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初秋  6.
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 結局行くところがなくて、保健室に辿り着いた。
 本当はもう、このまま家に帰ってしまいたかったが、いかんせん鞄を教室に置いていた。お財布も、携帯電話も、全てその中にあった。
 白い引き戸を開けた。がらがらと軽めの音が耳につく。中央に位置する机と椅子にこの部屋の主の姿はない。壁時計で時間を確認した。ホームルームどころか、一時間目が始まる時間をとっくに過ぎていた。休み時間になったら教室に戻って、それから帰ろう、と思った。
 誰もいない。
 あたしはほっとして、茶色いスリッパでぺたぺた音を立てて歩くと、北川先生用の机に益々薄汚れてしまった化学の教科書を置いてから、保健室内の白い洗面台の前に立った。鏡で見ると、顎は血と泥で赤黒く汚れていた。
 汚いなあ、もう。
 胸の裡で愚痴りながらハンカチを取り出すと、蛇口を捻って水で濡らした。ポロシャツとスカートに染み込んだ土を、絞ったハンカチで叩くように擦りながら落とす。勿論元通りにはならないが、いくらかはましになった。
 ポロシャツの、地図状に滲んだ染みを見詰めていると、大きな虚脱感に襲われた。隅に寄せられた、おそらくは具合の悪い生徒用の椅子にどさっと腰を降ろす。
 保健室はしんとしていた。
 耳が痛くなるくらいしんとしていた。
 座ったら何だかほっとして、ずっと堪えていた涙が溢れてきた。
 顔を両手で覆って、身体を折って泣いた。涙は次から次へと止め処なく溢れてきた。時折、嗚咽が漏れる。今、誰かがここに入ってきたら、泣き顔を見られちゃうな、と思った。でもどうにも止められなかった。
 かたん、とベッドのほうから音がした。驚いて顔を上げる。ふたつあるベッドのうちのひとつは白いカーテンで覆われていた。
 迂闊だった。
 カーテンが引いてあるということは、誰かが寝ているということではないか。
 あたしは両手を外したまま固まった。
 知らないひとだったらいい。
 知らないひとだったら、何も言わずにここから立ち去ってもらおう。向こうだって、見知らぬ女のコの泣いてるとこになんか遭遇するつもりなどなかった筈だ。
 紺色のズボン。灰色の靴下が、カーテンの下から見えた。ベッドの下には学校指定の上履きではなくて、黒いサンダルがあった。
 生徒じゃない。
 あたしは知らず、泣くことも呼吸することも忘れていた。
 ざ、っと、派手なカーテンの音と共に現れたのは、なんと畠山だった。
 ふたりで呆然と顔を見合わせる。先に口を開いたのは畠山のほうだ。
「野々村、何やってんだ?」
「・・・」
 あたしは、涙に濡れた顔のまま、暫くきょとんとして、それから、畠山の後ろのベッドを恐る恐る指差した。
 え?どういうこと?
