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初秋  2.
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 ない。
 体育祭が終わってから一週間。
 確かに月曜日に持ってきてこのロッカーに入れておいたのに。その際のくたっと崩れた袋の形までちゃんと思い出せるのに。
 でも。ない。
 それはそこから忽然と消えていた。
 少しの間空っぽの四角い箱を茫然と見詰めていたが、あたしは唇をきゅっと結ぶと更衣室に移動する奈々子とさっちんの後を追った。
「なんか、お腹痛くなってきちゃった。ちょっと保健室行ってくる」
 眉間に皺を寄せてやや苦しそうな面持ちで告げた。口にすると本当に胃の辺りがむかむかしてきた。ここのとこ、残暑がきつくて食欲がない。
 ふたりはえっ、という顔であたしを見る。
 まあ、それも当たり前。だってさっきまでのあたしは本当にいつもどおり元気だったから。
「紗江、大丈夫?」
「なんか、顔色悪いね」
奈々子が珍しく真剣な表情であたしの顔を見上げた。「保健室までついて行こうか?」
 顔色が悪いと言われてそっと頬に指先を当てた。さっき空っぽのロッカーを目の当たりにしたあたしは、血の気が引くとはこういうことなのかとまざまざと実感したばかりだった。さあっと全身の血が下がっていく感覚。まだ触れた頬は冷たい感じがする。
「大丈夫。ちょっと寝てれば治ると思う」
 ふたりと別れて、保健室に向かいながら、あたしは自分の膝が震えていることに初めて気が付いた。
 どうしよう、と思った。
 新しく体操服を買うお金なんて持ってない。この間自分のお小遣いで上履きを買ったばかりなのに。
 母親にどう説明しようかと懸命に思考を巡らせていた。バスの中、電車の中、或いは別のどこかに置き忘れたことにでもしてしまおうか。きっと大目玉を食らうことになるんだろうな。
 ふらつく足で階段を降りながら、なんでこんなことになっちゃったんだろうかと考えて泣きたくなった。
 桜木の飄々とした笑顔を思い出していた。


 あたしと奈々子とさっちんは茶道部に所属している。
 茶道部の活動は二学期が始まってから十一月の文化祭が終わるまでの二ヶ月とちょっとだけ。
 週に二回、市内の裏千家の先生が学校にやって来て指導してくれる。にわか部員のあたし達に、それはそれは懇切丁寧に茶の道を説いてくれるのだ。
 年の頃は六十歳くらいだろうか。背筋のぴんと伸びたふっくらとした身体つきの優雅さの漂う先生だ。いつも綺麗に和服を着こなしている。
 茶道部員は一年生と二年生を合わせても二十人足らず。こじんまりとした部だ。男子部員はいない。
 旧校舎の二階の端に和室がある。六畳程度。古い部屋だが、張り替えたばかりの畳の青臭い匂いに満たされていて、なんとも言えない清々しさが漂っていた。
「野々村先輩、二年生の桜木さんとつき合ってるって本当ですか?」
 茶道具を片付けている最中に突然一年生のコに声をかけられた。不意打ち。あたしは持っていた棗を落っことしそうになった。
 色の白い綿菓子みたいなふんわりした感じのコだ。桜木の友達の村井くんに負けず劣らずのくりんくりんの天然パーマが可愛らしい。にっこりした笑顔の裏に、本当のことを言ってよねと、瞬きもしない目にはそんな本音が見え隠れしていた。その後ろからも興味津々といった風の瞳がいくつもあたしの反応を窺っている。
 棗と茶杓を片付けながら返答に窮していると、
「そっうでーす。この後一緒に帰る約束もしてるんですよー」
あたしの代わりに能天気に答えてくれたのは奈々子だ。「そうだよねえ、紗江?」
 後ろからあたしに抱きつきながら言う。回された腕が窮屈でちょっと首が苦しい。
「う、うん。まあ・・」
 あたしが答えると、
「いいなあ」
という羨望の声と溜め息が漏れ聞こえた。どうやら、というか、やっぱりというか、桜木はもてるらしい。
「あたしのクラスに女バスのコがいるんですけど」
 ややあって、綿菓子ちゃんがこっそりとあたしに話しかけてきた。綿菓子ちゃんはなんだかいい匂いまで自分の周りに浮遊させている。
 女バスのコ、という言葉に少しだけ胸の鼓動が早くなった。
「桜木先輩とよく遊びに行くって自慢してるんです。部活の後、カラオケに行ったりしてるって・・」
 よく遊びに行ってる。
