1.  2.  3.  4.

それはもう、抱えきれないほどの 2.
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 わたしはバカだった。
 人妻という単語を耳にしただけで、何故だか途轍もなく強烈な中年のおばさんを想像してしまってた。いやらしいビデオに出てきそうな、厚化粧の、やや太目の、身体の肉が垂れ下がり始めた、いかにも恋愛に奥手な男を容易く手玉に取りそうな、そういうタイプのおばさん。
 全然違うじゃん。
 自分の発想力の貧困さが嫌になるくらい、カワハラキワコさんは若く美しくきりりとしたひとだった。
「これ、少し上げる?」
「あ。うん。お願い」
 カワハラ氏がベッドサイドのボタンを押すと、ゆっくりとキワコさんの枕の位置が高くなった。
 たぶん、そんなに歳じゃない。少なくとも、三十代後半に見えるカワハラ氏とは十以上歳が離れていそうに見えた。
 鼻筋が高くすうっと通った、美人の典型みたいな顔立ち。左右の目の大きさが微妙に違うやや目尻の垂れた、でも大きな目だ。くっきりとした二重瞼だし。ぽってりと膨らんだ唇も色っぽかった。
 眉と睫毛は抜け落ちて薄くなっていたけれど、スッピンで、ずっと床に伏していてもこれほどの美しさなのだ。化粧をして身なりを整え教壇に立つキワコさんは本当に綺麗だったに違いないと、その姿は難なく想像できた。
 畠山ってば。そんなひとを口説き落とそうとするなんて。なんて無謀で図々しくて身の程知らずなやつなんだろう。
 わたしは後ろからそっと畠山を睨みつけてやった。
 キワコさんがそんなわたしににっこりと笑いかけてくる。強張る口許で笑顔を作りつつ、ぼうっと突っ立っている畠山の背中を叩いた。
「花」
「あ?」
「花、渡さないと」
「あー……」
畠山は小さく、「これ、どうぞ……」
と呟くように言い、花束をカワハラ氏に差し出した。
「ありがとう」
 カワハラ氏は畠山ときちんと視線を合わせて受け取った。
 どきどきする。居たたまれない。自分から来ようと言い出したくせにとっくの昔に悔いていた。わたしのなかに生まれたささやかな好奇心とお節介な気持ちなんか、この重たい雰囲気にぺしゃんこに押し潰され見るも無残に平たくなってしまってた。部屋が狭いからいけないのだろうか。呼吸することさえも苦しかった。
「お友だち?」
 キワコさんが畠山に訊く。わたしのことだ。振り返った畠山と目が合った。よそ行きの目。わたしを見ているようでビミョウに違うところを見ているような、こんな目をする畠山をわたしは知らない。
「あ。うん。学校が同じで。北川さん」
「そう」
「こんにちは」
 わたしは頭を下げた。ここで普通ならいつも畠山からカワハラ先生の噂聞いてます、とか話すんだろうけど、ふたりの関係を思えばそうもいかない。実際噂なんかそんな聞かされてないし。なので会話はちっとも広がらない。
 掌に汗を掻いていた。
 畠山の背中を再び睨みつけてやる。何か話せよばかやろう。
「キワちゃん」
カワハラ氏は自分の妻をキワちゃんと呼ぶようだった。「これ、活けてくるよ」
 枕元には別の花が活けられていた。茎のぴんと伸びたまだ切り取られたばかりの新鮮そうな花たち。どうするのかと思って見ていると、カワハラ氏は屈みこんで、ベッドの下から別の花瓶を引っ張り出した。うっすら埃を被っている。
 カワハラ氏は畠山の横を擦り抜けるとわたしの前に佇立した。
「わたしだと綺麗に活けられないかもしれない。やってもらっていいですか?」
 わたしだってそんなの、自慢じゃないけど綺麗になんか活けられない。花なんか飾ったことがない。でもこの部屋から逃げ出したい気持ちの強かったわたしはカワハラ氏の申し出に飛びつくように頷いていた。
 カワハラ氏はにっこり微笑むと花束と花瓶を持ったまま部屋を出る。わたしは後を追った。追いながら思った。うしろの部屋に残されてしまうふたりのことを意識しながら。前を歩く茶色のスーツに包まれた広い背中を見つめながら、思った。
 知っている。
 このひとは自分の妻と畠山のことを知っているのだ。
 黄色と白と緑の入り混じった花束と埃を被った花瓶が前を行く。リノリウムの床は歩くたびきゅっきゅっと鳴くような音を立てた。


 花を活けるのには十分とかからなかった。
 そのまま部屋には戻らずに談話室に立ち寄った。ちょっと飲み物でもどうですかとカワハラ氏に誘われたからだ。
 丸いテーブルと椅子がいくつか並べられた空間。壁際に二台の清涼飲料水の自動販売機とアイスクリームのそれが一台あった。談話室にはわたしたち以外の誰もいなかった。
