1.  2.  3.  4.

それはもう、抱えきれないほどの 3.
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 あっついなあ。
 もう秋だと言ってもいい時期だというのに、昼間の陽射しは異様に熱を持っている。じりじりと腕に痛い。
 体育の時間。
 三年生ともなれば体育際後の体育の授業なんて殆ど自習みたいなシロモノだ。体育教師のほうもやる気があるんだかどうだかよくわかんない顔で、バレーボールで戯れているダラダラモードのわたしたちをただぼうっと眺めているだけだ。いいんかい、そんなんで。給料ドロボーめ。と思いつつこちら側もやる気は全く起きないのだった。
千夏ちなつ、痩せた?」
 女子の中では比較的仲の良い友人の豊田とよたに耳打ちみたいな小さな声で話しかけられた。
「えー。どうだろ。そんな風に、見える?」
「見える」
 上から下まで舐めるように視線を這わされた。半袖の体操服。下はハーフパンツ。お色気とは程遠い格好だ。
「ね。千夏、噂、すごいことになってる」
 噂?
「何?」
「畠山といくとこまでいっちゃってるって」
「え? わたし?」
「他に誰がいんのよ?」
 じとっと。睨めつけられた。
 そう言えば。豊田も畠山に密かに、でも微かに思いを寄せる人間のうちのひとりだった。微かにというところがミソで、所詮みんなが畠山に寄せる思いなんてその程度のモノなのだった。それは、でもちゃんと畠山のほうに原因があって、どうせ思いを募らせ猛烈なアタックを仕掛けたところで、畠山という男はのらりくらりと交わすだけで一向に応えない、そういう理由から皆の淡い恋心はさらに希薄になっていくのだった。
 だから畠山がわたしとそういう行為にまで至ったということはとても稀有な例だとも言えるなと、わたしはふと考え込んでしまっていた。
 否定しないわたしに豊田の顔色が変わる。
「え。まじなの?」
「え。まさか」
 これは嘘だ。
「だけどあんたたち、最近前にも増してべったりだよね」
「そうかな」
 教室では普段どおりだ。というか、前より互いに無口になっているかも。
「自転車にふたり乗りしてるって」
「ああ。それはね、ほんと。ときどきだよ。知り合いのお見舞いに行ってるの、S病院に。あそこって遠いじゃん?」
「S病院? あの山の上の?」
「山の上って。そこまで遠くじゃないよ」
 豊田は束の間沈黙を落として、それから不審気な声でふうんと唇を尖らせた。
「ねえ、好きなの?」
「ええ? 誰を?」
 豊田の顔があからさまにむっとした表情になった。
「畠山だよ。誰の話してると思ってるのよ、さっきから」
「いや、そいういうのとは違うから」
「よくわかんないよね、千夏のそういうとこ」
「メンクイなんじゃん?」
 つい視線をグラウンドの少し離れた位置でサッカーをしている男子チームに送っていた。畠山がどこにいるのかは直ぐにわかる。猫背でテレテレしてるから。
 ぷっ、と豊田が吹き出した。こいつも相当失礼だ。
「だけど、あれでしょ? 最近、他の女子の風当たり強いでしょ?」
 わたしはじっと豊田の顔を見つめた。それほど大きくはないけれど黒目がちな目。顎がきゅっと締まった小動物みたいな可愛い顔立ち。
「ああ。それ。なんだ原因は畠山だったんだ……」
 うちの高校はカワハラ氏が勤める西高より少しばかり偏差値は落ちるけれど、それでもれっきとした進学校で。だから三年生ともなれば受験のほうに力が入ってくるので必然的にいじめというかシカトというかそういう現象は薄くなるのだけれど、最近どうにもその対象にされている気がしてならなかった。何でだろうと思いつつ、まあいいやと泰然と余裕をカマしていたのも本当だ。
 くだらないと思う。すごく幼稚でくだらない行為だ。こっちをシカトしてくる女子よりも畠山との繋がりを大切にしたいと思うのはこれはもうわたしには当たり前のことだった。
 わたしはキワコさんの病室を思い出していた。キワコさんの匂いのする病室。狭く息苦しい場所。ベッドサイドの点滴装置の形。ふたつ並ぶ小さなスツールの色や細かな傷の形まで思い出せる。
