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ひらひらり  2.
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「一子…?」
 冬の日の夕刻。
 大半の人間がキャンパスを後にし、殆ど空っぽ状態となった駐輪場に一子がいた。何故だろう、後ろ姿だったけれどすぐに一子だと確信できた。真っ白な毛糸のマフラーに茶色いダッフルコート。右肩に見慣れない大きなリュックをかけていた。
 その日は朝から寒かった。少し外を歩いただけで手の先も足の先もかじかんでしまうほど。やけに空が低いと思ったら、その空を覆った灰色の雲から白い粉が舞い降り始めていた。どうりで。身体の芯まで冷えるはずだ。寒くなるとバイクに乗るのがきつくなる。明日は徒歩で来ようかな、と考えた矢先、一子の後ろ姿が目に飛び込んできた。
 一子が立っていたのは俺のスクーターのすぐ傍だった。250CCのクリーム色をした二輪自動車。他には離れた場所に自転車とバイクがぱらぱらとあるくらいで、その後ろ姿は、まるで俺が来るのを待っているかのようだった。
 有り得ない光景。不覚にもつい名前を呼んでいた。
 一子は直ぐに振り返ったりしなかった。名前を呼ばれた瞬間びくりと身体を揺らした後、やや間を空けてこちらを向いた。振り向いた一子の顔は気の毒なくらいがちがちに強張っていた。
 寒さの所為か。それとも声の主が俺だったからか。
 自分の起こした行動を直後、後悔した。
 一子が俺を待っているわけがない。会話なんてもう何年も交わしていなかった。同じ教室で目が合っても直ぐにその視線を逸らされる。一子の俺を見る目は冷たい。
 嫌われている。
 そう。
 ずっと長いこと、一子には嫌われているのだ。
 自業自得というやつだ。
 俯き一子の横を擦り抜けるとキーボックスに鍵を差し込んだ。
「イッキ」
 手にしていたヘルメットを被ろうとしたところで名前を呼ばれた。
 イッキ。
 と。
 そんな呼び方をするのはこの世でただひとり、一子だけだ。甘ったるい声。懐かしい響き。覆い隠していた気持ちが溢れ出しそうになって困った。バレないよう、努めて冷静な顔を作ってみせる。
 視線を上げじっと見詰め合った。
 こんな風に一子の顔を正面から見据えたのは本当に久しぶりだった。
 変わらない顔。あどけないふっくらとした頬の線。中学生にでも間違えられそうなほどの童顔、丸顔だ。
 どれくらいの時間ここにいたのだろうか。寒さの所為で鼻の頭が赤くなっていた。目も泣きそうに潤んでいる。
「イッキ、このままアパートに帰る?」
 いきなりそんなことを言った。
 どうしてそんなことを訊かれるのかわからないまま、
「…帰るけど?」
と答えた。
「じゃあさ…」
 一子がこちらを見たまま言葉を続ける。
─── 今から、行ってもいい?
 え。
 瞬間目を丸くしぽかんと口を開けていた。
 聞こえてくる言葉の意味が理解できなかった。
 来る?一子が?俺の部屋に?
 えーと。…まじで?
 あ。なんだ。やっぱり俺を待ってたってわけ?
