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真冬の空(前) 2.
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 あたしよりも五十メートルくらい先を行くふたり連れ。
 紺色のブレザーの裾からセーターをほんの僅か覗かせて、学校指定の紺色のバックを肩に、エナメルのスポーツバックを左右対称に斜め掛けしているふたり。首には色違いのおそろいのマフラーが見える。三色ボーダーのマフラーだ。片方は白黒灰色のモノトーンで、片方は寒色系。
 思わずうーんと、唸っていた。
 なんだなんだ、あのふたりは。もしかして、ペアルック?
 髪型は全然違うけど身長も同じくらいの高さだし。何気に似合ってる? ちょっと仲良すぎなんじゃない?
 うーんと、今度は首を捻ってしまった。
 くりんくりんの天然パーマの後頭部を見つめながら思う。村井君ってば実はあたしのライバルだったりするのだろうか? 桜木と一緒に過ごす時間は、あたしより村井君のほうが断然多いのが現実だ。
 今朝は少し気温が低い。吐く息が白かった。空は晴れているけれど頬に触れる空気は冷たくて、風が吹くたび首を竦め亀のように顔をマフラーに埋めた。
 と。あたしを早足で追い抜いていく女子生徒がひとり。
「おはようございます」
追い越しざまににっこりと可愛らしい微笑を残していった。一年生の雨宮さんだ。女子にしては長身のあたしよりもさらに高い。170センチは超えてそうな身体に小さな顔が乗っかっている。
「お、おはよう……」
 先輩らしい威厳なんかまるきり保てなくてもごもごと返していた。でも、たぶん、聞こえていない、というか聞いちゃいない。あっという間に小さくなっていく背中を見ながらそう思う。
 村井君と桜木に追いついた雨宮さんは慣れた動作でふたりの間に割り込んでいた。
 目をぱちぱちと瞬く。
 今度は、うーんと唸る余裕はなかった。ライバル本家本元の登場だ。それにしても、あたしの存在を全く気にしないんだな、雨宮さんは。あたしの目の前でその態度はないんじゃないの? そうむくれる。
 一気に脱力していた。
 後ろから見た限り、桜木に雨宮さんを疎んじてるような雰囲気はまるでなかった。
 寧ろ楽しそう。
 ……。
 ふーんだ。
 面白くない。
 下唇を突き出し、地面を蹴った。
「あーあ。紗江、完璧になめられてるよねえ」
後ろから何の前触れもなく声をかけられぎょっとした。
「な、奈々子」
「いいのー? いまの内に釘、刺しとかないで」
 釘? 桜木に?
「急に話しかけてこないでよ。びっくりするじゃない」
 奈々子は腕組みし、感心したように首を何度も縦に振っている。
「あの女、結構なタマだよねえ。いい根性してるわ」
「……タマってね」
 あんたはやくざか、とツッコミを入れたくなった。
 やがて三人の姿は校門へと消えていった。あたしたちもつづく。何だか胸がもやもやする。あたしが真剣に考え込んでいるのがわかったのか、奈々子はもう話しかけてこなかった。黙ってひょこひょこ隣を歩いているだけだ。
 桜木にとって雨宮さんはバスケ部の後輩だから。邪険になんかできないだろうし、話しかけられれば無視できるはずもなかった。それは理解できる。それに村井君も一緒だし。いまはもう、昔みたいにバスケ部の何人かで、カラオケに行ったり一緒に登下校したり、そういうことは一切ないみたいだし。そうさせたのは間違いなく桜木のカノジョという立場にあるあたしの存在だろうし。
 それでもこんな風にヤキモキするあたしは心が狭いのだろうか。
 昇降口で、桜木たちと一緒になった。雨宮さんの姿は見えない。一年生の靴置き場は離れた場所にある。
「おはよ」
 爽やかな顔で笑いかけてくる桜木の顔をじっと見返した。挑むように見てやった。え、なに、と、桜木は困惑している。
 憎たらしい。
 さっきまで。
 雨宮さんと並んで歩いていたくせに。
「おはよ」
 低い声で素っ気無く返すと、つんとそっぽを向いた。
「あ、あれ? 野々村? 紗江ちゃん?」
 背中を追いかけてきた桜木の声には戸惑いが滲んでいた。
「紗江、ちょっと」
 嗜める奈々子にも言葉を返したくなくて、足早に教室への階段を昇った。



 え。嘘。
 返ってきたテスト用紙を握りしめ呟いた。
 有り得ない。
 教壇に立つ畠山の顔にそっと視線を送った。
 目が合うと畠山は唇の端を上げ意味深に笑った。よくやったな、とも、そんくらい採れてフツーなんだよ、ともとれる顔をしてる。
 さっちんと奈々子のほうを見る。ふたりともピースサインを送ってきた。おおお、と。こちらもにょきっと二本の指を立てて見せた。
「えー。今回のテスト、学年トップの点数は97点。三人いるが、内ふたりはこのクラスの人間だ」
 わ、っと。必要以上にどよめく教室。
 え。
 まじで?
