1.  2.  3.  4.

それはもう、抱えきれないほどの 4.
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 学校からの帰り道。
 家には真っ直ぐ帰らず県道沿いの図書館へ寄るのがここ最近の日課になっていた。一応受験生だ。センター試験まであと二ヶ月。最近はキワコさんのこともカワハラ氏のこともあまり思い出さなくなっている。畠山とも。あれ以来まともに話をしていない。時折目が合えば笑ったりはするけれど、その程度だ。だからわたしが行かなくなって以降、畠山がたとえひとりでもキワコさんのお見舞いをつづけているのかどうかをわたしは知らない。
 二階へ上がり、いつもの席が空いていたのでそこへ荷物を置いた。ここは比較的あたたかい。首に巻いていたマフラーと羽織っていたカーディガンとを脱いで椅子の背凭れに掛けてから腰を下ろした。自転車だと首がすうすうするのでマフラーは秋冬には欠かせないアイテムなのだ。
 しんとしている。空気は乾燥しているし。なんだか耳鳴りがしそうだと思う。
 暫く勉強に没頭していた。
 鞄の中で震えている携帯電話に気づいたのはかなり時間が経ってからのことだ。
 学校指定の紺色の鞄からそっと電話を取り出した。その途中で震動は止んでしまった。
 メールではなく電話。畠山からだった。三度、立て続けに着信履歴があった。
 胸騒ぎがした。
 多分。
 予感は当たっているだろう。
 席を立ち、階段を降り、エントランスを抜けた。わたしとは別の大人の男のひとがひとり携帯電話で話をしていた。それから喫煙者もひとり。室内とは別の乾燥した匂いが鼻をつんと突いた。ボタンを押す指先は震えていなかった。
「もしもし。わたし」
『……』
 電話の向こうで畠山は束の間沈黙していた。車の行き交う音がする。わたしがいるここもそうだ。畠山は案外近くにいるのかも知れないと思い、辺りを見回した。
「畠山?」
『うん』
「どうしたの?」
『……』
 学校からこの図書館へ通じる道沿い。学生服姿の男のコはぽつりぽつりといるけれど、畠山らしき人間はいなかった。猫背でゆっくりと歩く姿はどこにも見えない。
「……キワコ、さん?」
『……うん』
「そう……」
と。小さく返した。他に、どう言えばいいのだろうか。
『さっき、電話があった。……昨日の深夜、だって』
 そうか。カワハラ氏から畠山に電話があったのか。
「大丈夫?」
「……」
 こちらの問いかけの意味が瞬時には伝わらなかったらしい。やや間を置いて、
「ああ。大丈夫」
そう返ってきた。口ぶりは確かにしゃんとしている。
「……お葬式、いつ?」
『明日の昼。今から通夜だって』
「わたしたち、お葬式には出られない、よね」
 明日は学校がある。カワハラ氏の仕事柄おそらくは学校関係者が大勢参列しているであろうお葬式にわたしたちが制服姿で行くわけにはいかない。家族じゃないんだから。
「お通夜に出よ、畠山」
『……』
「どこであるの? っていうか、あんた今どこにいるのよ?」
 畠山は大きな葬祭会館の名前を口にした。それから、いま自分は海にいるのだと言った。
「海ぃ? この寒いのに、何だってそんなとこにいるのよ。風邪ひいたらどうすんのよ。あんた受験生なんだよ?」
 一気に捲し立てた。やはり暫しの沈黙ののち、はは、と久しぶりに聞く曖昧な笑い声が耳を撫でて胸が苦しくなった。
「ばかっ。笑ってる場合じゃないってば。自転車で迎えに行くからさ。待ってて」
 わたしはケータイを切ると、中へ入り階段を駆け昇った。


 通夜は厳粛に執り行われていた。
 ここへ来る途中の百円均一の店で数珠と香典袋を「さすがだね、北川ちゃん」と畠山に半ば呆れ半ば感心されつつわざわざ買ってやって来たというのに。わたしたちは結局最初から最後まで後ろの壁際に突っ立っていただけだった。焼香の列に並ぶことさえも、畠山は首を横に振って拒んだのだ。
 畠山はキワコさんの死に顔を目にしたくなかったのだろうと思う。
 カワハラ氏はずっと泣き通しだった。喪主の挨拶もまともにできないほどに。きっと唇の横の傷跡も歪みっぱなしに違いなかった。
 祭壇に飾られた遺影の、健康だった頃のキワコさんをぼんやりと見つめる。きりりとした美しい顔で笑っているキワコさん。とても印象深い顔立ち。なのに、ここを出てしまえばすぐに、再びもとののっぺらぼうな存在になってしまうのだ。カワハラ氏の地味な作りの顔はいつだって思い出せるのに。
 わたしは結局最後までキワコさんという人間の心がわからないままだった。一体彼女が何を望んでいたのかも。畠山のことをどれくら好きだったのかも。心の襞を垣間見ることすらできなかった。
 最後まで。
 好きにはなれなかったな、と思う。
 カワハラ氏の労しいまでの啼泣ぶりにそこかしこから同情の声が上がっていた。奥さん、まだお若いのにね、とか。美しい方だったものね、とか。ご主人、大切にしていらっしゃったものね、とか。奥さん、ご主人の教え子さんだったんですってよ、とか。そこに少しばかりの嘲りの匂いが混ざっているのもまた真実だった。カワハラ氏は失笑されても仕方がないくらいみっともなく泣き崩れていた。どこまでもみっともなく不憫で哀れなひとりの中年の男だった。
 涙に暮れているカワハラ氏の顔を、わたしは一生忘れない。