 とくん、と胸が強く鳴った。
 あまりにも唐突な発言だ。つい先ほどまで目もまともに合わせなかったくせに。何しに来るんだ?と思ったが口には出さなかった。 
 暫くじっと自分の手にしたヘルメットに視線を落としていた。メットはひとつしかない。誰かに借りようにももう学生は殆ど残っていない時間帯だ。
 仕方がないのでメタリックシルバーのそれを黙って一子に差し出した。一子は受け取りつつもどうしたらいいのかわからないのだろう、不安そうに俺の顔を見詰め返してきた。それほど大きくない瞳が心許なさそうに揺れている。
 そういう顔をするな、と思う。
「かぶれ」
「イッキは?」
「ひとつしかねえんだよ。来るんだったら、早めに言え」
 まるでふたりの関係がずっと続いていたみたいな言い方をした。意識してそんな風に言っていた。
「あ、そっか。そうだね…。うん、ごめん」
 ひとり言みたいに呟くと一子はそれを頭に乗せた。すっぽりと、一子の頭がきれいに隠れる。ぶかぶかだな、と見ただけでわかった。
 もたもたと紐の長さを調節しようとする一子。そんなこと、被ったままでできるわけがない。一度脱げよ、と思う。
 一子は相変わらず一子のままだった。とろくて鈍臭くて、文句を言いつつも手を差し伸べたくなる。こちらをそういう気持ちにさせる。
 黙然と近寄り顎の下に手を伸ばした。一子の身体が固まるのがわかった。でもゆっくりと顎を上げこちらに委ねる仕草を見せた。
「イッキ、今、カノジョいないって言ってたよね?」
 またいきなり。そんなことを訊いてくる。
「あ?」
「…いるの?」
「いねえよ」
 素っ気無く答えた。カノジョなんて大学に入ってからひとりも作っていない。一子とは別々の学校だった高校生の頃はともかくとして。
 すぐそばに一子がいるのに、毎日顔を合わせるというのに、他のコとつき合ったりできるはずがなかった。
「何だ、一子って案外顔小せえんだな。……太ってんのにな」
 細い首の上の大きなヘルメット姿がおかしくて、ふっと笑ってやった。
 やがて一子が恐る恐るといった動作でタンデムシートに腰掛け、そっと腕を回してきた。そんなびくびく怖れなくても取って食ったりしねえよ、と、内心苦笑する。
「ちゃんとつかまってろ」
「うん」
「寒いぞ」
「うん。…あのね、イッキ」
「何?」
一子が俺の背中で何か言った。ぼそぼそとか細い声。メットのシールドと、エンジンの音に掻き消されて全く聞き取ることができなかった。
「ああ?」
大きな声で聞き返す。「何?聞こえねえよ」
 一子が躊躇するのがその背中越しにもはっきりとわかった。寒さとバイクの震動で震える身体。何なのだろうかと純粋に疑問に感じる。今日の一子は何から何まで変だった。まず第一に。俺を待ってたという行為自体が普通ではない。
 一子が大きく息を吸った。吐き出すように大きな声が聞こえてきた。
「きょ、う、イッ、キ、の、と、こ、に、泊まっ、て、も、い、い?」
やけくそ、という感じの口調でそう言った。でも、一語一語はっきりと。
 泊まる。と。
 イッキの部屋に泊まってもいいかと。一子ははっきりとそう訊いてきた。
 一子の左腕はこちらの腰に回されたままだ。
「何言ってんの?お前…」
 ゆっくりと後ろを振り返り、その顔を見ようとしたけれど、バイクの前後では一子の表情をはっきりと窺うことはできなかった。一子は構わず続ける。
「泊まるの。イッキのとこに。だめ?」
「……」
「…カノジョいないんなら、いいでしょ?」
「何、それ、どういう理論?ガキじゃないんだから、簡単にそういうこと言うな。お前わけわかんねーよ、さっきから」
 大袈裟に首を傾げながら前を向いた。
 泊まるって意味わかって言ってんのか。幼なじみだからって甘くみてんじゃねーぞ、こら。
 知らないうちにごついグローブに覆われた掌に汗を掻いていた。こんなに空気は冷え切っているというのに、だ。
 ったく。一子のやつ。何考えてんだ。
 一子はいつまでたってもガキのままだと思った。
 いい歳の女が男のとこに泊まるなどと口にしたら、男の側が何を考え期待するのかきっと露ほども想像できないに違いない。
 そういえば一子は大きなリュックを肩にかけていた。本気で泊まる気なのだと愕然とした。
