1.  2.  3.  4.  5.  6.  7.

初秋  4.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 最初に上履きがなくなったのは二学期が始まって割りと直ぐだった。
 どうしてあるべき場所にそれがないのか咄嗟にはわからなくて、暫くその場で茫然自失していた。昇降口をぐるぐると探し回ってみたが結局見つからず、朝のうちに購買部に行って新しいそれを購入した。お小遣いは貰ったばかりでまだ余裕があった。
 もしかしたら故意に捨てられたのかもしれない。考えたくもないことだが、その時点で既に靄のような疑念が頭をもたげていた。
 次に姿を消したのは筆箱だ。不二家のマスコット、ペコちゃんの赤い缶の筆箱。体育祭が終わった振替え休日の翌日だった。英語の授業を視聴覚室で受けた後、教室に戻ってきたら机の上から消えていた。筆箱は机の上に置き忘れていた筈だった。でもなかった。筆箱自体は新しいのを買い換えないで、古い筆箱を使うことにし、中身の定規だとかシャーペンだとかは新たに購入した。
 それから、机の中に置きっぱなしにしていた化学の教科書がなくなった。間抜けな話なんだけど、いつなくなったのかはわからない。授業が始まる前に机の中をどれほど探っても見当たらなかった。そのとき初めてなくなっていることに気が付いたのだ。教科書は未だに隣のクラスのコに借りてその場しのぎでなんとかやっている。中間試験が始まるまでに見つからないようだったら、買わないといけないかな、とは思っている。
 化学の教科書がなくなっているのに気が付いた同じ日に、一年生の女バスの雨宮さんではない例のふたりが、あたしたちの教室から出て来るのを目撃した。あたしが時折使っている、これもまたロッカーに置きっぱなしにしていた手提げ袋の柄が彼女たちの制服の後ろからちらりと見えた。
 おかしな話なんだけど、あたしはその時ひどく安堵していた。
 見えない悪意の正体が、あのひとたちならいいと、ずっとそう思っていたのだ。
 同じ学年、ましてや同じクラスの友達だったらどうしようかと、あたしは自分の持ち物がなくなり始めてから毎日、例えようのない不安に苛まれていた。教室の扉を開くたび、いじめを題材にした安っぽいドラマみたいにみんなの態度が一変してよそよそしいものになっていたらどうしようかと気が気ではなかったのだ。
 あのひとたちなら、あたしに対する嫌がらせの理由もよくわかる。
 それでもそれは決して気持ちのいいものではなかった。あたしはすっかり食欲を失っていた。
 同時に、桜木に知られてはならないと思った。
 自分の所為であたしが酷い目にあっているなんて。しかも桜木のごく身近にいる人間に。桜木が傷付かないわけがない。
 それに物を隠されたり捨てられたりするというのは酷く屈辱的なことだ。惨めで恥ずかしくて消え入りたいような気持ちになる。軽んじられている自分。馬鹿にされている自分。嫌われている自分。憎まれている自分。
 桜木だけじゃない。誰にも知られたくなかった。同情なんかされた日には本当に死んでしまいたくなる。
 プライド。
 プライド、だ。
 奈々子はどうして相談してくれなかったのかとあたしを責めたが、もし奈々子だったとしてもそう易々と口にすることはできなかっただろうと思う。だって奈々子のほうがあたしなんかよりずっと自尊心が強いから。
 ただ体操服がなくなった時だけは正直参った。お小遣いで買える範囲のものにしてほしかった。しかもこの時期に新品の体操服なんか着てたら変に目立って仕方ないじゃん。
 あたしはそう言って笑ったが、村井君とさっちんは一緒になって笑ってはくれなかった。