 胸がきりりと痛んだ。
「うん。知ってるよ」
 片付けを全て終えて、先生を和室の入り口から見送りながら答えた。先生の背中はやっぱりぴんとしていた。縞模様の型崩れしていない帯を見詰めながら、綿菓子ちゃんが本当にあたしに伝えたいことは何なのだろうかと懸命に模索していた。
「野々村先輩はそういうの平気なんですか?」
 あたしは少し言いよどんだ。
「・・・平気っていうか、みんなでわいわいやってるだけだしね」
「すごいですね。野々村先輩」
「何が?」
「あたしもカレシいるんですけど、他の女のコと話してるだけで、ムカついちゃう」
「・・・」
「それに、女バスのコたちあんまり好きじゃないから。・・・告げ口みたいなことしちゃった。ごめんなさい」
 あたしの顔に怪訝そうな色が浮かんでいたのだろうか。慌てて綿菓子ちゃんは頭を下げた。
「いいの、いいの。気にしないで」
 これはあたしの口から出た言葉ではない。あたしの後ろからひょっこり顔を出した奈々子だ。まあ、確かに悪意から言ったわけではなさそうだった。
「今でも桜木、あの一年生のコたちと仲良くしてるんだ」
 綿菓子ちゃんが他の一年生たちのコのところに戻った後、奈々子が不機嫌そうに言った。「あれでしょ?一学期に桜木のとこにしょっちゅう来てたコたちでしょ?」
「うん。村井君たちと仲がいいみたいなんだよね」
 和室から出たのはあたしたちが最後だった。さっちんが和室の鍵を小さな穴に差し込む。年季のはいった鍵はかちゃかちゃと音を立ててから閉まった。
 女バスの一年生三人と男バスの二年生四人は仲がいい。一年生のうちのひとりは明らかに桜木のことを好きそうだった。背が高くて華奢で、顔のちっちゃなショートカットのコ。
「本当に、気になんないの?」
 さっちんが、首を傾げながら訊く。それから思い出したように、
「そういえば、昼間より顔色よくなったみたいだね」
と、気遣ってくれた。
「うん。ありがとう」
 本当のところは何ひとつ解決していないんだけどな、と思いながら笑顔を浮かべた。
 三人で廊下を歩く。放課後の旧校舎は深閑としていた。
「最初はね、気にならなかったんだ。つき合い始めたばっかりで浮かれてたし、自分は特別だって、ちょっと思ってたし。でも・・」
 夏休み、あたしと会った回数よりも女バスのコと過ごした時間のほうがかなり長いことに気が付いてから、その存在がちょっと気になり始めたのだ。
「そういうのってさ、ちゃんと桜木に言ったほうがいいと思うよ」
 奈々子が諌めるように言う。
「でもさ、言いにくいよ」
「なんで?」
「だって、桜木には桜木のつきあいがあるわけだし・・」
 あたしが嫌だと言えば、桜木はあのひとたちと遊びに行くことをやめてしまうかもしれない。自分が桜木の大切にしている友人関係を壊す原因になるというのは何だか嫌だった。
「友人関係・・・ねえ」
奈々子が呆れたように呟いた。「村井くんたちがどうかは知らないけどさ、あの一年の女子たちはちがうでしょ?紗江だって、わかってるんでしょ?」
「う、ん」
曖昧に頷いた。
 でも、やっぱり言いにくいのだ。


 さっちんと奈々子と別れて体育館に向かう途中の渡り廊下で女バスの一年生ふたりと擦れ違った。桜木のことを好きなあの背の高いコは一緒にいない。あのコにいつもくっついてるふたり。
 ふたりはあたしを見ると互いに目配せし合って嫌な笑いをその口許に浮かべた。
 体育祭の時はその唇から「にっぶー」などという、聞き間違いかと疑うような言葉が放たれたのだ。あの時と同じ笑い。
 心に影が差す。どんよりと暗い気持ちになってしまう。
 開け放たれた体育館の扉の前に立つと、桜木の背中が見えた。制服に着換えた桜木はバスケットボールのたくさんはいった、腰の辺りまで高さのある籠を脇に置いてロングシュートの練習をしていた。
 桜木が曲げていた膝と右腕の肘を伸ばす。綺麗な弧を描いた大きなボールは網を垂らした輪の中へと容易に吸い込まれていく。
 声をかけようとしたあたしは、大きく目を見開いてその場に立ち竦んでしまった。
 桜木の横にあの女のコがいたから。
 あたしと同じくらいの身長。女子の中ではかなり高め。でも、あたしよりずっと手足が長くてかっこいい。短く刈られた後ろ髪からつづく首筋もすっとしていてまるでモデルみたいだと、いつ見てもそう思う。
 体育館には他に誰もいなかった。ふたりきり。
