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真冬の空(前) 1.

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 十二月の空は灰色だ。
 色濃い雲が重く垂れ込めている空は、手を伸ばせば届きそうなくらい近い位置まで下りてきている。
 桜木の部屋の窓から見る風景。
 家々の屋根と、その向こうに見えるのは、冬に入ってから薄い色になってしまった山の稜線。最近はすっかり見慣れてしまって、桜木を待つ間、こうやって窓の傍に立ちつつ見る風景により、季節の移り変わりを感じるようになってきた。
 ぼんやり佇んでると扉が開き、この部屋の主がトレイを抱えて現われた。甘いココアの匂いが鼻をくすぐる。
 桜木はチェック柄のウールのシャツとジーンズに着換えていた。こちらは学校帰りなので制服のままだ。紺色のブレザーの裾から濃い灰色のセーターを覗かせて、その下にはそれほど丈を詰めていないチェックのスカート。いつもの格好だ。
「野々村」
「うん」
 マグカップ片手に桜木はベッドに腰を下ろしていた。あたしも。机の上に置かれたトレイの中、すっかりあたし専用になってしまった真っ赤なマグカップを手に取り、桜木の隣に座った。
 ドアの向こうで足音がしてる。桜木のお兄さんは、平日の今日、休みなんだそうだ。
「テスト、どうだった?」
「んー。まあ、フツーだよ。いつもどおり」
 フツー。いつもどおり。
 ふふっと、笑った。
「何?」
「桜木のフツーはできたってことでしょ? 最近、ずっと全体の成績、上位にいるもんね、桜木」
「え? いや、そうでもないよ。野々村は? どうだった?」
「あたし?」
 あたしは、やや間を空けてから、へへへ、とちょっとだけ胸を張ってみせた。あんまり大きくない胸だけど。そんなの、桜木、とっくに知ってるし。
「あれ? いつもダメだーって言ってんのに。今回、結構自信あんの?」
「あのね」
「うん?」
「今回、数学がこれまでになく、できたんだ」
 桜木の顔を見ながら少しだけ自慢げに言った。
 桜木はマグカップに唇を当てたまま真っ直ぐ前を見ていた。その顔が一瞬だけ硬くなった。だけど、すぐにこちらに視線を向けて、
「……へえー。すごいじゃん」
そう言った。声に抑揚がないのは気のせいだろうか。
「でしょ?」
「何か秘策でもあった?」
「うん。あのね。今回、さっちんの家に行って、奈々子と三人で勉強したの。で、わかんないとこがあったら、その都度、畠山に電話して質問したりしたのね」
「……」
 桜木は黙って聞いている。手にしたマグカップの中身に視線を落として。
「さっちんってば、楽しそうだったよ」
「あー。堀口、畠山のファンなんだっけ?」
「そうそう。奈々子が畠山の携番ゲットしてきてくれて、さっちんが電話したの。でも、さっちんは元々数学がんばってたからね。問題は奈々子とあたしだったんだけど」
「……」
 くっと。桜木が顔を俯けて笑った。
「……何?」
「問題は原と野々村って。それ、原が聞いたら怒るんじゃないの?」
「え」
「できないレベル、全然違うよな?」
「ひど……。ひどーい」
 桜木は目尻を下げていつもの顔で笑ってる。つんと、そっぽを向いて真っ赤なマグカップからココアを啜った。甘い。桜木の淹れてくれるココアはたっぶりとお砂糖が入っている。
「桜木、三年生の選択科目は、やっぱ理系中心にした?」
 うん、と、桜木は頷いた。
「野々村は文系だよな?」
「……やっぱり三年生になったら、クラス、別れちゃうだろうねえ」
「多分、な」
「……」
 思わずしんみりとなる。
