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真冬の空(前) 6.

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 思えば桜木は中学生の頃からスポーツ万能だった。
 運動会ではいつだってリレーの選手に選ばれていた。持久走大会ではトップグループを走っていたし。バスケの上手さだって半端じゃない。特別優れた運動神経を授かって生まれてきたひと。選ばれし者。そう言っても過言じゃないかも。
 その桜木と卓球で勝負だなんて。
 勝てるはずがなかったのだ。
 あんなひたむきな姿勢で桜木と向き合い戦おうとしていた数十分前の自分を思うと、悲しいくらい笑えてしまう。あたしってばとっても愚か。
 ってか。左手であそこまでできるもん? 本当の本当は桜木、両利きなんじゃないの? なんて。斜め前を軽やかな足取りで歩く桜木の背中をじとっと睨みつけた。
 あたしは結果的に桜木からたったの二点しか取れなかったのだ。しかもスマッシュが決まったとか、そんなかっこいい話じゃなくて、桜木の打った球が卓球台から逸れただけ。二点ともそう。悔しいとか歯痒いとか。そんな気持ちを通り越して、正直自分にがっかりしている。
 擦れ違う中学生カップルが、あたしと桜木を異様なモノでも見るような目つきで眺めていく。怪訝な顔つきは、けれどすぐに失笑に変わる。バーカ、笑ったら悪いだろう、なんて声まで背中のほうから聞こえてくる。っち。見るんじゃないよ、全く。
 ああ。それにしても荷物が重い。自然丸くなってしまう背中を無理してふんっとばかりに仰け反らせたりした。
 桜木の要求その一は、桜木の荷物を全部持って桜木の家まであたしが桜木を送ること、だった。
 桜木の荷物は重かった。二学期の間ずっと机の中に置きっぱなしになっていた教科書全部が入った紺色のバックと、それからバッシュや部活用のジャージの入ったエナメルのバッグ。その上自分の荷物もあるのだから大変だ。斜め前を歩く桜木は手ぶら。伸び伸びとした様子で通学路を闊歩している。時折鼻歌まで聞こえてくる。何本もの紐の食い込んだこちらの肩は千切れそうに痛いというのに。信じらんないよ、桜木。
 傍から見たら非常に不自然な光景として映っていることだろう。立場が逆ならばまだいいけれど。男子生徒が女子生徒に自分の荷物を全部持たせているのだから。あたしと桜木が実はコイビトドウシだなんてこと。いまこの道を通っている誰ひとり想像すらしていないに違いない。
 擦れ違うのは笑ってるひとやちらりと見ていくだけのひとが殆どだけれど、年配のおじさんやおばさんは眉を顰め桜木に非難の目を向けて行く。
 それでも桜木は平気な顔をしている。
 飄々と歩いている。
 桜木のそういう何事にも動じないところを実は結構気に入ってたりもするんだけど。今日は何だか憎たらしい。
「紗江ちゃん」
桜木がにこやかに振り返った。ちょう度、児童公園を横切ろうかというあたりだった。
「何よ」
唇を尖らせるあたしはいつもどおりの可愛くない女だ。
「君、勝負に負けたんだからそういう態度はよくないね」
 なぬっ? 