 たった今渡り廊下で擦れ違ったふたりの、ほくそ笑む歪んだ唇の形を思い浮かべていた。胸の隅っこに屈辱感のようなものが、小さいけれどはっきりと形を成していた。
 何を話しているのだろうか。桜木は右手でボールをつきながら女のコの言葉にしきりに頷いていた。ボールが床を叩くたび、震動して、それはあたしの立っている場所にまで伝わってくる。でも、桜木はあたしに気が付かない。
 桜木の視線は自分の手元のボールにあった。
 その間も、女のコの視線はずっと桜木の顔に一心に注がれたままだ。見ているこちらのほうが恥ずかしくなってしまうくらい、その瞳は如実に彼女の思いを物語っていた。
 桜木は彼女の気持ちを少しもわかっていないのだろうか。
 信じられない。
 でも、わかっていて隣にいることを許しているのだとしたら、それはそれで無神経な話だ。
 そんなことを考えていると、ふたりが同時にこちらを向いた。
「あ・・」
 あたしは固まった。一歩足を踏み出すことも、何か言葉を並べることもできなかった。
 桜木が目許を崩して笑う。隣にいる彼女への配慮は全くない、嬉しそうな笑み。
 桜木は案外鈍感だ。
「遅いよ」
「う、うん。ごめん」
 慌ててあたしも笑顔を作った。
 桜木は背中を向けると、す、っと右腕を伸ばして持っていたボールをゴールに入れた。楽々と決まる。ボールの跳ねる音が広い空間に響いた。
「桜木先輩、じゃあ、あたし、これで」
「おう、雨宮あめみや、またな」
 雨宮。
 彼女の名前を呼ぶ桜木の声。親しみの込められた声。ただそれだけのことに、あたしの呼吸は苦しくなる。
 雨宮さんはあたしの横を通るとき、ぺこりと頭を下げたが、彼女の顔から微笑みは掻き消えていた。
 彼女が行ってしまってから、あたしは体育館に足を踏み込んだ。
 ばん、とボールの跳ねる音がしたかと思うと、自分に向かってきたボールをあたしは慌てて両手で受け取る。
 桜木は笑いながら、親指でくいっとゴールを指差した。
「やだ。無理」
「前にちゃんと指導してやっただろ。できる、って」
 前に、って、あれってキスされそうになった日のことじゃん。そういうことを簡単に口にしないでほしい。
 あたしは適当な場所から渋々ボールを放った。桜木みたいな綺麗なフォームは勿論できない。でも、一応ボールはゴールの中に納まってくれた。
「うおっ。すげえじゃん」
 揶揄うように言う桜木。
「もう。馬鹿にしてる?」
「いえいえ、全然。そんなことはありませんよ」
 やっぱり茶化しているかのような桜木の声を背にあたしはボールを取りに行く。ゴール斜め下の開いた扉から見える外の色は、日が落ちて青く翳り始めていた。ボールを掴んだあたしの瞳に、のんびりと歩く畠山の姿が映った。畠山が向かっているのはおそらく職員用の駐車場だ。
 畠山の隣には保健室の北川先生の姿。頬にかかるおかっぱの黒髪。畠山とは対照的な大人っぽい歩き方をしている。
 息を呑んで見詰めていた。
 さっちん。
 心の中で祈るように呟く。
「何見てんの?」
 背中から桜木の声。
「・・・」
「おい、野々村?」
 桜木が持っていたボールであたしの後頭部を小突く。
「・・・先生がさ」
「え?」
「先生が生徒を好きになることってあると思う?」
「はあ?」
桜木は突拍子もないあたしの質問に呆れたような声色を上げた。「何、それ?何の話だよ」
「・・・」
桜木はあたしの視線の先を辿ったようで、
「畠山?」
「う、ん」
あたしは、一旦頷いたくせに、すぐにふるふると首を横に振った。「何でもない」
 振り返ると目の前に桜木の胸があった。顔を上げると間近で視線が絡んだ。
 どくん、と心臓が跳ねる。
 あたしはさっと桜木の横を擦り抜けると、ボールを籠に放り込んだ。
「帰ろ?」
 ふたりで転がっているボールを集めていると、
「なあ、野々村」
桜木が静かな声で言った。「俺のこと、オモい?」
「え・・?」
 あたしは籠の持ち手を掴んで桜木の顔に視線を置く。
 桜木は腰を折ってボールを片手で掴みながら、らしくない顔で笑っていた。困ったような顔。空笑い。
 桜木が言い出したことが、咄嗟には理解できなかった。
「オモい・・って?」
「ってかさ、ウザい?」
 あたしの顔は見ない。
「え・・」
あたしの胸がきゅっと苦しくなる。「何?オモいとかウザいとか、意味わかんない」
 桜木は持っていたボールを二回だけゆっくりとドリブルさせた。