 だけど相変わらずキワコさんの顔はのっぺらぼうなままだった。どうしてだろう。実体がつかめない。
 本当のことを吐露すれば、もう行きたくない、行くのが辛いというのが本音。
─── それまではここへ見舞いに来てやってもらえますか。
 もしわたしがもう行かないと言い出せば、畠山も行かないだろうなと。どこかで確信していた。
「ちゃんとコイビトだって言えばまだね、みんなも救われるんじゃない?」
「え。意味わかんない」
「あんたたち、そういういのとは違う別のところで繋がってる感じがしてさ。なんか近づけないっていうか、危ない感じよ」
「……」
 体育教師がこちらをじっと睨んでいたのでふたりで肩を竦めて距離を取り合った。豊田が転がっていた白いボールを拾って軽く弾く。両手を組んでこちらも軽く手首に当てて返した。ボールは日の光を受け白く輝きながら孤を描いた。


 その日、訪れた部屋にカワハラ氏はいなかった。
「今日は職員会議があるって言ってたから。長引いたら来ないかも……」
 キワコさんは別段寂しそうにもなく話す。わたしは聞きながらあのカワハラ氏がここへ来ないなんてことが有り得るのかと首を捻っていた。
 こうなると邪魔者はわたしひとりだ。
 どちらにしてもわたしは殆どこの部屋には留まらない。カワハラ氏はいつだって畠山とキワコさんをふたりきりにすべくわたしを外へと誘い出す。変な夫婦だ。大人ってみんなこうなんだろうか。
「ちょっと下の売店に行って来る」
畠山にそう言いながら、つとキワコさんへと顔を向けた。「……何か必要なものがあれば買ってきますけど?」
 キワコさんは微笑みながら首を横に振った。初めて来たときとそれほど変わらない頬の線。顔色。畠山と会えるようになってキワコさんは元気を取り戻してるんじゃないだろうか。そこまで思って、わたしたちがここへ来る意義を無理矢理見い出そうとする浅ましい自分に気づきはっとした。今の想像はカワハラ氏をあまりにも愚弄している。
 わたしは畠山ともう一度視線を合わせてから部屋を出た。
 どれくらい時間を空けて戻ればいいんだろうかと考えつつエレベーターへ向かう。黒いローファーに膝の下まである紺色のソックス。チェックのスカート。紺色のブレザー。制服は夏服から冬服へと変わっていた。
 いつもどおり二十分とか三十分とかそれくらいの時間で戻ればいいんだろうか。
 まさか病人相手に畠山だって変な気は起こさないだろうし、そこまで気を遣うこともないのだろうけど。わたしはカワハラ氏がいないのにあのふたりを病室にふたりきりにさせてしまった自分の迂闊さに気づき、妙な胸騒ぎを覚えていた。


 この病院の売店は某コンビニの看板を掲げていた。青と白と緑の線に青い英語の文字が走る見慣れた看板。最近の病院はみんなそうなのだろうか。二十四時間営業なのかどうかはわからない。いくらなんでもそれはないか。きっと消灯時間くらいまでだろう。
 本の並ぶコーナーへと足を向ける。
 女のコ向けの漫画を手に取った。そう言えば最近漫画というものを読んでいない。ぱらぱらと捲ると懐かしい絵に目を奪われた。少しの間漫画でも読んで時間を潰すことにした。


 エレベーターから降りる瞬間、カワハラ氏の姿が見えた。あ、来てたんだ。そう思ったが、声をかける間もなくカワハラ氏はエレベーターの前を横切り凄い勢いで廊下を大股で、病室とは反対の方角へ歩いていく。
 驚いた。わたしの知っているカワハラ氏はどんなときも落ち着き払った大人の男のひとだった。あんな、感情を剥き出しにした歩き方をするようなひとではない。
 エレベーターの箱から出、唖然とした思いで視線を当てた背中は談話室へと消えていく。わたしは一旦談話室とは反対側のキワコさんの病室のほうに視線を送り、それからカワハラ氏のほうへと足を進めた。
 がんっ、がんっ、と。
 強烈な音が廊下に響いた。
 びくっと。足が止まる。
 音の主はカワハラ氏だとすぐにわかった。胸が騒いだ。