 ひょっとして、家出でもしたのだろうか。一子のとこのおじさんはちょっと変わっているから。家で何かあったとしてもちっとも不思議ではなかった。どこにも行くところがなくて、頼る人間が他にいなくて、それで俺のところへ来たのだろうか。
 左にウインカーを上げる。身体の重心を僅かに左側に傾ける。
 国道へと続く交差点。
 この時間帯、車は多い。道路の左側を走り抜ける。
 雪と風は激しさを増していた。大きなぼたん雪の粒が遠慮なく顔に目にぶつかってくる。明日の朝は、積もった雪を見ることができるかも知れない。
 一子がいる、と思った。
 俺の背中に一子がいる。回された腕の存在がなんていうか、途方もなくくすぐったかった。
 寒い。
 頬に当たる風は突き刺さるように痛い。全身の感覚が少しずつ失われていく。
 早く部屋に帰りたい。暖房のよく利いた暖かい部屋が恋しかった。辿り着いたら手っ取り早く温かい飲み物で身体の内側から温度を上げたいと思った。
 まず。一子が何故家出したのかちゃんと話を聞こう。本気で帰る気がないのなら、自分は中野か木庭に頼んであいつらの部屋にでも転がり込むしかないだろうなと思っていた。
 後々考えて見れば。
 そのときの俺は本当に能天気だった。
 俺の背中でひっそりと身体を硬くしている一子が何を抱え、何を決意して俺のとこへ来たかなんて、全く、知る由もなかった。


 一子と俺は多分世間一般でいうところの婚約者同士で、でもコイビトドウシなんかではなかった。
 俺は、美田村のおじさんに一子と将来結婚してもいいと返事をした夜に、一子と自分はもうコイビトドウシにでもなったような気持ちでいたのだけれど。だから、当時つき合ってた女のコともきちんと別れたのだけれど。
 でも一子のほうはどうやら違っていたようだった。
 信じられないことに、それから暫くして一子に女のコを紹介された。
「イッキとつき合いたいって言ってるんだけど…」
 泣きそうな顔で言われた。一子だって本意ではなかったのかも知れない。俺に断ってほしかったのかも知れない。でも、俺は一子のその行動を許せなかった。こちらの気持ちを踏みにじられたような気がした。裏切られたと思った。
 本妻に愛人をあてがわれたようなもんだろ。
 当時高校生だったくせに一子のとった行動をそんな風にとらえ、少なからず一子を憎んだ。
 俺は結局一子に紹介された女のコとつき合い、当たり前みたいにキスをし抱き合った。一子がそのことを知らないとは思えなかった。
 どんどん一子の俺を見る目は冷たくなっていった。


 それが高校生の頃の出来事だ。
 でも、今、一子は俺の背中にいる。
 このまま仲直りできればいいと思った。ただ純粋に元通り、幼なじみの関係に戻れたらいいと。望むことはそれだけだった。
 まるで存在しないかのように無視されるのも、侮蔑のこもった目で見られるのも、どちらも本当に辛かったのだ。
 向ってくる雪の冷たさや切り込むような風の強さはもう、少しも気にならなくなっていた。





 大勢で連れ立ってぞろぞろと歩いた。地下鉄を降りたところで出くわした何人かと。行き先は同じなので自然、そういう流れになった。一子もいる。春らしい若草色のカットソーに薄い桜色のスカートを穿いている。丈は長め。一子はミニスカートは穿かない。昔ほどころころと太っているわけではないが、痩せているとも言えない自分の体型を案外気にしているようだった。っていうか。俺が揶揄うから余計そうなのかも知れない。
 あれ?喧嘩の原因って、それだったっけ?いや、違うだろうと考え込む。
 夕暮れの繁華街。人通りは多い。
 わざと一子の真後ろを歩いた。プレッシャーをかけるみたいに。一子も全身でこちらを意識しているくせに振り返ろうとしない。頑固だ。
 一子の横にいるのは、誰に誘われて来たのか知らないが、あまり見たことのない男。高級なブランドのロゴが入ったポロシャツにチノパン。服装も髪型もリーマンみたいな男。一子の顔を覗き込むようにして話しかけている。下心みえみえのあからさまな態度だ。一子のほうも、何が楽しいのか知らないが、相手の言葉に時折小さく笑い声を立てたりしている。
 ひっじょうに面白くなかったので、目の前にある、首のつけ根の辺りできれいに切り揃えられた髪をひとつまみし、くいっと引っ張った。
「痛いっ」
 一子が悲鳴を上げて後ろによろけた。両肩をこちらの両手で受け止め、上から顔を覗き込んだ。
「よっ」
