1.  2.  3.  4.

それはもう、抱えきれないほどの 1.
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 ゆるい上り勾配のつづく道をペダルを踏みしめ自転車を漕ぐ。短めのスカートから覗く太腿は、筋肉を駆使している所為で先ほどからぱんぱんに張っていた。ギアなんかついてない、いわゆるママチャリ。高校入学当時結構なお値段の自転車を買ってもらったんだけど、二年生の夏に盗難にあってしまい、以来これで我慢している。鍵を掛け忘れていたのはわたし。だけど、だからって盗っていいってことにはならないと思うんだけど。母は烈火の如く怒ったね。そんなに怒んなくったってさ、充分反省してるのに。一番悔しくて悲しい思いをしてるのはわたしなんだからね。何だって母親ってイキモノはあんなに言いたい放題なんだろう。あのときのことを思い出すたび納得のいかないような悔しい気持ちが込み上げてくる。
 やっと下り坂だ。眼前に海が開けた。潮の匂いを乗せた風が鼻孔を突く。
 きらきらと、魚の鱗のように光る凪いだ水面が目に眩しかった。
 長く連なる防波堤の下、テトラポッドが並んでいる。自転車を停め、防波堤をよじ登った。
 いた。
 色素の薄い癖のある髪。痩せた身体。白いポロシャツに緑がかったグレイのチェックのズボン。うちの学校の制服を着ている男。
畠山はたけやまっ」
 声をかけると、ぬうっとその男は振り返った。ぬうっとっていう表現がぴたりと合う高校生男児はそうはいない。この男の動作はぬるい。
「待たせたなっ」
 時代劇みたいな台詞を、腰に両手を当て偉そうに言ってみた。
 畠山は振り返ると八の字の眉をさらに下げてにやっと笑い立ち上がった。防波堤の上に仁王立ちしてるわたしの下にのろのろと歩み寄って来る。テトラポッドの上を悠々とした動作で歩けるのもこの男くらいなものだと視線で追った。
 見上げてくる顔は意味深に笑っていた。
 何?
「パンツ、見えっぞ」
「……」
「黒パン、穿いてんのか。つまんねーな」
 ……ばか。
 冷めた視線で見下ろしてやった。
 畠山は身体の向きを変えると階段のほうへと歩き始めた。こちらも道路の側へと飛び降りる。着地した瞬間踵から膝裏までを電流のような痺れが走った。
「いっ、た」
 痛いよ、ちくしょう。
 弱々しい声で呟いた。アスファルトの地面に無数に散らばる細かな砂の粒たち。
 すぐに上半身を起こし、まだ痺れの残る足を引き摺って歩いた。
 畠山の近づく足音が後ろから聞こえてくる。振り向かないで自転車に近寄った。
「行くべえ。北川きたがわさんよ」
 もっさりとした呑気な声だ。
 わたしは振り向かずに片手を挙げた。


 畠山と寝たのは一度だけ。
 今年の夏休みのことだ。
 畠山のテンポのぬるさと、わたしの冷め切った精神─── 畠山や周りの友人はわたしの性格をこう表現するのだ─── は、妙に波長が合い、一年生のときからどういうわけか一緒にいることが多かった。
 でも恋とか愛とか友情とかそんなのとはちょっと違う気がしてた。いまだってそう思ってる。
 誘惑したのはわたしのほうだ。それはほんの少しの好奇心から。
 こいつってドーテーなんだろうか、とか、どんな風にセックスするんだろうか、そういうときでもぬるいのか、とか。そんな安易な探究心から手を伸ばしたら、当たり前みたいに絡め取られ引き込まれてしまってた。このやろう。ドーテーどころの話じゃない。わたしは正直狼狽えていた。
 畠山はそういう行為に慣れていた。
