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初夏 3.
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 男子バスケットボール部の
三年生対二年生の紅白戦は結局三年生が辛勝した。僅差で負けたというのにちっとも悔しそうな顔を見せなかった桜木は、三年生に髪の毛をぐしゃぐしゃにされたり小突かれたりしながら輪の中でみんなと一緒に笑っていた。
 雨上がりでグラウンドが使用できない為か、他の運動部の生徒や教師も見学に来ていて観客はかなりの人数にのぼっていた。その中に数学教師の畠山の姿を見つけてあたしは笑ってしまった。向こうもあたしに気が付いて目を丸くしたあと苦く笑っていた。
 桜木は奈々子の言うとおり、本当にかっこよかった。
 的確な判断と動作は群を抜いていて、オートメーションのように繰り出される一連の動きの中心に桜木はずっといた。
 何よりあたしが感動したのはそのフォームの美しさだった。シュートする際の弧を描くように伸びる右腕と、地面から離れた瞬間のすっと跳ねるような爪先の形。空中での一瞬の間と地上での俊敏な走り。時折汗を振り払うように首を振る仕草。不覚にも魅了されてしまった。
 でもきっとそう感じていたのはあたしだけじゃない。女バスの後輩たちから試合中「桜木せんぱーい」と何度も声をかけられ軽く片手を上げていた桜木。なんだ。桜木って、あんな顔も見せるんだと、もの凄く複雑な気持ちであたしはその様子を体育館の隅っこから眺めていた。


 で。
 そんなわけで。
 結局あたしは誰も居なくなった教室で、ひとり数学のプリントとにらめっこしている。奈々子とさっちんは試合が終わるとさっさと帰ってしまった。薄情者め。
 やる気は全くわいてこない。プリントの半分から下は全くの空白。頬杖を突いたまま、あと三十分経ってもできなかったらこの状態で提出してやろう、と考えていた。畠山は多分怒らない。若いのに熱血という言葉を全く感じさせないのほほんとした先生なのだ。
 外は日が暮れかけていて、教室は少しだけ橙色に染まっていた。でも、西陽は射してこない。この校舎の窓はやや東南を向いている。
 廊下を誰かが通る気配がした。前方の入り口に人影を感じて顔を上げると、桜木が少し驚いた顔で立っていた。桜木は入り口付近の電気のスイッチに指を伸ばす。ぱちっ、という音と共に教室が白い光で満たされた。
「桜木・・」
 先程体育館で見た格好と同じ。白いTシャツの上に赤いランニングを重ね着して、下は赤いハーフパンツを履いていた。三年生は白だったなと思い返す。文字通り紅白戦だったのだ。
「野々村、何やってんの?」
「何って・・・」
 あたしは黒板に視線を送る。二次不等式のグラフと説明がつらつらと白いチョークで書かれてある。畠山の文字は意外にも綺麗だ。
「何?もしかして数学の補習?」
「うん」
「ひとりで?」
「そう」
あたしは、両手を組んで机の上で肘をぐっと伸ばす。「男バスの試合観てたら取り残されちゃった」
 桜木は首にかけた紺色のタオルで額の辺りをごしごし擦りながら教室に入ってきた。ちょっぴり呆れた顔をしている。あたしは開き直っていた。あたしが数学を苦手としているのは仲間内では有名な話で、勿論桜木だって知っている。
「桜木は?もう練習終わったの?」
「うん」
言いながらあたしの前の席に後ろ向きに腰を降ろした。「タオル二枚持って来てたんだけど、一枚教室に忘れてたから取りに来た」
「ふうん」
 桜木は、プリントを手に取ると暫くそれをじっと見詰めたあとあたしに掌を差し出した。
「もしかして、やってくれんの?」
 あたしは半信半疑で持っていたシャーペンを渡す。
「やらないと帰れないんだろ?」
「うん」
半分白紙で出すつもりでいたことはおくびにも出さない。「ありがとう。助かるっ」
 両手を顔の前で組んで芝居がかった調子で言うと桜木は眉間に皺を寄せた。
「野々村ー。本当はこういのは自分でやらないと意味ないんだぞ。期末も赤点だったらどうすんだよ」
 むっとした。自分のほうからやってくれるって言ったのに何でそんな言い方になる?
