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真冬の空(前) 5.

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 四角い縦長のプラスティック製の箱を手に、校庭の端にあるごみ置き場へと向かう。
 冬休みを前にした大掃除の時間。
 隣には奈々子。こちらは折り畳まれたダンボール箱をふたつ、抱えるようにして持っている。
「明後日から冬休みだねー」
 奈々子が目を細めながら言う。今日は気温はそれほど低くないけれど風が強い。前方から吹く風をまともに受けた奈々子の前髪は跳ね上がり、広いおでこが剥き出しになっていた。短めのスカートもひらひら翻ってはいるけれど、下にスパッツを穿いているからなのか、少しも気にしている様子はない。年頃の娘なのに、いいのか、そんなんで。
「奈々子はカレとどっか行く? 冬休み」
「うーん。……うん。行くよ、たぶん」
「泊まりで?」
 奈々子のカレシは四歳年上の大学生だ。だからというわけでもないのだろうが、何度か親に嘘を吐いて外泊している。一泊二日の小旅行だったりカレの家に泊まったり。アリバイ作りにあたしやさっちんが利用されるのはお約束だ。
「それがさー」
奈々子は唇を尖らせた。「最近うちの親うるさくって。前みたいに泊まりは無理っぽいんだよねえ。多分ね、うちの親、気づいてるんだよ。あたしがすでに経験ありだってこと。だからね、紗江たちと行くって言ってももう絶対信用してくれないと思う」
 奈々子はどうってことない口調で話しているけれど、こちらは、え、と驚き身体を退いた。
「何か。すごいヘビーな話じゃない? それって」
「え? そう?」
 奈々子はやはり、平気な顔で目をぱちくりとさせている。
「親と気まずくならない?」
「そうでもないよ?」
「親ってそういうもん?」
 うちの親だったらどうだろうか。あたしによく似た母親の顔を思い出す。母親に自分のそういった性体験を知られたり想像されたりするのはちょっとというかかなり、堪らないんだけど。照れ臭いを通り越してむずがゆいというか身の置き所がないというか。
「そういうもんよ。てっか、そっちはどうなのよ。あ……」
 あ。と奈々子が言ったので、落としていた視線を上げた。
 前方にのらりくらりと歩く人影。逆光で顔の表情は見えないけれど、覇気のない歩き方に畠山だとすぐにわかった。白いシャツの上に灰色のセーターを着ている。下は黒いスラックス。教師らしい地味な格好だと言えなくもないが、上に濃い緑色のアディダスのジャージを羽織っているあたりがどうにも派手だ。というかアンバランス。
 あたしと奈々子に気づいていないはずはないのに、畠山の視線はあたしたちを素通りしていた。わざとらしい態度だなと、そう思う。あれからずっとそうなのだ。そうする理由はまあ理解できないこともないけれど、何だかいまひとつぴんとこない。畠山という人間は、あんな噂を気にするような小さな心臓の持ち主だったろうか。
 無視されることが悔しくて故意に畠山の顔から視線を逸らさずにいた。喧嘩を売っているみたいに見つめていた。というよりは睨んでいた。
 けれど結局視線が合うことはなく。空々しい虚しさだけが畠山の通り過ぎて行った空間に残される。
 離れた場所にいる女子の三人組があたしと畠山とに視線を向け何か言っているのが目に映った。知らない見たこともない女のコたち。冷やかすような顔つきにげんなりした。
 噂はまだ消えていないのだ。
 冬休みが終わる頃にはみんなの記憶から消えてるといいなと、密かに期待しているんだけど。甘いだろうか。