 ふたりとも進学するのは決めている。でも、どこの大学を受験する、なんて話はまだしたことがない。あたしはこの時期になってもなお、具体的には全然考えていないという呑気な状態で。だけど桜木のほうはどうなんだろう。何か目標とかあるのかな。だから実はひっそりと勉強をがんばっていて、それで成績がよかったりするのだろうか。
 同じ大学に行くことは考えていない。成績が違いすぎるから。学部によっては同じ大学でも偏差値が極端に違ってたりする場合もあるにはあるようだけど。
 その手の話をするのは実はちょっとだけ怖かったりもする。
 いま、同じ学校の三年生は正念場を迎えていて。みんなやつれてるというか、形相が変わってるというか。あれを見てると結構辛い。来年の今頃、きっと自分たちも同じような顔をしているに違いない。
 来年の今頃。
 あたしと桜木はまだ一緒にいるんだろうか。
 それから。そのあとも。
 黙ってると、桜木がこちらを向いた。掌で包み込んだマグカップが桜木によって引き抜かれる。
 いつも思うんだけど。
 桜木はこんなときでも冷静な顔をしている。余裕があるように見える。
「つき合った女のコって、本当にあたしが初めて?」
 そんな質問をしたことがある。
「今更何言ってんの。俺、ずっと野々村紗江さんに片思いしてたの、知ってるよな?」
 そんな返答でさえ滑らかに口を突いて出る桜木は、実はとんでもない女たらしなんじゃないかと思う。
 ふたりで頬を寄せ合う。そうしてから唇だけを触れるように軽く合わせた。何度も。唇で他方の唇を咬むのは大抵桜木のほうだ。あたしは顔を少し傾げたりするくらい。そんな真似ができるようになったのも、ここ最近のことなのだ。
 今だって。
 心臓は有り得ないくらい早く打ってるし。少し、指の先が震えてる。桜木に知られたくなくて、その指先で桜木のシャツの腕をぎゅっと掴んだ。
 桜木の唇が首筋を滑る。ベッドにふたりで倒れ込む。上衣の裾から滑り込んだ桜木の骨ばった手を素肌に感じると、それは思いのほか冷たくて、思わず声が洩れそうになっていた。桜木の吐く息が少し熱く、こちらの耳に当たっている。桜木は耳朶を食む。繰り返し食む。じれったいようなもどかしいような得体の知れない感覚が、身体の奥深いところから込み上げてくる。
 恥ずかしい。
 どれほど同じ行為を繰り返ししたところで、慣れることなんかまるでない。セーターとシャツを捲り上げられると、もうこちらはかちかちに身体を強張らせて桜木の肩口を硬く握りしめた。
 何か、桜木が耳許で囁いた。
─── セーター、脱げる?
 え?
 どきっとした。
 この部屋で、服をちゃんと脱いだことはない。いつも中途半端な格好で、胸に唇を落とされ、それで終わる。そんなんで桜木が決して満足していないことを知ってはいるけれど、そこから先へ進むのが怖くて、そのことについて話したことは一度もなかった。
 答えないで、天井の白いクロスに視線を当てていた。
 どうすればいいんだろう。
 素直にこちらから脱ぐべきなのは、わかりすぎるくらいわかっている。だけど。
 身体がぎくりと揺れた。
 桜木の手が、スカートの中に入り込み、太腿の外側に触れてきたから。心臓がさらに回転を早くする。全身が脈打っている。
「ちょ、ちょっと、……」
 こちらの手で桜木の手の動きを押さえた。頭は沸騰寸前で何も考えられない。顔は炙られたみたいに熱くなっている。
「さ、桜木?」
「……何?」
 な。何って、そんな。
「お、お兄さん、いるんじゃないの?」
「いないよ」
 首筋で答える桜木の声は、こちらの動揺ぶりとは正反対に平然としたものだった。
「い、いたよ? お兄さん」
「さっき、出て行った」
 え?
