1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 初秋 3. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ あたしは一体何を恐れていたのだろう。 不安に煽られて交わしたそれは、けれど、あたしの心を穏やかに満たしてくれた。 考えてみれば当たり前の反応だと思う。 あたしは桜木を好きなのだから。 桜木を好きだ、と思う。 桜木の胸に額をくっつけたままずっと、桜木に触れていたい、と思ってしまったくらい好き。 怖がることなんて何もなかった。 学校を後にしたあたしたちはいつもどおり、ふざけ合ったりじゃれ合ったりしながら帰路を辿った。初めこそぎくしゃくしていたが、桜木のいつもと変わらないペースに次第にあたしも巻き込まれていった。 桜木はいつもどおりだった。 キスしたからといって桜木はちっとも変わったりしなかった。 茶道の先生が遣って来るのは水曜日と金曜日。 週に二回、文化祭が終わるまでの僅かな期間だけれど、あたしと桜木は一緒に帰ることを約束した。たったそれだけのことが目茶苦茶嬉しくて仕方ない。 夏休みの終わりからずっとぎこちなかったのが嘘みたいだ。 水曜日の放課後、ひとりで旧校舎に向かっていた。 奈々子とさっちんは、日直の仕事でいつまでももたもたしているあたしを置いて先に和室に行ってしまった。薄情なやつらだ。 奈々子には桜木とキスしたことをまだ見抜かれてはいない。揶揄われるのが嫌だから絶対感付かれたくなかった。 早足で歩いていると、うっすらと鼻の頭に汗が滲んできた。 九月ももう終わろうかというのにまだまだ暑い。相変わらず食欲はなかった。 男バスは今日は外で練習だと桜木は言っていた。 二階の渡り廊下は広いけれど薄暗い。そこからは小さな池と鮮やかな色合いの花壇を持つ中庭を見ることができる。グラウンドは見えない。 きっとまた汗だくになってボールを追いかけてるんだろうな、と想像する。 ふ、っと体育館の倉庫で嗅いだ桜木の汗の匂いを思い出した。それからきゅっと握った際の桜木の腕の筋肉の感触も。胸の鼓動が自然に速くなる。 あたしはひとり真っ赤になってふるふると首を横に振った。あれ以来あたしはちょっとだけいやらしくなってしまったみたいだ。そういう意味ではあたしは確かに変わった、と思う。 旧校舎側から女のコがひとり出てきてこちらに向かってくる。誰だかは直ぐにわかった。背の高さとスタイルの良さ。これから部活に出るのだろうか、まだ制服を着ている。ブラウスに緑のリボン。短めのスカートから伸びた形の良い脚は膝から下が長くて本当に細い。 擦れ違う瞬間なんだか胸が騒いだ。お互い意識的に目を合わせないようにしているのがすごく不自然で、とっても嫌。 「・・・野々村さん」 今の今まで知らんふりしていたのに背中から声を掛けられた。足を止めて、ゆっくりと振り返る。はい?とでもいう風に首を傾げて雨宮さんの顔を見た。 雨宮さんは硬い表情をしていた。無理に笑おうとしているのがありありとわかる。 「野々村さん、結局、桜木先輩とつき合うことになったんですね」 結局、と彼女は言った。 一学期。彼女に問われた時、まだあたしと桜木はつき合ってはいなかった。だから、そんな言い方になったのかも知れない。 「え、と。うん。まあ・・」 相手は後輩だというのにこちらの態度のほうが何だか小さくなってしまうのは何故なんだろう。笑う必要なんかない、と心の片隅で思いつつも、曖昧に微笑みながら雨宮さんの顔を見た。みるみる彼女の目許が赤くなっていくのがわかった。唇も微かに震えているように見える。 あたしは狼狽えた。 何か言おうと口を開きかけた時、 「あたし、諦めませんから」 目の前の女のコは毅然とした態度でそう言った。目尻には涙が溜まっているというのに。 同情はいらない。そんな顔付きだ。 「・・・」 「あたし、こんなに誰かを好きになったの、初めてなんです」 あたしだってそうだ。でもそんなことを、今このひとに言いたくはない。 それにあたしたちまだ高校生じゃん。そんな台詞百年早いっつーの。・・・と、まあ、これも口にはできない。 あたしはただ目の前の女のコを見詰め返すことだけで精一杯だった。 「桜木先輩と一緒にいる時間が、本当に楽しいんです」 桜木と雨宮さんの時間。あたしの知らない時間。胸がざらざらする。 