 ごみを捨て身軽になった奈々子とあたしは時計を見てから目配せし合った。残り時間はあと十五分。長い。
「ゆっくり戻ろうか」
「えへへ。そうだね」
「さっちん、絶対怒るよねえ」
「うん。どこでさぼってたの、ってかんかんになって怒ると思う」
 ふたりで顔を見合わせ笑った。
 さっちんとは案外すぐに仲直りできた。裏で村井君が動いてくれたみたいだったが、ふたりがどういう会話を交わしたのかはわからない。笑顔を見せているのは表面上のことで、もしかしたら心の内側では畠山と噂になってしまったあたしのことを本当はまだちっとも許していないのかも知れないけれど、いまはそれでもいいと、仕方ないと、あたしは思っている。
「あたし、畠山のこと、結構本気で好きだったみたい」
 憧れよりももう少し上の気持ち。でも、恋と呼べるほどのものだったかどうかはわからないとさっちんは言った。
「今度はもっと身近な男のコを探すんだー」
 そんな風に笑っていた。
「─── 畠山」
 ふいに隣の奈々子がその名前を口にした。
「え?」
「さっき。完璧に無視、だったね」
「うん。ここのとこずっとそうなんだよ。ま、畠山も教師だからね」
「だけどさ」
奈々子はこちらの言葉に納得していない顔で言う。「紗江のこと、嫌いで無視してるわけじゃないよね、きっと」
「そうかな……」
「うーん。たぶんね。これ以上噂になっちゃうと紗江が困るから。だから迂闊に話しかけちゃいけないって思ってるんじゃないのかな。っていうかね。畠山、マジで紗江に気があるんじゃん?」
「はあ?」
 この女は。いつも突拍子のないことばかり口にする。
「ないよ」
「そうかなあ……」
「向こうは大人だよ? あたしなんか生徒のうちのひとりにしか過ぎないんだってば」
「……。だけどさっきの畠山のあのマジな顔。気持ち悪いくらい無理してなかった?」
 気持ち悪いって、あんたねえ。
 ばさばさと風に揺れる髪の毛が邪魔だ。それを耳にかけながら話す。
「白岩先生がね。畠山と北川先生はつき合ってるって。そう言ってたよ」
「え。あの噂って本当だったの?」
 じゃあ、どっちにしてもさっちんは失恋したわけか。奈々子は顔をすっと空に向け感慨深そうに呟いた。
 校庭には何人もの生徒がいた。その向こうの校舎の窓は陽射しを受けきらきらと光っている。空には重い色の雲はかかっていない。冬なのに、雪は当分降りそうにないなと。そう思う。
「奈々子」
「んー?」
「奈々子はカレ以外のひとに、心を奪われそうになったことって、一度もない?」
「え」
「つき合ってどれくらいだっけ?」
「二年半、くらい?」
 に。二年半? 思わずまじまじと横を歩く小さな友人を見つめた。
「長いねー」
素で感嘆の声を上げていた。
 あたしの周りでそんなに長くつづいてるカップルはおそらく他にはいないだろう。みんな長くても一年くらいで別れている。短いひとだと一ヶ月周期で新しい恋の訪れがやってきたりもしているし。
 あたしと桜木は半年くらいのつき合いだから。まあ長くもなく短くもなくといったところだろうか。
 これからどれくらいの時間桜木と一緒にいられるのかを予想することはできないけれど。桜木と別れてしまったあとの自分を想像することもまた、これっぽちもできないのだった。
「ねえ、それだったら尚更だよね。一度もない? カレより別の男のひとのほうがいいなって、思ったこと。気持ちが揺れたこととか一度もないの?」
 奈々子は顎を突き出し、ないよ、ときっぱり言った。
「だってそんなにいい男っていないじゃん。あたし同級生とかコドモっぽく見えてダメなんだよね」
 げ。
 そういうこと言う?