 あたしは自分のテスト用紙の右上に赤く書かれた97という数字を、見間違えてやしないかと穴が開くほどにまじまじと見つめた。
 やった。にやつく顔をテスト用紙で隠して笑った。へへへと首を竦め、もう一度確認する。97点。このあたしが数学のテストで97点だよ。うーん。どれほどの苦手科目であろうとも、たまには真面目に勉強してみるもんだな。そうすれば学年最高得点が採れるんだから。
 あたしの動作のひとつひとつが余程不審だったのか、野球部に所属する隣の男子がこちらのテスト用紙を無遠慮に覗き込んできた。
 慌てて伏せたけれど、遅かった。
「うわー。内ひとりがここにいるぞー」
 この野郎。何ぬかす。あたしは真っ赤になって坊主頭を揺らし必要以上に大声を上げる隣席の男子を睨みつけた。
 再び教室が騒がしくなった。
「うっそ。野々村? まじで?」
「野々村、補習の常連だったじゃんかー」
 し、失礼なっ。
「ねえねえ、じゃあもうひとりは誰よー」
「はいはーい。いまのうちに自己申告してくださーい」
「あ。いた。ここに」
 げっ。
 なんと。もうひとりはさっちんだった。
 さっちんはふっくらしたほっぺを真っ赤にさせ俯いている。テスト用紙は机の上でさっちんの手により気の毒になるくらいぐしゃぐしゃにされていた。
「こら。お前ら。やめとけ。そんな犯人探しみたいな真似するんじゃない。それにな、97点なんて、ちゃんと俺の授業聞いてりゃ採れる点数なんだよ」
 畠山は呑気ないつもの声で叱咤する。そんな言い方じゃ静かにならない。まだざわついている生徒たちを気にも留めず畠山はつづけた。
「えーと。今回の平均点は……」
 ちらりと桜木のほうを見た。桜木の席はあたしのそれよりも、少し離れた後ろの位置にある。向こうもこっちを見ていたようで、視線を合わせた桜木はにっと笑って奈々子たちと同じようにピースサインを送ってきた。
 本当は今朝の出来事をまだ怒っていたんだけど。すっかり機嫌を直したあたしはへへへ、と笑いを返していた。桜木は何点だったんだろう、いつもの悠然とした表情で、畠山の話を聞いていた。
 
 
 昼休み。
 教室にいない桜木を探して廊下をうろうろしていると、畠山の姿を見つけた。渡り廊下へつづく扉の影、誰かと話をしているなんて思い寄らないあたしは、
「畠山」
何の躊躇もなく声をかけた。
 近寄って初めて、畠山の傍に女子生徒がいることに気がついた。見たことのある顔。名前はわからないけど同じ二年生のコだ。
 話を邪魔されたことが余程気に障ったのか、その女子生徒は剣呑な光を湛えた目をこちらに向けてきた。
「あ……」
ごめんなさい、と謝りながら通り過ぎようとしたけれど、
「おい。野々村、ちょっと話がある、そこで待っとけ」
そう畠山に言われて、渡り廊下の中央で立ち止まった。仕方ないので、所在無げにぶらぶらする。女子生徒は真剣な顔で何かを畠山に懇願していた。畠山は、ダメだよ、と優しい声で諭している。その低い声にはそこはかとない色気が漂っていた。大人だな、畠山。いちゃついてるように見えなくもないふたりの遣り取りに、何だかこちらのほうが顔が赤くなってしまう。さっちん、ピンチだよー。
