この作品はNovel内にある「初夏」の続編となっております。
                            
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初秋  1.
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 膝を抱えて空を見上げた。
 澄んだ青空。雲ひとつない。
 あたしは余りの眩しさに堪えきれず、きゅっと瞼を閉じて再び顔を俯けた。
 照りつける陽射しはじりじりと剥き出しの腕を焦がす。塗ったばかりの日焼け止めは噴き出した汗に流され功を奏さない。
 いつもは下ろしている髪も、今日はふたつに分けて編みこんでいた。滅多に日の当たらないうなじはさっきからずっとひりひりと痛んでいる。
 暑い。
 もう九月だというのに。
 今、自分がいるこの場所の気温は一体何度くらいなんだろうかと想像する。きっと見当もつかないような数字だ。
 けれどあたしが汗をかいている理由は、実は気温や太陽の所為ばかりではなかった。
 冷や汗。
 あたしに背中を向けていた六人が笛の音とともに立ち上がった。
 だらだらと歩きながら紺色のハーフパンツのお尻をはたく。あたしの目線より高い位置で砂埃が舞った。
 やってらんない。そんな足取りで白線の前に立つ。
 あたしだけじゃなく、みんなそう思っているのだ。
 なのに、ピストルの音を合図に走り出した彼女たちは案外真剣だ。やはり最下位を走るのは誰だって恥ずかしい。あたしだっていやだもん。
 ぴ、っと笛の音が鳴った。
 渋々立ち上がる。瞬間立眩みがした。
 ああ、いっそこのまま倒れてしまいたい。
 トラックの外に出て消えかかった白線の前に立つと、三メートルくらい先に位置する入場門のポールの傍からこちらを見ている桜木さくらぎと目が合った。両腕を胸の前で組んで首から水色のはちまきを垂らしている。ふ、っと唇を緩めて笑う桜木。あたしはかあっと頬を赤らめると視線を逸らした。
 悔しい。
 絶対見ちゃだめって、あれほど言っておいたのに。馬鹿にしてる。
 膨れっ面のまま膝をつき両手の親指を白線の手前に当てた。何だかちっとも走れる気がしない。
 空はあんなに青いのに。
 何だってこんな憂鬱な気分にならなくちゃいけないんだろう。
 あれこれ考えているといきなりピストルの音が響いて、びくっと身体が揺れた。
 それでなくても運動音痴なあたしは大幅に出遅れてしまった。


「何やってんのよ、紗江さえは」
 奈々子ななこがサンドイッチを頬張りながら呆れた口調で言う。食パンの端っこから収まりきらない卵の白身がとろりと零れ落ちた。
 体育祭だからといって応援に来ている保護者と一緒に昼食をとったりはしない。
 体育館の裏。
 あたしたち以外にも何人かの生徒がここでお弁当を広げていた。桜木の姿は見えない。
 大きな樹の陰は思っていたよりずっと涼しくて、悲鳴を上げていた皮膚に時折吹く風が心地よい。おしりに敷いている虹色のシートがかさかさと音を立てた。
「すっごく目立ってたよ、紗江」
 やんわりとした口調で爆弾を落とすのはさっちんだ。
「う、嘘」
 あたしは持っていたお弁当箱の蓋で顔を隠す。
「目立ってた」
きっぱりと言い切る奈々子のそれは直下型。「紗江は、背が高くて細いから、一見運動神経がめちゃくちゃ良さそうに見えるんだよね」
「そうそう」
「なのに走ったら、ひとりだけスローモーションみたいな動きなんだもん。なんか笑えた」
 スローモーション。
 奈々子の言葉にさっちんが吹き出す。
 あたしは笑えない。持っていた箸を握りしめて溜め息を落とした。
───にっぶー・・・。
 さっき擦れ違った一年生の女のコたちの声が耳に残っていた。
───あれで桜木先輩のカノジョなんだって。笑っちゃうよねえ・・・。
 以前会ったことのある女バスのコ達だった。わざとあたしの耳に入るように言っているのは明らかだった。
 ふ、っと頭に室内で履く半透明の上履きが浮かんだ。
「やだ、紗江、冗談だよ?」
さっちんがあたしの顔を覗き込む。「何でそんな、クライ顔してんの?」
「何でもない」
 ふるふると顔を横に振ると、奈々子がにひひと笑った。嫌な笑いだ。
「桜木のことでも考えてたんじゃないのー?」
「・・・違うよ」
「もしかして、一緒にお弁当食べたかった?」
「違う、って」
「ねえ、紗江」
 あたしはウインナーとうずらの卵を口許に運ぶ。突き刺さった赤色のピックの持ち手にはうさぎの顔。
「何よ?」
「もう桜木とべろちゅーくらいした?」
「べっ・・」
 べろちゅー?
