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ひらひらり  4.
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 ひょろっと細長い体型の、眼鏡を掛けた優男。
 一子の好きな男のタイプをひと言で説明するとそんな感じ。俺はそうふんでいる。
 あ。それから。プラス、それなりに顔も良くなくてはいけないらしい。
 昔から一子はそういうタイプに弱かった。
 うちの兄貴ふたりがまさにそんなタイプで、一子はふたりの前では変に緊張してしまってまともに話をすることもできなかった。あと、中野も。中学生の頃、一子が俺の部屋にいるときに中野が遊びに来たりすると一子は途端に態度を豹変させた。もうそれはころっと。豹どころか、借りてきた猫みたいに大人しくなる。お前誰?っつーくらい。時折喋る声なんか一オクターブ上がったりして、傍で見ている俺のほうが恥ずかしくなって赤面していた。それほど顕著でわかりやすい。
 だから。
 はっきり言って俺は一子の好みから大きく外れている。
 それは自分でもよくわかっている。
 

 一子がいた。
 川嶋一平とかいう男と学食にいた。
 この時も後ろ姿だったけれど、一子だとすぐにわかった。一子はどこにいてもたちまち目に留まる。こちらの視界を占領する。
 川嶋一平はストレートに一子の好みのタイプだ、と思う。
 何で一緒にいるんだろう、とぼんやりふたりの様子を見詰めていた。昨日のふたりの遣り取りからはそれほど親密な感じは受けなかった。ただ余りにも一子の好みの男だったので、ちょっとだけ気にかかってはいた。
「樹?」
 中野に肘で突付かれ、我に返った。割り箸が目の前に差し出されていて左隣に顔を向けた。
「門倉君?」
「あ。悪い…」
 田辺からそれを受け取りふたつに割った。定食じゃなくてカレーうどんを注文した。ここのカレーうどんが特別おいしいというわけではない。けれどどういうわけか時折無性に口にしたくなる。出汁の効いた強烈なカレーの匂いが食欲をそそるのだろうか。
 少しうどんをすすってから手を止めた。柔らかいはずのうどんがうまく喉を通らなかった。喉の幅が狭くなった感じがする。何でだろう。
 つと顔を上げた。自然、視線は離れた場所にいる男女ふたりに惹きつけられた。
 こちらから見えるのは川嶋一平という男の顔だけだ。一子がどんな表情を見せているのかはわからない。川嶋一平はずっと笑顔だ。人の好さそうな顔。一子に向けられた瞳には慈愛の色が滲んでいた。深い。遠目に見てもわかるくらいはっきりと、深い慈しみの煌きが宿っていた。
 どくん、と。心臓が自分のものじゃないみたいに強く打った。
 視線をカレーうどんに戻した。中野と木庭が何かしきりに喋っていたが、少しも頭に入ってこなかった。
 心臓が鷲掴みにされたみたいにきゅっと痛む。
「な?樹?」
 名前を呼ばれてゆっくりと中野のほうを見た。暫くじっと中野の顔を見詰めていた。気持ちは空虚なままで。余程おかしな表情だったのだろう。中野の顔から笑いが消えた。
「樹?」
「あ?何?」
「何って。─── お前、まじで聞いてなかったの?ってか、変だよ」
 中野が心配そうな声音で言う。
 向かい側で大野がふふっと笑いを洩らした。やっぱりね、と。手にしているスプーンを顔の前に立てて言った。
「まあ、でも、大した話じゃないじゃん」
と、中野。
「何?」
「いいよ、もう」
「何だよ」
「そんなね、わざわざ説明するほど、大した話じゃないから、ほんとに」
 中野は苦笑している。 
「ふうん…」
 うどんをずずっとすすると、何が可笑しいのか木庭がぶはっと吹き出した。その勢いで自分の唇から飛び出してしまった米粒を慌てて摘んでいる。