 風が吹き抜けていった。窓のない渡り廊下は風がどうしても強くなる。ふわりと浮かび上がりそうになるスカートを手で押さえた。頬が冷たい。
 かろうじて陽の射す廊下の端っこに寄り、そこから見下ろせる中庭に視線を遣った。冬になるとめっきり彩りが少なくなって寂しく見える花壇。夏にどんな花が咲いていたのかは、もう思い出せないのだった。
「野々村」
 名前を呼ばれ畠山のほうを見た。女子生徒はいつの間にかいなくなっていた。畠山はいつもの呑気な顔であたしの隣に立つ。ややあって、口を開いた。
「よくやったな、今回のテスト。野々村にしちゃ、上出来だ」
 太く色素の薄い眉を上げて、にやりと笑う。そんなに手放しで褒められるとこちらも照れ臭い。
「うん。自分でもびっくりだよ。だけど、まずいよね。畠山に電話して教えてもらったこと、みんなにはバレないほうがいいよね?」
 畠山は曖昧な感じに頷いた。そんなことはどうでもいいといった表情だ。
「やればできるってわかっただろ? 毎回あんな点数採らなくていいから。補習を受けなくちゃいけないような点数はもう二度と採るな」
「うん」
「一回勉強の仕方がわかればな。これからはなんとかなりそうだろ?」
「でももう数学のテストあと一回しか、ないよ?」
 三学期に学年末テストがあるのみだ。
「だから、それでいい点採れや」
「はあ……」
 自信なさ気な声を出すと、畠山はやれやれという調子で笑った。
「ね、いまのコ」
「あ?」
「もしかして、ケータイのアドレス、訊いてた?」
「あー、……」
 言いよどむ畠山。やっぱり。
「モテモテだね、畠山」
 冷やかすみたいに言ったけど、畠山は前を向いたままどうってことないって顔をしていた。
「教えてあげなかったの?」
 また。曖昧な感じに頷いた。
「いちいち生徒にアドレス教える教師はいないよ」
「……」
 あれ?
 だけど。奈々子には携帯電話の番号をあっさり教えたんじゃなかったの? 奈々子は確か、そう言っていたはず。
 すぐに訊ねればよかったのに。何となく口に出しにくくて黙っていた。畠山も、黙している。
 立ち去りづらくてぼんやりふたりで中庭を見ていると、視界の端に男子生徒の姿が映った。ちょっと姿が見えただけでもすぐに誰だかわかるのだ。桜木だ。思わず口許が緩んだ。
「さくら……」
 ぱっと、振り向いたあたしは、けれどたちまち言葉をうしなっていた。自分の顔から笑みが消え、頬の肉が固まるのをはっきりと自覚した。
 桜木は雨宮さんといた。ふたりで、旧校舎のほうから現われたのだ。
 ふたりもあたしの顔を見ると驚いたような顔で足を止めた。
 三人で茫然と固まる。
 実際には三人ではなく、四人だったのだけれど。自分の隣に畠山がいることを、そのときのあたしはすっかり失念していた。
 最初に笑みを取り戻したのは雨宮さんだった。
「じゃあ先輩、あとでまたメールしますね」
桜木の腕に触れ、顔を覗き込みながらそんなことを言う。まるでコイビトドウシじゃないかと目を見張った。
 メール? メールって何?