 唇にウインナーを挟んだまま目を丸くして奈々子を見た。何てことを口にするのだ、この女は。
 奈々子は探るようにあたしの顔を見詰めてから、
「なんだ。まだか」
残念そうに言ってペットボトルを口に含んだ。さっちんはこういう話になるとどういうわけか恥ずかしそうな面持ちになって何も言わなくなってしまう。会話に参加することを全身で拒んでしまうのだ。
「ば、ばっかじゃないの、奈々子ったら。な、何言ってんの?」
「夏休みにあれだけ会ってたのに、何にもないなんて信じらんない。桜木って結構オクテなんだね」
「ちょっと、そういうこと言うのやめてくれる?」
あたしは奈々子の腕を揺らして抗議した。「今度桜木と会った時にどんな顔したらいいか、ほんとわかんなくなるんだからね。やめてよ。奈々子のばか」
 唇を尖らせて文句を言うと、奈々子は尚更面白そうに、
「まさか、紗江、桜木には性欲がないとか思ってるんじゃないでしょうね?」
驚いたことにそんなことまで言い出した。
 この女・・・。
「知らないっ」
 あたしはもうそれ以上何も言ってやるものかと口いっぱいにおにぎりを頬張った。
 奈々子には中学生のときからつき合っている四つ年上のカレシがいる。勿論エッチも経験済み。
 自分達の関係がいくところまでいっている所為か、奈々子はあたしと桜木の進捗状況に異様なまでの興味を示す。あたしが秘密主義者だと知っているからか余計面白がっている節がある。
 あたしはペットボトルの緑茶で喉を潤しながら、未だ雲を浮かべていない真っ青な空を見上げた。
 ふうっと息を吐く。
 何も、あたしだって桜木に性欲がないなんてこれっぽっちも思ってはいないのだ。


 夏休み。
 奈々子はあれだけ会ってたのに、などとのたまったが、実際は桜木の部活が忙しくてあたしたちはそんなに頻繁には会えなかった。
 数学の期末テストがそれほど悪くなかったにもかかわらず畠山はたけやまから、
野々村ののむらも、補習出とけば?」
というありがたいお言葉を頂戴したあたしは、喜んで全五回の補習授業に顔を出すことにした。
 夏休みにまで数学の勉強などしたくはなかったが、学校に来れば桜木に会えるから、五回全部に出席した。畠山は事情を知ってか知らずか、授業終了後、教室をそそくさと出て行くあたしの顔を見ながらにやにや笑っていた。稀有な先生だと思う。
 部活の終わった桜木と一緒に肩を並べて、くだらない話をしながらあちこち寄り道して帰った。
 楽しかった。
 どうでもいいことでじゃれあっている時間は本当に楽しかったのだ。
 補習授業最後の日。
 あたしと桜木は小さな公園に立ち寄った。
 そこにはスリーオンスリー用のバスケットゴールが設置してあった。バスケットボールはさすがに見当たらなかったが、子供の忘れ物らしい赤いゴム毬を使ってシュートの練習をした。
 あたしは桜木のフォームを真似て何度もゴム毬を放るが、少しも上手くいかない。桜木はあんなにフォームもかっこよくてゴールもきちんと決まるのに。なんでだろう。
「ちゃんと、膝曲げて、腰も落として。・・そう。で、下から順番に伸ばしてく感じ」
「こ、こう?」