 にっこりと嘘臭い笑顔を作って見せた。俺の顔の下で、逆さまになった一子の目が大きく見開かれた。
 隣にいた男が露骨に嫌な顔をするのが視界の端に映ったけれど、気にしない。
 一子の顔がすぐに膨れっ面に変わった。ぱっと離れると、つんとまた前を向いた。
「何だよ、お前、まだふくれてんのかよ」
 後ろから言い募る。一子は黙り込んだままだ。
「いつまで怒ってれば気が済むんだよ。ガキじゃないんだからさ。むっつりしてないでちゃんと言いたいこと言ったほうがいいんじゃねえの?」
「……」
「一子」
「……」
「一子ちゃん、聞こえてますかー?」
「……」
 めちゃくちゃ頑なな態度だ。絶対振り返ってやるものかという強い意志の漲った背中。一子よりもまわりにいる人間のほうが気を遣ってこちらを見ている。
「一子」
だんだん口調に不機嫌さが混じるのが自分でもわかった。「こっち、向けっつーの」
 今度は耳を引っ張った。指の中で一子の柔らかい耳たぶがくにゃりとつぶれる。リーマン男は俺を一瞥するとさっさと前を歩き始めた。係わり合いになりたくないのか。何だ。諦めの早い男だな。
「いったい」
一子が耳を押さえて喚く。「痛い、痛いってば。何すんのよ、ばかイッキ」
「お前が無視するからだろ。話しかけてんだから返事くらいしろよ」
「だからって、髪とか耳とか引っ張んないでよっ」
 かなり前を歩いていた中野と大野が振り返った。ふたりとも呆れ顔をしている。また始まった。そんな顔付きだ。
 中野が首を横に振った。やめとけ、って。そう言ってるみたいだった。
─── お前の一子ちゃんへの接し方は小学生並だよ。見てて恥ずかしいね。
 これは中学生だか高校生だか、それくらいの頃に中野に言われた台詞だ。つい最近も同じようなことを言われた。
 そう。今もってそうだ。俺は一子に対してだけは少しも成長できていない。
 自分でもわかってる。でも、どうにもならない。
 一子は足を止め俺に対峙するとつんと顎を上げた。他の連中はリーマン男同様、どんどん店に向っていく。俺と一子だけが取り残された。
 人通りが多いのでふたりで道の端に避けた。自動ドアが開く度うるさい音楽の鳴り響くパチンコ屋と赤い看板を掲げた消費者金融の店舗との間に佇む。道行くひとは少しもこちらを気にしない。さっさ、さっさ、と。勇ましく歩いていく。
 ポケットから煙草を取り出した。
 一本口にして点火しようかどうしようかと迷った。
 煙草を吸って一子に嫌な顔をされたことは一度もない。こちらも吸うタイミングには一応気を使っているから。
 一子は思い詰めた顔をしていた。何をそんなに怒っているのか、益々わからなくなる。
 じっと一子の顔を見詰め返しているとおかしな気持ちがわいてきた。
 このままふたりでバックレようか。
 そんなことを本気で考えている自分がいた。
 衝動的といおうか本能的といおうか。思いがけない欲が唐突に腹の底から突き上げてきて胸をしめつけた。
 このまま一子を部屋に連れて帰りたい。今すぐ抱きしめたい。一子の身体を思いのままにしたい。
 何ヶ月も前に目にした一子の、耐え難そうな顔と、暗闇に浮かぶ白い肌を思い出していた。時折漏れる甘い吐息も。
 めちゃくちゃにしたい、と思った。
 すこやかで健全で毅然とした態度で俺に向ってくる一子を、突然壊してやりたくなったのだ。
 たまらず、一子から少し高い位置へと視線を移した。
 歩道の向こうは大きな片側二車線の車道。その向こうにはデパートがある。最上階に掲げられた大きな看板には、お酒の壜とあまりメジャーではない女優が映っていた。全身と顔のアップと。女優は物憂げな表情で笑っている。いや。泣いているのかもしれない。看板の中では幾枚もの桜の花びらが散っていた。
 ゆっくりと視線を目の前の女に戻した。
 こちらの考えていることなど何にも知らない一子の視線は真摯で真っ直ぐだった。
 ほとんどビョーキだな、と自分を哂った。どうかしている。一子相手にそんなこと。できもしないくせに。
 ライターを取り出すと迷わず火を点けた。
 たゆたう紫煙を目で追っていると。
 イッキ。
 と下から一子の声が聞こえた。
「何、笑ってるの?…あたし、怒ってるんだけど」
「いや。別に。笑ってねえよ」
「イッキ、この前あたしが言ったこと、少しはわかってくれたの?」
「……」
 目を細めて一子を見下ろした。
「ちょっとは反省してほしかったのに」
 反省?
