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ひらひらり  6.
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 春休み。
 一子が持ってきたDVDをふたりで鑑賞したあと、ああそうだ、とあることを思い出して口にした。
「一子、もうじき誕生日だよな?」
 もうじき、と言ってもまだかなり間があるけれど、五月の初め、俺よりひと足早く一子は二十一歳の誕生日を迎える。
「何かほしいものとか、あんの?」
「え。イッキ、何かくれるの?」
一子はDVDを半透明なケースの中に仕舞いながら、茶化すような笑いを浮かべた。「なんか、信じらんないね。イッキがそんなこと言うなんて」
「お前な…」
 苦笑いしつつ立ち上がって換気扇の下に行き、煙草の箱を手に取った。二時間近くずっと我慢していたのだ。茶色に汚れてしまった元は白かっただろう紐をぐいっと引っ張ると、換気扇のプロペラが派手な音を立てて回り始めた。
「やるよ。あげますよ。誕生日くらいはね」
 煙草に火を点けながら身体ごと後ろを向いた。一子は半笑いの表情でうーんと考え込んでいた。
「女のコってさ、色々欲しいもの、あるんじゃねえの?」
「……」
「早めに言っといてよ。俺、五月の初めっつったらさ、試験前でめちゃくちゃ忙しいと思うから。ちゃんとしたお祝いをする時間が取れるかどうかはわかんねえんだけど」
「あー。そうだね。イッキ、その頃って一番大変な時期じゃない」
 言いながら腰を浮かせテーブルの上を片付け始めた。テーブルの上にはポテトチップスの袋とグラス、空き缶、それと俺が作った料理と呼んでいいのかどうかもわからない肉と野菜を炒めたものに焼肉のタレをからめただけの食べ物を乗せていた皿がふたつ。それらが手際よく潰されたり重ねられたりしていく。
 あれ。
 もう帰んのか。
 そう思いながらてきぱきと働く一子の手の動きを見詰めていた。
 コップと皿を手にした一子がすぐ傍までやってくる。流しの中に汚れ物を置くと、蛇口を捻った。料理を作っていないほうが洗い物をする。それがふたりの間の決まりごとになっていた。
「ほしいものって、特にないよ」
「ない?」
「うん」
 泡だった黄色いスポンジを手に何てことない顔で頷く。
 上向いて煙を吐いた。白い煙がプロペラの中にみるみる吸い込まれていく。
「何にもいらないよ。だってイッキ、今バイトもしてないから、お金あんまり持ってないんでしょ?」
 顔を上げたまま、ははっ、と笑った。
「あのな。ひとを貧乏人みたいに言うな」
「貧乏じゃん」
「プレゼントくらいできるんだよ」
「プレゼント買いに行く時間があるんだったら、勉強したほうがいいんじゃないの?」
「おっ前なあ…」
「こうやって遊びにくるのだって、本当は邪魔なんじゃないかって、あたし結構気になってるんだよね」
「……」
 ああ。そう。そういうことを考えているわけだ。首を傾げながら唇の端を上げて笑った。
 皿の泡が水に流されていく。一子の動きは丁寧でゆっくりとしている。捲り上げられたシャツから覗く腕は白い。昔はぷくぷくと脂肪のついた腕だったが、今はかなり肉が落ちている。ダイエットでもしてんのかな。
 つい黙り込んでしまっていた。一子も何やら考えているように見えた。ただ一心に洗い物をしているだけかも知れないけれど。
「もう帰る気?」
「え?うん」
「もう少しいれば?」
「あ。うん。そうだね…」
 一子はこういうとき目を合わせない。たちまちその挙動は不審となる。肉食動物をみとめた草食動物がその存在を気付かれまいと息を潜めおろおろする動作と似ている。俺はそこまで獰猛じゃない。
