1. 2. 3. 4. 5. 6. 7.
ひらひらり  1.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 一子と喧嘩した。
 原因はよく覚えていない。
 幼なじみの気安さからなのかどうか。一子とはよく喧嘩をする。喧嘩といっても大抵はどうでもいいような小さな諍いだ。
 今回も何てことない些細なことから口論になった。…ような気がする。ずい分と曖昧。事の発端については困ったことに本当に記憶がないのだった。
 ただ最後の台詞は覚えている。冷戦勃発の瞬間だ。
─── イッキのばか。もう知らない。帰る。
─── あ、そ。帰れば?
 たったこれだけ。
 それからもう一週間以上も口を利いていない。春休みが終わって学内で出会っても知らんふり、だ。こちらを見ようともしないつんと澄ました一子の顔。めちゃくちゃ頭にくる。携帯電話にメールを送ることもしない。一子は案外頑固で気が強い。
 こちらもつい意地になって同じような態度に出てしまうのがいけないのだろうか。もっと精神的に大人になればいいのだろうか。
 一子を相手にすると、どうしても幼稚になってしまう自分がいる。自覚はあるがどうにもならない。他の女のコと同じように接することができないのだ。
 やっぱり。
 幼なじみという関係がいけないのかもしれない、と再び詮無いことを考える。
 歩きながら溜め息を落とした。今日は一子と会えなかった。
 あいつ、サボってんじゃねえの?と、少々八つ当たり気味に勘繰ってみる。ひょっとして避けられてんのか?とも。
 屋外に出るとあまりの日の明るさに思わず目を瞬いた。うちの大学は建物が旧いので屋内は結構薄暗い。その明度の差がこんな天気のいい日にはまともに目に影響する。胸ポケットから煙草を取り出した。薄っぺらな携帯用灰皿も。
 四月。
 大学は一年生を迎えて賑やかだ。サークルの勧誘はすでに盛りを過ぎてはいるが、それでも学年末に比べると学内にいる人間の数は格段多い。活気に溢れている。
 ふ、っと。
 目の前を白いものが掠めた。
 ひらり。ひらひらりと。舞った。
 雪?
 まさか。
 もう春だ。
 その証拠に地面に舞い落ちたそれは溶けたりしない。確然とそこにある。
 花びらだった。
 桜の花びらだ。
 今年は開花宣言が早かった。その割りに、未だ薄桃色の花房をつけている樹もあったりする。
 大学の桜は今が満開だ。
 靴の裏にべっとりと、踏みにじられて薄くなった花びらが纏わりつく。
「門倉くんっ」
 背中から名前を呼ばれ振り向いた。
 大野だ。
 ひらひらと手を振っている。
 小柄で、アイドル歌手みたいな大きな目を持つ可愛い系の女のコ。昔一子に紹介されてつき合った女のコによく似ている。
 あんまり思い出したくない過去。
 こちらも片手を挙げて応えて見せた。
 花柄の半透明なスカートの下に脚にぴたっと張りついたパンツ姿という格好の大野は、息を弾ませ駆け寄ってくると、
「ちょっと待って」
と、腰を折って息を整えた。
 口に銜えたまままだ点火していなかった煙草を右手の三本の指で摘んだ。大野は非喫煙者だ。
「よかった。今、メールしようかと思ってたとこ」
 言葉の通り。左手にピンク色の携帯電話を持っている。
「…何?急ぎ?」
「急ぎって言うか、ね」
大野はそこでひとつ深呼吸した。「さっき急に決まったんだけど」
「……」
「門倉くん、今から帰るの?今日はもう授業終わり?」
「あ?ああ…」
 駐輪場に向かう俺に合わせて大野も一緒に歩き始めた。頭がこちらの肩より低い位置にある。一子と同じくらいの背丈だろうか。
「明後日ね、飲みに行こうって話になったのよ」
 明後日。水曜日。
「…。誰と?新歓?」
 今は新入生の歓迎会と称したコンパが忙しい時期だ。
「ううん。違う」
大野は首を横に振った。「殆どいつものメンバーだよ。木庭くんとか、中野くんとか、後はその横の繋がりで、今のとこ十五人くらい」
「十五人?…結構多いな」
「うん。でも、もっと増えそうだよ。一応ね、名目はお花見ってことになってるの。ただし場所は居酒屋なんだけどね」
 思わず笑ってしまった。居酒屋じゃ花は拝めないだろ。大野も苦笑している。どいつもこいつも酒を飲むのだ好きだ。何か理由をつけては集まっている。というか、アルコールそのものより大勢で騒ぐという行為が好きなのか。
 新入生らしき女のコがふたりこちらに向って歩いてきていた。どうしてだか、新入生は一目でわかる。垢抜けていないきっちりした格好と、場慣れしていない空気のせいだろうか。こちらに向ってくるふたりもリクルートスーツかと見紛うような服を着ていた。すれ違いざま俺と大野に冷やかすような羨望の眼差しを向けてきた。通り過ぎた後に、くすくす笑う声も。
 何だろう。カップルにでも見えるのか?
