サッカー部のやつらと騒いでいた。野々村は多分まるきり意識しないままに、斉藤の声に引き寄せられるようにそちらを見てしまったんだと思う。
 あれ、野々村ってもしかして斉藤のこと好きなのかな?
 誰かが誰かを好きなんて、まるきり興味がなかったのに、そんなことを初めて頭の中で考えていた。
 野々村が横を向いたまま、頬に当たる髪の毛を、耳にかけた。
 目の前に現れた真っ白に澄んだ透明な肌に思わず息を呑んでいた。野々村の耳たぶはびっくりするくらい白かったのだ。
 俺のまわりはどちらかと言えば男ばかりがいるような状態で、そんな綺麗な肌を見たことは一度もなかった。
 ああ、そうか。
 こいつって。
 女なんだな、と思った。
 こいつ、女なんだよ、と思っていた。


 木苺のタルトを完食した野々村は、俺のチョコレートケーキにも手を伸ばす。チョコレートケーキじゃなくて、なんだっけ。あ。ザッハトルテ、という名前らしい。
「おいしそうだね。ひと口もらっていい?」
と、訊くので、
「やるよ」
と言うと、心底嬉しそうに微笑んだ。遠慮の気配なんかまるでなかった。
「ありがと」
「いえいえ」
 あまりにも嬉しそうなので、苦笑するしかない。
「おにぎりやるって言ったときとえらい態度、違わない?」
「え。だって、おにぎりでカロリー摂取しちゃうのってなんか勿体無い気がするけど、ケーキだったらまあいいかな、って」
「なんだ、それ」
 さっき一度トイレに立った。着換えもついでに済ませて戻ってきた俺は何食わぬ顔で野々村の近くに腰を下ろした。野々村はちらりと見ただけで何も言わなかった。
 母親は先ほど仕事に出掛けた。
「行ってきまーす」
という母親のバカでかい声と、おう、とも、ああともとれる、父親の低い声が二階の俺の部屋にまで聞こえてきた。あのふたりは仲がいい。と、俺は思う。大声で言い合いをしたことなんか一度もない。ラブラブってわけでもないんだけど、なんていうか、分かり合ってるって感じがする。まあ、おっさんとおばさんだからな。年を取っちゃうとみんなそんなもんかも知れないけど。
「うまい?」
 横を向いて訊く。
「うん。おいしいよ。月曜日にさっちんたちに自慢すんの。・・・でも、あれだね、ふたつも食べちゃって、太っちゃうかな?」
 俺はくっと笑った。
「食べながら言うなよ」
「・・・だね」
 野々村は半分くらい食べ終わったところで、一旦皿を置いた。コーヒーをこくこくと飲んでいる。
 じっと見ていると、なに?と訊かれた。少し戸惑いの滲んだ声に可笑しくなる。
「・・・触っていい?」
 いきなりそう口にした。野々村の目が真ん丸になった。警戒の色が一気に噴き出している。
「な、・・・な、に?」
「耳」
「み、み・・・?」
「耳。触りたい」
「・・・」
 いつも気の強さをりゅうりゅうと顕示している野々村の瞳。強い瞳だ。そこに儚いような薄い弱さがほんの少し垣間見え、揺れた。
 ああ、こんな顔もするんだな、と、俺はその瞳に一瞬見惚れる。
 ゆっくりと指先を伸ばして、耳に触れてみた。透明感のある白い貝殻みたいな小さな耳たぶ。
 野々村は少しだけ首を傾げてされるがままになっている。でも、その表情は硬い。どう対応すればわからないといった困ったような顔をしている。頬は真っ赤だ。白かった耳も、ピンクに染まっている。
 耳たぶは、思っていたよりずっと柔らかで、そして肉が薄かった。和菓子の求肥みたいな感触。食べたらどんな味がするのだろうか。
「ずっと、触ってみたかった」
「耳に・・・?」
「そう。中学のときから、ずっと、こうしたかった・・・」
「・・・」
 野々村の手からマグカップを取ると、テーブルの上にそっと置いた。こつんと硬質な音がした。
「さくら、ぎ・・・」
 野々村が顔を俯けた。
 ごくんと息を呑む音が部屋に響いた。それがどちらの音なのかもわからないくらい、俺の頭は真っ白になっていた。
 ずっと耳に触れていた指先を動かし頬をなぞった。
 下を向いたままの野々村の額に唇を押し当ててみた。瞼に頬に、キスをした。顔を上向かせる。ぽってりとした唇だ。人工の艶は消えている。ケーキと一緒に野々村のお腹に飲み込まれていったみたいだ。
 そこに自分の唇を当てた。
 拒絶されたらどうしようかとか、そんなことはまるきり考えていなかった。そんなこと、考える余裕なんかまるでない。
 夢中だった。
 何度か角度を変えて唇を合わせてみた。
 熱い。
 頬も。時折かかる息も。触れる唇も。全部が熱かった。
 震える野々村の指先が俺のシャツの腕を掴んだ。そうしないと倒れてしまいそうだと言わんばかりに、縋りつくように掴まれた。
 無防備に開いた唇。そっと舌を忍ばせると、びくっと、その身体が揺れた。顎を引かれた。
「・・・」
「・・・」
「・・・い、や?」
 鼻先をくっつけたままの距離で訊いた。微かに。本当に微かに野々村が首を横に振った。
 頬を両手で包み込んだ。目を合わせると、泣きそうな顔をしていた。
 そっと、もう一度唇を合わせた。
 心臓はとまりそうな勢いで激しく打っている。耳の脈もうるさいくらい打っていた。
 深く合わせて舌を絡ませた。
 野々村はやっぱり尋常じゃないくらい震えていた。
 チョコレートケーキの強い甘さと、コーヒーの苦い味。みっともないくらい長いこと貪欲に味わった。先に唇を外したのは、やっぱり野々村のほうだった。
 野々村は、額を俺の胸に当てると、さくらぎ、と小さく俺の名前を呼んだ。息を吐くみたいにゆるやかな声だった。
 ゆっくりと宥めるように後頭部に掌を這わせた。
 抱き寄せた震える肩。舌に残る野々村の口内の、滑らかな歯や、ぷるんとした舌の感触。でも、直ぐに忘れてしまいそうだ。きっと直ぐに忘れてしまう。
 もう一度確かめたい。
 野々村の顔を覗き込む。野々村は瞼を閉じてじっとしていた。
 そっと顎を上向かせ、再び唇を重ねた。本当のことを言えば、気の強い野々村のことだから、もしかしたら突っぱねられるかもしれないと、ちょっとだけ予想していた。それでもいいやと達観していた。
 一度、キスをしようとして拒まれたことがあったっけ。あれは結構痛かった。野々村が俺に何を望んでいるのかわからなくなって困った。
 でも、懲りない。そんなこと気にしてたら、先へ進むことなんかできない。
 ・・・結構、神経図太いみたいだね、俺も。
 今、腕の中にいる野々村は、こちらのされるがままだった。
 たまらず強く抱きしめた。ふわりと野々村の身体から力が抜けるのがわかった。
 そのとき。
 部屋に流れる音楽も、階下の物音も、俺の世界から全て消えてなくなっていた。俺を取り巻く全てのものが排除された世界に。
 野々村だけが存在していた。


NEXT
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