 あたしの脳裏には、あれやこれやとよからぬ想像が渦巻いていた。
「え?あれ?」
「ん?」
「え?嘘。え?」
「な、何だよ?」
「え?だって。あれ?」
あたしは軽いパニックに陥っていて、普通の状態だったら絶対言わないようなとんでもないことを口走っていた。「も、もも、もしかして、北川先生も、そこにいる、の?」
「はあ?」
芝居じみた大仰な態度で畠山がびっくりして見せた。「何言ってんだ?野々村」
「え。だって・・」
 畠山は理解できないといった様子で眉間に皺を寄せていたが、やっと、あたしの言わんとしていることを察したみたいで、察した途端目を剥いた。
「うわ。信じらんねえや、こいつ」
畠山は立ち上がると、右手を後頭部に当てて、寝起きの頭をさらにくしゃくしゃっとかき上げた。「何やらしいこと想像してんだ?誰が好きこのんで学校でそんなことする?」
 あ。
 なんだ。違うのか。
 それでもなんとなくあたしの中で疑いは晴れなかった。首を伸ばして、さり気なくベッドの上を覗いてみたりした。確かに、誰もいそうにない。
 畠山は、気まずそうに肩を竦めるあたしをじろりと睨んでから、大きな溜め息を落とした。
「これだから近頃のジョシコウセイはな」
弱々しく首を横に振る。「考えることが突拍子もなくて、とてもじゃないけど俺らはついてけない」
 畠山は北川先生の椅子に座ると、机に両腕を投げ出して突っ伏した。
「あー。今日、北川がいないっていうから気持ちよく寝てたのになあ」
「・・・ごめんなさい」
「眠ぃよなあ・・」
 何なのだ。この態度は。新任教師にあるまじき、というやつだ。ちょっとむっとする。
「畠山、さぼり?」
 畠山がぱっと顔を上げた。何だか怒っている。
「呼び捨て」
「あ、すみません・・」
「俺はこの時間、授業がないの」
「そう、なんです、か」
 畠山はあたしの顔をじっと見ると、
「怪我?」
と訊いた。見たらわかるだろうに泣いていたことには触れない。
「うん。ちょっと転んじゃって」
 畠山は億劫そうに身体を起こすと、背後の白いキャビネットの扉を開いて白い小さな薬と脱脂綿を取り出した。その仕草が余りにも滑らかで、慣れているように思えた。
 畠山はしょっちゅうここに来ているのだろうか。
 顎までのおかっぱ頭で颯爽と歩く北川先生を思い出していた。そうして、ピンク色に染まったさっちんの顔も。
「消毒しとけ」
 そう言って手招きする。
「うん・・」
 あたしは座っていた椅子から立ち上がると畠山のほうに歩いていった。畠山はあたしを、自分が腰を上げたばかりの椅子に座らせる。座った椅子は当然のことながら生温かった。傍から見れば、畠山があたしに跪くような格好で、少しばかりの居心地の悪さを感じずにはいられない。畠山のほうはといえば、全く意に介していない様子で、つまらないことを意識してしまう自分が何だか恥ずかしくなった。
 膝の傷を見ると、畠山は顔を顰めた。血が何筋も流れて紺色のソックスを汚していることにあたしも初めて気が付いた。
「うあ。ひどいな、これ。結構派手に転んだろ?」
「う・・ん」
 力なく頷くと、
「あれか?例のいじめの一貫か?」
と、訳のわからないことを言う。
「やだ、何それ?」
 畠山は、ははっと軽く笑った。
 その、あまり気のないような、軽い調子の笑い方が桜木を思い出させて心臓がきゅっと苦しくなった。
 あたしがくだらない冗談を言ったり、つまらないことに拘って愚痴ったりしていると、桜木は決まってそんな笑い方をした。軽く往なすような感じで、でも、あたしは結構その笑い方に救われたりもした。
 桜木はいつだって優しかった。
 胸が詰まる。
 じわっと涙が滲んできた。
 もっと素直になればよかった。そう思った。
 もっときちんと向き合えばよかった。
 上履きや体操服を隠されて辛い、と伝えればよかった。
 雨宮さんと仲良くしないでと、ちゃんと訴えればよかったのだ。
 きらきらひかる砂粒のついたハンカチで涙を拭おうとすると、
「あー、ばか、汚ないからやめとけ」
畠山はそう言って、ズボンのポケットを探り自分のハンカチを差し出した。黒と灰色のチェックのハンカチには綺麗にアイロンがあてられていた。
「ありがと・・・」
 小さく言いながら受け取る。顔を拭い、鼻をずずっとすすると、また畠山が軽く笑った。
 傷口に消毒液を吹きかけられる。あたしは畠山の指先と、普段は見ることのない頭のてっぺんを交互に見た。
 畠山の髪の色はグレイがかった茶色だ。染めている感じじゃないから、生まれつきそんな色なのかもしれない。瞳も髪の毛と同じような色合いだし、肌も白い。全体的に色素が薄い、と思う。
 チョークの粉の綺麗に取れていない指先が器用に動いて、白い脱脂綿で傷口を覆った。
「どうした?王子様と喧嘩でもしたか?」
 こちらを見もしないで突然訊ねられた。
「・・・王子様?」
 誰?