あたし、諦めませんから、と彼女は射るようにこちらの目を見てもう一度宣言した。 もう笑顔を作ることなんかできなかった。 「ひとの心なんて変わるし、それに・・」 「・・・」 「あたし、桜木先輩には気に入ってもらえてるって、そう思ってますから」 すうっと心に冷たいものが落ちてきた。なのに、反対に顔は瞬く間に熱く火照ってくる。 同時に、このひとにこんなことを言わせてしまう桜木にも腹が立った。 桜木はあたしを好きだと言った。いつもあたしのことを考えている、と。そんな自分が嫌になるくらい、そのくらいいつもあたしのことを考えていると言った。 あたしは自分に言い聞かせるように桜木の言葉を胸の内で反芻していた。 沈黙が流れる。 早くこの場を離れたい、とただそれだけを強く望んでいた。 「あたしが、野々村さんに今言ったこと、桜木先輩に言います?」 あたしはゆっくりと首を横に振った。 「言わない・・」 「言っても構わないのに」 あたしはもう一度首を横に振った。 桜木とふたりでいるときにあなたの話しなんかしない、と言ってやりたかった。あなたの名前なんて出てこないもの、と。 意地の悪い、黒くとろりとした液体みたいな思いがふつふつとお腹の底から湧いてきて、自分の中にそんな得体の知れないものが隠れていたことに戸惑う。 雨宮さんは頭を下げると背中を向けた。 あたしもさっさと和室に向かって歩き始める。彼女の後ろ姿なんか見送りたくなかった。 桜木が好きなのはあたしだ。 桜木はそんな簡単に心変わりしたりなんかしない。 自信を持ってもいい筈なのに。頭の中はきれいさっぱり真っ白になっていて、歩く足元も何だかふわふわと覚束なくなっていた。 渡り廊下から旧校舎へとつづく段差で躓きそうになったあたしは、俯いて我知らず苦く笑っていた。 ひとりでひっそり笑うなんて。 ちょっと不気味。 翌日は雨降りだった。 小さな水滴がぱらぱらと舞うような霧雨だ。 じめっとした空気の漂う靴箱の前で、脱いだローファーを手にあたしは長いこと佇んでいた。すのこの上に乗っけていた靴下は少しずつ水を含んで足の裏が気持ち悪い。持っていた靴を、二段に分かれた四角い空間の下側ににそっと置く。朝ごはんを食べられなかった所為か、軽い眩暈を感じてその場に蹲った。そう言えば昨日の晩ご飯もあまり喉を通らなかった。 もうどうすればいいのかわからない。 折った膝の上側に額を乗せて考え込んでいると、 「野々村?」 と、上から声がした。優しいような、おどけたような声。 はっとして顔を上げる。 湿気を含んでいつもより幾分膨らんだ天然パーマの前髪に隠れた、村井君の大きな丸い目があたしを見詰めていた。桜木と同じくらい長身の村井君に高い位置から見下ろされる。 「どうしたんだよ」 「な、何でもないよ」 あたしは慌てて立ち上がろうとしてよろけてしまった。村井君の手があたしの腕を掴む。 「具合、悪いのか?」 「ちょっと、貧血。ありがと」 「ふうん」 頷きながらさっさと行ってしまおうとするあたしの足元を見る。「上履き履かないのかよ?」 あたしも自分の足元を見ながら立ち止まった。雨の降った日の廊下は気持ち悪い。いっそ靴下を脱いでしまおうか、と考える。 「おっはよー」 聞き慣れた声にあたしは振り返る。 村井君の後ろに奈々子とさっちんの姿が見えた。ふたりの手にはパステルカラーのカラフルな傘。 「何?何深刻な顔してんの?ふたりとも」 奈々子は傘をくるくると巻いてから傘立てに差し込むと、にやにやした顔をこちらに向けた。「なによ、何気に三角関係?」 「あほか」 村井君は笑いながらそっぽを向いた。「そんなことになったら、俺、桜木に殺されるね」 「あはは。それは言えてる」 奈々子は朝からテンションが高い。つき合いきれない、と思う。 黙って行こうとするあたしを、 「やだ。紗江、上履き履き忘れてるよ」 さっちんの明るい声が呼び止めた。 あたしは三人に背中を向けたまま動けなくなる。何か言うと涙腺が緩みそうになるくらい、これまで抑え込んでいた感情が膨れあがってきていた。 昇降口は渡り廊下の真下にある。あたしの視線の先には中庭に咲く大量の彼岸花と霧のような雨粒。 目の前を、畠山が通った。白地に細いブルーのストライプの入ったシャツに紺の綿パンを履いている。 「おっはよーさん」 ちらりと視線をあたしの足元に向けた。上履きを履いていない足がそんなにひとの注意を引くとは思わなかった。 