 芸術の選択授業の時間。
 あたしと村井君とさっちんは音楽を選択している。奈々子と桜木は美術。
 今日の音楽は自習だ。
 でも先生はちゃんといる。吹奏楽部の顧問をしている三十代後半の男性教師は教室の隅っこの教壇で熱心に楽譜を書き写していた。ほったらかしにされてる級友たちはごく一部の勉強熱心なひとを除いてみんなおしゃべりに興じている。
 雨は降ったり止んだりを繰り返して今は降っていない。
 でもどんよりと曇った空。どの教室にも蛍光灯が灯っていた。
 あたしたち三人は譜面台やらコントラバスやらティンパニーやらの大物の楽器に囲まれた部屋の、パイプ椅子に三角形に向かい合って座っていた。
「俺さ、昨日、見ちゃったんだよね」
あたしが話し終わってからやや間を空けて村井君が言った。「あいつらがうちのクラスの靴箱の前にいるの」
「そう、なんだ」
 村井君は笑ってはいたが、薄い笑いだ。両腕を座っている腿の上に乗せて前屈みになって話す。投げ出した脚はかなり長い。
「何してるのかはわかんなかったんだけど、なあんか、やな顔してた」
「やな顔?」
 さっちんが村井君に向かって訊くと、村井君はああ、と頷いてみせた。
「底意地の悪いっていうか、でも、なんか楽しそうっていうか。まあ、何かを企んでる顔、だな。あんな顔もすんのかって、ちょっとびっくりして、俺、声かけらんなかったもん」
「楽しそう?」
「え。うん」
「楽しそうって、なによっ。紗江がこんなに苦しんでるのに、酷いじゃないのよっ」
 村井君を責めるみたいにさっちんが言う。
「いや、俺に言われても」
「さっちん、いいよ」
「何がいいの?紗江、二学期になってからずっと悩んでたんでしょ?ずっと元気なかったよね?」
「そう、かな?」
「そうだよ」
そんなに痩せちゃって、とさっちんが怒ってるみたいな言い方で呟く。
「・・・まあ、だから、今日、野々村の上履きがなくなったって聞いたとき、ぴんとくるものがあったっていうかさ」
 村井君は少し言いよどんでいた。村井君だって少なからずショックを受けている筈だ。
「ねえ、昨日、靴箱の前にいたのって、雨宮さんも?彼女もいた?」
 あたしはずっと気になっていたことを確認した。村井君はちょっときょとんとしてから、
「いや。雨宮はいなかったよ」
首を横に振った。「雨宮は知らないんじゃないのか?あのふたりがしてること」
「そう、だよね。あのひと、そんな感じじゃないもんね」
 真摯な顔で桜木のことを好きだと宣戦布告した雨宮さんを思い出していた。あたしは彼女がこの件にかかわっているのかどうか気になって仕方がなかったのだ。とてもそんな風には思えなかったから。
 村井君は少し驚いたような顔であたしを見詰めていた。
「何よ?」
「いや・・」
 村井君は何か言いたそうにしていたが、結局口にしなかった。
「もう、あのひとたちと遊びに行ったりしないでしょ?」
 さっちんに強い口調で言われて村井君が前屈みにしていた身体をさっと起こした。
「なんか、堀口怖いな。そんな言い方されると浮気がバレて奥さんに責められてるオヤジみたいな気分になってくんだけど」
 さっちんは、ぷっと吹き出した。
「冗談やめてよ。・・・ねえ、行かないでしょ?」
「行かないと思う。俺もちょっとひいてるから」
 こういうのはやだねえ、と村井君は小さく言った。
「ねえ、村井君、このこと桜木には言わないでよ?」
 話の流れから、つい条件反射みたいに出てきたあたしの台詞にふたりが目を丸くした。
「何言ってんの、紗江」
 さっちんの眉間からはもうずっと皺が消えない。いつもは大人しいさっちんに怒られるのなんて、多分初めてだ。
「桜木に言わないでどうすんの?桜木から彼女たちにやめるように言ってもらえばいいじゃん」
 え。それは、ちょっと嫌だな、と思う。言うんだったら自分の口で言ってやりたい。
「だって、桜木には知られたくない」
「紗江・・」
「・・・野々村、それ何か間違ってるぞ」
「間違ってる?」
 村井君が真面目な顔で頷く。
「野々村って、かっこいいとこばっか桜木に見せたがってる気がするんだけどさ、つき合うって、本当はそういうことじゃないだろ?」
「・・・」
「俺もあんまり経験ないのに偉そうなこと言えないけどさ。弱点とか、欠点とか、そういう弱い部分もちゃんと見せ合うのが、コイビトドウシってやつなんじゃないの?」
 村井君の大きな少し出っ張った目は真剣で優しい。説くみたいな喋り方。
 言ってることはわかる。でも、あたしはそんな風にはできない。
「でも、桜木、絶対傷付くよ。すっごくショック受けると思う」
「だからさ、それはいいんだって」
「いいって?」
「はなみちは野々村とつき合ってるってだけで幸せなんだから。ちょっとくらい別のことで傷ついたって平気なんだよ。寧ろさ、野々村に何にも話してもらえないってことのほうが酷だと思うよ」
 そうだろうか。
 村井君の諭すような言葉を胸におさめながら、それでもやっぱり桜木には知ってほしくないと思ってしまう。
 村井君は両手を後頭部で組むとさっきとは逆に今度は背凭れに体重を預けた。パイプ椅子がぎしりと軋む。村井君は背丈もその痩せ方も、体型が桜木とよく似ている。
「どっちにしても解散だな」
「解散?」
「もう俺とはなみちはあいつらとは遊びに行かないってこと。はなみちが抜けたら解散だよ。あいつら三人みんなはなみちに気があんだから」
 あたしとさっちんは絶句してしまった。
 ややあって、そうなの?と訊ねるさっちんにそうなんです、と答える村井君。
「村井君たちはそれで楽しかったの?」
「まあね」
村井君は自嘲するでもなく素直に笑った。「俺は、みんなでわいわいやるのが好きだから、そういうのは気になんないの。」
 今度は堀口たちがつき合ってよ、と軽口を叩く。
 あたしはつい美術室のある方角に視線を送った。
 奈々子と桜木は今頃何を考えているだろうか。あたしのことを嫌いになったりしていないだろうか。
 とにかく謝ろう。ごめんね、と素直に頭を下げよう。
 許してくれるかな。
 くすんだ元は白かった壁をじっと見詰めながら考える。
 何だか、全てにおいて自信をなくしてしまいそうだった。