 洗い物を終えた一子がタオルで手を拭いている様子をじっと見ていた。踵を返そうとしたところで折り曲げた肘を捕まえる。ぐいっと自分のほうに引っ張ると、あ、と小さな声が洩れ聞こえた。案外細い肩を抱き寄せ顔を近づけようとしたところで、
「あのね」
とその唇が往生際悪く動いた。絶望的な気分でゆっくりと瞬きをひとつ。瞼を開けると間近で視線が絡んでしまった。
「……」
「……」
「何?」
 出てきた自分の声はとても不機嫌なものだった。
 たった今狙いを定めていた唇が、ぐっと尖って横に広がった。そういうときの一子の顔はあひるを連想させる。
「どうしてイッキはすぐ怒るの?」
「怒ってねえよ。…何?」
 唇を尖らせたまま俯いた。
 掴んでいた肘を解放してやる。目の前で尖っているあひるの唇があまりにも憎らしくて人差し指と親指で摘んで引っ張ってやった。
「やだ、何すんのよっ、もう」
 抗議の声をホールドアップした背中で聞き流し部屋を移動した。
 やってらんねえ、と思っていた。ベッドに仰向けに寝転がり両腕を顔の上に乗せる。やってられっか。小学生じゃないんだぞ。なんなんだこれは。新しいタイプの拷問か。
 暫く時間をおいてから、一子がゆっくりとベッドの横に立つのがわかった。
「あのね、イッキ」
「……」
「聞いてる?」
「聞いてます」
「あたしね、誕生日プレゼントほんとにいらないから」
「……」
「何にもいらないから、そのかわり、ひとつだけお願いがあるんだけど」
 両目を隠していた腕を顔から上げた。
「…お願い?」
 こっくりと頷いている。親の顔色を窺いながらおねだりするコドモみたいな顔がそこにあった。
「何?」
 真剣に、なんだろうかと疑問に思った。もしかして一子も今のふたりの不毛な関係を悩んでいるのかな、なんて能天気に考えたりしていたのだから笑える。
 一子は言いよどんでいた。
「何?言ってみろよ」
「あのね」
「……」
 一子の唇が動いた。よほど言いにくいことなのかその動きはとても小さい。
─── 優しくしてほしい。
 消え入るようなか細い声だった。
「は?」
「他の女のコにそうするみたいに、あたしにも優しくしてほしいんだけど」
 恥ずかしそうに、でも、きっぱりとそう言った。白い指がシャツの裾をぎゅっと握っている。言ったあと、ぷいっと怒ったみたいに顔を窓のほうに向けた。
 優しくしてほしい。
 唖然として首を少しだけ上げた。
「え。言ってることがよくわかんねえんだけど」
「……」
 何が気に入らないのか、ゆっくりとこちらを向いた顔にはあひるの唇が再び貼りついていた。
「何だよ…」
 訳がわからない。
「ずっと前から思ってたんだけど」
 打って変わって強い口調になっていた。ほとんど喧嘩腰と言ってもいいくらい。
「イッキ、あたしと話すときだけいつも不機嫌な顔してるんだよ?知ってる?」
 さあ、と首を傾げた。自覚はなかった。一子と他の女を同列に並べて比べること自体意味のないことに思えた。
「イッキね、他の女のコ、例えばさ、大野さんとか田辺さんとかと話をするときにはね、すっごく優しい顔になってるんだよ。あたしに対する態度とはぜんっぜん違うんだから」
 どきっとした。
 何でここで田辺の名前が出てくるんだろうかと思った。
「あたし、ずっと他の女のコが羨ましいって思ってた。あたしにもあんな風に優しく話しかけてくれたらいいのになって、ずっとそう思ってた」
 はっ、と嘘臭く、空笑いしていた。
「何言ってんの?」
「だから───」
「俺は優しいだろ」
「ええええ」
一子が目を丸くした。「どこがよ?どのへんが優しいって思ってるの?」
 失礼なやつだな。
 後ろめたいことなんか何ひとつないのに、田辺の名前を聞いただけで何故だか平静ではいられなくなっていた。早くこの話を終わらせたい。その思いが相当強かったのだろう、そちらにばかり気をとられておそらくはその所為で喧嘩の原因を失念してしまったのだと思う。