「おはようございます」 ごにょごにょと口を動かしながら頭を下げる。後ろにいるさっちんはきっと真っ赤になってるんだろうなと、こんな場面だというのにそんなことを想像していた。 「紗江、上履き、どうしたの?空っぽだよ」 奈々子はあたしの靴箱を確認したらしい。 「忘れた」 振り返りもしないで言うと、奈々子がかたかたとすのこを鳴らしてあたしの前に回ってきた。 「忘れたって何?昨日履いてたじゃん」 眉間に皺を寄せて言ってから、急にはっとしたように、声のトーンを落とした。「もしかして、隠されたの?」 「え?野々村そうなのか?」 後ろから村井君の素っ頓狂な声。 まずい、と思ったあたしは、咄嗟に村井君の顔を見ると、 「桜木には言わないでっ」 自分でも嫌になるくらい縋るような声を出してしまった。「お願い。村井君、このこと、桜木には絶対言わないで」 「桜木にはって、何?どういうこと?」 奈々子はわけがわからないと言った態であたしに質問をぶつけてくる。怒っているみたいに。 「もしかして、紗江、誰に隠されたかわかってんの?それって桜木に何か関係があるの?」 「・・・」 「紗江?」 「あ。野々村先輩、こんなとこにいた」 廊下をぱたぱたと早足でこちらに近寄ってくる足音がした。顔を見なくても誰だかわかる。声の主は綿菓子ちゃんだった。 綿菓子ちゃんが手に持っている布製の袋を見て、あたしはぎょっとした。本来なら喜ぶべきことなのに、何もこんな時に、何でこのタイミングで、と自分勝手なことばかり考えていた。 「これ、野々村先輩の名前があったから・・」 あたしは嬉しそうな顔を作ることもできずに、赤と白のボーダー柄の袋を受け取った。一応中身を確認する。特に切り裂かれたり汚されたりはしていなかった。ほっとして、そこで初めて頬が緩んだ。母親にはまだこのことを話していなかったから。 「体操服じゃない」 奈々子が大きな目を更に零れそうなくらいに見開いた。「もしかして、これも?」 「それで紗江、先週と今週の体育休んでたんだ」 奈々子とは正反対のやんわりとしたさっちんの声にあたしは胸が詰まって何も言えなくなった。 「どこにあったの?」 「あの、三階の、使ってない教室のゴミ箱にあったらしくて。見つけたのはあたしじゃないんですけど・・」 奈々子の怒ったような剣幕に圧されて、綿菓子ちゃんはしどろもどろだ。 「三階って、犯人は一年生ってこと?」 うちの学校は一年生が三階で二年生が二階、三年生が一階と、学年が上がるほど教室は下に降りてくる仕組みになっている。 「犯人って?」 村井君の顔が強張っていた。村井君はそれが誰だか推し量って、おそらく軽いショックを受けている。あたしは焦った。 「もういいから、奈々子、それ以上なんにも言わないでよ」 おろおろしている綿菓子ちゃんに、あたしは無理矢理笑顔を作ってみせた。「ありがとね。助かった」 「いえ・・・」 ぺこりと頭を下げてから来た道を戻っていく綿菓子ちゃんを見送ると、 「信じらんない・・」 奈々子が責めるような声で呟いた。 あたしはあたしで、もうじき桜木が来るんじゃないかと気が気ではなかった。 先程から何人もの同じ学年の友達がここを通り過ぎて行くが、あたしたちの余りの深刻な雰囲気を察してか誰も声をかけてこなかった。 「信じらんないよ、紗江。どうしてあたしたちにまで黙ってたの?」 「・・・」 「紗江っ」 「言えないよっ」 まるであたしが悪いことでも仕出かしたかのような口調の奈々子にこちらもついきつく言い返してしまった。「言えないよ、奈々子」 あたしはきゅっと目を瞑る。 「どうして?」 あたしは閉じた瞼をゆっくり開くと奈々子を睨みつけた。 「一年生からいじめに合ってるなんて、言える?奈々子だったら言えるの?それに、あたし、こんなことされたの生まれて初めてなんだよ?もうショックで、どうしよう、どうしようって、ずっと・・・」 喉が詰まってそれ以上言葉が繋がらなかった。 二学期が始まってから今日まで、あたしの身の回りのいろんな物が姿を消していた。最初は上履き。それから筆箱、化学の教科書、空っぽの手提げ袋、体操服。誰かの手に因って失われたとわかった瞬間、身体は体温が奪われたみたいに爪の先まで冷たくなり、心は目に見えない悪意に押し潰されて呼吸することすら苦しくなった。 あの瞬間の衝撃と失意は経験したひとでなければ絶対にわからない。 「だから、そういうの、相談するのが友達でしょ?」 