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初秋  7.
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 校門に続く道形はすっかり秋の様相を呈していた。
 吸い込む朝の空気は昨日より今日のほうが確実に冷たくなっている。今朝は白いブラウスの上に紺色のカーディガンを羽織って来た。思っていたよりずっと外の気温は低くて、これだったらもう明日あたりブレザーを着て来たほうがいいかもしれないと、薄い生地を通して入り込んでくる冷たい風がおしえてくれる。
 毎朝見上げる歩道の脇の欅の葉は、外側から徐々に赤茶色くなっていた。木々の間から零れる朝陽の輝きすらも一週間前に比べると数段柔らかい。
「おはよ」
 斜め上から声がした。
 天然パーマの長めの髪を、最近になって短く刈り込んだ村井君だ。先日行った他校の女子との合コンで、俳優の大泉なんとかに似てると言われたのが相当なショックだったらしい。そう言われてみれば村井君は目もくりくりしてるし、確かに笑っちゃうくらい似ていた。でも、何も髪の毛を切るほどのショックを受けなくても、と思う。大泉君って結構可愛いじゃん。
「おはよ」
 村井君はへんてこりんな表情をしていた。笑いを堪えているのだと直ぐにわかった。
「野々村」
「なに?」
「野々村って、歩くの、も、遅いのな」
 も、の部分だけかなり強調されている。
「・・・」
「な?」
 にっこりと微笑みかけてくる。
 何を突然、失礼な。あたしは両手を広げて深呼吸をして見せた。
「いいの。ほっといてよ。あたしは朝の心地いい空気を満喫しながら歩いてるんだから」
「は?そうなの?」
「そうだよ」
「それはそれは。失礼しました」
 村井君はくつくつと笑っている。刈られたばかりのむき出しのうなじは真っ白で何だか寒そうだ。
「そう言えばさ」
あたしは村井君の前に立つと後ろ向きに歩いた。「村井君にちゃんと謝ってなかったね」
「は?」
 ごめんなさい、と改まって頭を下げた。
 村井君の顔に戸惑いが浮かぶ。
「何?何の話だよ?」
「うーん」
あたしは首を傾げながら再び村井君と肩を並べた。「色々とね。女の諍いに巻き込んじゃって悪かったなって思ってるの」
「あー。全然気にしてないから、謝んなくていいよ」
 村井君は肩を竦めてそう口にした後、唐突に足を止め、自分の肩越しに後ろを見遣った。
「どうしたの?」
 あたしもつられて振り返る。ぽつりぽつりとうちの制服を着た数人の生徒と、後はスーツ姿のおじさんが見受けられるだけだ。まだ時間が早いから登校して来る生徒の数は少ない。面白いもので、後十分もすれば密度は数倍濃くなるのだ。
「・・・はなみちが見てんじゃないかと思ってさ」
「桜木?」
 村井君が少し腰を折って耳許に唇を近づけてきた。
「あいつさ、結構ヤキモチやきなんだよな。知ってた?」
 あたしはきょとんとしてしまった。
「知らない。全然そんな感じしないよ」
 桜木はいつだって冷静な何事も意に介さないような表情をしている。まあ、あたしが怒らせない限りは、だけど。
 口ではいつもあたしのことを考えてるとか言う割りに、それほどの情熱を桜木から感じたことはない。その桜木が嫉妬とは。ちょっと信じ難い話だ。
「野々村は鈍いからねえ」
村井君は楽しそうに唇の端を上げて笑う。「あいつさ、俺と野々村が話してたら絶対後から寄って来てさ、何話してたんだよ、とか言うんだぜ」
 何話してたんだよ、の部分だけ桜木の声を真似して言う。似てる。あたしは、ぷぷ、っと吹き出した。
「でさ、あんまり邪魔臭いから俺が聞こえない振りとかするだろ。そしたら、もうそれ以上は聞かないの。あいつ気取ってるからしつこくは聞けないんだけど、なんかその後もむすっとしてんだよな」
「嘘。桜木に限ってそんなことない」
「ほんとだって」
「ほんとかなあ・・・」
 疑いの目で村井君を見つつも、口許は自然と緩んでしまっていた。
 村井君もにやついて前方を見ていたが、ふっ、と一瞬だけその顔から笑みが消えた。
「おはようございます」
 早足で歩く背の高い女のコがぺこりと頭を下げてあたしたちを追い越して行った。
 紺色のブレザーを着た雨宮さんだった。心臓がひやりと冷たくなった。
「おはよ」
 村井君の明るい声に救われたが、あたしは言葉を発することなどできる筈もなく、ただ頭だけを下げた。
 桜木と村井君が彼女たちと行動を共にすることは一切無くなったのだと聞いている。そしてあれ以来、雨宮さんがあの女バスのふたりと連れ立っていることもなくなってしまったらしい。