「何やってんだよ、木庭」
 他の三人も肩を震わせて笑っていた。むっとする。
「何っだよ、いったい」
 大野が笑いながら言った。
「だってね、門倉君、全然おいしそうに食べないんだもん、カレーうどん」
「は?」
なんじゃ、そりゃ。「何だよ。カレーうどん、おいしそうな顔で食わないと、何か問題でもあるわけ?」
「いや、俺がね、隣でカレーうどんの匂いをさせられたら、カレーうどんが食べたくなって仕方ないって話を今、樹の隣でしてたわけ」
中野がカレーうどんに視線を注ぎながら説明する。「なのにさ、さっきから、樹、全然おいしそうに食べてないじゃん、カレーうどん。だから、ちょっと俺のこのおいしくない炒飯と替えてくれないかな、って言ったの。だめもとで。でも、樹、心ここにあらずで聞いてないんだもんな」
「……」
 俺は首を傾げ、少し間を空けて笑った。ほんとしようもない話だ。
「やるよ」
食べかけのカレーうどんの丼を中野の前に差し出した。「でも、炒飯はいらねえよ。ほんとおいしくねえもん、ここの炒飯。お前、何で、そんなの頼んだの?」
 大野と田辺が何が可笑しいのかくすくす笑っている。
「え。なんで?なんでくれんの?」
中野は真剣に驚いていた。「樹、腹減ってないの?」
「なんか食欲ねえの」
「でもさっきここへ来るまでは腹減った腹減ったってうるさく言ってたじゃん」
「…いいから、食え」
 むっつりと命令するみたいに言うと、そこで女ふたりと木庭がまたウケて笑った。別にウケは狙ってないんだけどな。
「ふうん。じゃ、遠慮なく」
 中野は本当にカレーうどんが食べたかったようで、すぐに箸をつけた。
 俺は丼がなくなってすっかり広くなった自分の手元のスペースに、水の入ったコップを持ってきた。一子と川嶋一平が携帯電話を手に話をしているのが視界に映る。
 自分でも気付かないうちにじっとふたりに見入っていた。
 一子はあの男を好きなんだろうか。
 少なくとも向こうは一子に好意を寄せているみたいには見える。
 もしかしたら。
 一子はあの男に惹かれ始めているのかもしれない。そう思った。
 じゃあ、どうして俺のところへ来たんだ?
 思いを止める為?
 一子は俺と婚約しているから。しかもその話は一子の家の側から出た話だから。今更破談になんかできないから。
 だから、他の男に向いそうになる気持ちを止める為に思い切った行動に出たのかもしれない。
 こじつけだろうか。でもそう考えれば納得がいく。
 何か理由でもなければ一子が俺のところになんか来るはずがないのだ。
─── どうせ結婚しなきゃいけないんだから。
 昨日一子はそう言った。
 いや、元々は俺の口から出てしまった台詞なんだけど。
 コップを持つ手が霞んで見えた。うまく焦点が合わない。
 どくん、とまた心臓が強く打った。思考がうまくまとまらない。こういう感情は苦手だ。
「…あー。そういうことか。樹」
 中野が他の連中に聞こえないような声でぼそりと言った。
「え…?」
「一子ちゃん、川嶋さんと一緒にいるじゃん」
 視線は丼に落としたままで言う。ずるずるとおいしそうにすする、うどんを持つ手は止めない。油っぽくてかてか光る炒飯は、テーブルの端っこに追いやられていた。
 くくっと中野が笑った。楽しそうだ。何が面白いんだかこちらはちっともわからない。
「気になって食事も喉を通らないんだ」
「…うるせえな」
「案外わかりやすいのな」
「笑ってんな」
 スニーカーを履いた足で中野のくるぶしを蹴飛ばした。長年履いてるくたびれたナイキのスニーカー。軽く蹴ったつもりなのに、痛え、と中野が大袈裟に顔を顰めた。知るか、と思う。
 知るか。
 一子なんか、もう知らねえ。
 勝手にすればいい。
 掌で包み込んだプラスティックの透明なコップを唇に運んだ。カルキ臭い水の匂いが鼻を突いた。




 