 つんとそっぽを向いて言い直した。
「……何、ですか?」
「ちょっとさ。喉渇いたから。缶コーヒーでも買って来てくれない? ああ。勿論、君の奢りね」
 言葉遣いまで普段と違う。そうか。桜木は威張るとこんな口調になるのかと、あたしはこっそり観察する。
「はい」
 重い声と足取りで返事をした。
「野々村」
 知らない。
「荷物。ベンチに置いてったら?」
 むすくれた顔で振り返る。
 ぷぷっと。肩を震わせ笑う桜木にこちらも思わず笑いが零れてしまっていた。
「もう。桜木、ひどいよ。っていうか。コーヒー買うのってふたつ目のお願い事と思っていいわけ?」
「いいよ。そうしてあげよう」
「威張ってるなあ、もう」
 あたしは荷物をベンチに下ろすと、肩を大袈裟にぐるぐる回したり首を左右に振ったりした。
 公園を出てすぐのところにある自動販売機の前に立つ。三台並んだ販売機。缶コーヒーの定番とも言えるジョージアエメラルドマウンテンをまず買った。桜木がこれを飲んでいるところをよく目にするから。自分用には紅茶花伝を選ぶ。どちらもホット。取り出し口から取り出したそれは思っていたよりずっと温かだった。熱いといってもいいくらい。
 今日は授業も部活も早目に切り上げられたので、まだ太陽はそれほど低くない位置にある。いつもより長い時間桜木と一緒にいられる。寒いけど。桜木と共有する時間は、あたしにとってトクベツなこと。幸せ、なのだ。
 桜木は無意味にふんぞり返って木製のベンチに座っていた。くすくす笑いながらコーヒーを渡す。
「ご苦労」
「もうやめてよ。その喋り方」
 桜木は軽く声を立てて笑うと、背凭れから背中を離し身体を起こした。
「あったかいでしょ」
 頷きながらプルトップを開ける。あたしのほうは缶を頬に当てたまま、まだ飲まないでいた。
 コーヒーを飲む桜木の横顔を見る。桜木愛用のボーダーのマフラーに隠れて、上下しているであろう喉仏は見えない。無駄な肉なんかこれっぽちもついていない顎から耳に伝う骨の線。顔を見つめていると、つい視線は唇へと移ってしまう。厚くもなく薄くもない唇だ。
 見ていると様々なことを思い出す。ここでキスされそうになったときのことだとか、桜木の部屋で裸になってお互いの身体に触れ合ったときのことだとか。少しずつだけど進んでいるふたりの関係を思うとき、もう元に戻ることはできない現実を知らされる。何も知らない頃にはもう戻れない。そしてどうしてだろうそのことが、胸が痛くなるほど切ないのだった。後悔してるとか。そういうわけでは、全然ないのに。
 桜木の唇。いつだって冷たくて濡れている唇。なのに口腔内はとても熱い。だからだろうか、こちらの肌に言いようのない熱を残していく。
「何? 野々村」
 缶から唇を外した桜木がこちらを向いた。突然だったので、唇に目を当てたままぽかんとしていた。
「野々村?」
 もう一度呼ばれて我に返り、あたしはぶんぶんと首を横に振った。
「何でもない」
「あれ? 見惚れてた?」
「ち、が、う」
 身体ごと前を向いて誤魔化すみたいにプルトップを開けた。
 足元の少し距離を取った位置に灰色の鳩が四羽いるのが目に映った。さっきまではいなかったのに。あたしが缶コーヒーを買いに行っている間に集まってきたのだろうか。それともいま、桜木の唇に見惚れていた間だろうか。ばたばたと羽音を立ててまた二羽、どこかから飛んで来た。
「こいつら、何かもらえると思ってんのかな」
「あ。そうかも」
 見ると公園内にあるベンチの、人間が座っているところにだけ、鳩は小さな群れを作っていた。ひょこひょこ首を揺らしながら、滑稽と言ってもいいような足取りで歩いている。
「何にもないですよー」
 口の横に右手を当て言ってみた。鳩は驚いたみたいに一斉にわっと飛び立って行った。あれ、と。声をかけたあたしのほうが驚いた。きっと声が大き過ぎたのだ。
