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雪、雪、雪  1.
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 視線を落としたショートブーツの爪先に、白い物がふわりと舞い降りた。
 あ。
 雪。
 この冬初めての雪。
 今日は朝から冷え込んでいた。さっきまで痛いと感じていた頬は、もう感覚すらないくらい。吹く風は刺すように、冷たい。
 雲に覆われた灰色の、暗い空を見上げた。
 白い小さな粉のような塊が次から次へと舞い降りてくる。落ちてきている筈なのに逆に吸い込まれそうな気持ちになって、思わず瞼をぎゅっと閉じた。
 雪が降るとあの日を思い出す。
 高校二年生の冬の、駅での出来事。思い出すと気持ちが沈むから、追い払うように首をふるふると横に振った。
 大学構内の駐輪場。
 置いてあるのは自転車と二輪自動車。
 隅のほうに錆付いた放置自転車が塊になって身を寄せ合っている。後は、バイクが三台と、ぱらぱらと自転車が二十台程度あるくらい。
 一台のスクーターの前で長いこと佇んでいるのに、待ち人はなかなかやって来ない。でも仕方がない。別に約束があったわけじゃないんだし。
 氷のような雪が睫についてぱちぱちと瞬いた。空気が乾いている所為で、コンタクトレンズが今にも剥がれ落ちそうだ。
 寒い。
 波型の薄い屋根の下に入り、首を竦め、巻いたマフラーに鼻から下を埋めた。肩ががちがちに凝っている。
 250CCのクリーム色のスクーター。待ち人が大学に入った年の夏休みと冬休みにアルバイトをして買ったものだ。と言っても本人から聞いたわけじゃない。彼とはもう何年も、まともな会話を交わしていなかった。
 彼とあたしは仲の良かった、小・中・高校生のときは、別々の学校だった。なのに口を利かなくなった今、どういうわけか、同じ大学の同じ法学部に在籍している。
 彼は長期の休みのとき以外、バイトはしていない筈。
 司法試験の為の学校に、夜間、週三回通っているけど、今日はその日ではない筈だ。
 離れた場所に見える駐車場の車の数が、残り少なくなっていくのがわかる。先ほど誰かが乗り込んだ車のマフラーから白い煙がふつふつと吐き出されているのが見えた。自分の吐き出す息も真っ白だ。
一子いちこ・・・?」
 背中から名前を呼ばれ身体を硬くした。久しぶりに聞く声だった。柔らかい、でも少しだけ掠れた声。振り返るタイミングを逃しそうになる。
 イッキは、あたしがイッキを待っていたことを、わかっているのかいないのか、それ以上何も言わずに傍をすり抜けるとバイクにキーを差し込んだ。擦れ違った身体は昔よりずっと高い位置に頭がある。染めていない真っ黒な髪の毛は高校生の頃よりやや長め。耳を、少し癖のついた髪が覆っている。
「イッキ」
「・・・」
 少しむっとしたような顔がこちらを向いた。いつもそう。あたしと話すイッキは、いつも不機嫌な顔をしている。何故なのかはわからない。
 女の子にモテモテの甘いマスクを、あたしと話すときだけ苦く変える。
 ・・・何でだ?