「そ。・・わかんないならいいや」
 桜木は最後のボールを籠に入れるとあたしが手にしているのとは反対側の持ち手を引いた。
 ごろごろと音を立てて体育倉庫に向かう。
「俺はさ、ウザいよ」
 また、胸が苦しくなった。言葉は唇から出てこない。どうして桜木はこんなことを言い出したのだろうかと思いを巡らしていた。
「なんか、いっつも野々村のことばっかり考えてる自分が時々嫌になる」
 ごくん、と唾を飲み込んだ。
「・・嫌に、なるの?」
「うん。嫌だね」
 嫌、という言葉がずん、と胸に響いた。
 足元の感覚がすうっと消えて心許なくなった。
 入った体育倉庫の中は跳び箱やらマットやら物が溢れていた。汗臭いような匂いが鼻をつく。
「野々村、いいよ。手、離して」
 桜木は跳び箱とバレーボールのはいった籠の間にバスケットボールの籠を納めた。
 薄暗い灯りの下で振り返った桜木の顔はよく見えない。
 あたしは俯いて、近づいてきた桜木の足元を見詰めていた。真っ白なバッシュ。あたしの直ぐ横でそれが止まった。
「野々村?」
桜木が顔を覗き込んできた。「何クラくなってんの?」
 あたしは桜木を見た。多分怒ったみたいな顔で。
「どうして?」
 出てきた声はかなり小さくて不覚にも震えていた。あたしの声とは思えない。
「え?」
「ウザいとかオモいとか、嫌、とか・・」
「・・・」
「何で、そういうこと言うの?」
「あ・・」
 あたしは再び俯いた。なんだか本格的に泣き出してしまいそうだった。でも、こんなことで泣くのは嫌だ。きゅっと下唇を噛んで堪える。
「え?いや、違うよ」
桜木の声は挙措を失っていた。「違う。野々村のことがって、いうんじゃなくてさ。野々村のことばっかりずっと考えてる自分が嫌だって言ってんの」
「・・・」
「何怒ってんだよ。変な意味で言ったんじゃないって」
「・・・」
「野々村?」
桜木が再び顔を覗き込んできた。「もしかして泣いてんの?」
「泣いてない」
 あたしは俯いたまま言う。
「じゃあ、顔、上げろよ」
「・・・」
「・・・」
 桜木の白いバッシュがきゅっと一回床を蹴った。
「・・・嫌、とか言わないでよ」
「あ?」
「嫌とか言わないで」
 震える声で言うと右手を伸ばして、先ほどからずっと視界に入っている桜木の左手首を掴んで自分のほうに引き寄せた。綺麗についた筋肉から続く手首のでっぱった骨。硬質な感触と柔らかな皮膚からは桜木の緊張と、それから躊躇が伝わってきた。
 桜木はどうすべきか迷っていたんだと思う。
 静寂だった。
 体育館はおろか、学校中にさえひとっこひとりいないかのような錯覚に陥りそうになる。
 ややあって、桜木の自由になっているほうの掌があたしの側頭部に触れてきた。
「もう言わない」
 桜木の二本の指先が髪の毛からこめかみ、頬へと確認するようにゆっくりとすべっていく。
 あたしの心臓は爆発しそうなくらい激しく打っていた。
 どうして桜木の気を引くようなことを、しかもこんな大胆なことをしたのか自分でもわからない。桜木の口から零れ出た嫌だという言葉がショックだったのか。それとも女バスのコの存在に不安を煽られたのか。
 あたしは自分を狡いと思った。
 あれほど桜木を傷つけたのに、自分の気持ちを落ち着ける為だけに今は自分のほうから求めている。桜木が拒絶しないことを知っていてそうしているのだ。
 桜木の手首を握った指先に力を込めると、掠れた声が耳許で聞こえた。でも、何を囁かれたのかはよくわからない。気持ちが動転していた。
 さらさらの髪を、温かい息を、頬に感じ、次いで唇がそこに触れる。
 本当は怖かった。
 全身が震えていた。
 頬に感じている桜木の唇もまた同じように震えていることに気が付いてあたしは少しだけ安穏とした気持ちを取り戻していた。
 桜木の唇がそっとあたしの唇に重なった。
 二度、三度と唇で唇をなぞる様に触れていく。息ができない。
 あたしは恥ずかしさでいっぱいになって堪らなくなって、自分のほうから唇を離すと桜木の胸のシャツに顔を埋めていた。顔を見られたくなかった。
 後ろ頭にそっと桜木の掌が置かれた。
「さくら、ぎ・・」
 桜木の所作のひとつひとつがあまりにも優しくて、あたしは途轍もなく切ない気持ちになっていた。


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