「でも、あたしはできなかったのっ」 「なんで?」 「わかんないよ、そんなことっ」 「毎日一緒にいたのに・・」 「奈々子、しつこい」 「し・・・」 「友達だからって、何でも言ったりできないのっ。あたしは、そうなの。もう、お願いだから、ほっといてっ」 奈々子の顔を直視することはできなかった。奈々子の細い腰の辺りに視線をずっと置いていた。ただ奈々子が息を呑んだのだけは手に取るようにわかった。 あたしは深く息を吸い込むと、 「自分が誰かにそこまで嫌われてるなんて認めたくなかったの。誰にも知られたくなかったの。誰にも知られないままこんなばかみたいな嫌がらせが終わってくれたらいい、って、ずっとそう思ってたの・・」 ひと息に、けれど静かに言った。 「なに喧嘩してんの?」 桜木だ。 あたしの身体はぎくりと固まった。あたしだけじゃない。そこにいた四人全員が、だ。 「何か、あった?」 さすがに険悪な空気を悟ったようで、いつもの呑気な色合いの声ではなかった。 奈々子のスカートが視界から消えた。 「行こ。さっちん。村井君も・・」 告げる声は鼻声になっていた。それでもあたしは奈々子を疎ましく思っていた。早く行ってほしいと心底願っていた。 「あれ?まじで喧嘩?」 桜木の声が聞こえないみたいにぼうっと突っ立っていたあたしも、間を空けて歩き出そうとした。でも足は思った以上に重くてうまく動き出すことができない。 あたしはとんでもないことを口にした。奈々子を深く傷付けた。いくら動揺していたとはいえ、言っていいことと悪いことがある。 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。 二学期に入ってからずっと胸の中で呟いてきた疑問は、今、最高潮だ。 「野々村、上履きは?」 「忘れた・・」 昇降口を抜けた三人が階段を上がっていく姿をじっと見詰めていた。奈々子の肩が落ちている。いつもの覇気がどこにもない。奈々子、ごめん。胸の内で謝ると、尚更切なくなった。 「忘れたって、今日、木曜日だぜ。昨日は履いてただろ?」 桜木は困ったように笑いながら話す。 「でも忘れたの」 「何だよ、それ」 優しい声色だった。桜木はあたしの素っ気無い態度にむっとしていないのだろか。 「・・・ 「・・・」 「野々村?」 靴を履き替えた桜木が近寄ってきてあたしの横に立った。 「・・・桜木には関係ないよ」 力のないどこか虚ろな声で答えていた。 「関係ないって、何?」 さすがに桜木の顔からも笑みが消えた。あたしはみんなを不愉快にさせている、と悲しくなった。 「おー、野々村、まだいたか」 視界に畠山の悠々と歩いてくる姿が映った。来客用のこげ茶色のスリッパを持った右手を上げている。桜木とふたりでじっと見遣った。 「これ、履いとけ」 「はたけ・・・や・・ま」 「あ?」 じろりと睨まれる。呼び捨てにしてはいけないらしい。 あたしはスリッパを両手で受け取ったが、それを持ったままいつまでも動けずにいた。肩から提げた学校指定の紺色の鞄がずるずると下がってきて、折り曲げた肘の部分で止まった。 畠山が気楽な調子で訊く。 「野々村、お前、いじめに合ってんのか?」 あまり深刻に訊ねてはならないと思っているみたいだ。 「ちがう・・」 「だけど、お前、二学期に入ってからこれで二度目だろ、上履き履いてなかったの」 畠山があたしの足元を指差した。 桜木の前で何てことを言うんだろう、この先生は。桜木が、え、と小さく呟いた。あたしはただ俯くことしかできない。口を開くと本当に泣き出してしまいそうだった。 畠山は両腕を組んで暫く黙っていたが、 「あんまりひどいようだったら担任の らしくない教師みたいな言葉を残して行ってしまった。 あたしはスリッパを床に落とす。金色の学校名が入ったスリッパ。足を通したが、やはり濡れた靴下が気持ち悪かった。 桜木は少し不機嫌な顔であたしを見ているけど何も言わない。 あたしは懸命に笑顔を作った。 「ほんと、全然、大したことじゃないから。桜木は気にしなくていいよ」 出した声は、低く掠れていた。 桜木は何も言わなかった。何も言わないで怒ったような悲しいような傷ついたような瞳で、ただあたしを見詰めていた。 NEXT ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ HOME / NOVEL |