「野々村今日体育館に部活見に来れば?そんでふたりで一緒に帰る。はなみち、それだけで死ぬほど喜ぶんじゃないの?」
 桜木に酷いことを言ったと気にしているあたしに村井君がそう助言してくれた。
 死ぬほど喜ぶ。
 いくらなんでもそれは大袈裟なんじゃないだろうかと思う。
「今日女バスは?体育館で練習じゃない?」
 彼女たちのいるところで桜木をまともに見ることなんて今は到底できそうにない。
「女バスは、今日、外だと思うよ」
 村井君ははっきりとそう言ったのに。
 実際に体育館に行ってみるとちゃんと女バスもそこで練習していた。あたしが体育館の二階の狭い通路の手摺りから下を覗くと、女バスと男バスは緑色の網を仕切りに背中合わせに練習をしていて、桜木たちよりも先にあの一年生三人組と目が合った。
 村井君のばかったれ。
 村井君に目配せをする。
───う、そ、つ、き。い、る、じゃ、ん、よ。
───ご、め、ん。
 唇の動きだけで遣り取りしていると、村井君とは離れた場所で練習している桜木と目が合った。少しだけ驚いた顔をして、でもいつもみたいに目許を崩して笑ってはくれない。あたしと村井君を交互に見て、それからちょっと唇の端っこを上げただけ。
 当たり前だ。
 自分の口から飛び出てしまった言葉を思い出す。
───桜木には関係ない。
 なんであんなことを言っちゃったんだろう。
 息を詰めながら、胸に広がる苦い思いに耐えた。
 ほんのちょっとの時間そこから眺めていたが、居心地の悪さに堪えられなくなったあたしは桜木と村井君に軽く手を振ってからそこを後にした。
 つい昨日まで暑い暑いと思っていたのに、雨が降った所為だろうか、日の暮れ始めた帰り道の空気はひんやりと冷たくなっていた。風が吹くたび半袖のシャツから覗いた腕に鳥肌が立つ。
 今日は奈々子とも結局仲直りできなかった。
 明日は金曜日で部活もあるし、桜木とも一緒に帰ることができるはず。
 持っていた傘でまだところどころ濡れている道路を突付きながら歩いた。湿った枯葉を傘の先端でくしゃりと潰すと、それはそのまま張り付いてしまって、払っても払ってもなかなか剥がれてくれなかった。