 あたしは天井を見上げたまま動けなくなっていた。
 桜木の手を抑える指先からも力が抜けた。
 ぐちゃぐちゃになりかけていた頭は、いまはもう空っぽだ。
 同時に桜木も手の動きを止め、やがて気づくと掌の熱はこちらの脚から消えていた。
 暫く互いにその姿勢のままじっとしていた。
 桜木の重みを感じるのは決して嫌ではない。こちらとはまるきりつくりの違うがっしりした筋肉と硬質な骨を感じさせる大きな身体。触れ合ってると不思議と安心できるのだ。
 桜木がゆっくりと顔を上げ、あたしの顔を覗き込んできた。
 真上から桜木に見つめられた。たったいまこちらを狼狽させていた右手でそろりと前髪に触れてくる。あたしは動揺しながら視線を合わせた。情けないことに唇の震えが止まらないのだ。
 桜木は、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「なんて顔してんだよ、野々村」
「……」
「野々村?」
「だ、って……」
 桜木はこちらの髪に触れながら笑っていた。明らかに作り笑いだとわかる笑い方だ。胸が痛い。桜木の行動にちゃんと応えられずにあからさまに狼狽えた自分が嫌だった。
「ごめん、なさい……」
 自分の声が泣きそうに震えているのを自覚して、更なる自己嫌悪に陥っていた。どうしてあたしはいつもこうなんだろう。どうして軽く全てを桜木に委ねることができないんだろう。
「謝んなくて、いいよ」
 桜木は、乱れた衣服を隠すみたいにあたしのブレザーの襟を重ね合わせると、さっと、身体を起こし背中を向けた。
「でも」
「いいって」
「い、嫌じゃないっ」
 飛び出した声は思いのほか大きくて自分でもびっくりした。
「え?」
 桜木が呆けた顔でこちらを向く。
「嫌じゃない」
「な、に?」
「い、嫌じゃないの。桜木に触られるのは嫌じゃないの」
「……」
「だけど……」
 一線を越えるのは怖いのだと正直に口にした。
 そこまでなら大丈夫だと。嫌ではないのだと。そんなことまでひと息に言ってしまった。
 恥ずかしい。
 頬は真っ赤だ。まともに桜木の顔を見ることはできない。肘の内側にも膝の裏にも腋の下にも。じっとりと、嫌な汗が滲んでくる。
 あたしたちは言葉が足りなくてひどい喧嘩をしたことがあるから。ちゃんと、自分の気持ちを説明したかった。だけど恥ずかしさが先に立って、実際に伝えられるのは大切なことの半分くらいのものなのだ。たまらなくもどかしい。
 身体的な痛みが怖い。何か大切なものをうしなうような気がしてそれも怖い。そうして、そうなったあとの自分の桜木への気持ちの変化も怖いのだと、そう言った。
 黙って聞いている桜木の横顔に恐る恐る視線を当てた。高くしっかりとした鼻の線。一重と二重の中間みたいな瞼を持つ涼しげな目許。眉にかかるさらさらの髪。繊細なのに無骨な、桜木の性格とよく似たつくりの顔だと思う。
 見つめていると、不謹慎かもしれないけれど、ただ単純に見惚れ、ときめく。
 好きだな、と思う。
 つき合い始めた頃よりずっと桜木を好きという気持ちはあたしの中で膨らんでいる。
「俺への、気持ちの変化が怖い?」
 桜木は意味がわらかないという顔をしていた。
「うん。怖いよ。すごく」
「どう、変わるんだろ」
「そうなってみないと、あたしにもわかんないけど。きっと、あたし、桜木のことしか考えられなくなると思う。他のこと、目に入らなくて、桜木に寄りかかるかも知れないし、そういうの、すごく重いし、みっともなくない?」
 桜木はくっと笑った。むっとする。これって笑う場面じゃないはず。
「どうして、笑うの?」
「いや、野々村はそうはならないと思うよ。そういう性格じゃないだろ?」
「そんなのわかんないよ。いきなり性格変わるかもしれないじゃん」
 桜木は後ろ手に両手を突いた格好で、とても寛いでいるように見えた。
「ならないって。例えなったとしてもそういう気持ち、隠すと思う。まあ、俺は、そういう野々村も見てみたい気もするけどね。野々村に寄りかかられるなんてさ。嬉しいけど、想像できない」
 う、っと詰まった。
 嬉しい?
 どうしてそんな言葉がさらりと出るのだろうか。
 というか。それって褒めてない? 気が強いって言ってる?