 別にあたしの所為ではない。それはわかっている。そう思うこと自体が思い上がりなのだと知っている。それでも胸は痛む。
 雨宮さんの大切な居場所を攫ったのは多分、いや、間違いなくあたしだ。罪悪感は小さいけれど確かにあたしの中に存在する。そこに優越感を見い出せるほどの余裕はない。どこまでも中途半端なのだ。
───ごめん。俺、野々村が嫌がることはしたくないんだ。
 あの日。
 体育館の裏で。
 好きになってくれなくてもいいから近くにいたいと言った雨宮さんに桜木はそう応えたのだと、後になって奈々子とさっちんから聞かされたた。
 それでも雨宮さんはへこたれなくて、
「桜木先輩の気持ちはどうなんですか?野々村さんのことはいいから、桜木先輩の気持ちを聞かせてください」
 更なる追い討ちをかける雨宮さんに、一年生のふたりは完全にひいていたらしい。
 雨宮さんは強い。
 あの一途さはあたしを脅かす。
 あたしは今でも彼女の存在を怖いと思っている。
───俺、野々村以外に気持ちが向いたこと、ないよ。悪いけど。
───もし俺の態度が誤解させてたんなら謝る。悪かったと思う。でも、
───それも、雨宮に対してじゃない。野々村に対して、悪いことしたなって、思ってる。ひどいよな?
───ごめん。
「残酷だよね、桜木。雨宮さん、さすがに泣きそうになってたもん」
奈々子はそう言った。「でも、言ってる桜木も辛そうだったんだ。それでもあそこまではっきり言ったっていうのはさ、それだけ紗江のこと好きってことなんじゃないの?大切に思ってるってことなんじゃないの?だから紗江も、もっと素直に桜木に甘えてみたら?」
 素直に甘える。
 それができれば、きっとあんなごたごたしたことにはならなかったんだろうな、とは思う。
 この頑なな性格はなかなか変えられない。
 でも、あの一件以来少しはマシになったかもしれない、とも思う。
 少しは成長したような、そんな気はしている。
 昇降口への小さな階段を上がったところで、
「・・・ちっす」
 後ろから低い声がした。村井君と一緒に振り返る。
 寝癖のないさらさらの茶色い髪。一重にも二重にもなる涼しげな目許。桜木は肩に鞄の持ち手を握った手を乗せて、少し気怠そうな顔付きをしている。
「おはよ、桜木」
 あたしは口許をほころばせた。
 桜木は無表情な顔のままで階段を登って来る。寒くないのだろうか、桜木も村井君もまだ半袖のポロシャツ一枚だけで、上には何も羽織っていない。
 ふたりともネクタイを締めるのがいやだから、一年中ポロシャツで、カッターシャツは着ないことに決めているのだと、以前言っていた。
「・・・何話してたんだよ?」
 擦れ違いざま、ぞんざいな調子で訊かれてあたしと村井君は思わず顔を見合わせた。
 ぷっ、とふたりで申し合わせたように吹き出して、そのまま笑い声を上げた。
「な?俺の言った通りだろ?」
 桜木が不機嫌な顔で振り返る。
「何だよ、何ふたりで笑ってんだよ」
 抑揚のない物憂そうな桜木の声が余計可笑しくて、あたしと村井君は長いこと階段の途中で笑い続けた。


 水を打ったような静けさの中。
 漂うのは真新しい畳の匂いと微かに混ざる抹茶の香り。
 正座をした奈々子の背筋が支柱でも当てたかのようにぴんと伸びている。
 奈々子は身体のパーツ全てが小さい。顔も手も足も、耳も口も。大きいのは目、だけだと思う。
 その奈々子のか細い指先が袱紗を綺麗にさばく様をじっと皆が見詰める。奈々子の緊張がこちらにまで伝わってくる。張り詰めてはいるけれど、その動きはかなり正確で美しい。
 茶道部員全員が僅かな期間で腕を上げているが、奈々子はまた格別だ。意外と何事においても丁寧なのだ。にわか部員にしては結構イケてる。
 ただ、立ち上がろうとした瞬間、正座に慣れていない足がもつれてしまった。
 あたしとさっちんだけがふ、っと笑って静寂を揺さぶった。
 ごほん、と先生の咳払いが牽制をかける。
 あたしは首を竦めて、睨む奈々子から視線を逸らした。


「紗っ江ちゃーん。今日も桜木と帰るんですかー?」
 さっちんが例の如くかちゃかちゃと鍵をかけるその横で、奈々子があたしの顔を覗き込んで訊いてきた。揶揄でいっぱいの顔だ。なんだかむっとしてしまう。
「・・・うん。帰るよ。当たり前じゃん」
「仲いいよね、ここのとこ。上手くいってるんだ?」
「ここのとこってね・・・」
「ちょっと前まで思い詰めた顔してたのに。最近は幸せいっぱいって感じでなんか憎たらしい」
 憎たらしい?