 初々しいよな、と思う。
 大野と顔を見合わせ苦笑した。
「どう?水曜日空いてる?」
「……」
 水曜日は毎週一子がアパートに来ることになっている。ただちょっとだけ顔を出して、泊まることなく帰っていく。別に約束なんかしていない。でも、初めて泊まった夜からずっとそんな風に毎週水曜日は俺の部屋で会っている。喧嘩したのもそういえば先々週の水曜日だったな、と思い出す。そして先週一子はアパートに現われなかった。連絡も寄越してこなかった。
 実を言えば、ごめんね、と笑いながらやって来るのではないかとどこかで期待してたりもした。そんな自分が腹立たしい。
 あー。
 思い出してもムカつく。
 空に顔を向けふっと息を吐いた。
「あ。そうそう」
 思い出したように大野が言う。こちらの考えていることがわかったわけでもないのだろうが、美田村さん、と一子の苗字がその唇から零れ出てぎょっとした。
 動揺を悟られないように遠くに視線を送った。陽射しが眩しくて目はずっと細めたままだ。
「美田村さんにも声かけたのよ。…よかった、かな?」
 何で俺に訊くんだ。そんなこと。
 視線を足元に移した。
 手にしていた煙草をそのまま胸ポケットに仕舞う。
 やめたいのになかなかやめられない煙草。最近は吸う場所が限られているので外ではぐんと口にする本数が減っている。ただし。アパートに戻ってからその分を取り返しているので却って身体にはよろしくなさそうだ。
 大野がこちらに視線を向けていた。目を合わせないまま訊いた。
「…で?」
「え?」
「来るって?あいつ?」
「あ。うん。たまにはこういう会にも顔出しなさい、って強く言ったら、はい行きますって、困ったように頷いてた」
くすっと笑う。「同い年なのにね。何で敬語なんだろ」
 こちらもくっと笑った。
「大野が怖いんじゃねえの?」
「えー。そうなのかな?あたし美田村さんのこと気に入ってるのにな。怖いなんて、ちょっとショックだな、それ」
 ショック。
 ショックはこっちだよ、と内心クサる。
 水曜日。
 一子は今週もアパートには来ないつもりなのだ。いつまでふてくされてれば気が済むんだよ、あいつは。
 大野がふふっと笑った。
「美田村さんってモテるのね。あたし今日初めて知っちゃった」
 モテる。一子が。
 聞こえない振りをしていた。
 春の風が強く吹く。隣のスカートがはたはたと揺れている。乱れた髪をかき上げた。
「美田村さんが来るって言ったら、男のコたち喜んじゃって。びっくりよ。実は美田村さん狙ってたって男のコ案外多いのね。門倉くん、知ってた?堅そうで今まで近づけなかったんだって」
「……」
 ふーん。あ。そう。
「なんかねえ、童顔なのに胸とかおっきくて肉感的じゃない、美田村さん。そういうの、たまんないんだって言ってたわよ」
 は?なんだ、それ。
 どいつとどいつが言ってたわけ?