 最近の居酒屋には喫煙コーナーがある。
 話には聞いていたけれどお目にかかったのはこれが初めてだ。トイレに通じる狭い廊下の手前にあった。少し窪んだ一角。二畳程度の広さ。壁に沿った作り付けのコの字型のベンチと、黒い円柱型の灰皿がふたつあるだけ。天井の隅には換気口もあった。
 テーブルにもちゃんと灰皿はあったはず。
 でも、吸う人間が殆どいなくてずっと我慢していた。用を足した後、半透明な暖簾をくぐり利用させてもらうことにした。中に入ると、煙の篭った匂いがした。誰もいない。
 灰皿の傍に佇んで煙草を銜え火をつける。ふうっと煙を吐き出しながら鎖骨の上を摩った。さっき一子に鞄をぶつけられた際にできた傷。トイレの鏡で見たら、ピンク色の10センチ程度の線の上に点々と血が滲んでいた。薄い布の鞄だったけれど、何が当たったんだろうかと思う。
 携帯電話かもしれない。
 ずっと旧い機種を使っていた一子が買い換えた新しい携帯電話は、確か丸みの無い長方形で角が尖っていたような気がする。目を惹く真っ赤な色だった。
「FOMAだよ。いいでしょ?」
と得意げに見せてくれた。
 一子はずっとリーマン野郎のそばにいた。リーマン野郎は酒があまり強くないようで、赤い顔を一子の耳許に近づけて話をしていた。少しは気を回して席を立つとかすればいいのに、一子はそれをしないのだ。いつまでもそばに座っている。席を勝手に移動したら隣に座ってたひとに悪いとか、どうせそんなつまらないことを考えているに違いない。酔っ払い相手に気を遣ってどうすんだよ。
 時折こちらに視線を向けてきていた。もしかしたら助けを請うているのかも知れないと思いつつ、揶揄するような笑いを返してやった。むっとしたように唇を尖らせる一子。自分でどうにかしろよ、と思う。俺も相当ひねくれてるよな、とも。
 ふっと半透明の暖簾が翻った。暖簾じゃなくって何ていうんだっけ。こういうの。カフェカーテンだっけ?
 入ってきたのは田辺だ。
 長身でスリム。白いシャツの下にピンクのTシャツだかキャミソールだかを着て、下は脚の線にフィットした膝丈のスカートを穿いていた。裾10センチだけひらひらとしたスカートの下から覗く脚は細くて長い。
 完璧だ。
 全身どこにも隙が無いくらい完璧に美しい。いい女っていうのは田辺みたいな人間のことを言うんだろうな、と改めて感じ入る。
 客観的に見れば、きっと一子なんて足元にも及ばないんだろうけど。
「一本もらっていい?」
 完璧な形の唇が言う。
 掌に納まる箱を揺すり一本覗かせるとパールのマニキュアの施された指がそれを摘んだ。
 ライターの火を口許に持っていく。少しだけ茶色く染まった髪の毛が顔の傍に寄ってきた。
 吐き出される煙の量で、ちゃんと肺までのみ込んでいないことがわかった。
「高校生の頃にね。ちょっとだけ吸ってたの」
田辺が煙草を持った指先を顔の横まで持っていった姿勢で言う。「うちの大学受けるの、当時のあたしの学力じゃ結構きつくって。相当無理して勉強してたからストレス溜まってたのよね。その頃つき合ってた男のコにおしえてもらったんだけど、でも、上手く吸えなくて。格好だけ」
「へえ…」
 へえ、としか言いようがなかった。今までの田辺だったら、俺にそんな話は絶対しなかっただろう。そういう類の対象から俺は外されてしまったということなんだろうなと思い、黙って聞いていた。そのほうがこちらの気持ちも楽だ。
「そのコ、うちの大学結局落ちちゃって。第二志望の私立の大学に行ったのね。それで別れたの。入学してから半年くらいはお互い我慢して会ってたんだけど。でも、だめだった。男のコってプライド高いのね。別の女子大の女のコと二股かけられてることがわかって喜んで別れてあげたわ」