 こいつにカノジョがいるなんて、そんな噂、聞いたことがなかった。高校に入学してから二年半。全くそんなそぶりもなかった。こっちにカレシがいたことを畠山は知ってると思う。一年生のときにひとつ年上の他校の男子とつき合った。顔がかっこよかったので誘われるままつき合ってみたんだけど。あんた何様っちゅうくらい嫉妬深い男で、そのくせこちらにも同じようにヤキモチを妬かせたいのか他の女のコとわたしの前で仲良くする見え見えな態度が鬱陶しくて半年くらいでさよならしてやった。高校時代の消したい思い出ナンバーワンの出来事だ。そのあともうひとり。三ヶ月くらいで別れた男がいる。八歳年上の社会人。これまた見てくれに惹かれてつき合ったものの、年齢差の所為なのか、価値観が元々違っていたのか、全く話が噛み合わないままの奇妙な交際だった。人間顔じゃないと。そろそろ学習してもいい時期かもしれない。
 畠山には未経験者の男特有の飢えた臭いが全くしなかった。よくよく考えてみればそうだった。だから隣にいても安心していられたのだと肌を合わせて初めて気づく。
「畠山、カノジョ、いたんだ」
 自分の部屋のベッドの上で。まだ終えていない畠山を見上げながら途切れ途切れにそう言った。畠山は笑った。わたしの片膝を肩に担ぎ上げた格好で。困り果てたような笑いだ。聞いちゃいけなかったのかと僅かに焦った。でもそれは終わりを迎える前の逼迫した顔なのかもしれなかった。
 部屋は適度にエアコンが効いていたけれど、畠山はたくさんの汗をその身体に滲ませていた。畠山のセックスはそれほどぬるくはなかった。何よりキスが上手かった。優しく落ちてくる唇はどんな言葉よりもこちらを心地よくさせてくれた。
「……いない。いたことない」
 お互い服を着終えたあとに畠山が言った。何のことかと瞬間じっと畠山の顔に見入っていた。畠山の瞳はまだ熱を帯び潤んだままだった。
「ああ。そう。いないの」
その割にはさ。こなれてるよね。
 すっかり温くなってしまったコカコーラで渇き切った喉を潤した。グラスには水滴が滴っていた。
「そういうことをするだけの相手がいるってこと?」
「するだけ?」
畠山はわたしの読みかけの雑誌をぱらぱらと捲っていたが、その瞬間だけ顔を上げた。「いや、違う」
真剣な顔だった。
「ちゃんと好きだ、よ?」
─── ちゃんと好き。
 どきっとした。グラスに纏わりついた水滴をひとしずく。胸に落とされたみたいにすうっと冷たくそれは沁みた。
「でも、カノジョじゃないんでしょ?」
「うん。違う」
「意味、わかんない」
「結婚してんだ」
「は?」
「結婚。してんの」
 わたしはバカみたいにぽかんと口を開けていた。
「え? それって人妻ってこと?」
 畠山は暫し目を合わせたのち、くっと笑った。
「そう。それ。人妻。そういうひとのカレシにはなれないっしょ?」
「……。ふうん」
「……」
「まじで?」
「まじっす」
「人妻ってさ。なんか響きがエロいよねえ」
 ははは、と乾いた笑いがこぼれ落ちた。
 さすがに興味が湧いてきた。世の中には掃いて捨てるほど、若くて可愛い独身の女のコが溢れかえっているというのに、どうしてどうしてよりによって何故に人妻?
 畠山はこちらの質問に淡々と、案外平気な顔で答えてくれた。
 進学塾の講師なんだそうだ。教科は数学。姿かたちの美しい女性で、だけどそれだけじゃなく、難解な問題の解答をまるでりんごの皮むきみたいにくるくるといとも簡単に裸にしていく様がかっこよく、ほとんどひと目惚れだったのだと畠山は説明した。左手薬指に光るリングを見つけたけれど、ちっとも気にならなかったというのだから重症だ。週二回、塾のある日、その数学講師が仕事を終えるのを待ち伏せ、口説き落とし、やがてそういう関係にまで発展したのだとそう言った。
 驚いた。
 こいつにそんな情熱があったなんて。ひとは見かけによらないものだ。
「だけどさ、畠山」
「あ?」
「あんた、そのひとと、どうなりたかったわけ?」
 だって。そういうひとのカレシにはなれないんでしょう?