 いや、それだけじゃない。俺は一子の言ってることを心のどこかで軽く考え、結局は聞き流していたのだ。それは否めない。自分では、一子に特別冷たくしているとか、不機嫌な顔を見せているとか、そういうつもりは全くなかったから、余計気に留まらなかったのだと思う。
「それよりさ。プレゼント、何がほしいか考えとけよ」
 そう言って身体を起こしトイレに立った。
 思えば、あの台詞がいけなかったのだ。何が、それよりさ、なのか。最悪の言葉だった。
 トイレから戻って来たときには一子はもう取り返しがつかないくらいの膨れっ面になっていた。
 本気でびっくりした。
「あれ?一子、ほっぺ、膨らんでるぞ。何か食い物隠してんのか?」
最初は揶揄って、頬を突付いたり引っ張ったりしていたが、あまりの意固地でむっつりした態度にこちらもうっかりとキレてしまっていた。
 それでなくても狭く古い和室の空気がさらにどんよりと陰鬱なものになっていった。
 長い沈黙の後、
「イッキはあたしの言うことなんか、まともに聞いてもくれないんだから」
低い声でそう言われた。
「聞くも何も、さっきからずっとそうやって、むっすーっとして何も言わないのは一子のほうだろ。お前さあ、そうやってすぐぷって膨れんの直したほうがいいんじゃねえの?」
 一子の顔が怒りの為、みるみる紅潮した。後になって気付いたことだけれど、一子だって俺の前でだけしょっちゅう怒りまくっているのだ。一子が別の誰かに対して怒りをぶつけている姿なんて想像もできない。
 自分が投げた言葉がそのまま跳ね返ってきて、一子自身もそれに気付いたのだと思う。
 バツが悪そうにばっと鞄を手にすると立ち上がった。
「イッキのばか。もう知らない。帰る」
「あ、そ。帰れば?」
平然とした声音で応えてやった。それが相手の逆鱗に触れるとわかっていて意識的にそうした。これは俺の欠点。
 視線を合わせ睨み合う。
 一瞬の間のあと、一子はつんとそっぽを向くと、ほんとにお前女かよ、っと質問したくなるような凄まじい足音を立てて玄関に行き、瞬く間に部屋を後にした。
 しんとなった部屋。
 後味が悪い。とても、悪い。
「ったく…」
 溜め息を落として畳に寝転がった。まさかこのときの言い争いがこんなにも長く尾を引くなんて。無神経とも言うべき俺には全く想像もできなかった。
 

 二次会はカラオケボックス。
 人前で歌を披露するのが好きな人間は案外多いと思う。
 かなり広い部屋だった。
 一次会のときより若干人数は減っているものの、それでもむっとする熱気は如何ともし難く、部屋の酸素はかなりうすくなっている気がした。
 コの字型の椅子の端っこに座った。隣には一子。その向こうにリーマン野郎。ここに辿り着いた途端、したたか酔っ払ったサラリーマンの如く顔だけを天井に向けて眠りこけてしまった男。今にも鼾が聞こえてきそうな寝顔だ。そこまで酔っ払っていながらも、一子の横を陣取るあたり、かなりしぶとい。
 一子は歌を歌わない。こちらも同じ。最近は試験の為の勉強ばかりで新しい歌なんか全くわからなくなっていた。でも中野はさっきレミオロメンの歌を熱唱していたっけ。すごい。あいつは何をやらせても万能なのだ。
 テーブルには色とりどりの飲み物が大きめのグラスに入って並んでいた。口をつけてもらえないグラスは冷や汗を掻いているみたいに水滴を身に纏い、申し訳なそうにじっと佇んでいる。食べ物は鶏のから揚げとフライドポテト。ピザ。バスタ。少しだけ手をつけた。どれも冷凍食品独特の侘しくも塩の利いた濃厚な味がした。
 鎖骨の上の傷を知らず触っていた。何となく手が伸びてしまうのだ。
「イッキ、それ、もしかしてあたしがやっちゃった?」