「ん?あいつだよ。バスケが上手くて、誰かさんと違って数学の得意な、背の高い男前の王子様だよ。喧嘩して、だから泣いてんじゃないのか?」
 桜木のこと?
「喧嘩は、・・・してない」
「・・・」
 白いガーゼの上から茶色いテープを丁寧に貼っていく。
「でも、もうダメかもしれない・・・」
 スムーズだった畠山の手の動きが、ほんの一瞬だけ止まったように見えた。
 口にすると現実味を帯びてきて、先程雨宮さんと見詰め合っていた桜木を思い出して、再び涙が滲んできそうになった。
「・・・そう、か」
「変に意地張っちゃって、こんな風に素直に話せない。・・・なんでだろ」
 手当てを終えた畠山はしゃがんだままであたしを見上げた。八の字の眉を更に下げて微笑んでいた。優しい笑い方だ。
「それはさ、あれだろ?野々村にとってあいつが特別ってことだろ?」
「特別?」
「そうだよ。だから意地も張るし、冷静に話もできない」
畠山は立ち上がって机上の消毒液をもう一度手に取った。「まあ、十代の頃って誰でもみんなそんなもんなんじゃないの?」
「・・・でも、それだと上手くいかないよ」
「そうだな。だから、まあ、若いやつらってのは、直ぐにくっついたり別れたりする。そういうもんだ」
 自分だってまだ二十五歳のくせに、随分と達観している。
「なんか冷たくない?その言い方・・」
 不服そうなあたしを無視して、畠山はあたしの顔に自分のそれを近づけてきた。顔をじっと見詰められる。いや、見ているのは顔というより、顎の傷だった。
 白い指先で掴んでいた消毒液があたしの顎の下に隠れて見えなくなった。
 ちょっと、先生、顔、近いんですけど。
「いた・・・」
 膝にかかったときよりも、消毒液は顎の傷にひどく染みた。
 小さく声を上げたそのとき、がらっ、と保健室のドアが開いた。
 ふたりでそちらを見遣る。
 桜木だった。
 桜木が紺色の鞄を手に立っていた。
 鞄には以前マックのハッピーセットに付いてきた、茶色くて大きな鼻を持つ、個性的な顔立ちの犬のぬいぐるみがぶら下がっていた。これって、可愛いの?と桜木に妙な質問をされたことがあったっけ。
 桜木が手にしているのはあたしの鞄だった。
 桜木はひどく驚いた顔で、ドアに手をかけた姿勢のまま茫然と立ち尽くしていた。
「王子様のお出まし、だな」
 畠山はあたしの顎に当てていた脱脂綿をゴミ箱に捨てると、緩慢な動作で消毒液をキャビネットの中に戻した。
 ちらりと壁時計を見ると、授業が終わる十分前だった。
「もうダメかもとか言ってたけど、よかったじゃないか。・・・な?」
通りすがりに畠山が揶揄うように言った。「俺は職員室に戻るけど、お前らもいつまでもサボってんじゃないぞ」
 あたしはどんな顔を作ればいいのかわからなくて、無表情なまま、ありがとうございます、と言っていた。何に対するありがとうなのか、自分でもさっぱりわからなかった。
 畠山が出て行くと、桜木がドアを閉めて歩み寄ってきた。
「ダメって、何?俺らのこと?」
 桜木は初めから不機嫌だった。出てきた声にも明らかに険があった。
「そんなこと、畠山に話したの?」
「・・・」
あたしはやっぱり言葉が上手く出てこなくて、座ったまま桜木を見上げた。「・・・授業、抜けて来たの?」
 情けないくらいか細い声。桜木はむすっとした顔で頷いた。視線は畠山のハンカチを握りしめたあたしの手元へ注がれていた。
「先生が職員室にプリント取りに行ったから、その隙に抜け出した。・・・原が野々村探してやらないとダメだって言うからさ。多分保健室あたりにいるだろうからって。それに鞄持って行けっていうから」