 思わず桜木の顔に問いかけるような視線を送っていた。
 雨宮さんはあたしに向かってにっこりと、今朝と同様の微笑を残してから去って行った。こんなにもこちらは動揺しているというのに。どうして向こうはあんな自信と余裕に溢れ返っているのだろう。
 手の先も足の先も冷えていく気がした。
 畠山があたしと桜木の横を黙ったまま擦り抜けていく。あ、畠山、まだいたんだと。あたしはぼうっとした表情で、引き摺るようにてれてれ歩く黒いサンダルを見送っていた。


「……メールの遣り取りしてるんだ。雨宮さんと」
 うわあ。何て嫌味な言い方なんだろう。
 やっとのことで絞り出した声は、低く、陰鬱で、自分の声じゃないみたいに耳の内に響いていた。とても醜い声だ。嫌になるくらいいまの自分の気持ちを如実に表している。
 メールの遣り取りくらいでごたごた言うのは自分の懐の狭さを証明するみたいで嫌だった。だけど言わずにはいられなかった。ちょっと。いやかなり。ショックだった。
 はあー、と大きな溜め息が聞こえてきた。呆れたような、勘弁してくれよとこちらに伝えているような、そんな風に受け取れなくもない溜め息。顔がかあっと熱くなる。羞恥で益々顔を上げられなくなってしまう。
 もうじき授業が始まるというのに、あたしたちはまだ渡り廊下に留まっていた。
「……遣り取りは、してないよ」
 桜木の返答にあたしは目を見開き、ぱっと顔を上げた。
「え、でも」
「前はしてたよ。でも、体育祭のあとにごたごたしただろ? あれで俺も期待持たせるようなことはしないほうがいいって気がついて。野々村にも悪いと思ったし。だから向こうからメールがきても、一切返事は出してないんだ。もうメールは出さないってちゃんと言ってあるしね」
「……」
 意味が。よくわからなかった。なので。じっと、探るように桜木の瞳に目を当てていた。
「でも、くるんだ、雨宮からのメール。思い出したみたいに、週に一度か二度、くらい」
 え。
 と。あたしは震える唇で問いかけていた。
「返事、出さないのに?」
「うん」
「でも、くるの、メール?」
 桜木は、答えにくそうに頷いた。
 返事をくれない相手にメールを送る。
 雨宮さんの顔を思い描こうとした。どんなだったろうか。ぐちゃぐちゃに動揺しているいまのあたしの頭では、目の形も鼻の形も全然思い出せないのだった。潔く切った特徴的な短い髪だけを、何とか思い浮かべていた。
 桜木を見るときだけぱっと明るくなる表情。
 それははっきりと思い出せる。
 胸が、鷲掴みされたみたいに痛んだ。
 雨宮さんは。
 どんな思いで桜木にメールを打っているんだろう。
 返事の来ないメールを。
 どんな顔で打っているんだろう。
 気づくと、掌で口許を覆っていた。その手と、膝が震えていた。それから肩が。がくがくと揺れた。
 息が、できない。
 窒息しそうだ。
「野々村?」
 あたしは桜木の顔は見ないままに、首を横に振って、歩き出していた。
 怖い。
 怖かった。
 雨宮さんの桜木へ放たれる思いの深さが。一途さが。それを隠そうともしない凛然さが。全身が震えるほどに怖かった。
「待って」
 ぐいっと後ろから腕を引かれた。拒絶するような元気など微塵もなくて、ぼうっと桜木の顔を見上げていた。
 桜木は無神経だと思った。雨宮さんの思いを知りながらそれを許し、ただメールを受け取るだけの桜木はあまりにも女のコと向き合う上での繊細さに欠けている。雨宮さんに対しても。あたしに対しても。
「ちゃんと最後まで聞いて、野々村」
「……」
 唇も膝もがくがくと震えたままだった。桜木の顔はぼんやりと滲んでよく見えないし。ごくりと。桜木が唾を呑み込む音だけは聞こえてきた。
「確かに今までは返事を出さなかったんだけど、これからは、ちょっと遣り取りがあると思う」
「え……?」
 何を言ってるのだろうかと思った。涼しい顔して、何言ってるの、桜木。
「三年生の追い出し会が終業式の日にあるんだ。男バス、女バス、合同の追い出し会なんだ。その追い出し会の幹事に、俺と雨宮が決まったから」
「え?」
あたしは首を傾げ、泣きそうな顔で笑ってみせた。「追い出し会? この時期に?」
 何だって、こんな、受験の追い込みの時期にそんな楽しそうなものがあるんだ。
 桜木はつらそうな顔で頷く。そう。桜木はちっとも涼しい顔なんかしていなかった。苦しそうに顔を歪めていた。
「毎年この時期にあるんだ。推薦で、もう進学決めた先輩もいるし、そうじゃないひとも、いい気晴らしになるからって。他の部もそうだと思う」
「そんなの……」
 知らない。
「野々村」
「どうして?」
「え?」
「どうして、桜木と雨宮さん、なの?」
 他に適任者はいくらでもいるだろうと思った。何故、二年生の桜木と一年生の雨宮さんが幹事になんか任命されるんだ。そもそもそこがおかしいではないか。
 それは未だにバスケ部の中で、ふたりがくっつけばいいと、そう願っているひとがいることを指してはいないだろうか。他の部員達から見たふたりは今もってそういう存在だと、そういうことにはならないだろうか。
 知らなかった。
 文字通り部外者のあたしはそういうことをまるで知らないでいた。
 じゃあ、あたしは?