「……」
「イッキ、ちっとも反省してないでしょ?そんな風に見えないもんね」
 視線をすっと逸らして口を開いた。
「───…ない」
「え?」
 俺の言葉に反応して怒っている一子の顔が素に戻った。自分の耳を疑っている表情。目がぱちくりと開いてピンクの唇からは白い歯が覗いていた。
「え?今、イッキ、なんて言った?」
「覚えてない」
 一子が首を微かに傾げた。
「何、を?」
「だから…」
「……」
「俺ら、何で、喧嘩したんだっけ?」
 真面目に質問したのに。
 一子はぱっと唇を閉じると再び意志の強い目で俺を睨みつけてきた。余計怒りを募らせたみたいな顔。
「ふざけないでよ」
「いや、ふざけてないんだけど」
 煙草を手にしたほうの親指で鼻の横を擦った。うっすら笑っている自分に気がついた。
「…信じらんない」
 一子の声が震えていた。
 やばいな、と思った。
 一子はまじで怒っている。
 何か言わなくては。
「お前がさ、イッキのばか、知らない、もう帰るっつって出て行ったのは覚えてるんだけど」
そこに至るまでの過程がさ。まるっきり抜けてんだよなあ。
 口にした後、こんな台詞なら言わないほうがマシだったとすぐに気がついた。でももう後の祭りというやつだ。覆水盆にかえらずだっけ?いやいや。口は災いの元。
 一子は手にしていた布製のバックを俺の胸に思い切り強くぶつけてきた。がしっと、案外硬い音がした。
「─── いってえっ」
何が入っているのか、尖ったものが鎖骨のすぐ上に当たって鋭い痛みがすうっと横に走った。「何すんだよ」
ムキになって言いながら、いや、ここはもっと下手に出るべきとこだろう、そんな本気で怒ってどうすんだ、と、自分で自分にツッコミを入れた。
 案の定。一子の怒りは頂点に達してしまったようだった。というか、とうに沸点は超えていたというべきか。
「イッキのばか、もう知らないっ」
 聞いたことのある台詞を口にした後、一子は踵を返すと猛烈な勢いで歩き始めた。前を行く連中に追いつこうと競歩みたいなスピードで歩を進めていく。怒りを全身に滾らせていた。その後ろ姿を目で追いながら、けれどこちらはもう追いかける気力などなく、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「まずいよなあ…」
 反省。
 と、一子は言ったけれど。
 まるきり記憶から抜けているということは、きっと一子が言うほど、俺は喧嘩の原因が自分にあるとは思っていなかったということになる。少なくとも言い合いをした時点で俺は、何でそんなこと責められなきゃいけないんだ、くらいにしか思っていなかったに違いないのだ。
 手にしていた煙草を携帯用灰皿に捨てる。
 はるか前方の店に皆が流れ込んで行くのが見えた。一子も。一子はもう皆に追いついていた。隣には再びリーマン野郎。
 好きにしろよ、と思った。
 鎖骨の上がひりひりと痛かった。ごしごしと指先で強く撫でる。
 喧嘩の原因ってなんだっけなあ…。
 溜め息を落としながら考える。考えながら、これまでは本気で思い出そうとしていなかった事実にもまた気が付いた。
 俺って最低だな、と思った。
 こんなんで一子に好かれるわけがない。上手くいかないのも何だか当たり前のような気がしてきて気持ちが暗鬱となった。
 髪をかき上げ俯く。薄汚れたアスファルトの歩道が映った。自分のスニーカーと行き交う人の靴とを視界に入れながらもう一度思った。
 俺って最低 ───。


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