1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. ひらひらり 7. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ イッキに抱きしめられたかったの。 イッキのことがずっと好きだった─── 。 自動の扉を抜けると外の空気は存外冷たく、アルコールとひとの熱気に火照った頬をゆるい風が撫でていった。 昼夜の寒暖の差が激しい季節だ。昼間は汗を掻くくらい春の陽気を漂わせていたのに、夜気に頬が鳥肌立った。上着を一枚羽織って来るべきだったかもしれない。 「寒い…」 黙って腕を引かれていた一子が首を竦めて言った。一子もこちらと同じく薄着だ。 「一子、終電、大丈夫?」 「あ。うん」 「今日、おじさんは?」 「いないよ。どこだっけ?どっか遠くに行ってる」 思わず苦笑した。 「冷たい反応だな。おじさん、可哀相だろ」 「いいの」 一子のとこのおばさんは冬にロスに行ったきり、未だ日本に帰ってきていない。一度も。ずいぶんと長い家出だ。怒りは最初の頃に比べると目に見えて解けたということだが、この機会に暫くひとりで暮らしたいと言い張って譲らないらしい。大胆。 おじさんはおじさんで自分の妻を説得すべく頻繁にロスに足を運んではいるらしいのだが、チャレンジはことごとく失敗に終わり、その分日本にいる間は仕事が忙しいようだった。 一子はそんな両親の様子を今では客観的に見ることができるようになったと言っていた。でも根っこのところでは相当寂しいんじゃないかと俺は思っている。一子のとこの親子は本当に仲が良かったから。無理しないで泣きついてきたって、こちらは全然構わないのに。 繁華街を抜け、桜の樹の並ぶ道を歩いた。アパートや、会社の事務所らしいプレハブの建物が並ぶ通り。車道を挟んで両側の歩道を桜の白と少し顔を出し始めた緑の葉が彩っている。外灯は十分すぎるほど明るいが、人通りは殆どない。 散り際の桜の花びらが風に吹かれ、歩道にも車道にも雪のように降り積もっていた。 掌から一子の手首がするりと抜け、思わず視線を右隣に向けた。一子はその手で自分の二の腕を、服の上から撫で摩っている。 「寒いな…」 「うん。ちょっとね」 車が一台背中側から通り過ぎて行く。沈んでいた花びらが車のテールランプを追いかけるように一斉に舞い上がった。 「一子」 真っ赤なふたつのランプを見送りながら口を開いた。 「うん」 「さっきは悪かったよ」 「……」 「ごめん」 俯き加減の一子の視線は自分の足元より少し先に向けられている。 「いいよ」 「…いい?」 「うん。もういい。田辺さん、あたしの顔見てから、イッキにキスしたの、わかってたし」 「……」 ふふっと小さく一子が笑った。 「でも、イッキ。嫌がってなかったよね?」 ね?そうでしょ?と、こちらを見ないでひとりごとみたいに言う。 右手で前髪をかき上げ、ごくん、と息を飲み込んだ。胸が、痛い。 「だから。…ごめん」 「ね、イッキ?」 「あ?」 「田辺さん、イッキのこと好きなんだね」 「……」 息を詰め、無意識に黙り込んでいた。それが多分いけなかったのだ。 「え?」 「え?」 「え、イッキ、もしかして、田辺さんに好きって、言われた?」 一子が確認するようにそう訊いてきた。 少し躊躇ってから正直に頷いた。隠しても仕方ない。噂にはなっているようだったから一子がそれを耳にするのも時間の問題だと思った。 視界の隅に映っていたベージュの靴の動きが止まる。 一子がぽかんとした顔でこちらを見上げていた。 自分から質問しておいて、一子は俺の答えが相当意外だったようだ。 「え?そうなの?」 「…え」 「田辺さんに好きって言われたの?いつ?」 「いつ、って。…ちょっと前に」 「……」 暫く互いに間の抜けた顔で見詰め合っていた。 あー。 俺はどうやらまた何かを間違えたようだった。正直に答えるべきではなかったのだ。 それほどの衝撃を受けるくらいなら最初からそんな質問、しなければいいのにと、動揺を隠せない一子の顔を黙って見下ろしていた。 こちらだってどんな表情を一子に見せていたのかはわからない。一子は俺の顔を束の間眺めて、それから困ったように目じりを下げて笑った。 「そっか…」 また、歩き始める。 風がふたりの間を通り抜けていった。アスファルトに散らばっていた花びらがふわっと浮かびあがる。頭上からもはらはらと舞い降りる花の欠片。本当に雪のようだ。 背中側から車のライトが当たり、ふたりぶんの人型の長い影を作ってはすぐに消し去っていく。 よほど寒いのか、斜め前を歩く一子が鼻水をすする音がした。二度三度。ずず、ずずっと。