 あたしの存在はそのひとたちのなかで、一体どうなっているのだろう。
「いや、だな……」
 ぽつりと俯き、呟いた。
「……え?」
「こういうのは、いや、だよ」
 桜木がこちらの顔を覗きこんでくる。
「いやって、野々村、どういう意味?」
 初夏に行われた紅白戦を思い出していた。
 あのとき、先輩達にもみくちゃにされていた桜木が、三年生の追い出し会の幹事を任された桜木が、それを断ったりできるはずがなかった。
 わかっている。どうしようもないことだとはわかっている。だけど。もやもやする。
「……もう」
「え?」
「もう、いいよ」
 力なく、言った。それで終わりにしたかった。
「……何だよ、それ」
 思いがけず桜木の怒ったような声が上から降ってきてあたしは俯いたまま目を見張った。
「もういいとか言われたら、話、曖昧なまま終わっちゃうだろ」
 確かにそれは正論だけど。むっとした。だいいち、元々怒っていたのはこちらのほうだとそう思う。抑えていた不満が頭を擡げる。ぱっと顔を上げた。
 視線を合わせた桜木は、こちらの表情からさすがにいまのは失言だと悟ったのか、途端に怯んだ顔になった。
「無神経なの、桜木はっ」
「は?」
「む、し、ん、け、いっ」
 言うなり、ばっと腕を払って歩き出した。後ろで桜木が何か言っていたけれど、構わずずんずんと前進した。滲み始めていた涙を拭う。悔しかった。何が悔しいのか上手く説明できないけれど、自分ひとりが疎外されている気がして、その事実が寂しくて虚しくて、堪らなかった。
「あれ、野々村?」
 教室の前の廊下で会った村井君が、あたしと後ろを歩く桜木とに交互に視線を送った。
「何、何、どうしたの? 犬も食わないっつーやつ?」
 な。
 何を呑気なー。
 むくむくと、村井君に対する怒りが込み上げてきた。村井君は男バスの現役の部長だ。村井君がついていながらどうしてこういうことになんのよと。そう言ってやりたかった。
「ばかっ」
 完全な八つ当たりだけど。ごつんと、その胸元に軽く拳を見舞ってやった。おわわっと。村井君は腰を折り曲げ変な声を出している。
「え? え? 俺、何かした? 何? 野々村? 紗江ちゃーん?」
 村井君が桜木の真似をして紗江ちゃん、と呼ぶ。桜木が時折ふざけてそう呼ぶみたいに。桜木に紗江ちゃん、と呼ばれるのは照れ臭いけれど嫌ではない。言葉で身体のどこかをくすぐられるみたいな変な心地よさがある。
 だけど。
 いまはそれすら忌々しい。ばか村井。そんな名前で呼ぶんじゃない。
「村井。何でお前が下の名前で呼んでんだよ。図々しいな」
「え。いいじゃん。名前くらい呼んだって。ケチ」
「ふざけんな」
「あれあれー。はなみっちゃん、ヤキモチー?」
 背中側で繰り広げられる兄弟喧嘩みたいなふたりの遣り取りは、完璧無視を決め込んだ。
 教室に入ったあたしの表情がよっぽどひどかったのだろう、ぎょっとした顔で一旦は視線を合わせた奈々子とさっちんだったけれど、さわらぬ神に祟りなしとばかりにあからさまな様子で視線を逸らした。
 友達甲斐のないやつらだな、もう。

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