「桜木は?」
「俺?」
「変わらない?」
「どうかな」
首を傾げている。「そういうの考えたことないし。逆にこっちだってデレデレになって、野々村に嫌われるかもしれないだろ?」
「そんなこと……」
 桜木はそのままじっと自分の足先を見つめていた。普通に話しているけれど。寂しそうな横顔に見えた。
 沈黙が落ちる。
 あたしは足を崩してベッドの上にぺたりと座り込んでいた。桜木の顔に視線を当てたり、自分の指先を見つめたりしていた。
 桜木はいま、何を思っているんだろう。
 ふいに不安になって、桜木の肩にこつんと額を当てた。
 桜木の匂いがする。
 日なたの匂い。洋服の繊維の匂い。それから、桜木の皮膚の匂いも。
 胸が苦しくなる。
「好き、だよ? 桜木」
 額に触れている肩が微かに反応した。
 桜木はベッドに突いていた手を上げると、こちらの頬に触れてきた。
 ゆっくりとまた、唇を合わせてみた。視線を合わせるといつもどおりの顔で笑いかけてきた。あたしはその瞬間、信じられないほどの深い安堵を覚えていた。
 桜木はいつだって優しい。理屈っぽくて幼稚なあたしのわがままをありのまま受け止めてくれる、そういう心の広さを持っている。
 そのあと。
 あたしたちは初めて衣服を脱いで互いの身体を抱きしめ合った。雲の切れ間から射していた西陽が落ち、電気の点っていない部屋がやがて闇に落ちるまで、そうしていた。


「ただいまー……」
 キッチンに顔だけ覗かせて二階へ上がろうとしたあたしの背中に、自分によく似た母親の声が追いかけてきた。
「お風呂、さっさとはいっちゃってー」
「んー、わかったー」
 顔をあまり見られたくなくて、背中を向けたまま返事をする。殆ど締まりかけたドア越しに会話を交わす。
「ご飯はお父さん帰って来てからでもいいでしょー?」
「んー。いいよー」
 適当に返事をして二階に上がった。制服のブレザーとセーターを脱いでハンガーにかけ、緑色のリボンも外してから再び階下へと下りた。
 あたしが小学生のときに建てられたこの家で、あたしたち家族は暮らしている。会社員の父と、専業主婦の母と、この家から大学に通ってる姉と、それからあたし。
 浴室に入り、鍵をかけた。
 今日はもう家族の誰にも会いたくない気分だった。
 だけどそういう訳にもいかない。
 お風呂の、二枚の蓋を外した。素材は何からできているのだろう、汚れにくくカビ難い蓋。浴槽は濃い紺色で、結構広い。背の高いあたしが脚を伸ばして入ってもゆったりしている。
 お湯はちょう度いい温度に保たれていた。三回お湯にかかってから、ゆっくりと浸かった。外は寒かった。じわじわと身体の芯から解れていく。
 お湯に浸された自分の身体をじっと眺めた。決してスタイルがいいわけじゃない。背ばかり高くて、痩せた身体だ。胸なんか本当に小さい。
─── 色、白いよな。女のコって、みんなそう?
 耳許で桜木の声が聞こえた気がした。
 邪念を払うように顔にぱしゃぱしゃとお湯をかけた。
 桜木の指は、最初、こちらへの快楽の配慮よりも寧ろ自分の欲に突き動かされていたと、そう思う。探るように、確かめるように、何か大切なものを見つけ出そうとするみたいに、這っていた。途中から何を思ったのか真剣な口調でどうして欲しいかと訊ねてきた。
 そんなことわかるわけがなかった。たとえわかったとしても言えるわけがなかった。
 恥ずかしくて、懸命に首を横に振った。
 桜木は好奇心旺盛で、コドモみたいに無邪気で、そのくせこちらの身体を大胆に奔放に執拗に追い詰めていった。
 あそこまで許しておいて。最後まではさせないなんて。
 ひどい女だ。
 あたしは。
 瞼を閉じてぶくぶくと頭までお湯に浸かった。ゆらゆらと揺らめくお湯のなかで自分の身体を抱え込んで丸まった。お尻がふわりと浮きそうになる。指に絡まる髪の毛が自分のものではないみたいにごわごわしていた。
 桜木がどれ程強くそれを望んでいるのか明確にかわかっていながら気づかないふりをしていた。
 桜木が優しいのをいいことに。
 知らんふりしていた。
 嫌な女。
 理屈っぽくて。
 勿体ぶって。
 自分のことしか考えられなくて。
 嫌な女だ。
 あたしは。
 こんな女は、いつ桜木に愛想を尽かされても不思議ではない。桜木の心が離れていったとしても止めようがない。
 鼻がつんと詰まった。
 お湯が、入り込んでいた。
 ぐっと鼻から喉へ何かが通って、激しく咳き込みそうになった。ばっと、お湯から顔を出し、げほげほと空気と水を吐き出した。
「気持ち、悪……」
 うへえ、と言いながら、浴槽の縁に顎を乗せた。涙と鼻水が一緒に出た。お風呂で溺れそうになるなんて。つくづく運動音痴だな。
 首を横にし、今度は頬をつけた。薄いブルーの壁が、ぼんやりと滲んでいた。
 桜木のことをこんなにも好きなのに。
 どうしてすんなり受け容れることができないんだろう。
 誰でもしていることなのに。
 どうしてあたしだけダメなんだろう。何に拘っているんだろう。
 きゅっと瞼を閉じる。
 浮かぶのはやっぱり桜木の顔なのだ。笑ってる顔。少しだけ落胆した寂しそうな顔。
 自分で自分の気持ちを掴みきれないでいた。

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