 自嘲するような笑いを浮かべて話す田辺。酔ってんのかな。顔色は変わってないみたいに見えるけど。こんな暗く危うい表情の田辺を見るのは初めてだ。あまり吸ってもらえない煙草は白い煙をずっとくゆらせていた。
「あたしも。…あたしも、門倉君に出会っちゃったしね」
 笑いながら言って下を向いた。
 ふっと肩に重石を乗せられた気がした。
 こういうとき言うべき言葉が全く見つからない。二本目の煙草を口にしてから、もう、ここを離れるべきだったと気が付いた。田辺の話相手をする必要は全くないのだ。
 でも結局は、口に銜えたそれに火を点けた。煙を吸い込みながら、誰か来てくれないかな、と気弱なことを考える。
 細い指が煙草の灰をとんとんと灰皿に落とすのを見ていた。
 美女は煙草を吸う姿まで様になる。
「今日ね」
「……」
「これから、ひとと会うのよ」
「…へえ」
 これから?今って何時だっけ?
「あたしが第一志望にしてるテレビ局の結構偉いひとなの。お笑いの番組いくつか持ってるみたいで。何度かあたしもテレビで見たことあるのね」
「……」
「アナウンス学校の友達に誘われて合コンに行った時に知り合ったんだけど。背が低くて顔がおっきくて五十過ぎてるのに独身で。お腹が出てて脚が短くて全身カバみたいにしか見えない、もうどうしようもない男なの」
 思わず眉を顰めて田辺の顔に視線を送った。いくら何でもひどい言い様だ。田辺は顔を俯けたままだった。先ほどと同じく顔のすぐ横に煙草を持った姿勢のままで、自分のヒールの先をじっと見ていた。
「顔が利くって言うのよ。自分と仲良くしてたら、いくらだってアナウンサーになれるって。本当に信用できるのかどうかはわかんないの。逆にね、断ったらうちの局にはもう入れないだろうって言うの。最低でしょ?五十過ぎた男の言うことだと思う?」
「断ったらって…」
 何を?とは訊けなかった。
「どうすればいいのかわからないのよ」
 顔を上げた田辺は殆ど半泣き状態だった。
 ふたりで束の間顔を見合わせていた。先に視線を逸らしたのは俺のほうだ。立ち上る紫煙を追う。どうして田辺は俺にそんな話をするのだろうか。
「やめたほうがいいんじゃねえの?」
 自分にそんなことを言う資格はないと知りつつ口にした。
 田辺が息を呑むのがわかった。
「そう、思う?」
「思うね」
灰を親指で落としながら言った。「何もそんなことしなくったって、田辺ならちゃんと正規の試験を受けてアナウンサーになれるだろ」
「そんなこと、簡単に言わないで」
 震えた声で言い返される。驚いて視線を送ると、追い詰められた小動物のような瞳がそこにあった。いつも凛としている印象の田辺はどこにもいない。白い喉がごくんと上下に動いた。
「ごめんなさい。せっかく言ってくれてるのに」
「いや、俺も。そういう業界のことよくわかんねえのに、軽いこと言った。悪い」
「…つづけて」
 マニキュアの光る指が煙草を灰皿に押し付ける。
 つづけてと言われても。
 煙草をふかす振りをして、時間を稼いでから口を開いた。
「いや、ほんと、わかんねえから。無責任なことしか言えないけどさ。五十過ぎてるのに女子大生との合コンに来るような男なんてどう考えても眉唾だと思うよ。その男、本当に信用できんの?田辺の目から見て実際のとこどうなんだよ?」
「わからないの」
 田辺は不安げに顔を横に振った。アナウンサーになるという夢に狂信的になっているからだろうか。平常心を失った顔にしか見えなかった。
 目の前にぶら下がる人参が、本物なのかイミテーションなのか。第三者なら簡単に判断できても、今の田辺には難しいのかもしれない。
 沈黙が流れる。酔っ払いの喧騒が、はるかかなたから聞こえているような気がした。
 誰か来てくんねえかな、と再び思った。
「門倉君」
「ん?」
「お願い」
「……」
「今夜、ずっと一緒にいて───」
 はい?