 その夜、もしかしたら桜木から電話がかかってくるかもしれないと、家に帰ってからずっと携帯電話を手の届く範囲に置いていた。
 自分からかけることなんかできない。情けないことに頭の中はぐちゃぐちゃで、どんな風に謝ったらいいのか、そんなことさえもわからなくなっていた。
 結局桜木からの電話はなかった。当たり前なんだけど、奈々子からも。
 漠然とした形の見えない心細さが胸に広がって、あたしは鳴らない携帯電話を握りしめた。携帯電話は掌の中でただ冷たく、微動だに動こうとはしなかった。


 翌日。
 登校したあたしの机の上に化学の教科書が返ってきていた。
 教室にはまだあまりひとがいなくて、整然と並んだ茶色い机の群れの中、それは嫌でも目についた。
 あたしは机の傍に立って、束の間ぼんやりと教科書を眺めていた。
 なんでこれがここにあるんだろうかと、そんなことを思う。
 ゆっくりと椅子に座り、持っていた鞄を机の横に掛けて、それからぱらぱらと『化学TA』と書かれた表紙を捲った。
 ああ。
 やっぱり。
 ぐっと喉元に込み上げてきた嗚咽を呑み込んだ。
 中のページはあちこち引き裂かれていた。そうじゃないかと予感していたが実際に目にすると辛かった。
 あたしが一体彼女たちに何をしたというのか。
 裏表紙には黒マジックで「調子にのんな」「ばか」「ブス」「うんち」と書かれてあった。
 「調子にのんな」という言葉を見詰めながら、昨日男バスの練習を見学した、あの行為が彼女たちの逆鱗に触れたのだろうかと想像した。
 「ばか」はともかく、「ブス」はどうなんだ。あんたらのほうがあたしの百倍ブスじゃんか、と目の前にいたらそう言ってやりたかった。
 「うんち」とは排泄物のことではなく運動音痴の意だろうな、と考えて思わず吹き出しそうになった。
 情けない。
 なんて幼稚な。
 くだらない。
「ほんと、くっだらないっ」
 吐き捨てるように口にすると斜め前の席の男の子がびっくりしたように振り返った。
 ある決意を持って立ち上がると、教室に入ってきたばかりの村井君と目が合った。
 あたしはその時どんな顔をしていたのだろうか。自分ではわからない。でも、村井君の表情が、あたしの状態が普通ではないことを物語っていた。
 村井君の瞳が、あたしの顔とあたしの手にしている化学の教科書とを交互に行ったり来たりする。
「どうした野々村?なんかあった?」
「村井君、彼女たちの教室どこ?」
「は?」
「おしえて」
「野々村?」
「いいからっ。早くおしえてよっ」
 あたしのヒステリックな声にクラス中の視線が集中した。
 村井君がごくんと唾を呑み込む。
 彼女たちの教室に向かう途中、登校してきたばかりのさっちんと奈々子と擦れ違った。
「どうしたの?どこいくの?」
 ただ事ではない雰囲気を察したのか、さっちんが顔色を変えてついて来る。奈々子も口こそ開かないが、さっちんの後ろに随っていた。さっき目が合った奈々子は、直ぐにあたしから視線を逸らした。
 きっとまだ怒ってるんだ。
 みぞおちのあたりが冷たくなる。
 村井君は階段の前で一旦立ち止まると、あたしの顔色を窺いながらおずおずと提案した。
「俺、ふたりをどこかに呼び出すよ。こんな大勢で一年生の教室に行ったら、こっちがいじめてるみたいに見えるだろ?」
 それはそうかも知れない。
 あたしは持っていた教科書をぎゅっと握りしめると頷いた。
「じゃあ、体育館の裏。そこに連れて来て」
 女同士の決戦の場所なんて、太古の昔からそこと決まっている。
 あたしの言葉に村井君の顔色が変わった。
「大丈夫かよ・・・」
 大丈夫じゃないかもね。
 あたしの勢いに明らかに恐れをなしている村井君は、後ろ頭をぽりぽりと掻きながら階段を二段飛ばしで上がっていった。
 こんなことに巻き込んでごめんね村井君。気持ちが落ち着いたら、うんと謝ろう。
 あたしは踵を返すと階段を降りた。
「どうするつもりなの?紗江」
 さっちんの声は不安に満ち溢れていた。
「わかんない」
でも、もう限界。
 あたしは低い声で言うと、自分の足を包む茶色いスリッパに目を落としながら歩いた。
 もう限界だ。


NEXT
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

HOME / NOVEL