「畠山はあれからキワコさんのお見舞いに行ったの?」
 葬祭会館からの帰り道。自転車には乗らないで、わたしがハンドルを握り押して歩いていた。夜の風は夕方よりもさらに冷たくなっていて、肩はがちがちに強張っていた。
「いや。でも、おととい電話があって。家に行った」
「え? キワコさんち?」
「うん」
「カワハラさんから電話があったの?」
「うん。最後に会ってやってほしいって」
 畠山は泣かなかった。今も。普通の顔をしているように見える。ちょっと元気がないとういくらいで特別悲しんでいるようには見えない。
「話、できたの?」
 畠山は首を横に振った。
「寝てた。と、思う。ずっともうそんな状態だって言ってた」
「そう……」
 そうなんだ。
 国道沿いの歩道。ぶんぶんと轟音を立ててトラックが何台もすれ違っていく。その度顔に強い風が当たる。寒い。思わずマフラーに顎を埋めた。
「名前を呼んでみたんだ」
「え?」
 畠山は笑っていた。浮かんでいるのはまるでいたずらっ子のような笑みだ。
「ずっと目を瞑ったままだったんだけど。カワハラさんが部屋を出たときにそっと耳許で。名前を呼んでみたんだ」
「……」
「そしたらさ。目尻に涙が滲んで。俺の声、聞こえてるんだなって。そう思った」
 キワコさんの寝顔を想像してみる。いつもはのっぺらぼうのキワコさんの顔を懸命に思い出してみる。白い顔。くっきりと線の入った二重の瞼。芯のしっかり通った高い鼻梁。上手く頭のなかで形作ることはできないけれど、寝顔ですら凛としていそうだと、そう思うことはできた。
「……そう」
そっか。
 わたしは訳もなく二度そう呟いた。鼻の奥がつんと痛かった。
 顎をきゅっと上向かせた。視界がぼんやり滲んでいくのを畠山に知られたくなかった。歩く速度が少しばかり速くなるのはこれはもう仕方ないことだ。
 名前を呼んだ。
 と、畠山は言った。
 キワコさんのことをカワハラ氏は“キワちゃん”と呼ぶ。優しく慈しみのこもった声で自分の妻を“キワちゃん”と呼んでいた。
 畠山はキワコさんのことをどんな風に呼んでいたのだろうか。そう言えば、一度も聞いたことがなかった。
 トラックが猛スピードで通り過ぎていく。
 夜風をまともに顔に受けながら。
 そんなことを思っていた。