 奈々子に言われなければ来なかったみたいな言い方だ。何もそこまで馬鹿正直に話さなくてもいいのに。
 桜木は女心を全くわかっていない。
 あたしは桜木の整った横顔を悲しい思いで眺めていた。
 あれからどうなったのだろうか。
 雨宮さんの熱烈な告白に、桜木はどう応えたのだろうか。
 訊きたいことは数え切れないくらい喉に貼り付いているのに、容易くそこから飛び出してはくれない。
「ありがと・・」
 あたしは桜木に近寄ると、その手から鞄をす、っと抜いた。ファスナーを開け、机に乗せていた化学の教科書と汚れてしまった自分のハンカチを中に入れる。畠山に借りたハンカチはスカートのポケットに仕舞った。
 桜木は片手をポケットに突っ込んで、あたしの一連の動作をじっと見ていた。
「帰んの?」
「うん、帰る。・・・洋服汚れちゃったし、顔の傷ひどいし、目ぇ腫れちゃって泣いたのバレバレだし」
 笑いながら明るく言うつもりだったのに、不覚にも声が震えた。
「転んだの?」
「うん」
 今更だ。
 そんなこと。ここに入ってきた時点でわかっていただろうに。
「なんで泣いたの?」
 あたしは驚いて桜木を見た。桜木の表情にいつもの柔和さは、ない。
「なんで、って・・」
「なんで、さっき逃げ出したんだよ?あれってそういう状況なわけ?」
「・・・」
 矢継ぎ早に、しかも怒りに任せたような声で問われて素直に答えることなどできよう筈もない。言葉に詰まっていると、
「俺、野々村の考えてることが全然わかんない」
そう言われた。「何で、なんにも話さないの?俺らって何なの?」
 呼吸が苦しくなる。
 あたしは机の上に置いた鞄の持ち手をぎゅっと握った。
 視線の先の北川先生の机の上には、薄灰色の金属製のゴム印のボックスと、それから保健室の先生用らしい月刊誌が整然と並んでいた。
「今だって、ほんとは怒ってんだろ?俺と雨宮のこと、怒ってるんじゃないの?原がさっき言ってたのはそういうことなんじゃないの?」
───俺と雨宮のこと。
「言いたいことがあったら、言えば?原になんか言わせてないで、ひとりだけむすっとしたり逃げ出したりしないで、ちゃんと自分の口で言いたいことを言えば?」
 いつも優しい桜木の口からそんな言葉が出てくるなんて。信じられなかった。
 身体が震えそうになる。
 込み上げてくる嗚咽を懸命に堪えた。
「・・・あの状況で、何を、言えって言うの?」
息を継ぎながら泣きそうな声で喋ってるのに、桜木は気が付いてくれない。「あのひとに、桜木をとらないで、とか、そういうことを、言えば、よかったの?」
「は?」
 桜木が眉間に皺を寄せた。声色はひどく突慳貧だ。
「みんな、の前で、あたしを捨てないで、とか、そういうこと言えば、よかったの?」
「何・・・」
「あたし、そんな、恥ずかしい台詞、絶対言えない、よ」
「・・・」
「あたしに、そういうこと、望まないで」
 桜木の頬に僅かに赤みが差した。なのに感情はその表面からすうっと消えていった。冷たい目で窓の向こうを見据えながら、クリーム色のリノリウムの床を爪先で蹴ったかと思うと、ごつごつと骨ばった手が乱暴に前髪をかき上げた。
 身体中が冷たくなる。
 どう取り繕っても一度外に出してしまった言葉の意味を違う形に変えることなんかできない。勢いに任せて、言ってはいけないことをまた口にしてしまったらしい。
 どうしてあたしは何度も何度も同じ過ちを繰り返すのだろうか。
 やがて唇を緩めた桜木が皮肉な笑みをふっ、とその口許に浮かべた。
「きっついな」
「・・・」
「野々村、言ってることめちゃくちゃきついよ。なんでそんな言い方になるんだよ。俺、そんなこと、ひとことも言ってないだろ?曲解すんなよな」