車の通らないときはほんとにしんとしていて、鼻を啜る音さえも大きく反響する。 ふたりきりで話をしたかった。今日は本来花見という名目で集まったのだから、桜の下を歩くのも悪くないかななんて考えてついこの通りを選んだけれど、駅に行くには少し遠回りだったかもしれない。 「もう、帰るか?」 うんともすんとも言わないで、一子の頭だけがこくんと揺れた。ずずっと、また聞こえてきた。 「引き返す?」 こくん、と頷きながら。またずるずると。今度はかなり派手な音がした。 あれ、と思う。 「一子?」 一歩大きく前に出てその俯けた顔を覗き込んだ。 あどけない頬のラインを縁取るように、涙の筋が幾つも伝っていて唖然とした。 「……」 声も出せなかった。 ぼろぼろだった。一子は顔をくしゃくしゃにして、その涙を拭うこともしないでコドモのように泣いていた。 「何…」 一子の肩に手を当てたけれど、さっと身を引いて避けられてしまった。怒ったような目つきで、でも、その目から涙は止め処なく流れ落ちている。唇が歪んでいた。 「何、泣いて、んだよ…」 喉元が、何かを詰め込まれたように苦しくて、掠れた声が途切れ途切れにしか出てこなかった。アルコールでどこか朦朧としていた頭がひと息に冷えた。 一子は目を合わせない。不自然なまでに視線を上げない。こちらの不安は膨れ上がる一方だ。 「え?何?さっきの話?」 「……」 「田辺のことなら俺、ちゃんと断ったよ?一子のこともちゃんと話した」 だから心配はいらないと言おうとしたけれど。でも、それは全く意味のないことだった。 一子は泣きながら首を横に振った。その目から涙が縷々と溢れては零れ落ちていく。 胸が押し潰されそうに痛いのに、泣くな、ともうひとりの自分が目の前の女を責めていた。 「一子」 「キス、…」 「え?」 「キス、しないでよ」 小さな声だった。けれど憤りと悲しみのたくさん詰まった声。 「……」 「あたし以外の女のコと、平気でキスしたりしないでよ」 言うなりきゅっと瞼を閉じた。またぽろぽろと、雫が伝う。その濡れた頬と唇が小刻みに震えている。視線を外して下を見た。足元の花びらは散々踏みつけられ厚みを失いアスファルトにこびりついていた。 「一、子…」 「いやっ」 伸ばした手を大きく払われた。びしっと。皮膚を跳ねる音が耳に痛かった。 一子の感情が一気に噴き出してこちらに向ってくる。洪水のように。結界を壊し溢れ出してくる。そのまま呑み込まれて押し流されてしまいそうだ。 「どうして?どうしてそういうことするの?」 「……」 「あたしの目の前であたし以外の女のコとキスしたりしないでよっ」 「……」 「イッキを好きだって言った女のコと、そんなことしたりしないでよっ」 悲鳴のような声だった。責める言葉は剥き出しのまま胸に突き刺さってきて痛い。 「いやっ」 差し出した手を何度も叩かれた。 「一子」 「いやっ、いやっ、触んないでっ」 「一子」 「無神経だよっ、イッキはっ。少しはあたしの気持ちも考えてよ」 もう、いやっ、と。一子は何度も首を横に振って後退った。近づいても近づいても追い払われる。逃げられる。きりがなかった。 一定の距離を置いて、暫く泣くのを眺めていた。好きに泣けばいい。自分にできることなんか、きっと今は何もない。 手首の甲を唇に当てて。睫を濡らして。時折しゃくり上げながら一子は泣いていた。 ふたりの間を幾枚もの花びらが舞い降りていく。 天を仰いだ。果てのない黒い夜空に向って大きく息を吐きかけた。白い息。前髪についた花びらが視界に入る。手の先でさっと払うとひらひらと舞った。 「…考えてるよ」 ぽつりと呟いた自分の声は情けなく夜陰に響いた。「考えてる」 一子は泣いていた。 ひっく、ひっくとしゃくり上げながら泣いていた。 「いつだって。一子のことばっか考えてるよ。そっちには伝わんないかもしんないけどさ。ほんとにそうなんだ」 いつだって一子のことだけでいっぱいなんだと言いたかったけれど。本当は好きで好きでたまらないんだと言いたかったけれど。今それを口にするのはあまりにも嘘っぽいのでやめておいた。 それに。 やっぱりどこか照れ臭い。幼なじみだからかな。今更改まってそんなことは言えなかった。 「ごめん…」 一子はいつまでもしゃくり上げて泣いていた。 泣き声に掻き消されて。 こちらの声は、きっと届かない。 しゃり、しゃり、と足音がする。 四つの靴が、白く点々と敷き詰められた花びらの上を交互に動く。 一子は黙って横を歩いていた。 もう涙は出ていない。 時折しゃっくりのように肩が揺れている。そのたび胸がひやりとする。 イッキに抱きしめられたかったの。 イッキのことがずっと好きだった─── 。 殆ど吹雪と言ってもいいような猛烈な勢いの氷の粉に包まれたあの日。 