 安っぽいドラマみたいな台詞。
 耳を疑った。
 ぱっと田辺が俺の両腕を取る。案外強い力で肘の上を握ってくる。身体を思い切りぶつけられた。余りにも予期しない出来事にうわっと声を上げ二、三歩後ろによろけていた。情けねえの。
「お願い。今日、このままずっと一緒にいてくれない?そうしたら、あたし、あの男のとこに行かなくて済むの。門倉君が一緒にいてくれたら、あたし───」
 吸い込まれそうな瞳だ。いつも透き通って弾んでいる声が泣きそうに鼻にかかっている。相手の息がかかる距離に一子以外の女の唇があることが不思議だった。
 今。自分の腕に掛けられた手を取ってこの店を出ることは簡単だ。ひと晩だけの蜜は甘く、やたらおいしいだろうこともわかる。最近女とやってないしな。
 でも。
 俺は首を横に振っていた。
 迷うことなく。ゆっくりと。説き伏せるみたいに。
 田辺の瞳が激しく揺れた。
「どうして?あたしそんなに魅力ない?今日だけでいいの。もう困らせないから。今日だけ」
「無理」
 ひたむきな思いを目の前で一刀両断にしてしまった。残酷だろうか。でも、ここで優しくしたところでどうしようもないのだ。
 言った途端目の前の女が瞼を閉じた。きゅっと。端正な顔が苦しそうに歪んだ。
「そっか…」
田辺は無理に笑顔を作って見せる。痛々しかった。
「そうだね。ごめん…」
 それで諦めるだろうと思っていた田辺が突然俺の首の後ろに掌を回してきた。本当に突然だった。頭がくいっと下に引かれる。
 唇に柔らかいものが触れた。
 久々に嗅ぐ女の化粧の匂い。
 その匂いの所為か、酔いの所為か、煙草の所為なのか、頭が一瞬だけくらっとした。
 田辺の指先が後頭部の髪をくすぐる。正直心地よかった。暫く抵抗もせず芳しい女の香りと唇の柔らかさを堪能した。指に挟んだ煙草が危なっかしくて手の届く位置にある灰皿にそっと乗せる。気付くと胸を押し付けられ舌が割り込んできていた。ずい分と積極的。さすがにこれ以上はまずいだろうと思い、そっと頭に回された手を掴むと同時に唇も外した。
 あれ?と思う。
 見下ろした田辺の視線は俺を素通りして後ろの暖簾に向けられていた。挑戦的な目をしている。
 ずんっと。頭を何かで殴られたような気がした。
 あー。そういうことか。
 やられたな、と思った。いや、俺も悪いんだけど。
 振り返らなくてもわかった。それでも一応後ろに顔を向けてみた。そうしないではいられなかった。
 若草色のカットソー。桜色のスカート。ベージュの靴に包まれた小さな足先が暖簾の下に見えた。
 一子が立っていた。
 半透明な暖簾の向こうに。
 その存在は予想していたけれど、目にした一子の顔が胸を深く抉った。
「一、子…」
 自分の声の脆さに驚く。
 一子は唇をきゅっと閉じ俺の顔を見詰めていた。いや違う。どこも見てはいないのかもしれなかった。瞳はガラス玉のような光を放つだけで感情はそこからすっぽりと抜け落ちているようだった。足元がぐらぐらと揺れているような気がして怖いな、と思った。
 遠くから、酔客のどっと大きな笑い声が響いてきた。現実の世界に引き戻される。まだ残る笑い声を聞きながら、こんな場面でそりゃないだろ、と胸の内でぼやいていた。


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