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初夏 2.
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 六月に入って衣替えが行われた。
 と言ってもブレザーを脱ぐだけ。
白いポロシャツに緑がかったグレイのチェックのスカート。男子はズボン。ポロシャツの代わりにブラウス、カッターシャツを着る者のみ緑色のリボン、ネクタイを着用しなくてはいけない。そういう規則になっている。
 斜め前の席に座っている桜木の日に焼けた腕に視線を送った。細い、でも筋肉のついた、血管がうねうねと交差している腕。桜木はいつもポロシャツを着ている。ネクタイを締めてるとこなんて見たことない。
 窓の向こうの校庭は三日も降り続いた豪雨の所為で、水溜りどころか大きな池がいくつもできあがっていた。その池を更に広大なものにしようと雨の勢いはとどまるところを知らない。
 梅雨に入っていた。


 カラオケボックスに行った翌日、桜木は朝一番にあたしに話しかけてきた。誰もいない靴置き場で。もしかしたらあたしが来るのを待っていたのかと思うようなタイミングで現れた。
「昨日は悪かったな」
明るい調子と笑顔で言われた。「ごめんな。全然気にしなくていいから」
 謝らなければいけないのはあたしのほうだ。先に頭を下げられるとどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
 桜木はいつだってこんな風に優しい。
 その桜木を怒らせてしまったあたしは大ばかだ。
 何か言わなければと思うのに桜木の顔を見ると言葉に詰まってしまう。魔法だ。魔法の所為だ。
「あのさ」
桜木はさらさらの前髪をかき上げながら少し言いにくそうに口を開いた。「野々村、もう忘れていいから」
「え?」
「俺がさ、中三のときに言ったこと」
 あたしはごくんと唾を呑み込んだ。忘れる?忘れるって?じっと桜木の顔を見詰める。
 桜木は困ったような顔で笑った。あの時と同じ顔だ。
「あれがあるからさ、お前、俺とちゃんと話せないんだろ?」
 それはそうだけど・・。
 あたしは今履き替えたばかりの白い半透明の上履きに視線を落とした。黒い油性のマジックで書いたノノムラの文字が少しだけ掠れていた。二週間前に美容院で切ってもらったシャギーのはいったサイドの髪が頬の横で揺れる。
 一旦告白されたことを忘れろなんて。
 それって今はあたしを好きじゃないってことなんだろうか。
 ああ。でもそうかもしれないな、と思う。
 ひとの気持ちは変わる。あれはもう二年も前のことなんだし。現にあたしだって斉藤君のことを好きでもなんでもなくなっている。ここのとこずっと桜木のことだけで頭はいっぱいだ。
 俯いたあたしの後ろ頭に桜木の視線を感じた。顔を上げられない。
「野々村?」
 桜木が心配そうに顔を覗き込もうとする気配がした。嫌だ。今、顔を見られたくはない。
「わかった」
「・・・」
「わかった。忘れる」
 俯いたまま強く言った。桜木がどんな顔をしているのかはわからないが、視野に入る桜木の掌が拳を握ったのは見えた。
「・・困らせて悪かったな」
 首を横に振る。悪いのはあたしだ。
「じゃ、俺、先に行くな」
「うん・・」
 桜木の声は最後まで優しくて、あたしの態度はどこまでも意固地だった。


 「忘れて」の言葉のおかげで「めちゃくちゃ好き」の魔法から逃れることができたのも事実。
 少しだけ寂しい気もしたが、桜木と一緒にいるときの胃がきりきりと痛むようなぴんと張り詰めた緊張感は全くなくなっていた。気持ちが楽になった。普通に会話を交わせるようになったし、目もちゃんと合わせられる。
 これでよかったんだ、とあたしは自分に言い聞かせていた。