 奈々子は、
「ね、さっちん」
と同意を求めるが、賢明なさっちんはにこにこと微笑んでいるだけだ。
 しんと静まり返った廊下を歩きながらあたしは奈々子の小さな頭を見下ろした。
 黒くて長い髪の毛を今日はひとつに束ねている。艶やかな髪が奈々子の動きに合わせて肩先で何度も跳ねた。
 あたしは自分の失態を、未だ奈々子に謝罪していない。機会を逸してしまったままだ。いつもは平気な顔で愚にもつかない会話を交わしているのに、あの時の自分の言葉を思い出しただけで呼吸が苦しくなる。
 あんな酷いこを言ったあたしを奈々子は許してくれているのだろうか。本当は今でも怒ってるんじゃないだろうか。
 怖くて訊くことなんかできない。
 そして、保健室の廊下で交わされていた会話。畠山と北川先生の噂話。あれをさっちんに話すこともできないでいる。
 当然、畠山に傷の手当てをしてもらったことなど言える筈もなかった。
 黙り込むあたしのことなど気にも留めていない様子で、さっちんと奈々子は、駅ビルの一階に先週オープンしたばかりのフランチャイズのコーヒー店に、今日これから寄って行こうと話し合っている。ふたりの会話をぼんやりと聞くとはなしに聞いていた。渡り廊下に出た途端、すうっと風が通り抜けて、ふわりとスカートが舞い上がった。きゃあきゃあと悲鳴を上げながら、三人とも全く同じ仕草でスカートを押さえつける。
 あたしたちは危うい一本の細い線上にいるようだと時折思う。桜木も。村井君も。いつ踏み外してもおかしくはない。
 でも、その線は脆いようで、案外頑丈だ。
 あの日、あたしの代わりに桜木と雨宮さんに食ってかかった奈々子の真剣な顔をあたしは忘れない。一緒にいたさっちんの心配そうな顔も、声も。
───原ってさ、キャンキャン吠える小型犬みたいだよな。俺、あいつの勢い、まじで怖いよ。
 桜木の言葉を思い出してあたしはくすりと笑った。
「あ、思い出し笑いしてる。やらしー」
「やらしいことなんか考えてないもん」
「どうだかねえ・・・」
「あっ」
突然さっちんが掌を口に当てて甲高い声を上げた。「鍵返すの忘れてた」
 鍵を持った指先を顔の前に翳す。金色の鍵の表面がゆらゆらと揺れながら鈍く光っていた。
「あ。ほんとだ」
「ちょっと、職員室行って来る。下で待ってて」
「え。うん」
 ばたばたと引き返すさっちんの後ろ姿を見ながら、
「畠山が残ってるといいね」
さっちんに聞こえない小さな声で奈々子が呟いた。少しも茶化したところのない真面目な声だった。
 こんな風に時々奈々子にはどきりとさせられる。
「そう、だね」
 放課後の靴置き場には誰もいない。靴箱に向かう奈々子の小さな背中を見ていると急に愛しさが込み上げてきた。
 両手を広げて後ろからぎゅっと抱きついた。
 抱きしめた身体はふわふわと柔らかくて本当に小さい。
 そうか。奈々子のカレは、いつもこんな気持ちいい思いをしてるんだ。と、ついいかがわしいことを考えてしまったあたしはアホだ。
 奈々子が、回したあたしの両腕に手を当てる。
「どうしたの?紗江が抱きついてくるなんて珍しいじゃん」
「なーんか、奈々子可愛かったから」
「あたしはいつだって可愛いよ」
「奈々子ってば友達思いだよね」
「そうだよ。知らなかった?」
「・・・知ってた」
ふふ、と奈々子が忍び笑いを洩らした。
「・・・ねえ、桜木ともうやっちゃった?」
「・・・」
 ばか。
「どうなの?」
「してない。知らない。ばか奈々子」
 せっかく見直してやったのに、なんで直ぐそっちに話をもっていっちゃうんだ、この女は。
「なんだ、まだか。でもちゅーくらいはしたでしょ?」
「・・・」
「えっ?まだなの?」
奈々子があたしの両手を外して、くるりとこちらに向き直る。「信じらんない。ほんとに?」
「何にも言ってないじゃん。決めつけないでよ」
 じっとあたしを見ていた奈々子が、ふふん、と再び笑った。その瞳は妖しい光りでいっぱいだ。嫌な予感が頭を過ぎる。
「あたしが教えてあげようか?」
「は?」
 はい?