 桜木の顔には静謐な怒りが滲んでいた。あたしを見る眼差しにいつもの明朗さや優しさは微塵もない。凍てついた瞳があたしを見据える。
「ちょっとはさ」
「・・・」
「こっちの気持ちってもんも考えろよ」
 ああ。
 あたしはまた桜木を怒らせた。
 唇が震えた。
 それから指先と、膝が震えた。
 指先の震えだけでも隠そうと、あたしは鞄の持ち手を掴んだ手に更なる力を込めた。手の甲が真っ白になる。
 息を浅く吸い込んでから、まだ震えの治まらない唇を開いた。
「だって・・」
「だって、何だよ」
「だって、仕方、ないじゃん。これが、あたしなんだから、こんな、言い方しか、できない」
 桜木は表情の変わらない瞳であたしを見ていた。
「あ、そ」
 突き放した言い方だった。
 チャイムが鳴った。一時間目の授業が終わったらしい。
 あたしの全身からは血の気が引いていて、頭はぐらぐらと揺れていた。
 もうダメだ。
 もう取り返しがつかない。
 そう思った途端視界が滲んだ。
 嗚咽の漏れそうになった口許を慌てて掌で押さえた。
「・・・ごめ、ん。帰る」
 鞄を右手に持って桜木の横を早足ですり抜けようとすると、やにわに左手首を掴まれた。がくん、と身体が前のめりに倒れそうになる。
 あたしは振り返って左手首を掴んだ桜木の手を睨んだ。
「・・・や、だ」
「帰んな」
「い、たい、ってば」
「なんで、逃げるんだよ」
 なんで、って。
「いたい」
「ちゃんとこっち見ろよ」
「やだ」
「なんで?」
「・・・なんで、なんで、ってなによ、さっきから」
「・・・」
「泣いてるからよっ」
あたしは顔を俯けたままで声を張り上げた。「泣いてるからっ。泣いてる顔、見られたくないのっ」
 手首を握る力が、怯んだように少しだけ抜けた。でも、解放はしてくれない。
 ややあって、桜木が張り詰めたような息をひとつ落とした。
「・・・悪い。言い過ぎた」
 ごめん、と殊勝な声が謝った。
 ちらりと見えた桜木の顔はまだ怒っているようにも思えた。でも声からは先程までの刺が抜けていた。
「・・・」
「本当は、こんな風に言うつもりじゃなかったんだ。ごめん」
「・・・」
 あたしは俯けた顔を横に振りながら、掴まれた手首を抜こうと激しく引っ張った。涙が止まらなくて、顔を上げることなんかできない。
「野々村、ちゃんと話しをしよう?」
「・・・や、だ、もう」
 帰りたい。
「帰んなよ。こんな状態で帰んな、って」
 激しく首を振った。桜木がまた、ごめん、と謝った。
「俺、原と堀口から話し聞いて、本当は謝ろうと思ってここに来たんだ。今まで、野々村がどれだけ悩んでたか考えたら、たまらなくなって、気が付かなくて悪かった、って、謝ろうと思って来たんだ」
 あたしはゆっくりと顔を上げて桜木を見た。涙でぐしゃぐしゃになったあたしの顔を目にした途端、桜木の顔色が変わった。
「じゃあ、どうして、そんな不機嫌な顔してるの?どうして・・・」
 それ以上は続けられなかった。再び襲ってきた嗚咽に肩を揺らすことしかできなかった。
「野々村・・・」
「もう、いい。もう、わかった、から。離して、お願い」
「・・・」
 あたしの手首は解放された。あたしは反対の手で解放されたほうの手首を撫でる。手首は赤くなっていた。
「俺のこと許せない?」 
「・・・」
「何にも気が付かないで、雨宮や他のやつらとつるんでた俺のこと、許せない?」
 桜木は辛そうだった。
 あたしがちゃんと話さなかったのだから、桜木は少しも悪くない。なのに桜木は本当に申し訳なさそうな顔をしていた。