 足音を忍ばせ、そうっと顔だけ覗かせた。
 カワハラ氏は両手を丸いテーブルの上に突いた格好で項垂れていた。足元には倒された椅子が二脚。わたしの場所からはカワハラ氏の後ろ姿しか見えなかったけれど、カワハラ氏の背中が震えていることだけははっきりとわかった。
 胸の奥にどろどろと胃液がせり上がってくるような嫌な感触がした。
 束の間カワハラ氏の背中を吸い寄せられるように見つめていた。
 膨れ上がっていた。
 グレイのスーツに包まれた背中が。
 それはもう抱えきれないほどの痛憤と焦燥と悲嘆と憎しみと堪えきれない煩悶に、カワハラ氏の身体が耐え切れなくなって内側からひと息に膨らんでいるように、わたしの目にはそう映ったのだ。
 抱えきれない。
 もうとても抱えきれない─── 。
 がくがくと膝が震えた。二歩三歩と後退さる。沸騰したみたいに頭の中は混乱していた。
 踵を返すとキワコさんの病室へ向かった。
 ドアの前に立ち、中の様子を窺うことなくいきなりドアを強く叩いた。
「畠山っ」
 自分で開けることもできないくせに強気な口調で名前を呼んだ。
 ややあって、すうっと扉が開いた。
 畠山はわたしの勢いに驚いたような顔をしていた。何? と、唇の動きだけで問いかけてくる。
 着衣に乱れがあったわけじゃない。でも。畠山の目は熱を帯び潤んでいた。夏休みの。わたしの部屋で。抱き合ったあのときと同じように。
 さあっと全身が粟立った。
 唇を開こうとしたけれど、思うように動かない。
「……な、……」
「え?」
「……なに、して、たの?」
 自分の声じゃないみたいだった。喉に張り付いたそれを無理矢理剥がしたような声。畠山は何も言わずにこちらを見つめ返してくるだけだ。
「カワハラさん、来てる、んだよ?」
 大きく目を見開く畠山を押し退けるとずかずかと中へ入っていった。
 キワコさんはいつもどおりの場所にいた。ベッドの枕もとの部分を斜めに上げそこに身体を預けた格好で、呆気にとられた表情でわたしに目を当ててきた。
 その頬がいつもより少し赤味がかっていた。
 金縛りにあったみたいに全身が凍りついた。胸が苦しい。息ができない。この部屋は空気が薄すぎるのだ。
 はあ、っと。大きく深呼吸した。涙が出そうなのだと気づいてバカみたいだと思った。バカみたいだ。ここは泣くべきとこじゃない。
 わたしは畠山に向き直ると、どんっ、と右手でその胸を突いた。強く。思い切り。二度突いた。畠山は軽く後退しつつもその姿勢も表情も崩そうとはしなかった。
「さい、てー……」
 ただ互いを抱きしめ合ってただけかもしれない。口づけを交わしていただけかもしれない。
 ふたりは互いに好意を寄せ愛し合っているのかもしれない。
 だけど。
 だとしたら─── 。
 カワハラ氏の全ての感情を無理矢理押し込めようとする膨れ上がった背中が過ぎり、わたしの頭は再び混乱しそうになった。
 俯いた視界に映るのは畠山のローファーの靴と制服のズボンの裾。
 誰も身じろぎひとつしなかった。
 耳が痛くなるくらいしんとした部屋。鼻を突く薬品の臭い。じめっとまとわりつく湿気た空気。キワコさんが洩らす不規則な呼吸の音。泣きたくなるほど重かった。どうしてわたしはここにいるんだろうと、今更ながら思うのだった。
「帰ろ……」
 わたしはゆっくりと顔を上げた。畠山と目を合わせ全身を震わせながらその言葉を口にした。
「帰ろう、畠山」
 畠山は目を閉じ頷いた。ふたり分の通学用の鞄を手に取り肩にかけると、突っ立ったままのわたしの背中をそっと押した。柔らかい掌だった。畠山はキワコさんに向かって頭を下げていたけれど、わたしはそうしたくなくてただ前を向いていた。


 駐輪場に辿り着くと畠山は鍵を外しいつものように自転車に跨った。わたしはそこを素通りしていく。ずんずんと歩きながら病院専用の整備されたアスファルトの道路を下る。かちゃかちゃと自転車の部品の擦れる音が後ろからついて来ていた。
 青白い街灯の下を歩いた。