 不意に一子が傷を覗き込んでそう訊いてきた。座っていても一子の顔はかなり低い位置にある。横目で見下ろした。
「そうだよ」
「うわ。ごめん」
 傷口に触れようと伸ばした手を一子はすぐに引っ込めた。周りに人がいるからだろう。下ろした手を膝の上できゅっと握る。
 心臓の鼓動が早くなっていた。
 意識的に一子の隣に座ったものの、話しかけるタイミングを失ってしまい、どうしようかと考えあぐねていたのだ。まさか一子のほうから話しかけてくるなんて思いもしなかった。
 これって、許してもらえたってことなんだろうか。
「いや、俺も。…悪かったよ。ごめん」
「え…」
「え、と。」
─── 優シク、シ、マ、ス。
 恥ずかしいのでわざと丁寧に言い、頭を下げた。
 目を丸くして見上げてくる一子。こちらは意味もなく髪をかき上げたりしていた。
「何つー顔してんだ?」
「イッキが謝るなんて、珍しいから。びっくりだよ」
雪が降るかもね。
 真剣な顔で言われた。
「降らねえよ」
 こちらも真面目に応える。
「思い出したんだ」
「うん。思い出した。反省してる」
 一子がくすっと笑った。
 でもそれきり前を向いたままで何も言わない。
 もう一度髪に手を当てくしゃくしゃっとした。
「あー、もう…」
 こういうのはめちゃくちゃ苦手だ。
「何?」
 見下ろした一子は冷静な顔をしていた。だからといって全てを許してくれたわけじゃないと思う。さっき見た光景を自分は忘れていないわよ、と真っ直ぐな瞳で責められている気がして仕方なかった。
  今歌っているのは喋ったことはあるけど、よく知らない女だ。やや性格が暗めの自分の世界を持ってる女。しっとりねっとり。演歌を歌っているのかと思ったら、どうやら浜崎あゆみの曲らしい。
 壁に掛けられた時計が示す時間が少し気になった。
「あのさ。もうこういうのなしにしねえ?俺、一子と話せないのまじできついんだよね。一子はどうだか知らないけどさ」
もう、いい加減仲直りしたいんだけど。
 カラオケの音が大きいので、自然こちらも声を張り上げてしまう。謝罪しているはずなのにその響きはまるで怒っているみたいに自分の耳に聞こえた。
 仄暗い灯りの下、一子の瞳は潤み、眉尻が微かに下がった。困っているのか。悲しんでいるのか。
 一子は俺をどう思っているんだろう。
 優しくしてほしい、なんて。好きな女に言わせる台詞じゃない。しかもそう言われたことをすぐに忘れてしまうなんて。
 それだけじゃない。
 別の女とキスするとこまで目撃された。
 もう好きじゃないと言われたとしても、少しも不思議ではなかった。
 やるせない気持ちの塊が熱く喉元に込み上げて息をするのも苦しくなってきた。開いたシャツの襟元を握って、さらにこじ開ける。
 顔を正面に向けた。みんな小さなステージ上の演歌歌手浜崎あゆみか、手元の歌本しか見ていない。
「出ねえ?」
 正面を見たまま呟いた。聞こえていないのだろうか。隣から返事はない。視線を向けると、きょとんとした顔で一子はこちらを見上げていた。
「出よう」
 有無を言わさず一子の手首を掴んで立ち上がった。
「え?いいの?」
 一子が戸惑った声で言う。
「かまわねえよ」
 誰もこっちのことなんか気にしていない。
 扉は、ステージの反対側。みんなのほうへは寸分たりとも視線を向けずにそちらへ向った。
 廊下は蛍光灯の真っ白な光に満ちていた。背中で分厚い扉が閉まった途端、唐突に静寂がやってきた。耳の奥だけがうわんうわん鳴っている。
 しんとした絨毯張りの廊下をくぐもった足音を立てて歩く。
 一子は黙ってついてきていた。
 握った手首は柔らかく冷たかった。やっと捕まえた。
 この手をいつまでも離したくないと思った。


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