お互い真っ白になりながら向き合ったあのときの一子の言葉。 忘れることなんかきっとできない。 あれでこちらの気持ちの在りどころは決まったのだと思う。 すとん、と。 自分の気持ちを模った箱を見つけ出しぴたりときれいにはめ込まれた感覚。そこはずっと自分の探しあぐねていた場所だった。 愛しくてたまらなかった。 横顔をそっと盗み見る。 真っ直ぐに前を見ている一子の顔。頬には幾筋もの涙の跡が残っている。きらきらと。光っている。 「一子…」 「……」 一子は黙って前だけを見て歩いていた。こちらにちらりとも視線を寄越してこない。頑なな拒絶。肩に、髪に、桜の花びらが散っていた。取り除いてやりたかったけれど、それすらも突っ撥ねられそうで怖くて手を伸ばすことができなかった。 「一子」 涙の跡を見詰めながら訊ねてみた。確かめずにはいられなかった。 「俺のこと、好き?」 言葉が飛び出した瞬間、ちがうな、と思った。 そうじゃない。訊きたいんじゃなくて、伝えたかったのだ。 こちらの好きだという思いを。 きちんと伝えたかったのに。 俺はどこまでも間が抜けている。 底抜けに場違いな言葉は夜風に乗って当て所なくたゆたっている。ふわふわと。浮かんでいる。 明るい外灯の下で映える一子はとても難しい顔をしていた。眉間に皺さえ寄せられていた。何かを考えている風に。自分の胸の内を浚っているように。 やがてきゅっと結ばれていた唇が開いた。 「うん。好きだよ」 大好き…─── 。 きっぱりとそう言った。 刹那。 心臓が震えた。 気付いたら一子の身体を懐にかき抱いていた。抱きしめていた。いや、とか何とか聞こえたけれど構わず強く抱きしめていた。 必死で抵抗しているのだろう。いつまでも強張った身体は、けれどこちらの胸の中でとても小さかった。 髪に、耳に、こめかみに唇を這わせる。 「一子…」 泣きそうな声で名前を呼んだ。頬も唇も塩辛い涙の味がした。 好きだ、と囁いた。強く抱きしめながら、好きだよ、と。何度も口にしていた。 一子の手がこちらの腕を外側からぎゅっと握ってきた。 車のライトが舐めるようにふたりを照らしては通り過ぎて行く。路上だと言うのに、人目も憚らずずいぶん長いことそうしていた。 気持ちを確認し合うように何度も唇を重ねた。少しずつ、頑なに固まっていた気持ちが溶けるように、一子の身体から力が抜け落ちていくのがわかった。 唇を外し頬と頬を合わせると、一子の温かい息が耳許を掠めた。 「…今日、帰んなよ」 泊まってけ。 言った自分にさえいやらしくその声は耳に響いた。それでも腕の力は緩めない。 すぐそばにある一子の唇が困ったように尖って横に広がった。 むっとした。 「何だよ?いやなのかよ」 優シクシマス、と。今夜誓ったばかりなのに。もうつっけんどんな口調になっていた。 「だって…」 一子が何か小さく囁いた。文句を言うみたいに。一子の髪の毛が顎をくすぐる。 「何?」 聞こえない。 「だって。恥ずかしい…」 「は?」 「だから」 「……」 「恥ずかしいんだもん」 恥ずかしい? 「や。意味わかんねえし」 少し距離をとって顔を覗き込んだ。 「だって、イッキ、そういうときって、すごくいやらしくなるから。なんて言うか。…恥ずかしい」 「……」 一子の顔は夜目にもわかるくらいはっきりと赤くなっていた。こちらにまで伝染してしまいそうだ。 「はああ?」 「……」 「おっまえなー…。そんなの、当たり前だろ?いやらしいことしてんだからいやらしくなくてどうすんだよ」 「だから、それが恥ずかしいの。それに…」 「あ?」 「…変に…優しくなるし」 「はあ?」 「やだ、もう。言いたくない」 地団駄踏みつつそっぽを向かれた。 唖然とした。 やだもう、はこっちの台詞だ。そんなアホ臭い理由で俺は今まで散々おあずけを食わされてたわけ?一気に脱力した。 「ふっざけんなよ。なんだよ、それ」 「ふざけてないよ。ほんとのことだもん」 「お前、何だよ。優しくしてほしいって言ったり、優しいのは変だって言ったり。わけわかんねえよ」 小憎らしいので、膨れている頬を摘んで思い切り引っ張ってやった。 「いったーい。痛い、痛い。もう、優しくするって言ったくせに、嘘つきっ」 「俺はいつだって優しいんだよ」 再び一子の手首を掴んで歩き始めた。 そっぽを向きつつもちゃんとついて来る一子の顔にはあひるの唇。何だかおかしくて声を上げて笑ってしまった。 風が吹いて一子の髪を少しだけ乱した。頭に乗っていた花の欠片が風に掬われ流れ落ちる。 桜の花びらは、ひらひらりと斜めに揺れながら、ふたりの間を舞い降りていった。 (完) 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