 畠山はわたしの顔をじっと見る。色素の薄い瞳で見る。それを言うならお前だろ。こんなことしてお前は俺とどうなりたかったわけ? もしもそう訊かれたところでこちらも答えなんか持ち合わせていないのだった。
「どうなりたいか、って。よくわかんないけどさ……」
畠山は本気で当惑していた。「好きだったから。向こうにもこっちを見て欲しかったっていうかさ。ほんと、ただそれだけなんだ。他のことははなあんにも考えてなかったつーか……」
視線を女のコ向けのファッション雑誌に落としたまま語尾は濁した。
 ふうん。
「あー。そう……」
意外と直截的な男なのか。「じゃあ、今も毎週二回会ってんの?」
「いや。今は会ってない」
「何で? ふられた?」
 畠山はくしゃっと笑った。そういうこと言うなよと。笑うばかりでちっとも怒ったりしないのが、またこの男の特徴でもある。
「入院した」
だから会えない。
「入院?」
「そうなんだ。なんか結構重いらしくて、家族のひとが付き添ってる。だからさ、俺がお見舞いに行くわけにはいかないじゃん?」
 八の字の眉尻を下げ、寂しそうに笑うのだった。


「ねえーえー」
「んあー?」
 ハンドルを握っているのは畠山。荷台に座ったわたしの目の前には白いポロシャツに覆われた痩せっぽちの背中が広がっている。やや丸まっている背中。猫背だ。
「お花とかー、果物とかー、そういうのー、買ってったほうがいいんじゃないのー」
 車道を通る車の音にかき消されないように大声を出した。
「あー。そっか。そうだな」
 反して畠山の声は小さい。呟くように喋ってる。よく聞こえるように耳を背中にくっつけてみた。途端、自転車が大きく横にぶれた。
 畠山とつき合ってるの? とよく訊かれる。え? カレシじゃないの? 嘘、ほんと? ってその都度びっくりされる。
 畠山は案外モテる。
 顔なんか、分厚い唇と大きな目が目立つだけのオバQ顔でちっともかっこよくなんかないし、猫背だし、のらりくらりとしているし、何がいいのかわかんないけど、密かに人気者だったりするらしい。世の中に執着していなさそうな何事にも無関心に飄々と生きてる様がいいんだろうかと考える。
 それにしても。
 畠山に思いびとがいたなんて。しかも相手が人妻だなんて。この衝撃的な事実は案外胸に堪えていた。妬いているわけじゃない。そんなんじゃない。でもあれ以来呼吸するたび、何かが気管のあたりに詰まってる気がして仕方なかった。こんなはずじゃなかったのにと歯噛みする。軽はずみに寝たりするんじゃなかったとおおいに悔いてもいた。
 置いていかれた気がしていた。畠山に置いてけぼりにされた感じがして寂しかった。
 可愛らしいディスプレイの施された花屋の前でブレーキをかけ自転車は停まった。
「さすがだねえ、北川ちゃん」
「は? 何が?」
「花を買っていこうなんてさ。よく気づいたよな。俺ひとりだったらさ、手ぶらで行ってたと思うわけ」
「そうかな? フツーのことじゃん」
「そうでもないよ。……君も女のコなんだねえ」
 こちらの頭をくしゃっとひと撫でし、畠山は店の扉を開けた。


 人妻の見舞いに行こうと提案したのはわたしだった。
「わたしと一緒ならさ。家族のひとにも変に思われないよ、きっと」
 会いたいんでしょ?
 畠山はその申し出を一蹴した。
 その場ではそうだったのだ。
 夏休みが明けてもまだその数学講師が退院していないのだと塾で聞き知った畠山が、頼むから一緒に病院に行ってくれないかと頭を下げてきたのは今朝のことだ。
「いいよ。行こう」
「サンキュ」
「だけどさ」
「ん?」
「あんた、大丈夫?」
 畠山の顔色は悪かった。
 わたしたちは受験生だから。青っちろい顔したやつらは教室じゅうにいるし、元々畠山は色の白いやつなんだけど。それにしてもと思うような青ざめた色合いだったのだ。いや。肌の色そのものよりも顔つきが暗かった。塾で何かよくない噂を仕入れたに違いなかった。
「だい、じょう、ぶだぁ」
 どこかで聞いたことのある台詞を、ふざけたリズムと口調で返してきた。バカめ。
「ならいいけどさ」
 あんま心配かけんなよ。そう言って背中をはたくと、へらへらとまた当惑したみたいに笑うのだった。
 
 
 病院は病院独特の臭いがした。
 寝床に染み付き取れなくなった体臭のような、病人が洩らす吐息のような、菌を殺す為撒き散らされた大量の消毒液の噴流したあとのような、それら全てが混じり合った臭いがした。臭気だけじゃなく、ここに長いこと閉じ込められたひとたちの重く濁った気持ちの塊がそこらじゅうに徘徊しているようで、こちらの気持ちもなんだか下へ下へと引っ張られていくのだった。