「んー。なんか。違う」
 桜木の言葉にむっとしつつ放ったボールは、無残にもゴールの手前で弧を描いて落下した。
「あ、あれ。変だな・・・」
「・・・」
桜木は唖然としていた。「野々村って、まじで運動神経鈍いんだな」
 ぼそりとそんなことを言われる。
「そんな、しみじみ言わないでよ」
 はは、と笑う桜木。
 その後ふたりでベンチに座って話をした。
 草いきれと土埃の匂い。蝉の鳴き声。夏の夕暮れ独特の時間。
 話に夢中になっていた。
 夕陽が落ちかけているのに気が付いて腕時計を見ると結構な時間。公園にはあたしと桜木以外、誰もいなくなっていた。
「あ。やばい。もう、帰んないと」
 そう言って横を向くと目の前に桜木の顔。肩に大きな骨ばった手が触れた。
 キスされる。
 そう思った瞬間、あたしは身体を引いていた。
 反射的に触れていた桜木の掌に力が込められ、あたしの心臓はどくん、と強く打った。
 怖い、と思った。
 怖かった。
 馬鹿みたいだけれど、本当に怖かったのだ。
 痩せていると思っていた桜木の、眼前にある胸はあたしがすっぽりと納まるくらい広かったし、制服のシャツから覗く鎖骨やその上につづく喉仏が妙に生々しくて、あたしはたったそれだけのことで震えてしまっていた。
 束の間あたしと桜木はその姿勢のままじっとしていたが、
「ごめん・・」
桜木はそっと肩から手を外すと、苦笑いしながら立ち上がった。「悪い。・・・びっくりした?」
 あたしは桜木のほうは見ないでこくこくと頷いた。桜木に合わせて冗談みたいに笑って流せばいいのに、あたしは青白い顔のまま唇を引き攣らせることしかできなかったのだ。
 それから後はもう最悪だった。帰る道すがら、あたしは桜木の顔をまともに見ることもできないでずっと口を利けずにいた。
 あたしはあの日、桜木を酷く傷つけてしまったと思う。
 だから、べろちゅーだの何だのとふざける奈々子が能天気に思えて、今のあたしにはちょっとばかり疎ましい。あたしは奈々子みたいに簡単には一歩を踏み出せない。
 知らないことを知るのはとても怖いことだと思っているから。
 あたしは案外臆病なのだ。


「紗江、聞いてる?」
 奈々子があたしの顔の前で両手をひらひらさせた。
「ごめん、何?」
「何、ボーっとしてんのよ」
「うん、ごめん」
 気が付くとさっちんと奈々子はすでに食べ終わっていて、それぞれのお弁当箱はカラフルな色合いの袋に納まっていた。
 全部食べ終わっていなかったがあたしも慌てて片付ける。
「何?もう食べないの?」
「うん。なんか、食欲ない。暑すぎ」
「大丈夫?」
 さっちんが優しい声音で訊いてくる。あたしはこっくりと頷いた。
「さっちんの好きなひとの話をしてたっていうのに。紗江は聞いてなかったのか・・」
 奈々子が呆れ果てたみたいに溜め息を落とす。抱えた膝小僧に顎を乗せて。
「えっ」
目を丸くして、交互にふたりの顔を見た。「え?な、なに?何の話?誰?さっちんの好きなひとって誰なの?」
「・・・紗江の仲良しさん」
 あたしのほうに顔だけ向けると、奈々子は意味ありげににんまりと微笑んだ。
「は?」
 あたしの仲良しさん?
