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初夏 1.
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 隣のドアの向こうから聞こえてくるやや音の外れた男のコの歌声。銀色のドアノブに掛けた手が思わず止まる。歌ってる曲はポルノグラフィティのかなり前の曲。上がりきらないキーが耳に気持ち悪い。
 分厚い、いかにも防音効果の高そうなドアを勢いよく開く。
 入り口から見て逆Uの字に並んでいるソファの、ドアから一番遠い位置に座ることに決め、四人分の薄い鞄を端っこではないほうに置いてその右隅に腰を降ろした。座ったと思った途端、今入ってきたばかりの扉が再び開けられた。
 あたしと同じ紺色のブレザーの制服。むこうはチェックのスカートではなくズボンを履いている。やや茶色に染められたさらさらの髪。長身。おどけた笑顔。
 桜木だ。
 あたしは目を泳がせると、テーブルの上のバスケットに焦点を合わせた。黒いニ本のマイクとビニールに包まれたおしぼりが入っている。とっても不自然。
 桜木はドアを閉めながら、
「あれ?野々村だけ?」
 拍子抜けした感じで訊いた。あたしは両手を膝の上に置いて背中をぴんと伸ばすと、
「さっちんと奈々子と村井君は飲み物取りに行ってる。夏目君はカノジョとデートだから今日はだめなんだって。後の三人は遅れて来るそうです。」
 来るそうです、の部分だけ大きな声でゆっくりと言う。そんなに歌う気もないくせに、サイドテーブルの上に載せられてあった辞書みたいに厚い本を手に取って開いた。桜木と目を合わせない為に。
 表紙を開くと「新譜案内」の文字。
「ふうん」
 桜木は言いながら、あたしの左横に、よっつの鞄を挟んで座った。
 え。
 何で?こんなに空いてるのに何でそこに座る?
「野々村」
「な、なに?」
「鞄、邪魔。そっちやって」
 桜木は顎であたしの右横にあるサイドテーブルを指し示す。そして自分の鞄も差し出した。紺色の学校指定の鞄。中央にオレンジ色で学校名が書かれてある。
 命令されてついむっとした表情になってしまった。
 立ち上がって、はいはい、と言いながら鞄を移す。
 さっちんと奈々子と村井君はなかなかジュースを持ってやって来ない。あたしは再び本を手に取り、ぱらぱらと捲る。身体の左側だけが石のように硬くなっていた。隣の部屋のポルノグラフィティは今がクライマックスだ。やっぱり上がりきらない声が聞き苦しい。
 あたしと桜木ふたりだけの部屋の中はしんとしていた。
 ふっ、と桜木が笑うのがわかった。
「野々村ってさ」
「・・・」
「他のやつがいるときはそうでもないのに、俺とふたりだけになると何か無口だよな」
 う、っと詰まり、持っていた本を落っことしそうになってしまった。
「おー。桜木来てたのか」
 ナイスなタイミングで扉が開いて村井君の嬉しそうな声が部屋に響いた。身体中から力が抜ける。助かった、と思った。
 村井君は桜木とは対照的な天然パーマの真っ黒な髪の持ち主。こちらもかなり長身。ふたりともバスケ部員なのだ。
「一緒にトラジハイジ歌おうぜ」
「俺、あんなの歌えないよ。他のやつと歌ってくれ」
「えー。桜木のトラジハイジ聞きたーい」
 みんなのはしゃぐ声を聞きながら、あたしは奈々子から受け取ったばかりの大きなグラスの中身をごくごくと飲んだ。
 桜木の言葉を胸の中で反芻していた。
 当たっている。当たっているのだ。
 桜木とふたりきりになるとあたしはきちんと話をすることができない。
 まず目を合わせられない。そして魔法にでもかけられたみたいに口の端っこが強ばってしまう。あたしはいつも桜木を意識してしまう。
 でも、それはあんたの所為じゃないのよ、とちょっとだけ心の中で桜木を責めてみる。ちらっと視線を左横に遣ると、目が合ってしまった。
 何?と目だけで訊いてくる。
 何でもない、という風にあたしはぶるぶると首を横に振り、もう一度グラスを口にする。
 ああ、もう、何ていうか・・。
 この部屋に桜木が入って来てからずっと心臓は早鐘を打っている。
 もしかしてあたしは桜木のことが好きなんだろうか。
それともただ二年前のことがあるから、こいつを意識しているだけなんだろうか。


