1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 初秋 5. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 体育館の裏はかなり狭い。体育館と学校を囲むフェンスとの幅が二メートルもないくらい。あまり手入れの行き届いていないそこは大き目の石がごろごろと転がり、北側であまり日が差し込まないにもかかわらず雑草が伸びていた。昨日降った雨がまだ乾ききっていないのか、足元の地面も湿っている。 金網のフェンスの向こうは大きな溝を挟んで空き地、更に向こうは新興住宅地だ。真新しい家がぽつぽつと不均衡な間隔を空けて立ち並んでいる。 村井君には教室に戻ってもらった。 村井君がいたら、この目の前のふたりから本当のことを聞き出すのは不可能だと思ったから。 目の前にいる女のコは、ふたりともバスケ部員でありながら小柄だ。あたしよりも背が低い。ふたりは手を繋がんばかりに寄り添い合っていた。 ひとりは色素の薄い瞳に、顔にはそばかすが散っている。もうひとりは、やや太めちゃんで目が細く、そばかすのコに比べるとどこかおどおどした感じだ。 「何か、用ですか?」 村井君がいなくなった途端、声の調子も喋り方も変わった。二オクターブくらい低くなった声はそばかすのコだ。 奈々子とさっちんは通学鞄を手に持ったまま、あたしたちよりやや離れた場所に立っていた。体育館の建物の陰に隠れるか隠れないかくらいの所にいる。誰かが来たら見える位置にいる。意識的にそうしているのかどうかはわからなかった。 「これ」 あたしは化学の教科書を突き付けた。「あんた達でしょ」 ボロボロにされてしまった化学の教科書。 ふたりが顔を見合わせた。目配せし合っている。 太めのコはいかにもあたしがやりました、という顔をしているのに、そばかすのコはあたしに向き合うと、 「・・・知りません」 堂々とした態度でそう言った。 「嘘」 「なんか、証拠でもあるんですか?」 「証拠?」 あたしは大袈裟に訊き返した。「指紋の照合でもしろって言うの?あんた達でしょ?とぼけないでよ」 声が震えたら負けだ。ひと息に、けれど落ち着いて聞こえるように、冷静に、そう心がけて言った。 「どうしてこういうことすんの?」 「知りません」 「こういうことされてどんな気持ちがするか、考えたことあるの?」 「知りません」 「返してよ」 「は?」 「今まであたしから盗ったもの、全部返してっ」 「知りません」 感情的になってはいけないと今の今まで自分に言い聞かせていたのに。目の前のとぼけた顔と声が憎らしくて堪えきれなくなった。これまでずっと抑え込んでいたものがお腹の底からわーっと一気に噴き出してきて、喉を強く突き上げた。 「ふざけないで」 あたしは低い声でそう言うと、腕を振り上げ力任せにふたりの頬を教科書でひっぱたいた。 太めのコの左頬を、その腕を返す勢いのまま、隣のそばかすのコの右頬を張った。 腕がじんと痺れた。 痛い? あたしはもっと痛かった。 ずっとずっと痛かった。 遣り返してくると思っていたのに。そうしたら闘うつもりでいたのに。目の前のふたりは石のように動かなくなってしまった。 頬に手を当てて俯いたままのふたりをじっと見据えた。 「直接言えばいいでしょ」 声は震えているし、多分、顔は怖いくらい強張っている筈だ。みっともないとわかっていた。でも、もう止められない。 「桜木が好きなら、本人に直接言えばいいでしょ。あたしにこんなことしたって、桜木はあんたたちのこと好きになんかならないわよ」 そばかすの女のコはあたしの言葉にぱっと顔を上げるとその顔をくしゃりと歪めた。泣き出したのかと思った。が、あろうことかその顔は笑んでいた。嘲るように笑っていたのだ。 隣にいる太めのコは頬に手を当てたままで、怯えの色濃い目をきょろきょろと空に泳がせている。暴力に怯んでいるのか。或いは、桜木への気持ちを言い当てられたことに動揺しているのか。 「野々村さん、そんな、自惚れたこと言ってていいんですか?」 そばかすの散らばった顔があたしを冷笑する。 あたしは首を傾げた。