「紗江がね、夏休みをその彼と一緒に過ごしたことが羨ましくて仕方ないんだってさ。さっちんは」
 え。
「奈々子、そういう言い方やめて」
 さっちんは首まで真っ赤になっている。
 えーと。
「桜木、じゃ、ないよね?」
 一応確認してみる。念の為。
 ぶふふっ、と奈々子が吹き出した。
「そんなわけないじゃん、馬鹿だね、紗江は」
 ほんっと、奈々子の態度はむかつく。あたしは横目で奈々子を睨みつけた。
 じゃあ、一体誰なんだ。あたしと仲のいい男のコなんて桜木以外にいる筈もない。
「さっちんは彼に気に入られようと一生懸命勉強したのよ。なのに、ちっとも努力してない紗江のほうが彼と一緒にいる時間が長いっていうのはちょっと不公平なんじゃないのお、と。こういうわけなのでありマス」
 ・・・・。
「え」
あたしはさっちんのふっくらとした顔をまじまじと見詰めた。「まさか」
「やだ。もういい。あたし、トイレ行ってくる」
 さっちんはか細い声でそういうと、ピンク色に染まった顔で立ち上がった。その小さくなっていく背中を見詰めながらあたしは呆然と呟いた。
「畠山・・・なの?」
「そうなのよ」
 あたしは少し考えてから、さっちんと同じタイミングで立ち上がった奈々子を見た。細くて白いふくらはぎ、ハーフパンツに隠れた腰、小さな胸の膨らみと辿って丸い顔を見上げた。
「畠山ってさ、噂、あったよね。たしか・・」
「うん。保健室の北川きたがわとね。あのふたりこの学校出身で同級生なんだって」
「ふうん・・」
 元同級生。こういうときに聞くと何だか淫靡な響きだ。
 あたしも立ち上がって座っていたシート上のペットボトルや弁当箱を退けていった。
 さっちんの恋はあまりにも前途多難な気がした。
 畠山ののほほんとした顔を思い出していた。八の字の眉と大きな目が印象的。夏休み、何度も目にした指先にはいつも白いチョークの粉が付いていた。
 実は全五回の補習授業は自由参加で、最後の日、あたし以外の生徒は誰も出てきていなかったのだ。またしてもふたりきりで、マンツーマンで、畠山に勉強を教えてもらった。あたしはそのことを奈々子たちにも桜木にも言いそびれていた。理由は自分でもよくわからない。
 さっちんの気持ちを聞いてしまった今、益々言いにくくなってしまったではないか。
 紗江の仲良しさんと言われたことも胸に蟠っていた。
「あんまり、気持ち、盛り上げないほうがいいんじゃないのかなあ」
 シートを折り畳みながらあたしは奈々子に言った。奈々子は大きな目を瞬かせながら、
「さっきみたいに、冷やかすなってこと?」
「うん」
 奈々子は暫く考え込んでいたが、
「そうか。そうだね」
小さく頷いた。
 ふたりで荷物を持って教室に向かう。横を歩く奈々子は小柄で彼女のつむじの形があたしの高さからははっきりと見える。
 奈々子は可愛い。口さえ開かなければ、だけど。
「ねえ、奈々子」
「ん?」
 あたしは足許の白いスニーカーに視線を落としたまま訊ねた。
「奈々子はさ、知らないことを経験していくのって、怖くなかった?自分が変わっちゃうんじゃないか、って怖くなかった?」
 あたしは怖い。知らないことを知ってしまった後の桜木の変化が怖い。自分の変化も怖い。
 たかがキスくらいで大袈裟な。一笑に付されるかと思ったのに、奈々子は遠くを見るような目付きで、
「うーん。そうだね。最初はね」
そう言った。
 意外。
 簡単に一歩を踏み出したわけじゃなかったのか。
「・・・」
「でもさ、仕方ないじゃん。あたし達成長過程にいるわけだしさ」
あたしを見上げたその顔には自信と誇りが滲んでいた。「これからそういうこと、きっといっぱい出てくるよ」
 奈々子は強い。
「・・・そうか」
 にひひ、と趣味の悪い笑い方で、再び奈々子があたしの顔を覗き込んできた。
「大丈夫だって。桜木に任せてれば安心だ、って」
 ・・・ばか。