 カワハラ氏は小銭を手に自動販売機の前で暫し逡巡した。
「何がいいんですかね。うちの女子なんかはよく緑茶を飲んでるんですけど」
 うちの女子。このひとも塾の先生なんだろうか。わたしはペットボトル入りのミルクティーのボタンを押した。甘い飲み物が欲しくて仕方なかった。
「それは南高の制服ですね」
 椅子に腰を降ろしたカワハラ氏が襟元の緑のリボンを見ながら言った。
「はい……」
わたしは小振りなペットボトルを振る。「いただきます」
 どうぞと笑うカワハラ氏のほうは見ないでキャップを捻った。
 このひとは自らの意思で自分の妻と畠山とをふたりきりにさせている。それは一体どういうことなんだろうか。
 わたしはそんなことをする大人の男が途方もなく怖い存在に思えて、うまく視線を合わせることができなかった。
 優しそうなひとなのに。態度も声も喋り方もとても穏当で人当たりがよい。畠山をこの病院へと導いたのはわたしだ。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「わたしの妻も南高の出身で。わたしはそこで教師をしてたんです」
 え、と。
「……高校の先生、なんですか?」
「はい。いまは西高にいるんですよ」
「あの、何年生の担任を?」
「三年生を」
「あ、じゃあ、今津いまづとかひがしとか、知ってます?」
わたしは自分の中学時代からの友人の名前を口にした。こういった場合のお決まりの遣り取りだ。
「今津って、今津綾乃あやのですか?」
「そうです」
「今津はわたしが担任してますよ」
 カワハラ氏は目尻を下げて笑った。親しみのこもった笑い。
「えー。そうなんですか。今津ってすんごい堅いキャラでしょう? 彼女見てるとわたしいつも四角い形を想像しちゃうんです。性格も見かけも角ばってて。今もそうなんですか?」
「四角……」
カワハラ氏はくだけた顔であははと笑った。「堅いというか、真面目すぎるというか。勉強はできるし優秀な生徒ですよ、今津は」
 そのあと何人かのわたしの友人の話をした。その間、カワハラ氏は腕時計に何度か視線を落としていた。何を考えそうするのかはわからない。ただその度こちらは心臓を衝かれるようだった。
 話が一旦終わって談話室に静寂が戻った。カワハラ氏はまだ部屋に戻る気配がない。所在無いので活けたばかりの花束の緑の葉っぱに触れてみた。産毛のような毛を撫で摩る。指の腹がちくちくした。
「……妻とは三年生のときに担任になって親しくなりました」
 カワハラ氏はコーヒーの缶を斜めに揺らしながら唐突にけれど静かな落ち着いた声で話し始めた。カワハラ氏の唇の端っこには子供の頃にでもつけたのか古く微かな一センチ程度の傷跡が斜めに走っていた。唇を動かすたびその傷跡が伸びたり縮んだりを繰り返す。
「わたしはその当時もう三十を越えてて、でも独身で、母親とふたり暮らしなものですから尚更女のひとと縁がなくて。妻のほうは学校のなかでも一際ひとの目を惹く女生徒でした。綺麗で勉強もよくできたし快活で。どうして妻がわたしのような者に好意を寄せてくれるのかまるでわからなかった。妻は自分の家族と縁が薄くて、父親の顔を知らずに育ったんです。その所為なんでしょうね。年上の男性に弱かったようでした」
 どうしてこのひとはただ見舞いに来ただけのそれほどカワハラキワコさんともカワハラ氏とも親しくない一女子高生であるわたしにこんな話をするのだろうか。時間を持て余しているからだろうか。
 もしかしたら。このひとはわたしにではなく畠山に話しているのかもしれないと、そんなことを思った。わたしの口から畠山にこの話が伝わることを望んでいるのかも。そう考えたほうがまだ納得できた。
「妻が高校を卒業すると同時に結婚したんです。妻は大学へ進みたがったし勉強もできましたので、いわゆる学生結婚になりましたが」
 わたしはキワコに夢中だったんです。それはもう本当に。片時も離れていたくなかった。
 カワハラ氏は寂しそうに口許を緩めた。
「そのくせわたしの母がキワコに対して執拗な嫌がらせをしていることにはまるで気づかなかったんです」
「……結婚してからも一緒に暮らしていらっしゃったんですか?」
 低く冷静な自分の声にびっくりする。少し非難の滲んだ声色。わたしのこういうところが畠山や他の人間に、冷め切った精神の持ち主と呼ばせてしまう所以だ。でも、心の中はそうでもない。これからどんな話を聞かされるのかと動揺していた。ありていに言えば、もしも畠山のことを責められたりしたらどうしようと怯えてもいたのだ。表面に出ないだけで、十八歳の女のコなんて所詮その程度のものなのだ。