「……」
 なーんて訊けるわけがない。猛烈に頭にはきてるけど。肉感的、とか言うな、と思う。
 不機嫌になる顔を悟られないようにするのが精一杯だ。
 胸ポケットに手が伸びる。再び煙草を取り出した。
 斜め下から大きな目がこちらに向けられていてどきっとする。
「─── 何?」
「ねえ、門倉くんは美田村さんとつき合ってはいないんでしょ?」
 摘んだ煙草を唇に持っていく。
 大野はうちの大学の去年のミス、田辺と仲が良かったはず。何も聞いていないのだろうかと心の内でそっと訝る。
 少し考えてから、さあ、と首を傾げて見せた。
「ええー?」
大野が呆れた声を出した。「さあって何よ、さあって。自分のことでしょ。門倉くんらしくないなあ、その答え方」
「俺にもよくわかんねえの。一子に訊いてよ」
「わかんないってねえ…」
大野は両腕を胸の前で組んで続ける。「そういうはっきりしないこと言うんだったら、今度美田村さん、合コンに誘っちゃうわよ。いいの?」
 合コン。
「何?そういう話があんの?」
 率直に驚き、聞き返していた。
 うちの大学は偏差値が高いので有名だ。女子学生は全体の約三割くらいしかいない。男ってイキモノは自分より頭のいい女を極端に敬遠する傾向がある。だからだろうか、うちの大学の女子が合コンというのはあまり耳にしない話だ。
「それがね。うちの大学のOBで某省庁に入ってるひととちょっとしたことで知り合ったんだけど。仕事が忙しすぎて女のコとお近づきになる暇がないんだって。そのひとに合コンセッティングしてくれってうるさく言われてんのよ」
 大野を横目で見下ろした。どういう意図か、ふふん、と勝ち誇ったような笑顔を向けてくる。
「きっともてるわね、一子ちゃん」
 童顔なのにボインボインだからね。
 唇からぽろっと煙草が落ちた。咄嗟に出した左手で受け止める。
 大野はオヤジみたいなことを平気で口にする女だ。ボインって何だよ。信じらんねえなあ、ほんと。
「そういう言い方はやめろ」
「…誘っていいの?」
 俺は顔を正面に戻し苦々しく笑った。 
「勘弁してくれよ」
 首を横に振りながらそう言うと隣の女がけたけたと笑い声を上げた。やけに楽しそうな笑い声だ。悪趣味。
 駐輪場が見えてきた。季節がいいせいか、春は自転車もバイクも利用者の数が増える。駐輪場はいっぱいいっぱいだ。
「─── 水曜日は?来られる?」
「…ああ。行く」
「じゃ、また時間と場所が決まったらメールするね」
 頷いた。
 じゃあね、と大野は来たとき同様、手をひらひらさせて去って行いく。後ろ姿を見送りながら煙草に火をつけた。吸い込んだ煙がじんわりと肺を満たしていくのを身体中で実感していた。


 一子とはあの雪の夜以来やっていない。
 一子が妙に身構えていて、それがこちらにも変に伝わってきて、迂闊に手が出せなくなってしまっていた。触れたらびりびりと拒絶の電流で感電しそうな感じ。絶対いや、のバリアが張り巡らされている感じ。気のせいなんかじゃないと思う。
 まいる。
 突然俺のアパートに来たいと言ったあの日。あんなに積極的だったのが嘘みたいだ。
 まあ、これから先途方もなく長いつき合いになるわけだし、ちょっとくらいゆっくりな関係もいいかなと思ってはいたんだけど。
 なんだかなあ、と紫煙を追い空を見上げた。真っ青な空に切れ切れの雲が少しだけ浮かんでいる。思い出したように吹き付けてくる風は強い。駐輪場のコンクリートの上で砂埃が小さな渦を作って舞っている。砂埃に混じる桜の花びら。
 煙草を携帯用灰皿に押し付け火を消した。ぱちんと蓋を閉じ、ポケットに突っ込む。
 電話一本で済むことなのに。
 ひと言ごめんと言えば終わることなのに。
 ヘルメットを装着しながら考える。
 どうして俺らはこうなんだろ。
 また何年も互いを無視するような関係に舞い戻るつもりなのだろうか。
 もうあんな思いをするのは二度とごめんだ。
 というか。
 喧嘩の原因ってそんな重大なことだったっけ?
 バイクを駐輪場から出しシートに座る。エンジンはボタンひとつで簡単にかかる。軽い震動を感じながら右グリップをぐいっと回した。


NEXT
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
HOME / NOVEL / YUKIYUKIYUKI