彼女がこれから口にしようとしていることを微塵も推測できなかった。 「野々村さん、知らないんですか?」 「な、にを?」 「知らないんだ・・」 ふ、っと馬鹿にしたみたいに鼻で笑われた。剣呑な瞳が、あたしを捕らえて離さない。 あたしは訳がわからなくて、でも彼女の言い草と表情ににただならぬ気配を察して、訝しそうな顔で次の言葉を待つことしかできなかった。 にっぶいなあ、野々村さん。 そう言った顔はもう笑ってはいなかった。 「桜木先輩と雨宮、最近すっごくいいカンジなんですよ」 「・・・」 心臓がひやりと冷たくなった。 「あのふたり、きっとそのうちつき合うようになるだろうって、時間の問題だって、バスケ部のみんな、全員そう思ってますよ。・・・村井先輩から何も聞いてないんですか?」 「・・・」 聞いてない。村井君はそんなことひと言も言っていなかった。 「すっごい噂になってるのに。本当に知らなかったんですか?」 「・・・」 そんなこと知らない。 「昨日だって」 「・・・」 「昨日だって、ふたりだけで、一緒に帰ったんだから」 がん、と重く柔らかいもので頭を殴られたみたいだった。 言うやいなや、目の前のコの表情にも暗い翳が落ちて、あたしは悄然となった。 昨日。 あたしが部活を見学したあの後。 あれからふたりだけで帰ったのだ。 あたしは桜木からの電話を、もしかしたらと馬鹿みたいに待っていたというのに。 太めのコのほうの肩が震え始めた。見ると、涙が頬を何筋も伝っている。あたしは、でも、かける言葉など持っていない。泣くくらいなら初めから何もしなければいいのに。喧嘩を売ってきたのはそっちだ。 「泣かないでよ・・」 そばかすのコが冷たく言うのを頭の片隅で聞いていた。 あたしは後ろにいる奈々子とさっちんの存在すらも忘れて今耳にした事実に囚われていた。 嘘だ。 そう思いたかった。 でも、この期に及んでそんな嘘を言うだろうか。 それに。 目の前の女のコは自分で口に上らせていながら、彼女自身その事実に打ちのめされているではないか。 桜木の気持ちはあたしの知らないところで、もしかしたらずっと前から、変化し始めていたのだろうか。 いつから? あの、体育館の倉庫で唇を合わせたときは? 桜木の態度にそんなことを匂わせる仕草が少しでもあった? あたしが鈍感だっただけ? 気持ちがぐちゃぐちゃになっていた。思考がまとまらない。 ふっと、そばかすのコが視界の端に何かを捕らえたみたいに顔を上げた。固まった表情のままぴくりとも動かなくなった。 あたしもゆっくりと後ろを振り返った。 一瞬にして視界が撓んだ気がした。 桜木と、雨宮さんがふたりで並んで立っていた。奈々子とさっちんのすぐそばで。 桜木は急いで来たみたいだった。やや息を弾ませて、手首で額の汗を拭う。さらさらの前髪が少しだけ浮いた。 「村井に聞いて、来た」 桜木の声が遠くに聞こえた。ぼんやりとふたりに視線を当てながら、もうホームルームが始まっている時間なんじゃないだろうか、それなのにあたしたちはこんなとこで一体何をやってるんだろう、そんなことを思った。腕時計をしてきていないので時間の確認はできなかった。 村井君はどこまで桜木に話したのだろうか。 詳しく話すような時間はなかった筈だ。 「野々村」 「信じらんない」 桜木の言葉を遮ったのは奈々子だ。「信じらんない。桜木、何考えてんのよ」 「え?」 桜木が、きょとんとして奈々子を見下ろす。奈々子は小さいので、背の高い桜木の目線からすると見下ろす、という感じだ。 「どうして、桜木、そのコと一緒にいるの?どうして紗江の前で、そのコと並んでんの?」 「・・・え」 「無神経だよ、桜木。あんた、わかってんの?」 「え?何?なに怒ってんだよ?」 桜木は困ったように笑いながら、「原、ちょっと、落ち着けって。いきなりそんなこと言われても訳わかんないよ。雨宮とは今そこで出会って・・」 「誰の所為で紗江が酷い目にあってると思ってるの?紗江が二学期に入ってからどんな目に合ったか、桜木知ってんの?」 桜木の顔から笑みがさあっと消えた。知らない。桜木は何も知らない。あたしが何も話していないから。 