「今からあたしが教えて上がるから、後で紗江から桜木に迫ってみればいいじゃん」
「な、何、言って」
 いきなり腕が回されたかと思うと奈々子の小さな顔が眼前に迫ってきた。
 うっそ。
「きゃー。ばかばか、やめて」
「いいじゃん。何事も経験だって」
「やだやだ。あたし、そんな趣味ないのー」
「イマドキはこういうのも有りなんだってば」
 必死に逃れようとするあたしに奈々子の両腕がきつく抱きついてくる。奈々子はほんっと、どこからどこまでが本気なんだかわからなくて困る。
 壁際に蹲って涙目になってきゃーきゃーと叫び声をあげていると、
「何やってんだお前ら?」
 呆然とした声が聞こえてきて、視界に、四本のチェックのズボンが映った。奈々子とふたりでゆっくりと顔を上げた。
 直ぐ傍に村井君と桜木が立っていた。ふたりとも目を丸くしている。その後ろで呆れ果てたような表情を見せているのはさっちんだ。
 もう、やだ。奈々子のばか。
 あたしは真っ赤な顔で弱々しく呟くのが精一杯だというのに、奈々子のほうは平然とした顔をしている。というか、寧ろ、途中でストップをかけられて不満そう。唇を尖らせて立ち上がった。
「だって、紗江のほうから抱きついてきたんじゃん。桜木がちゅーしてくれなくて寂しいから慰めてえって」
 な・・・。
「え」
 桜木が虚を突かれた表情であたしを見る。
「い、言ってない。言ってない」
 壁に凭れかかって床に座り込んだままのあたしは、両手をぶんぶん振って懸命に誤魔化した。いや、実際言ってないわけだし、何も慌てることなんかないんだけど。
 奈々子はと目を遣れば、知らん振りで靴を履き替えている。
 もう。信じらんないよ、奈々子。
 悔しい。
 あたしは自分の上履きを手に取ると、腕を振り上げて思いっきり奈々子の背中目がけて投げつけた。運動音痴なのに何故かこんな時だけ珍しく命中して、ぶつけられた奈々子は、
「いやーん。何すんのよー」
と、ふざけた悲鳴を上げた。

 
 結局五人で駅ビルのコーヒー店へ行くことになった。
 村井君を真ん中に歩く三人の姿は、はるか前方の人込みの中で見え隠れしている。気が付かないうちにかなり距離が開ていた。やっぱりあたしは歩くのも遅いらしい。
「野々村、最近は大丈夫?」
「え?」
 あたしは左隣を歩く桜木を見上げた。少しだけ気遣わしげなその表情で、言わんとしていることはなんとなくわかる。
「あ、うん。大丈夫。最近は何にもなくなったりしてない」
「そっか」
 女バスの一年生ふたりは最後まで自分達は何もしていないとしらをきり通した。本当のところはわからない。でも、あれ以来あたしの周りの物が姿を消すことはなくなった。それもまた事実だ。
「それとさ」
「ん?」
「さっきから思ってたんだけどさ」
桜木があたしの顔をじっと見て、人差し指を自分の頬骨の辺りに当てた。「ここ、きらきら光ってる。なんか付いてる」
「え」
 あたしは、指の甲で左頬を軽く擦った。「あ、もしかかして奈々子のグロスかな・・・」
「グロス?」
「うん。さっき、思いっきり、ぶちゅってされちゃったから」
「え?原に?」
「うん」
「まじ?」
「・・・」
 あたしは自分から話を振っておきながら、なんだか気まずくなって口を噤んでしまった。
 あることに思い至ってはっとしたように顔を桜木のほうに向けた。
「あ、あたし、あんなこと言ってないよ。あれ、奈々子の作り話だからね」
「あんなこと?何?」
「だから・・・」
「だから?」
「・・・」
「・・・」
「いい。何でもない」
 あたしはぷいっと前を向いた。
「何だよ、変なの」
 桜木がくっと笑う。
 本当にわかっていないのかどうか。
「原って、変わってるよな」
 桜木が前を見ながら言う。三人の背中は先程よりもまた一段と小さくなっていた。
「奈々子?」
 確かに。
 変わってるなんてもんじゃない。
「あいつに、カレシがいるなんてさ、俺にはちょっと信じられない」
「うん。でも、いるんだよ」
「どんなやつ?やっぱ、あんなやつなわけ?」
「え?まさか。あんなのがふたり一緒にいたら、怖くない?」
「言えてる」