 溜息を吐くと窓の外にゆるりと視線を送った。
 今日は雨は降っていない。校庭は水捌けがいいようで、水溜りはたった一日でかなり小さくなっていた。
 机の上のプリントは遅々として進まない。
 中間テストの数学の結果が散々だったあたしは、放課後隣のクラスで補習授業を受けることになった。全三回。二年生の五クラス合わせても赤点を取ったのは全部で八人。
 八人で三十分間数学教師の説明を聞いて、その後プリントの問題を解かねばならない。数学教師の畠山(はたけやま)はとっくに帰っていた。二十五歳の新任男性教師。できたプリントは職員室の机の上に置いておくようにと言われた。
「紗江、紗江ってば」
 教室の後ろ側のドアから聞こえて来るトーンを落とした奈々子の声。驚いて声のするほうを向くと、おいでおいでと盛んに手招きしている。足をぴょんぴょんさせてやや急いでいるような仕草だ。
 奈々子は小柄で色が白い。跳ねてる姿はうさぎみたいだ。
 教室にいる八人全員が振り返っていた。
 もはや小声で話をする必要は全くないのに、何?と唇だけで訊く。
 い、い、か、ら、来、て。奈々子も唇の動きだけで返す。
 仕方ないなあ。座ってても全然問題解けないしね。行ってやるか。
 心の中でぶつくさ言いながらドアまで歩いていく。
 奈々子はすぐさまあたしの手首を掴むとぐいっと引っ張って廊下を歩き始めた。
「な、なに?奈々子、あたし、プリントが・・・」
「いいからおいでって」
「どこよ?どこ行くの?」
 奈々子は辺りにひと気が無いのを確認してからはっきりと言った。
「体育館」
 体育館に何があるというのか。奈々子の大きな目はきらきら輝いていた。
「今、男バスが二年生対三年生の紅白戦やってんだけど、桜木がね、大活躍してんの。二年生が押してんの。もう、めっちゃくっちゃかっこいいのよおお」
 桜木はバスケ部員だ。時折ふざけて「はなみち」と呼ばれる所以はここにある。
 奈々子はそれだけ言うと再び突き進む。
「な、なんで、あたし?」
奈々子と一緒に小走りに廊下を進みながら質問する。
「村井がさあ、コートのなかから叫んだのよ。はなみちこんな頑張ってんのになんで野々村が観に来てないんだよーって。今すぐ呼んで来いーって。あたしとさっちんに向かってさ」
「はああ?」
 あたしは階段の踊り場で思わず立ち止まる。奈々子が手首を更に強く引っ張るので、思わず階段から落っこちそうになってしまった。
「危ない。危ないって、奈々子」
 奈々子はこちらの訴えを全く聞いていない。さっさと階段を降りていく。
「なんか、それじゃ、あたしが桜木のカノジョみたいじゃん」
 唇を尖らせてひとり言みたいに言う。
「んー。あそこにいたひとはみんなそう思ったかもね」
「やだ、行きにくいよ。行きたくない」
「何であんたがそんな狼狽えてんのよ。桜木は堂々としてたよ。あんなこと言う村井も村井だけどさ、桜木は、ばか、でかい声でそんなこと言うな、って。それだけ」
「何よ、それ」
 村井君のくりくりの天然パーマを思い出していた。あれを思いっきり引っ張ってやりたい。
「さっぱりしてるっつうか、男らしいっつうかさ。なんかかっこいいよねえ、桜木。バスケ上手いから今日は尚更そう思える」
 奈々子は仕切りに感心している。
「わけわかんない」
 体育館に続く渡り廊下で奈々子は足を止めて振り返った。
「わけわかんなくないよ。桜木はあんたのこと好きなんでしょうが」
「え」
「いつだって紗江のほうばっか見てるし、紗江ばっかりかまうじゃん。あんなにわかりやすいのに、紗江気付いてなかったの?」
 あたしはうっ、と言葉に詰まる。
「・・・」
「そんなことないよねえ。紗江も桜木のことちょっとは意識してたよねえ」
「・・・」
「違う?」
 奈々子は探るような瞳で攻めてくる。
「・・でも」
「何よ?」
「桜木はあたしのこと、今はもう、好きじゃないと思うよ」
 奈々子の顔に驚きが走った。口を滑らせてしまった。
「あ・・」
 あたしは真っ赤になる。
「紗江、あんた、桜木と何かあった?」
「な・・・」
あたしはぶるぶると首を横に振る。「ない、ない、何にもないよ」
 奈々子は疑うような目つきであたしの顔を見てから、
「ま、いいや。取り敢えず桜木の勇姿を見てあげなさいよ」
不敵に微笑んだ。「絶対惚れちゃうから」
 そう言ってクリーム色に塗装されたやや錆ついた扉に手をかけると、勢いよく引いた。試合は盛り上がっているようで、途端に中からわっ、と歓声が轟いてきた。



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