 ふたりでふざけあいながら廊下を歩いていると、不意に三つ編みにしているおさげの左側を引っ張られた。
「いたっ・・」
小さく悲鳴を上げた。「もう、何すんのよっ」
 髪の生え際を押さえつつ振り返ると、
「あ。悪い。まじで痛かった?」
 桜木のすまなそうな顔。忽ちあたしの顔色は変わる。自分でもそれとわかるくらいはっきりと。桜木が気が付かないわけがない。
「桜木・・」
「・・・ちっす」
 奈々子はあたしと桜木を交互に見遣ると、にひひ、とまた笑った。あたしの背中をばしばし叩いてから足早に去って行く。
 何やってんだか。
「なんだあ、あいつ」
 奈々子のおどけた後ろ姿を見送る桜木の不思議そうな顔はいつも通りだ。
「あれで気を利かしてるつもりなんだと思うよ」
 え、ほんとかよ、と桜木はきょとんとした表情を見せ、それから破顔した。笑うと目尻の下がるいつもの顔。その顔であたしに視線を寄越してきた。目が合う。心臓がどくんと跳ねた。
「・・何?」
「ん?・・ああ」
桜木は少し間を空けてから、「今日、一緒に帰れる?」
そう訊いてきた。
「・・・部活は?」
「休み」
「・・・」
 あたしはちょっと考える仕草を見せてしまった。さすがに温和な桜木の顔からも、ふっと笑みが消えた。
「・・・何かあんの?」
村井むらい君たちとカラオケ行かないの?」
「行かない。他に約束があるのに誘ったりしないよ。何でそんなこと気にすんだよ」
 夏休みが明けてから暫く、あたしは桜木とまともに目を合わせることができなかった。実を言えば、今もふたりきりになることをあたしは避けている。そして、多分、桜木もそのことに気が付いている。はず。
 それでも桜木は、どうってことないよ、という顔で少しずつ距離を縮めてくる。そんな桜木に影響されてあたしの気持ちも徐々にほぐれていく。
 桜木は優しい、とあたしは思う。優しくて辛抱強い。
「うん。一緒に帰る」
 誰もいない廊下をぺたぺたと音を立てながら歩いた。半透明の上履きは、二学期に入ってから買ったものだ。まっさら。
 女バスのコの顔が脳裏を掠める。
 桜木の横顔を、じっと見詰めた。高い鼻のてっぺんと頬骨の辺りが日に焼けて少し赤くなっていた。
 桜木は美形っていうわけじゃないのに、かっこいい。女のコ受けする顔をしている。涼しげな目許が笑うと微かに崩れるとこがいい。
 午後最後のプログラムはリレーだ。桜木はそれに出る。本人が自覚しているのかどうかはわからないが、確実にファンは増えるだろうとあたしは予感している。
 桜木が横目であたしを見下ろした。
「何?」
「何でもない」
 あたしは首を横に振って、顔を正面に向けた。見惚れていたとはちょっと言えない。
「えーと」
「・・・」
「リレー、頑張って」
「おう」
「・・・あたしの分まで、とは言わないけどさ」
「・・・」
 桜木が、くっ、と喉で笑った。
 悔しい。
「・・・見ないで、って言ったのに。ひどいよ」
「いいじゃん」
「よくない」
「見たかったんだよ」
「・・・」
「野々村が走るとこをさ。見たかったんだ」
 桜木が正面を向いたままでさらっと言う。目線の先には行き止まりの白い壁しかない。
 頬が熱を持った。
「・・・別に。いいけど」
「・・・ってか、歩いてた?野々村」
「え」
 あたしはぴたりと足を止める。桜木は揶揄うような目つきであたしを見下ろしていた。
「ひっどーい」
 真っ赤になって持っていたお弁当箱で桜木の肩を叩いてやった。がちゃがちゃと箸箱が音を立てる。
「気にしてるんだから、そういうこと言わないでよ、もうっ。だから見ないでって言ったのにっ」
「悪い、悪い。冗談だって」
 桜木は言葉とは裏腹の、ちっとも悪いと思っていないような笑顔で、肩に当たるお弁当箱を翳した両手で避けていた。


NEXT
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