 あんただって相当コドモっぽいんだけど。
 とは。思ったけど口にしなかった。
 奈々子は何だか変な笑いをその顔に貼りつけている。
「だけど村井とか桜木とか見てるとさ。ちょっといいなって、それは思うよね」
「え」
 それはまた、ずい分と身近な存在ではないか。
 ふふふー、と。奈々子はあたしを流し目に見た。かまぼこみたいな形をした目。気持ち悪い。
「何よ」
「もしもー、桜木に言い寄られたりしたらー、ふらふらあってよろめいちゃうかもねー。浮気しちゃうかもー」
頬の横で両手を握りしめうっとりとした表情を作っている。甘い声。芝居がかった態度。
 バカバカしい。あたしは呆れ顔で首を横に振った。
「あ。紗江、本気にしてないでしょ? でも、ほんとに桜木はかっこいいと思うよ?」
「あ、そ?」
「ほんとだって。中学生の頃は何かガキっぽかったけどさ。最近メキメキいい男の頭角現してるよね。雨宮ってコだけじゃなくて。狙ってるコ、きっと他にもたくさんいるんじゃないかな」
 あたしは俯いた。視界に映るのは校庭の乾いた砂埃とそれに塗れて真っ白になってしまったローファー。さっきからずっと気になっている。
「わかってる」
 自分に答えるみたいに言った。
 わかってる。
 だけど、ダメ。
 胸の内でひっそりと、けれど決然と固まる思いがあった。
 桜木は。
 他の誰にも渡さない。
 だからといってこの気持ちを、簡単に口に出すような不用意な真似は決してしない。
 奈々子にもさっちんにも誰にも言わない。桜木にだって。絶対悟られたくはない。
 独占欲はときに相手の負担になるから。桜木に重い女だと思われるのだけは嫌だから。決して知られないように。これまで通りの顔で傍にいるのだ。
「何急に真面目な顔になってんの?」
気づくと奈々子がこちらの顔を覗き込んでいた。「もしかして、やらしいこと、考えてた?」
「バカ奈々子」
言下に怒ったように言い、それからふふ、と笑って見せた。「なーに言ってんだかね、奈々子は」
「えー。紗江だって少しぐらいはさ、えっちなこと考えたりするでしょー?」
 答えないで笑っていた。まあ。当たってないとは言えなくもない。かな?

 
 静謐な空気に満たされた体育館。静かで。そしてうっすらと寒いのだ。制服の上から二の腕を摩りつつ上履きを脱ぎそっと足を踏み込んだ。
 桜木の姿は見えない。
 ボールやマットが仕舞ってある倉庫のほうからがさごそと音がしていた。ネットを張った卓球台がぽつんとひとつ。広い体育館の隅に残されたままになっている。
「桜木?」
 名前を呼びながら倉庫に近づいた。
 開いたままの扉からそっと顔を覗かせてみる。汗臭いような匂いが鼻を突いた。いつ入ってもこの体育館倉庫というやつは臭い。
 だけどあたしたちはここで唇を合わせたことがあるのだ。秋の初めのことだった。
 跳び箱よりもさらに奥のほうに、背中を丸めて何やら探し物をしている桜木の姿があった。外はまだ明るいというのに、ここの灯りは乏しくかなり暗い。
「桜木? 何してるの?」
 あたしの声に桜木は振り返ると、やや間を空けてからにっこりと微笑んだ。何だか裏の有りそうな笑い。う、と。たじろぐ。
 何だろう。
 桜木の身体の前にあるのはぼろぼろになりくたっと形を崩したダンボール箱だった。古い卓球用のラケットが無造作に放り込まれ、埃を被っている。
「紗ー江ちゃん」
無邪気にそんな呼び方をしてくる桜木に、こちらは益々警戒心を強くした。
「な、何よ」
「卓球しよう」
 にんまりと微笑む桜木。
「え」
「卓球。しよう?」
「な、に?」
 桜木は、はは、と軽い調子で笑った。
「だから卓球だって」
 卓球、卓球、卓球と。三回も言わせてしまった。
 桜木に因って吟味され選ばれたラケットをひとつ、はい、と右手に持たされた。持ち手のつけ根の部分が黒ずんだ、使い古されたラケットだ。
「一セットだけ勝負しようよ。いい?」
 勝負?