 大きな総合病院。電力消費を抑えようとしているのか、なかはやや薄暗かった。
 畠山は塾の誰かにあらかじめ聞いていたのだろう、病棟も病室の番号も受付で訊ねることなくローファーの足を進めていった。わたしは黙って三歩後ろの辺りをついて歩くだけ。かける言葉なんかなかった。
 自転車から降りる際盗み見た畠山の顔からは、笑みというものが一切掻き消えていた。
 怖いよ、あんた、まるで幽霊みたいじゃん。幽霊が病院になんか来たって無駄だって、手遅れだって、追い返されちゃうからさ。もっとこう、明るい顔してくんないかな。
 いつものようにさらっとおちゃらけてそう言えばいいんだろうけど。そんな言葉もかけられないくらい畠山は全身に負の影を纏っていた。
 参った。参っちゃったな。こんな重い雰囲気になるなんて。
 前を行く暗い背中がやがて動きを止めた。
 畠山は壁をじっと睨みつけていた。何だろうかとわたしも並んで視線を遣ると、睨みつけられていたのはクリーム色のネームプレートだった。
 『川原貴和子』
 カワハラキワコ。
 そう読むのだろうか。ひとり分の名前しか出ていない。個室なのかもしれなかった。
「ここ?」
 上目遣いに訊ねたけれど、畠山からの返事はなかった。ちょっとひとの話聞きなさいよ、と。大声で詰ってやりたくなったけどもちろんそんなことはしない。畠山、なんだかいまものすごく可哀相に思えるから。
 ドアは開いていなかった。クリーム色の大きな引き戸は何故かとても重そうに見えた。少なくともわたしの目にはそう映った。
 畠山はわたしがいることなんか忘れたみたいな顔でただただ眼前に視線を注いでいた。ここへ来た目的さえも忘れたみたいに、じっとネームプレートを見つめているばかりだった。腕に抱えられた花束が不安そうにかさかさと音を立てて揺れていた。店員さんにお任せで作ってもらった二千円分の花束。黄色いバラが風に吹かれたみたいに揺らめいていた。ここは室内なのに。なんでなんだろうと首を傾げた。
 はっとした。
 視線を畠山の足先から頭のてっぺんまで全身に走らせる。
 震えていた。
 畠山は震えていたのだ。
「畠山?」
思わずその腕を揺らしていた。「ちょっと、あんた大丈夫なの?」
 ゆっくりとこちらを向いたふたつの目は虚ろだった。やだ。と、非難するような声で口走っていた。
「ね、帰ろ? 無理ならやめとこ? 帰ろうよ、ね、畠山?」
 自分の声の必死さに驚く。
「……あ?」
 畠山はやっと自分を取り戻したような顔に戻ると、硬い表情のまま笑顔を見せた。分厚い唇が歪んでいた。唇の動きだけで、
「だい、じょう、ぶ」
そう呟くと、そのまま手を伸ばしてドアを引いた。ドアは案外軽く滑らかに開いてわたしは目を見開いた。
 狭い部屋だった。
 視界に映ったのはベッドの半分、足元側の部分と、それから椅子に座ったスーツ姿の男のひと。眼鏡を掛けた三十代後半くらいの、一度会っただけならすぐに忘れちゃいそうなタイプの大人の男のひとだった。このひとがカワハラキワコさん─── 畠山の思いびと─── の、夫にあたるひと、なのだろうか。
 男のひとはわたしたちに気がつくとさっと腰を上げた。眼鏡の奥の細い目が畠山だけを見つめていることに、そしてそこにただならぬ強さがあることに気づき、心臓がたちまち高鳴った。
 畠山は一旦足を止めて男のひとに頭を下げるとあとはずんずん中へと入っていった。いい根性してるよな、と内心呆れる。わたしのほうはと言えば、ただ畠山の後ろをついて行くのみだ。
 点滴が見えた。銀色の棒に吊るされた黄色い液体の入った点滴のパック。わたしはぼんやりとそれに目を奪われる。下へ伸びる長い管は細く白い腕へと伝っていた。その腕から枕元へと視線を這わせた。
 ベッドに横たわる女のひとは上向いていて、わたしたちが来たことに気づいていないようだった。寝ているのかもしれない。ベッドの上だというのにアイボリーのニットキャップを被っていた。
 そうか。そういうことなんだと拳を握る。苦い思いで全身がいっぱいになった。畠山の顔を見ることはもうできそうになかった。
「キワちゃん、生徒さんが来たよ」
 優しい声が語りかける。
 カワハラキワコさんは透けるように白い顔を少しだけ上げて、ああ、と言った。わたしの顔を見て、畠山の顔を見て、それから口許を嬉しそうにほころばせた。唇に色は無かった。
修平しゅうへい、くん」
 修平君?
 修平って誰だ?
 それが畠山の下の名前だと気づくまでにわたしは長い時間を要した。
「来て、くれたの」
胸が潰れるかと思うくらいうすく儚い声が響いた。


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