「酷い目って、何だよ」 「奈々子、やめて」 「桜木、そのコとふたりだけで、昨日どっか行ったの?」 「は?」 「どうなの?」 「奈々子、もう、いいってば」 桜木は悪びれた風もなく奈々子に向かって言う。 「どっかって、何?どこにも行ってないよ。そりゃ、帰る方向が同じだから一緒には帰ったけどさ」 しん、となった。 あたしと目を合わせた桜木が、え、と唇を開けた。 「な、に?」 「桜木、サイテー」 奈々子はまるきり容赦がない。 「は?」 「あんただってそうよ。なんで当たり前みたいに、桜木の横に立ってんのよっ」 奈々子が攻撃の矛先を桜木から雨宮さんに変えた。「もう、桜木に近づかないでよ。桜木は紗江とつき合ってんのよ。ひとのカレシに手、出すなんて、どうかしてるんじゃないのっ」 「奈々子、もう、いい。やめてっ」 「だって、紗江、これって、ひどいじゃん」 「もう。いい」 あたしが奈々子に歩み寄ろうとした時、 「いやです」 雨宮さんがはっきりとそう言った。誰にでも聞き取れる強い口調でそう言った。 踏み出した足が止まる。 何を言い出すのだろうかと困惑した。 あたしだけじゃない。桜木も。奈々子もさっちんも。そばかすのコも、太めのコも。みんなの動作が止まった。 「あたし、桜木先輩に近づくの、やめません。やめたくないです」 ひたむきな声が静寂なそこに響いた。「桜木先輩の近くにいたいんです」 雨宮さんが訴えかけるような瞳で桜木を見る。 桜木は大きく目を見開いて、その視線を雨宮さんだけに注いでいた。少し開いた口許から白い前歯を覗かせて、呆気にとられた表情で、でも間違いなく雨宮さんだけを見詰めていた。 「先輩が野々村さんのこと好きでも、全然そんなの気にならない。構わない」 まるで、ここにあたしたちがいないみたいに言う。 奈々子でさえ言葉を失って雨宮さんに視線を奪われていた。 「桜木先輩が好きなんです。近くにいたいんです。今までみたいに一緒に帰ったり、遊びに行ったりしたいんです。だめですか?好きになってなんて言わない。一緒にいたいだけ。それでもだめですか?」 桜木の視界からあたしは完全に消えていた。 実際、雨宮さんの顔は本当に綺麗だった。ただひた向きに、桜木を慕う一途さに溢れた顔は、懸命過ぎてみっともないけれど、でも見惚れるくらい美しかった。 そのとき桜木は完全に雨宮さんに心を奪われていた。それは確かだ。 ───ひとの心なんて変わる。 本当にそうだと思った。 ひとの気持ちがこれほど不安定で心許ないなんて。 雨宮さんや、あのそばかすのコが言った通りだ。あたしは自惚れていた。 ふたりはあたしたちの存在なんてまるで忘れたみたいに長いこと見詰め合っていた。 ぎゅっと、瞼を閉じる。 こんなふたりを見ていたくはなかった。 じり、と後退った。桜木たちの横を通り抜けたくないので遠回りになるが校舎とは反対側の方向へみんなに背を向けて歩き始めた。 「紗江・・・」 さっちんの声が聞こえたけど、振り返らなかった。 行く当てもなく、何かに駆り立てられるようにひたすら早足で歩いた。そうすることに意味などなくても、身体を動かしていないと、今にも大声を上げてしまいそうで、泣き出してしまいそうで、いてもたってもいられなかった。 どれくらい歩いただろうか、校舎の裏に差し掛かったあたりで、運動音痴なあたしはぬかった地面に足を滑らせて派手にすっ転んでしまった。手を放れた教科書が遠くに飛んだ。 暫く何が起こったのかわからなくてそのままの姿勢でいた。打った顎がじん、と熱くなった。それから右膝も。 胸の下の辺りに、じわじわと冷たい嫌な感触が広がってきた。 両手を突いてゆっくりと起き上がった。見ると、真っ白なポロシャツも、その下の緑がかったグレイのスカートも、黒く湿った泥が地図状にこびりついていた。ポロシャツを通って素肌に触れてくる、ぬるりとした土から染み出た水分はひどく気持ち悪くて、思わず顔を、これ以上ないというくらい歪めてしまった。 「さいっ悪・・・」 力の篭らない声で呟いた。 NEXT ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ HOME / NOVEL |