 二年前。
 中学三年生の初夏。
 ひとりで下校しているあたしは、声をかけてきた桜木に突然好きだと言われてしまった。
 学校から続く歩道には同間隔で大きな白いプランターが置かれてあって紫陽花の花の紫や青の色が今でも思い出せるくらい満開だった。
「俺、野々村のことがめちゃくちゃ好きなんだよね」
 めちゃくちゃ好き?
 照れもせず出てくる台詞に誰の話をしているのかと耳を疑いそうになる。
「三年になってクラス離れちゃったからさ、全然話できないじゃん」
「・・・」
「つきあってほしいんだけど」
「・・・」
 さらっと言われた。
 桜木とは中学校一、二年と同じクラスだった。飄々とした感じは昔も一緒で、話しやすいやつだった。いつもふざけあったりじゃれあったり。確かに仲は良かったが、男のコとして意識したことはなかった。桜木はそんな目で自分を見ていたのかと声も出せないでいた。
生まれて初めて受ける愛の告白というやつに、あたしはただ狼狽え、真っ赤になるより他なかった。
 長いながい沈黙。
 ガードレールの向こうを何台もの車が行き交う。歩道も、もう何人もの同じ中学校の生徒が通り過ぎて行った。
「何か言ってくれると助かるんだけどな・・」
 桜木は困ったように笑っていた。
「あ・・」
あたしは俯くと、「だめ、つきあえないっ」
そう言っていた。緊張のあまり突き放した言い方になってしまった。
 桜木が息を呑むのがわかる。
 傷つけてしまったかもしれない。顔を上げられなかった。こんなのは嫌だ。早く家に帰りたいとそんなことばかり考えていた。
「あー・・」
「・・・」
「野々村、他に好きなやついる?」
 あたしはその質問に驚きつつもこっくりと頷いた。誠実な桜木の告白に、自分も誠実さを返したいと思ったから正直に肯定した。目線を桜木の白いスニーカーに落としたままで。
「もしかして、斉藤?」
 ぱ、っと弾かれたように桜木を見た。
「なんで?」
 なんで知ってるのかと目を見張った。
 斉藤君は頭もよく、サッカー部のキャプテンもしてて当時通ってた中学校で、一番人気のある男のコだった。今は西高に通っている。あたしと桜木は南高。あたしはその頃、誰にも斉藤君を好きだと話したことはなかった。
「見てたらわかる。俺も野々村のことずっと見てたからさ。野々村が誰を好きなのかは、なんとなくわかってた」
 ぷしゅう、と体から空気が抜けていく音がした。だったら、告白なんかしないでよ、と心の中で文句を言った。明日からどんな顔であんたと話したらいいのかあたし、全然わかんないよ、と。
 ただ、あたしは高校二年生で桜木と同じクラスになるまでそのことを忘れたみたいに暮らしていた。
 だから同じ教室で久しぶりに顔を合わせたとき、今よりはずっと普通に話をすることができた。
 なのに、離れていた距離が少しずつ縮まるにつれ、桜木のことを意識するようになってしまった。桜木と会う度に「めちゃくちゃ好き」の言葉を思い出してしまうのだ。そうするともう、桜木に一挙手一投足を見られているような気分になって何もできなくなってしまう。身体はがちがちのロボットみたいな動きになって普段からたるんでいる脳は何重もの膜を張ったみたいにさらに働きを鈍くする。
 いやだなあ・・。
 溜息を落として左隣を見る。
 村井君のふざけたモノ真似をおなかを抱えて笑っている桜木。
 ばか面。
 こいつは。
 桜木は。
 もう、あたしを好きだと言ったことなんてまるきり忘れたみたいな顔をしている。


「野々村、俺にも見せて」
「え」
 隣の桜木が顔を寄せて、あたしの膝に乗ってる本を覗き込んできた。
 うぎゃ、と上げそうになった声をなんとか呑み込む。
 残りの三人もやって来て、総勢七人。元々七、八人用の部屋はいっぱいいっぱいだ。桜木の腕とあたしの肘は長いこと制服越しに触れ合っていた。
 あたしは広げた本の両端を掴むと、桜木の顔は見ないでその膝の上にばんっ、と乗せてやった。怒ったみたいな態度で。
 桜木がまたふっ、と鼻で笑ったのがわかった。
 何が可笑しいのか。
 桜木の膝の上に視線を移す。
 開かれた本の上に乗せられた大きな手の甲が目に入った。日に焼けている。緑色の血管が浮き出ていた。
 正面のモニターの前で酔いしれるように歌うさっちんの顔を見ながら、桜木は変わったな、と思っていた。性格は変わってないのに、外見が大きく変化していた。
 だから余計違和感があるのだ。うまく喋ることができないのだ。
 告白された当時、女子にしてはやや高めの身長のあたしと桜木の背丈はそんなに違わなかったはずだ。でも、今、桜木はあたしより頭ひとつ以上は高くなっている。髪型だって。あの頃は殆ど坊主頭に近かったのに。ちらっと視界に入ってくる横顔の鼻梁だって。こんなにかっこよくはなかった。
 勉強にしても然り。
 高校に入ってからの勉強量の多さに目を剥いて、みんなに着いていくのが精一杯のあたしに比べて桜木は徐々に成績を上げている。何でも器用にこなしてしまう。
 こうやってテスト週間中で部活がないからとカラオケに来ていても、桜木はまたきっと上位の成績を取るのだ。
 悔しい。
 また桜木と目が合ってしまった。
 そんなつもりはなかったのに、つい、ぷいっと顔を横に背けてしまった。嫌な態度だと自分でも思う。桜木が大きな溜息を吐いたのがわかった。
「・・・何だよ、さっきから。感じ悪いよな。」
 冷めた声でぼそり。
 一気に背中が冷えた。
 いつも愛想のいい桜木の声とは思えなかった。顔からすうっと血の気が引いていくのが自分でもわかる。とうとう怒らせてしまった、と思った。
「堀口」
 桜木は歌い終わって自分の座席に戻ろうとするさっちんに声をかける。
「何?」

「場所変わって」
そう言って立ち上がった。
胸がきゅっと苦しくなった。もう、桜木の顔を見る勇気はない。
「え?なんで?」
 さっちんが珍しく不機嫌な桜木に戸惑いながら訊くが、答えを待つまでもなくあたしの隣にやってきた。桜木が有無を言わせないような態度だったからだ。みんなも桜木の豹変振りにぽかんと口を開けている。
 なあにい、はなみちくん、どうしちゃったのお?とふざけた調子で村井君が訊ねるが、うるさい、のひと言で切り捨てられる。勿論、桜木の下の名前は「はなみち」ではない。
「何?桜木どうかしたの?紗江(さえ)、なんかした?」
 さっちんがあたしの耳許に唇を寄せて訊く。
「さあ・・」
 さっちんのほうも桜木のほうも見ないで首を傾げながら答えた。声は揺れていなかったが、指先が小刻みに震えていた。
 その日桜木はずっと不機嫌で、あたしとは二度と目を合わせてくれなかった。



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