 隣からバカにしたような笑い声が聞こえてきて、あたしは顔を赤くし声の主を睨みつけた。
「もう。何よ」
「何よって。それはこっちの台詞だよ。鳩相手に何言ってんの」
「親切に教えてあげようと思ったの。ちゃんと餌を持ってるひとのところに行ったほうが鳩だって幸せじゃん?」
「へえー。そうなんだ。野々村は優しいねえ。つーかさ。鳩に人間の言葉がわかるのか、そこが問題だよな。びっくりして逃げられたし」
「もう。意地悪」
 こちらの言葉に、息を落とすみたいに桜木は笑った。
「だって紗江ちゃん揶揄うと楽しいからさ」
 紗江ちゃん。
 やっぱり、身体のどこかをくすぐられてるみたいな妙な気分になってくる。知らんふりで紅茶の缶に口をつけた。
 これを飲み終わったらまた力仕事が待っている。
 桜木の家まで鞄を運んで。それから今日も、桜木の部屋に寄って行くことになるんだろうなと思った。家のひとがいなければ、またこの間と同じことになるかも知れない。
 薄く色のついた雲が。太陽を隠している。
「ねえ、桜木?」
「ん?」
「みっつめのお願いって何?」
 太陽を覆った雲に視線を当てたまま訊ねた。その空間を降り立ってきた鳩が掠める。今度は白い。真っ白ではなく、ところどころ茶の色をつけている鳩だ。
 ゆっくり顔を右隣に向けてみた。桜木は掌の缶を弄んでいた。笑っていない顔にどきりとしながら、それでも平静を装ってまた問うてみる。
「本当はさ。それが一番重要な話、なんじゃないの?」
「あー。……まあね」
「何?」
「う、ん……」
「何聞いてもびっくりなんかしないよ?」
「……」
 桜木は缶コーヒーを一気に飲み干すと、空っぽになった缶に再び視線を落とし、その青い絵柄を長いこと見つめていた。やがてそうしたまま口を開く。
「実はさ。どっちにしようか迷ってて」
 どっち?
「それって。ふたつあるってこと?」
「うん」
と桜木は頷いた。
「何? 言ってよ。早く言ってくれないと、さっきからどきどきしちゃって仕方ないんだけど」
 こちらの台詞に桜木は声を上げないで唇だけで笑った。
「ひとつは、まあ、野々村も想像ついてると思うんだけど。あれだよ。やらしいことを考えたりもしてたわけ」
 あ。やっぱり。
「そう、なんだ」
「……」
「どんなことか訊いてもいい?」
 桜木はこちらを見ない。缶に視線を落としたままだ。
「ダメ?」
「いや、そんなこともないけど」
「……」
「俺んち、休みになると両親がふたりで旅行に行ったりするからさ。兄貴に頼めば、やつもどっか行ってくれるだろうし。家、留守になるから。野々村、泊まりに来ないかな、とか、泊まりは無理でも夜まで一緒にいられないかなとか。そんなことを思ってた」
 桜木の声があまりにも真剣すぎるので、こちらも軽い対応ができなくなってしまっていた。
「そう、なんだ……」
「うん。まあ。だけど、そっちはいいんだ」
 いい?
 いいって。どういう意味だろう。
 心臓が少しだけ回転を早くする。桜木の醸し出す雰囲気がいつもとまるで違っているから。微かにだけどぴりぴりしてる。何かを抑え込んでいて、抑圧しきれなかったその何かが表面から僅かに放出されている。桜木を取り巻く空気をいつもと違うものに変えている。
「もうひとつは?」
「うん」
 桜木はうんと言ったきり黙り込むとその顔から笑みを消した。あまり見たことのない苦々しい顔。胸の内に何かを溜め込んでいる顔だった。
 白いスニーカーを履いた足先が地面に触れ、とんとんとリズムを刻んでいた。リズムを取っているのではなくひょっとすると苛立ちからくる貧乏ゆすりなのかもしれない。そう思えるような重い間。どこか濁った空気がふたりの間に流れていた。
 それほど口にし難いことって何だろうか。
 ふいに嫌な味が喉元に込み上げてきた。
 もしかして。
 そう思う。
 思った途端さらに心臓の回転が早くなった。なのに身体中の血液は足元へと下りていく。すうっと。顔から血の気が引いていく。