「ハンデ、ちゃんとつけるからさ」
「勝負、って……」
運動音痴なあたしはラケットを裏返したりしながらビミョウな顔で立ち竦む。「もしかして何か賭けたりとか、そういうこと?」
 こちらを向いた桜木の顔にはひとの悪い笑みが浮かんでいた。きらきらと、いつもよりずっと輝いて見える瞳。いたずらっ子の顔をしている。
「さすが野々村。察しがいいな」
「あたし、お金、そんなに持ってないよ?」
 くっ、と。俯いた桜木は小さく笑った。卓球台に近寄りながら小さな白いピンポン球をラケットの上で弄んでいる。そんなことですら軽くやってのける桜木はやはり運動神経がいいのだろう。袖を捲り上げた腕の筋肉が形を変える度、ピンポン球がラケットの上で軽やかに跳ねる。
 桜木は最後に一度高く放り上げたピンポン球をぱっと握ると何てことないみたいな口調で言い放った。
「負けたほうが、勝ったほうの要求をのむっていうのはどう?」
ラケットを握ったほうの手で、三本の指を立てて見せた。「要求はみっつ、ね」
「は?」
「ハンデはこっちが左手でする。それでいい?」
「え?」
あたしは目を見開いた。「ハンデ、それだけ?」
 こちらの抗議に桜木のほうも目を丸くした。
「は? 何? もっと必要?」
あたしへの甘すぎる提案に、よもや異議を唱えられるなどととは予想もしていなかったのだろう。
 心外、と顔にはっきりと書いてある。
「俺、右利きなんだけど?」
 桜木が右利きなのなんて。そんなの、百も承知だ。
「だって。桜木が仕掛けといてハンデはそれって。勝算ありそうだからなんじゃないの?」
「いや、そんなつもりはないよ」
 桜木は真面目な顔で両腕を組むと、卓球台に視線を落とした。思案顔で黙り込んでいる。気を悪くしたわけではないと、そうは思うのだけれど。桜木の笑っていない顔はこちらをひどく怯ませる。どきどきしながらその顔を見守った。
 体育館は寒いのに。部活で散々動き回った所為か、桜木の髪のつけ根のあたりは汗で濡れていた。伏せた睫。すうっと通った鼻筋。真剣な顔。やっぱり見惚れてしまうのだ。
 桜木は何をあたしに要求するつもりなんだろう。
 まさか。あたしの貞操?
 なんっつって。それはないか。
 それにしても、そっちがそこまで真剣な顔を見せるのなら、こちらだって負けられない。運動音痴なくせに気の強いあたしはそんなことを思うのだった。
「卓球って何点までだっけ?」
 ん? と桜木が顔を上げる。
「十一」
「じゃ、五点ちょうだい」
 桜木はこちらの図々しい申し出にきょとんとし、それからぐはっと相好を崩した。
「いいよ。つーかさ。五点でいいのか」
再びピンポン球を弄びながらくつくつ笑う桜木。
 むっとした。
「サーブ権はじゃんけんな」
 じゃんけんですら真剣勝負の様相だった。でも負けてしまった。くそう。勝負の女神はなかなかあたしに微笑んではくれない。悔しい思いを胸に、一応それらしくブレザーを脱ぎ、桜木を真似て袖も捲った。
 まるで真っ白なそれが神々しいものであるかのような仕草でピンポン球を右掌に乗せた桜木が、膝を曲げ、腰を低く落とす。その格好が、経験者みたいにキマってる。
 嫌な予感。
「じゃ。イキマスヨ?」
「……」
 あたしも。腰を落として構えてみた。桜木に比べるとまるきりサマになっていないのが自分でもわかるのだ。
 ていうか。あたし卓球なんか殆どしたことないんだけど。
 もう。
 この時点で勝負はきっと見えていた。


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