「縁起でもないこと言わないで。いやなら、いい。自分でする」
 強気なあたしの口調に桜木の表情は更に呆れ加減を増した。
「何だ。その言い方。・・かっわいくないな」
「知ってるし」
 ぷいっ、とあたしがそっぽを向くと桜木は溜息を落としてプリントを机に置いた。少し考えている風にプリントを見詰めながら、シャーペンの先で机をこつんこつんと突付く。
「これ終わったら帰りにモスで海老カツバーガーおごって。俺、もうさっきから腹減ってて死にそうなんだよ」
 桜木はプリントに視線を落としたままでさらっと言った。それって一緒に帰ろうってこと?
「・・モス?」
「うん。モス」
「マックにしてよ。モスは高い」
 桜木は目尻を下げて笑うと
「いいよ」
 そう言ってさらさらとプリントにシャーペンを走らせる。すごい。そういえば桜木は数学が昔から得意だった。
 あたしの白くて細いシャーペンは桜木の手には似合っていない。ごつごつと骨ばった大きな手。さっきはあの大きなバスケットボールを軽く掴んでいた。
「桜木」
「ん?」
「さっき、桜木ちょっとかっこよかったよ」
 桜木がやや驚いた風に顔を上げた。
「ちょっとだけね」
「・・・」
 桜木は顔を再び下に向けると、なんだ、ちょっとだけかよ、そう言って苦笑していた。
 放課後の校舎は教室も廊下もしんとしていた。それとは対照的にあたしの心臓は桜木がこの教室に現れたときからずっと騒がしく動いている。
 息が詰まりそうになって、椅子を引いた。ぎぎいっ、と派手な音が静かな空間に響いて内心慌てる。視線をシャーペンの先端から黒板に移した。
「あ、俺、汗臭い?」
「え」
突然そんなことを質問されてあたしは狼狽える。「あ、違う、そんなことない」
 桜木は首筋をタオルで拭いた。俯いたままの桜木の睫を見詰める。そんなに長くはないけれど、綺麗に生え揃った黒い睫。
 ふ、っと桜木に今の自分の気持ちを伝えてみようかと思った。
 桜木のことが気になること。好きになりかけてるかもしれないこと。
 きっと桜木は笑ったりばかにしたりしないだろう。
 桜木はシャーペンを置くと、あたしのほうにプリントをすっと向けた。
「着替えてくるから、これ書き直しとけよ。さすがに俺の字で出したんじゃまずいだろ?」
「あ、うん」
 桜木はあたしが書き直すスペース分ちゃんと空白をとって公式を書いてくれていた。何て気が利くんだろう、と感心してしまう。
 立ち上がった桜木を見上げる。
「ありがと、桜木」
「いいよ。試合観に来てくれたから。それにマックでたらふく食ってやるし」
「えっ」
 素っ頓狂な声を上げるあたしに、桜木はまた目尻を下げた。
「野々村、すっげえ変な顔」
 冗談に決まってんじゃん、そう言って背中を向けた。あたしは椅子から立ち上がる。
「桜木っ」
 かけた声は思った以上に切羽詰まった響きになってしまった。
 ん?と振り返るとぼけたいつもの顔。
「桜木、あたしね・・」
 あたしの真剣な物言いに桜木の顔からふざけた色が消えた。なに?という表情で桜木はちゃんとあたしのほうに身体を向けた。
 あたしの心臓は爆発寸前だ。掌にじっとり汗が滲んでくる。どう話せば自分の気持ちをうまく伝えることができるだろうか。
 深閑とした時間はけれど僅かで、すぐにばたばたと足音が近づいてきた。ふたりで廊下に視線を送る。
 制服を着た女のコが走ってきて、桜木に目をとめると、
「桜木先輩、ここにいたんですか。みんな探してましたよ」
 息を切らしてそう言った。さっき、桜木を応援していた女バスのコのうちのひとりだ。
 あたしと同じくらいの身長で、でもあたしと違って手足がすらっと長いスタイルのいいコ。運動部のコらしく、身体の線が細いのにかっこいい。ショートカットの髪の所為か、顔がものすごく小さく見える。
 桜木は、
「何?何で探してるわけ?」
と、ちょっと困惑している。
「何してたんですか?」
 女のコは机の横に立つと、プリントをじっと見詰めて、あっ、と小さな声を上げた。一点に視線が集中している。「野々村紗江」の名前に。
 あたしの顔に視線を移したあと、
「野々村さんは、桜木先輩のカノジョなんですか?」
 いきなりそう問うてきた。
「え」
「おい、何言ってんだよ」
 桜木も驚いている。
「だって、村井先輩がさっき、桜木先輩が活躍してるから野々村さんを呼んで来いとかって言ってましたよね」