 そうかもしれない。
 もしそうだとしても少しも不思議ではない状況に、いまあたしは置かれている。
 自分以外の男のひとと学校中の噂になるような女。身体に触れることはさせてもそれ以上は許さない女。疎んじられたとしても、全然不思議じゃなかった。
「さくら、ぎ……?」
「あ?」
「それって、さ」
「うん?」
 あたしは迷う。
 桜木が言いづらいのなら知らんフリしてたほうがいい。素知らぬふりで黙っていたほうが絶対いい。そう思うのに。
「それって。 ─── 別れ、話?」
震える声でその単語を口に上らせていた。
 桜木がこちらを向いた。ゆっくりと。
 さっきまでの苦味はない、寧ろきょとんとした、マヌケと言ってもいい顔で、
「は?」
と。気の抜けた声を出した。
 は、って。
 あたしはまた恐る恐る桜木の気持ちを窺うように訊ねてみる。
「違う、の?」
「……」
 まじまじと顔を見つめられた。
 マヌケだった顔が徐々に変化していく。桜木は正面に顔を戻すと、むっとした声で言った。
「違うよ。何言ってんだよ」
 脚を組み、険阻な顔で口を噤んだ。硬く閉じた唇が怒りを露にしている。
 何だ。違ってたのか。ほっと胸を撫で下ろしながら、今度は桜木を怒らせてしまったことに恐れを覚える。
 叱られた子供みたいに身を縮こまらせていた。
 前を向いたまま桜木が口を開いた。
「何でそういうことになるわけ? もうひとつの話がいやらしいことなのに、もう片方で別れ話、なんて有り得ないだろ」
 ああ。
 怒ってる。桜木が目茶苦茶怒ってる。
 いつもは優しい桜木をここまで怒らせるのはやっぱりあたしだけなのだ。
「つーかさ。野々村は俺と別れたいわけ?」
 鋭い視線で睨まれ、あたしは慌てて首を横に振った。泣きたい思いに囚われながら口を開いた。
「いや。絶対、やだ」
「じゃあ」
 桜木は怒ってはいるけれど、それでもどこか安心した表情で、「軽々しくそういうこと口にしたりすんなよな」
そう言うのだった。
 言うなり立ち上がる桜木を目だけで追った。桜木は自分の荷物を手に取ると当たり前みたいに肩に掛けた。あれ? 罰ゲームは? そう思ったけれど。気安く声をかけられるような雰囲気じゃ、まるでなかった。
「俺、野々村と別れる気、全然ないから」
 強い口調で言い切る桜木。あたしはじっとその顔を見上げていた。
 そのままぼうっと桜木の後ろ姿を見送る形となってしまった。背の高い、明らかにやさぐれてる風情の後ろ姿。
 桜木を怒らせてしまったことよりも、桜木がいま言った言葉が嬉しくて、身体を動かせないでいた。
 別れる気はない、と言った。あんな風に怒るということは。あたしをまだちゃんと好きだということだ。
「待って。桜木」
 思い出したように立ち上がる。紺色の鞄を肘の内側にかけ、ばたばたと足音を立てて桜木の後を追った。
 桜木は歩く速度を遅くしてくれた。なのに横顔に視線を当ててもまだ、知らん顔をしているのだ。
「ごめんね、桜木」
「……」
「ごめん。あたし、変なこと言った」
 桜木はこちらを見ない。見ないままに責めてくる。
「野々村は」
「……」
「野々村は別れるってことを簡単に口にし過ぎだよ」
「うん。ごめん」
「前だって、保健室で─── 」
 保健室で。
 そこまで言って桜木ははっとしたように口を噤んだ。しまったという風に。顔色を変え、唇を閉じ、失敗を犯した自分を恥じるように前を見ている。
 こちらも色をうしなった。
 前だって保健室で─── 。
 畠山と一緒にいたときのことを言っているのだと思った。
 あのときあたしは畠山に、もうダメかも、と言ったのだった。あたしと桜木の関係を。そんな風に表現して桜木を怒らせた。
 顔がかあっと熱くなった。頭に血が上る。過去のことだとはいえ、あたしと桜木のことを、畠山にそんな風に話したなんて。