「いいえ。ふたりの生活を邪魔されたくなくて別居を望んだのはわたしのほうでした」
 ぬけぬけとそんなことを言う。でも惚気ているという感じではない。自分を蔑んでいるみたいに見えた。
「あとあと思えばおかしなところはいくつもあったんです。妻の作った洋風な料理と母のこしらえた和食とが一緒に食卓に出ていたり、洗濯物のたたみ方が妻のそれとは違っていたり。暗い顔をしているときだって度々あった。わたしはそれでも、ああ母が自分のいないときにキワコに会いに来たんだろうと、その程度に流してて。嫁姑の仲がよくてよかったなと寧ろ微笑ましく思ってたんです。全くふたりの諍いに気づきませんでした。母は妻に子供ができないことを詰ってもいたようでした」
「……」
 安っぽいテレビドラマのような話だ。つまりは現実にもよくある話なのだろう。自分を当事者に当てはめてみることはできなかった。キワコさんの気持ちを慮ることは高校生のわたしにはできない。
「わたしの仕事が忙しかったのでそれを気遣ってなのかどうなのか、妻は何も話してくれませんでした」
 気づいたときにはもうまるっきり遅くて。妻の心はわたしから完全に離れてしまってた。
 カワハラ氏はコーヒーを飲み干すと立ち上がった。わたしのほうはまだ全部飲み終えていない。オレンジ色のキャップを締めて立ち上がろうかどうしようか迷う。カワハラ氏は缶をゴミ箱に放り込むと、今度は窓際に立った。窓から差し込む橙色の光りがカワハラ氏の表情を見えにくくした。唇の端の傷跡も、見えない。
「別れて欲しいと妻に言われたとき、わたしは恥ずかしいくらい取り乱してその申し入れを撥ねつけました。狂ったように泣き叫んで言ったんです。キワコに向かって。死んだって別れるものかと。そう言ったんです」
 廊下を通るひとは何人もいたけれど、誰も談話室に足を踏み入れてこなかった。カワハラ氏はもう時計は見ない。畠山とキワコさんは何をしているのだろうかとぼんやりと思った。
「妻が病気で倒れたのはその矢先のことでした」
 天罰なんですかね。
 自嘲気味に笑う。
 天罰。とわたしはゆっくりと唇を動かした。それは一体誰へ下された罰なのだろうかと考えていた。
「死なんて言葉を軽々しく使うんじゃなかった……」
 わたしはゆっくりと立ち上がった。椅子が場違いに大きな音を立ててひやりとした。
「妻と担当医と三人で話し合って今はもう延命の為の治療はやめてるんです。薬も痛みを和らげるものだけにして。わたしの仕事が休みの週末は家へも連れて帰ってるんですよ」
「……」
「そのときが近づいたら、仕事は休んでわたしが家で看取ろうと考えてます。三年生の担任にはあるまじきことなんですけどね。……最後はふたりだけで暮らしたい」
「そう、なんですか」
 他に何が言えるだろう。 
 カワハラ氏は明るい顔で笑った。
「それまではここへ見舞いに来てやってもらえますか。あいつも最近は見舞いにくる人間が少なくなって気落ちしています」
 わたしは首を縦に振ることができなかった。ただ細い目を更に小さくして笑う大人の男の顔をじっと見ていた。
 それは。
 畠山をここへ連れてきてもいいと。そういうことなのだろうか。わたしは懸命にカワハラ氏の表情から真意を探ろうとしたけれど、カワハラ氏はわたしのその視線から逃れるように顔を背け談話室を後にした。


 その日わたしと畠山は殆ど無言で帰路を辿った。
 畠山の背中はわたしが話しかけるのを拒絶しているようには見受けられなかったけれど、わたしは口を開くことがひどく億劫になっていた。
 カワハラ氏の滑らかな話し方と、唇の端っこの傷ばかりを思い出していた。結局最後までカワハラ氏の口から畠山の名前が出ることはなかった。別れを切り出された理由さえ、畠山とは無関係であるかのような、そんな話振りだった。
 畠山の背中に頭を預けた。また。自転車が大きく横にぶれた。畠山の背中は夜気に当たって冷えていた。
 カワハラキワコさん。畠山の思いびと。さっき目にしたキワコさんの顔を思い浮かべようとしたけれどどうしてもわたしの頭にはその姿かたちが甦ってこなかった。あんなに綺麗でそのきりりとした美しさに見惚れていたのに。思い出せるのはアイボリーのニットキャップと点滴の管の伝った白く細い腕だけだった。
 わたしのなかのカワハラキワコさんはどこまでも薄平べったいのっぺらぼうな存在だった。


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