 桜木が目尻を下げて、ははっと軽い調子で笑った。
 さっきまで夕焼けが出ていたと思っていたのに、もう外灯が当たり前のようにアーケードの中で光っている。時折、屋根と屋根の間から覗く空は青く暗い。
「・・・大人、かな」
「おとな?」
 あたしは何度か会ったことのある奈々子のコイビトの顔を思い浮かべていた。穏やかな柔らかそうな印象のひとだった。あんなひとでも奈々子と喧嘩したりすることがあるのだろうか。あたしと桜木が保健室で言い合ったみたいに。
「うん。四つ上だから。余裕があるっていうか。とにかくあたし達から見たら大人って感じのひと」
「ふうん。・・・全然想像できないね」
 桜木は前を向いたままで言った。
 アーケードを抜けると、途端に気温が低くなった。あたしは直ぐ隣にある桜木の、剥き出しの右腕をちらりと見た。夏の間にやけた肌は未だ褐色のままだ。
「ね、寒くない?」
「え?あ、少し」
 風に運ばれて、どこからともなく甘辛い焼き鳥の匂いが漂ってきた。そういう時間帯だ。
「うわっ、焼き鳥食いてえっ」
桜木がお腹を押さえながら言う。「腹減ったなあ。な、今から行く店って、なんか食うもんある?」
「うーん、多分ね。サンドイッチとかあるんじゃないかな」
「あー、もう、照り焼きサンドでもいいや、食いてえ」
 桜木の頭の中は、今や、甘辛い味の鶏肉でいっぱいらしい。あたしはけらけらと笑った。
 人込みのなかを歩きながらいつもと同じようにいろんな話をした。大抵はあたしが喋って、桜木は時折茶々を入れる聞き役という感じだ。
 前を歩いていた奈々子たちの背中が見えなくなった。
 多分、ここからも見える緑色の看板を掲げる店の中に消えていったのだろう。とっぷりと日は暮れているのに、駅に続く道は煌々と明るい。
 ふ、っと視界を何かが遮った。
 瞬間、周りの喧噪が消え、絶え間なく喋っていた唇に柔らかな感触。
 けれど、それはほんの一瞬で、直ぐに離れていった。
 あたしたちを包む空気が、再び動き始める気配を見せる。
 見下ろす桜木をじっと見詰め返した。
「え」
ぱっ、と手の甲で口許を隠した。「え、え、なに」
 桜木は何事もなかったかのようなけろりとした顔をしている。
「な、なんてことすんのよ、や、やだ、こんなひとがいっぱいいるとこで、し、信じらんない」
 桜木は下を向いて笑っていた。
「別に誰も見てないよ」
 確かに。あたし達以外誰も足を止めてはいない。こちらを見ている気配もない。
「だ、で、でも」
「いいじゃん」
「よくない」
「したかったんだよ」
「し・・・」
「さっきからずっとしたかった」
「・・・」
 桜木は合わせた目を照れ臭そうにすっと逸らした。
 あたしは急激に熱くなった両頬を手の甲で押さえた。
「や、でも、やっぱ信じらんない」
「行こう、野々村。あいつら、待ってるぞ」
 先に歩き始めた桜木を慌てて追いかける。まだ心臓はばくばく鳴っていた。
 こちらはこんなに動揺しているのに、見上げた桜木の表情はいつもと変わらないように思えて悔しい。
 桜木に並んで歩きながら少し怒った声で訊いた。
「桜木、あたしの話、ちゃんと聞いてた?」
 桜木は首を傾げて苦笑した。目許が思いきり崩れる。
「あー。あんまり」
「・・・」
「・・・ってか全然聞いてなかったかも」
「・・・」
 あたしは、紺色の鞄で桜木の背中を思いっきり叩いた。
「いてっ」
「ばか」
「悪かった、って」
 言葉とは裏腹にその顔は楽しそうに笑っている。
「もう、知らない」
 いつまでも熱の退かない頬を秋の風が掠めた。髪が乱れる。あたしの横を歩く桜木のシャツもぱたぱたと音を立てて煽られていた。
 名前を呼ばれた気がして顔を前に向けると、店の自動ドアの前に奈々子が立って、小さな身体で何か言っている。店内から漏れる眩いばかりの灯りで逆光になって、その表情は認められない。
 あたしは笑って右手を上げた。
 横を歩く桜木が少し寒そうに、自分の右腕を反対の掌で撫でていた。


(完)

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© Chocolate Cube- 2005