 村井君の言葉を思いだしていた。桜木と畠山の間に何かあったのではないかと村井君は疑っていた。そのことと、いまの話と何か関係があるのだとしたら、畠山と噂になってしまったあたしは本当に愚鈍だとしか言いようがない。桜木をきっとたくさん傷つけた。あたしが想像している以上に。桜木はいっぱい傷を負っている。
 桜木の顔をそっと見た。
 桜木はこれ以上その話を口にするつもりはないようだった。絶対何も言わないと決意したみたいな顔で。厭うように。むっと黙り込んでいた。
 こちらも俯き唇を噛んだ。
 みっつめの要求は。
 もしかしたら畠山に関することだったのかも知れない。
 きっと今回のメール事件のことだ。
 何かをあたしに訊ねたかったのだろうか。あたしの中の畠山への気持ち? 少しは疑っていた? それとも─── 。
 わからない。
 そっと。自分の指先に視線を当てた。女子にしては長い指。その指先を軽く伸ばす。すぐ近くにある桜木の指に絡めてみた。
 桜木の肩先がぴくりと反応した。
 忽ち意思の込められた大きな手がこちらの手を強く握り返してくる。
 太陽が。覆う雲の隙間から幾筋もの陽を落としていた。冷たい空気が鼻孔に入り込みつんと鼻の奥を突いた。その所為なのかどうか、涙が出そうになっていた。
 俺。
 と。
 隣から声がした。
 桜木の顔に視線を移す。桜木はまだ前を見つめていた。
「俺さ。野々村の気の強いとこ、結構、好きだよ?」
 突然何を言い出すのかと思った。
「……嘘」
「ほんと」
「……」
「前に、無神経って言われたろ?」
「う、ん……」
「あのときはさ。気が強いとか通り越して、さすがにすっげえきついなこの女って思ったよ。なんでそんな言い方されなくちゃいけないんだって。こいつ俺のことほんとに好きなのかよって。……あれは結構キイた。だけど、ああいうとこ、野々村らしくていいって。俺はそう思ってるんだ」
 笑ってる。
 こちらは、うひゃあと、首を縮めた。
「ごめ……」
「いや。謝らなくていいんだ。あのときは言い逃げされたから、まあ悔しかったんだけど。だって言い訳もさせてくんないからさ。だけど。気持ちぶつけられるのはどっちかって言うと嬉しいよ。野々村、変に気持ち、隠すとこあるから。気ぃ強い分、弱音吐かないだろ? 俺はさ、野々村に何も言われなくなることのほうが、きっと怖い」
「……」
「この前みたいに何も言わずにただ泣かれたりすんのも。あれはあれで可愛いけどね。だけど。やっぱり野々村の本音を知りたいって。俺はいつも、そう思ってる」
 桜木は。恥ずかしいことを平気で言う。あたしは何て返していいのかわからなくて頬を赤くして俯いていた。
「……みっつめの要求はそれでいいや」
「え?」
「これからもちゃんとこっちに気持ちをぶつけてってことで」
合わせた桜木の瞳は優しく微笑んでいた。「な?」
 な、と。諭すように言われて、あたしはこっくりと、コドモみたいに頷いていた。
「あの……」
「ん?」
「荷物は? もういいの?」
 しおらしい声で一応訊いてみる。
「ああ」
と、桜木は頷いた。目線を自分の肩にあるエナメルの紐に当てながら。
「いいよ。だってみんなすんげえ俺のこと冷たい目で見ていくし。実はこれは罰ゲームなんですよ、なんて、ひとりひとりに説明するわけにもいかないしさ。さすがにああいう真似をすると、世間の目はきついよな。大変お勉強にナリマシタネ」
「あ。気になってた?」
「なるよ。当たり前じゃん。何か言われんじゃないかと思ってびくびくしてた」
「えー。ぜんっぜん、そんな風には見えなかったよ?」
 ははっと。桜木は上向いて笑った。
「野々村はすぐ俺のことそんな風に言うけどさ。そんなわけないっつーの」
 そのまま。暫く手を繋いで歩いていた。
 冬の空気を感じながら。時折、真冬の空に視線を当てながら。
 行き交う人のなかにはうちの学校の生徒もいて、繋がれた手に冷やかすような視線を送ってきたりしたけれど。桜木はやっぱり平気な顔で歩いていた。