 自転車ではひと息に下れる道が、歩いているとどこまでも果てがないように思えて、一体自分はどこへ向かっているのだろうかと考え怖くなった。車が一台、病院目指して昇っていく。
「どう、して……」
 わたしは前を向いたまま後ろの畠山に話しかけた。
「え……?」
 畠山が追いついてくる。わたしは立ち止まらずにつづけた。
「どうして畠山は、あのひとじゃないとだめ、だったの?」
 わたしは間違えたのだ。
 夏休みのあの日。畠山に言うべき言葉を間違えた。
 畠山は何も答えない。
 唇をきゅっと引き結んで前を見ていた。畠山にはこの道の先にある果てが見えているのだろうか。
「ねえ。答えてよ」
─── カノジョ、いたんだ。
 そうじゃない。
 あんなこと言わなくてよかったのだ。わたしを畠山のカノジョにしてよ、と。ただひと言そう言えばよかったのだ。
「結婚してるひと、なんだよ? 何考えてるのよ畠山。あんたちょっとどうかしてるんじゃないの? 自分のやってること間違ってるって、自分とあのひとがどうかなっちゃえば傷付くひとが絶対いるんだって、そういうことちょっとくらい考えなかったの?」
 畠山はきっと嫌だとは言わなかっただろう。あんな状況で断れるようなやつじゃない。畠山はあっさりとわたしをカノジョにしてくれたに違いない。キワコさんのことには少しも触れないままで。
「なんとか言いなさいよっ、畠山っ」
 そうすればよかったのだ。そうすれば今頃わたしたちは普通の高校生らしい交際を執り行い、いずれ畠山はキワコさんの訃報を耳にすることになるかも知れないけれど、でも、キワコさんの病んだ姿を見ることもない畠山はそれ程の悲しみに暮れることもなく、やはりわたしは畠山の中のキワコさんの存在を微塵も悟ることなく、こんな抱えきれないほどの重く苦しい思いに胸を押し潰されることもなく、普通のありふれた日常を送ることができたに違いなかった。
「……助けてって」
 畠山は自転車のハンドルを手に前を向いたまま口を開いた。下り坂なので指先はブレーキを握っている。きゅっきゅっと力を入れたり抜いたりを繰り返しながら前へ進んでいる。
「助けてって、そう言ってたんだ」
「……は?」
「ひと目惚れはほんと。だけどこっちだってあんな綺麗でしかも結婚してるひとに声かけるような勇気、ないよ。だけど……」
 だけどさ─── 。
 悪いのはわたしだ。
 悪いのは、畠山の心に踏み込み、病院に行こうと安易に誘ってしまったわたしなのだ。
「初めて会ったとき、こっちがぼうっと見惚れてたら、それに気づいたのかな、向こうもじっと見返してきたんだ。真っ直ぐに、見返して来られて。そのときの目が、なんていうか、泣いてるみたいに見えたんだ」
「助けて…って?」
 畠山はうん、と頷いた。
「……そう言ってるみたいに、見えた」
 わたしは思い切り息を吸い込んだ。そうしなければ窒息しそうだったのだ。喉がひゅうっと大きな音を立てて自分でも驚いた。
 畠山は前を見ていた。
 かちゃかちゃと、古いママチャリが音を立てる。
 道は公道へと出た。車が何台も行き交っている大きな道路。
「乗る?」
 そう訊いてきた畠山の顔を見ることは、わたしにはもうできなかった。
「ごめん」
「え?」
「ごめん、ね、畠山」
 畠山が足を止めた。道路も畠山の顔も、自転車も。全てが滲んで見えていた。
「ごめん……」
 畠山はこちらの顔を覗き込んで、怪訝そうな声で訊いた。
「なんでお前が謝るの? ってか、何で泣くんだよ?」
 わたしは首を横に振った。もう一度ごめんと謝り涙を拭うと自転車の荷台にお尻を乗せた。
 風はひどく冷たくわたしは畠山の後ろでずっと凍えそうに震えていた。
 畠山の身体に頬を寄せることはできなかった。もう。二度とできない。
 家が近づいて来たあたりで、もうわたし、あそこへは行かないよ、畠山の背中にそう話しかけた。畠山はうん、とひと言返してきたきり何も言わなかった。どんな顔をしていたのかも。わからなかった。


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