 ああ、あれ、と桜木が気まずそうに笑う。
「違う、ちがうよ。あたしは桜木とつきあってなんかないよ」
あたしは慌てて、首と右手をぶんぶん振り思いっきり否定した。「全然違う。勘違い」
「あ、なんだ、違うんですか」
 ほっとする女のコ。なんて正直なコなんだろう。きっとこのコは桜木のことを好きなのだ。
「野々村・・」
 桜木が弱々しい声を出した。
「え?」
「お前、何だってそんな、一生懸命否定してんだよ」
 へこむじゃないかよ。俯いてそう言ったように聞こえた。
「桜木先輩、村井先輩が今からまたいつものメンバーでカラオケに行きましょう、って」
「またかよ」
桜木は大袈裟に仰け反る。「あいつ、絶対カラオケ中毒だって」
 今からいつものメンバーでカラオケ。あれ、マックはどうなるんだろうと桜木に視線を送る。桜木はあっさりと、
「でも、俺、今日はだめ。野々村と約束があるから。村井にそう言っといて」
「えー」
 女のコは横目であたしをちらりと一瞥してから、「桜木先輩いないとだめですよ。今日の主役じゃないですかあ」
「だめって言われてもだめ。こっちの約束のほうが先だから」
 素っ気無い。
 廊下にがやがやと賑やかな声が響いてきた。 
 現れたのは女のコふたりと二年生の男のコが三人。その中に村井君もいた。あたしと桜木を見て村井君は間の抜けた顔で、あ、と口を開けた。
「はなみちー、カラオケ、カラオケ」
 ひとりの男のコが桜木の首に腕を回してはしゃぎながら言う。顔は見たことあるけど名前は知らない同い年の男子。
「桜木先輩、他に約束があるそうですよ」
 先に来ていた女のコの台詞に村井君以外のみんながえー、と声を上げる。え?何?数学の補習?という声が聞こえてきて思わず顔がかあっと熱くなった。
 そうか。いつも、このメンバーで練習のあとカラオケに行ってるんだ。桜木には桜木の世界がちゃんとある。当たり前のことなのになんだか当惑してしまう。
 女のコふたりは、一体このひとは誰なんだろうとじろじろとあたしに視線を送っていた。不躾とはこういうことか、と思った。新しく現れたこのふたりも多分一年生だ。
 最初からここに居たのはあたしでここはあたしの居場所の筈なのに、この教室の中で明らかにあたしの存在だけが異質だった。
「あの・・」
居たたまれず口を開いた。「あたし、今日、用事思い出した。ごめん。桜木、カラオケに行ってよ」
 見え透いた嘘。教室中がしんとなる。
「ありがと、これ」
 プリントをひらひらさせると、椅子に座ってシャーペンを握った。
「野々村」
 桜木が机に手を置いた。さっきまであたしのシャーペンを持っていた手。
「ほんと、助かった」
 顔を上げて笑顔を作った。こういうのはすっごく疲れる。早く帰ってほしい。そう思いながら。
 桜木は笑っていなかった。
 ちらっと目が合った村井君は申し訳なさそうな顔をしている。そういう顔はやめてほしい。
「野々村」
「ちゃんと書き直して出すから、心配しないで。行っていいよ、桜木」
 もう顔は上げない。突き放したように言った。シャギーのはいった長めの髪がおそらくは引き攣っているだろう顔を隠してくれる。
 再びしんとなる教室。
 シャーペンと紙の擦れ合う音だけが冷たい空気の中を走る。
「わかった」
桜木の低い声。「・・じゃあ、な」
 桜木の手の甲が視界からす、っと消えた。
 ぺたぺたと響く足音が引いていった。廊下に出た途端、はしゃぐ女のコ達の声。
 その声が聞こえなくなったのを確認してからあたしははーっ、と重い息を吐いた。
 机に腕を伸ばして顔を伏せる。
 また桜木を怒らせてしまったかもしれない。でも。あの状況でどうしろと言うのか。ああ言う以外仕方なかった。
 あたしはやっぱり大ばかだ。
 今はっきり自覚した。
 桜木が好き。
 もの凄く好きになってる。
 一度フッた男を好きになってしまうとは。究極のばか。今更、どの面下げてあたしも好きです、なんて言えるだろう。
 あたしは下敷きになったプリントを見詰める。桜木の雑な角張った字で書かれた公式は、ちょっとしかうつしていない。あたしの丸っこいそれとは明らかに違う字。でも、もう、書き直す気力はなかった。
 窓の向こうの空は、橙色の明かりが消えて、濃い灰色に取って代わっていた。


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