 もしかしたらあたしはずっと、いま、桜木が口にしたみたいに心の裡で桜木を責めてばかりいたのかもしれない。自分は手の内を全く見せないで、なんであたしがこんなに苦しんでいることに気が付いてくれないのかと、早く気が付いてよと、一方的に無理な注文を押し付けていたのかもしれない。「桜木には絶対言わないで」と口にしながらも、何も知らない筈の桜木が全てを悟って解決してくれるのを、ただつくねんと待っていたのかもしれない。
 桜木はお伽噺の王子様でもなければ、少女漫画に出てくるヒーローでもない。ひとりの普通の男のコだ。頑なに閉じたあたしの心の何もかもをわかる筈がなかった。
 あたしは桜木を見詰めたまま首を横に振った。
 突然ばたばたと走る足音が、廊下に響いた。保健室の中には誰も入ってこない。
 足音と一緒に話し声が聞こえてきた。
「北川と畠山ってさ、本当につき合ってるんでしょ?」
「あ。あたし、畠山のゴルフにさ、北川が乗ってるの見たことある。それがさ、北川のほうが運転席に座ってたんだよ。あれは絶対デキてるって」
「え?畠山って、ゴルフになんか、乗ってんの?似合わなーい」
 保健室の前だと言うのに、そんな会話を交わしている。いい度胸だと思った。
 話声が通り過ぎると、またしん、となった。
 桜木はその間中、こちらが苦しくなるくらいあたしを見詰めたままだった。あたしはまともに見詰め返すこともできず、桜木の鎖骨のあたりに視線を置いていた。
「・・・さくら、ぎ?」
「ん?」
「・・・」
 あたしは言いよどんだ。
「・・・なに?」
 何、と訊いた桜木の声の響きが余りにも優しくて心臓がとくんと鳴った。
 一旦俯いて、それから顔を上げて今度はちゃんと桜木の目を捕えた。ごくん、と唾を呑み込んで、そうっと唇を開いた。
「・・・嫌いになった?」
「・・・」
「・・・あたしのこと、嫌いに、なっちゃった?」
 出てきたのはそんな言葉だった。本当は、雨宮さんとのことを訊ねたかったのに、そんな訊き方しかできなかった。
 口にすると再び涙が溢れてきた。もう嫌になるくらい涙腺は緩みっぱなしだ。
 桜木は唖然とした顔付きになった。
「何でそういうことになるんだよ・・・」
ぼそりと呟くと、またさらさらの前髪をくしゃっとかき上げた。「前にも言ったと思うけど」
恥ずかしそうに、視線を自分の足元に移した。
「俺が考えてることって言ったらさ、いっつも野々村のことだけなんだよな。・・・それは全然変わってない」
全然、変わってないよ、と繰り返し言った。「だから。・・・もうダメかもなんて言うなよ」
「・・・」
 桜木が落としていた顔を上げた。ゆっくりと合わせた瞳は、怒っているようにも切なそうにも見える、複雑な色を浮かべていた。
「簡単にそんなこと。・・・口にしたりすんなよ」
「・・・うん。わかった」
あたしは素直に頷いた。「ごめん」
それだけ言って鞄を肩に掛け直すと、桜木に背中を向けた。
「帰るの?」
「うん・・」
「電話、するよ」
 背中に追いかけてきた声に、振り向かないままこっくりと頷いた。
 保健室を出ると、早足で歩いた。擦れ違った生徒がちらちらとこちらを見て行く。目が腫れているからか。それとも、顎や、膝の傷の所為だろうか。
 やっぱり、唇も、指先も、震えていた。心臓は早鐘を打っている。
───考えてることって言ったらさ、いっつも野々村のことだけなんだよな。
 きゅっと、胸の前で掌を握った。
 嬉しかった。
 あたしは涙に濡れた頬をまだ赤みの残る手首で拭った。
 二時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。


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