「ねえ、桜木」
「うん」
「さっきの話。みっつめの要求のもうひとつのほうね。いやらしいほう」
「……」
 いやらしいほう。桜木はこちらの言い方に苦笑した。
「もういいよ、その話は」
「いつ?」
「え?」
桜木がちらりとあたしの顔を見る。「いつ、って……」
「いつ桜木のお父さんとお母さん、旅行に行くの?」
「え。いつだっけ。二十七とか八とか。年末の、そんくらい」
「いいよ。あたし」
「は?」
「あたし、その日、桜木んちに泊まりに行く」
 桜木が。
 足を止めた。
 あたしは数歩桜木より余計に歩いてから小首を傾げ、振り返った。
 手はまだ繋がれたままだ。
 広い歩道の端っこで。あたしたちは手を繋ぎ見つめ合っていた。
 歩道橋から下りてきた私服姿の子供がふたり、あたしと桜木を不思議そうに見上げながら通り過ぎて行く。その子の持つ手提げ鞄についた鈴がちりりんと鳴るのが耳についた。古臭いような懐かしいような、最近ではあまり耳にしない音だと。そんなことを別のところで思っていた。
「いい、って……」
「うん。いいよ。泊まりに行っても」
 桜木は困ったような顔をしていた。
「泊まりにくるって。それって、どういうことかわかって言ってる?」
「わかってるよ?」
 微笑んで、言ってみた。平気に見えるように。桜木が安心できるように。笑って見せた。
「野々村。怖い、って言ってたの、ついこの間だろ? 覚えてる?」
「うん。怖いのはまだそうなんだけど。でも大丈夫」
 桜木のほうが。何だか泣きそうな顔になっていた。
「そんな早く気持ちって変わるもん?」
 問われてうーんとあたしも考えた。それほど急な変化でもないと思った。裸で抱きしめ合ったあのときからずっと、考えつづけていたことだ。
「だってね、桜木」
「……」
「あたしも桜木とおんなじだよ?」
「おんなじ?」
「あたしもね。桜木と、そうなりたいんだよ」
 桜木のこと。
 好きだからね─── 。
 こちらの言葉に。
 桜木の瞳が大きく揺れた。
「そういうこと」
「……」
「……わかった?」
 一拍間を置いてから。
 桜木は頷いた。
 格別嬉しそうとか喜びに満ち溢れてとか、そういう顔じゃないけれど。目を合わせると、微かに笑んだ。照れ臭そうなその顔を可愛いと思う。もしかしたら愛しいとさえ。
「桜木」
「ん?」
「肩、痛いよ」
 肩が凝ったときみたいに右肩から右肘にかけてを僅かに上げ左手をその肩に当てて見せた。
「は?」
「さっき。桜木の荷物持ったから。肩、痛めちゃったみたい。あたしの荷物、持ってくれる?」
 桜木はあたしを横目で軽く見た。
「ふーん」
「何よ」
「嘘だな。つーか。そういう台詞は勝負に勝ってから言ってください」
「ちぇーっ」
あたしは唇を尖らせた。「騙されてくれないんだ。結構甘くないね、桜木」
「よっく言うよな。俺、野々村には目茶苦茶甘いと思うけど」
 ふたりでふざけ合いながら家路を辿った。
 今度はどんな勝負をしようかとか何を賭けようかとか。スポーツはもう絶対嫌だから、というよりは、あたしに余りにも勝ち目がなくてお話にならないから、学年末テストの教科のどれかにしようとか、自分の持ち物のなかで一番高価なものを賭けようだとか。そんなくだらないどうでもいいことばかりを話しながら歩いて帰った。
 桜木の家に辿り着いたときには頬や耳が痛いくらい冷たくなっていた。
「寒い?」
何の前触れもなく頬に触れてきた桜木にそう問われ、あたしは桜木の目を見返しながら首を横に振った。寄せた桜木の肩先も冷たくなっていた。
 柔らかく抱きしめられながら眺めた窓の風景には、茜雲が広がっていた。暗赤色のような薄紫のような不思議な空色に束の間魅入られた。


真冬の空 前編 (完)

真冬の空 後編へ

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