 
 あれから七年。
 わたしたちはすっかりいい大人になってしまった。
 大学生になってからは一度も連絡を取り合っていなかったというのに、どういうわけかいま、母校である南高にふたりして勤務しているのだから笑える。わたしは養護教諭、いわゆる保健室の先生として。畠山は数学教師になっていた。
 わたしはともかく、畠山が高校教師になるなんて思ってもみなかった。こいつはいい根性してる、と思う。カワハラ氏と同じ教職に就くなんて。どこで会うかわかったもんじゃないのに。ひょっとしたら同じ学校に勤務する可能性だって充分有り得るのに。だけど案外ふたりは今でも連絡を取り合っているのかもしれないと、そんな風に想像することはあった。もしそうだとしても何ら不思議ではない気もするのだ。
 あれから畠山とは一度も寝ていない。キスもしていない。なのに生徒たちの間でわたしたちは、つき合っていると噂になっているらしかった。
「センセー、畠山とつき合ってんのー?」
 高校生のときとおんなじだ。変わらず同じ質問を受けている。
 畠山はいまどんな恋愛をしているのだろうか。こちらから訊ねない限り自ら語るような男ではないのでよくわからない。
 わたしのほうはと言えば相変わらずで。見目の良さだけで選びつき合う男は皆どれもロクデナシばかりで長くはつづかない。そんなことを懲りずに繰り返している愚か者だ。
 人間はどうしてだろう。わかっていながら同じ過ちを何度も何度も繰り返す。
「あのコ、似てるよねえ」
 隣に佇む畠山に話しかけた。
 保健室から見える中庭。学生服を着た背の高い男女。一緒にいるところをよく見るのでおそらくはカップル。高校生カップルか、いいねえ、としみじみ思うわたしはもはやおばさんだ。
「……似てる?」
「似てるでしょ? わたし、初めて会ったとき、心臓止まりそうになったもの」
「あー。そう……」
 カップルの女のコのほうは美しい顔立ちをしていた。きりっとした眉。その下の左右非対称な大きな目は、くっきりとした二重瞼でやや目尻が垂れている。すうっと伸びた高い鼻梁。ぽってりとした唇。
 わたしのなかでいつまでものっぺらぼうな存在のカワハラキワコさんの顔が、彼女に会うたび実体あるものに変わる。
「もしかして─── 」
目を細め、本気で言っていた。「生まれかわり?」
 ぶはっと。畠山が吹き出した。
「あほか、おめーは。マジで言うなよ」
「だって」
「年齢的に合わないだろ。あいつ、七歳なんかじゃねーぞ」
「そりゃそうだけど」
 畠山が女のコに視線を当てながら言う。
「……似てないよ。あいつは」
「知ってるの?」
「授業、持ってるから」
「ふうん」
 なんだ。そうなんだ。
「全然似てない」
「……」
「数学が致命的にできないんだ、ノノムラは」
 そういえば、りんごの皮むきみたいにするすると難解な問題の解答を裸にしていくキワコさんにひと目惚れしたのだと、畠山はそう言っていたなと思い出す。
 キワコさんが亡くなったあと、図らずも畠山が泣いている場面に出くわしたことがあった。一度だけ。
 浜辺の。テトラポットの上で。声を押し殺して泣いていた畠山。
 わたしは声をかけることができなくて、ただ一心不乱に自転車を漕ぎ家路を辿った。寒い冬の日のことだった。手はかじかみ鼻は詰まり肺は凍るように冷たい空気でいっぱいになっていた。
 あれから七年も経ったのだ。
 いま、隣に並んで立つ畠山は、にやっと口許を緩めて余裕のある顔で笑っている。アホ面、とも言う。
「算数レベルでとまってんだよなあ、あいつの頭は」
 何だ。その言い方は。可愛くて仕方ないみたいに聞こえる。聞いてるこっちのほうが赤くなった。
「ねえ、畠山。生徒に手ぇ出すような真似しないでよ」
「は?」
 思わず見つめ合っていた。
 畠山が曖昧な笑いを貼りつける。
「しないよ」
くいっと顎をしゃくった。「カレシのいるやつなんだぜ」
「いや、それ、あんたが言っても全然説得力ないから」
 一拍間を空けて畠山は曖昧に笑うのだった。
 人間はどうしてだろう。わかっていながら同じ過ちを何度も何度も繰り返す─── 。
 保健室のドアががらりと開け放たれた。
「あー。センセーたち、また一緒にいるう」
「学校でイチャつかないでほしいよねー」
 女子生徒数人の騒がしい声。
「あら、どうしたの? どっか悪いの?」
 白衣のポケットから両手を出しながら生徒たちに近寄っていった。畠山がその脇を擦り抜けていく。ああ。職員室に戻るんだな、と思う。それにしてもなんだって毎度毎度この男はお昼休みになる度ここへやって来るのだろうか。噂になるのも当たり前というものだ。
「ちがうー。体重測らせてえ。うちの体重計、どうも壊れてるみたいでえ、ここのとこ三`くらい多めの数字が出ちゃうんだよねえ」
「それ絶対マジな数字だってえ。あんた最近、丸くなったよー」
 ぎゃはははという豪快な笑い声に保健室全体が包み込まれた。この年頃の女のコの弾け方は並みじゃない。一緒になって笑ってしまった。視線の端に畠山が部屋を出て行く姿を映しながら、会話に加わった。
 ベージュのワイシャツを着た背中が遠くなる。昔より幾分肉の付いた、それでもどこか頼りない細い背中だ。あの後ろ姿が制服に包まれることはもう二度とない。さんざんふたり乗りしたママチャリだってなくなった。免許を取り自分の収入で手に入れた普通車なんかに乗ったりしている。畠山もわたしも七年分歳を取り、その分成長し変わっていった。どんな過去も少しずつ風化され薄くなっていく。消えてなくなることはないとしても、それでも儚くなっていく。
 後ろ手にドアが閉められる気配がした。笑いながら視線を向けてみたけれど、猫背な背中はもう、ドアの向こうへと消えていた。


(完)
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© Choaolte Cube- 2006