 イッキはヘルメットを被ろうと上げかけた手を止めてあたしの顔をじっと見ていた。
「イッキ、このままアパートに帰る?」
 あたしの口からどうしてそんな言葉が出てくるのかわからないといった顔で、
「・・・帰るけど?」
と、答えた。
「じゃあさ・・・」
コートの中に突っ込んでいた手をぎゅっと握る。「・・・今から、行ってもいい?」
 言えた。思いのほかはっきりと言えた。
 さすがに驚いたのか、イッキが、えっ、という表情を見せた。ちょっと間抜けな顔だ。イッキのこんな顔はきっと滅多に見られない。
 イッキは束の間手元を見ながら何かを考えている風だったが、黙ってヘルメットを差し出した。あたしは両手で受け取って、でもどうしたらいいのかわからなくてイッキの顔を見た。
「かぶれ」
「イッキは?」
「ひとつしかねえんだよ。来るんだったら、早めに言え」
「あ、そっか。そうだね・・・。うん、ごめん」
 そう言いながらメタリックシルバーのヘルメットを頭に乗せた。フルフェイスじゃなくて、頭から頬にかけてだけ保護してあるヘルメット。ぶかぶかだ。頬の下辺りで紐の長さを調節しようとするのに手がかじかんでしまって上手くいかない。もたもたしているとやっぱりむっとした顔でイッキが近寄って顎の下に手を伸ばしてきた。
 真っ黒な革ジャンから漂う煙草と冷たい空気の入り混じった匂い。胸がきゅっと苦しくなった。
「イッキ、今、カノジョいないって言ってたよね?」
 顎を斜めに上げ、目の前にあるジャンバーのジッパーと、イッキのごつい手首に視線を置きながら訊く。これも予定通りの質問だ。一応確認しておきたかった。
「あ?」
「・・・いるの?」
「いねえよ」
素っ気無く答える。「・・・何だ、一子って案外顔小せえんだな」
とひとり言みたいに言った後、意地悪く、太ってんのにな、と余計な言葉が付け足された。
 ・・・しっつ礼だなあ。そりゃ、昔はころころ太ってたけど、今だって痩せてはいないけど、一応標準体重の範囲内には入ってる。
 イッキはシールドを下ろした後、軽くぽん、とヘルメットを叩いてからバイクに跨った。駐輪場から出たバイクの後ろのシートにあたしもお尻を乗せた。
「ちゃんとつかまってろ」
「うん」
「寒いぞ」
「うん。・・・あのね、イッキ」
「何?」
 バイクのエンジンがかかった。あたしの身体もイッキの身体も小刻みに震動する。バイクのエンジン音は思っていたよりずっと大きかった。次の台詞が一番言いにくいのに。きっと小声じゃ届かない。
───今日、泊まって、いい?
「ああ?」
と、イッキが大きな声を上げた。「何?聞こえねえよ」
 あー。やっぱり、そうか、聞こえないか。そりゃそうだね。
 あたしはすうっと思い切り深く息を吸い込んだ。ここは恥ずかしがってちゃいけないとこなのだと自分に言い聞かせて口を開いた。
「きょ、う、イッ、キ、の、と、こ、に、泊まっ、て、も、い、い?」
 目の前にある背中が固まるのがはっきりとわかった。ゆっくりイッキが顔だけで振り返ろうとした。でも、バイクの前後に座っているので目を合わすことはしなくて済んだ。
 イッキの頬がすぐ傍にあることが不思議だった。同じ教室で目が合うことは何度もあったのに、こんなに近くで会話を交わしたのは本当に久しぶりだった。奇妙な感動すら覚えていた。
「何言ってんの?お前・・・」
「泊まるの。イッキのとこに。だめ?」
「・・・」
「・・・カノジョいないんなら、いいでしょ?」
「何、それ、どういう理論?ガキじゃないんだから、簡単にそういうこと言うな。お前わけわかんねーよ、さっきから」
 イッキは大袈裟に首を傾げながら前を向いた。
 イッキの右手首が回るとバイクが滑らかに発進した。
 取りあえず第一関門は突破した、とひっそりと後ろで安堵していた。
 黒いジャンバーに覆われた背中はあたしの行動を拒絶しているようには感じられなかったから。
 国道に出ると雪のちらつきはさらに強くなった。
 雪がすごい勢いでこちら側に向かってくるみたいに、見える。
 あー、失敗したな、と思った。ヘルメットはイッキに渡すべきだった。きっと目を開けているのは辛いだろう。あたしはこういう所に少しも気がまわらない。
 大学からイッキの借りているアパートまでは多分バイクで十分もかからない筈。もうじき着く筈。これも、本人に聞いたのではなく、隣に住むイッキのおばさんから聞いた話。あたしは一時間以上もかけて自宅から電車で通っているけど、イッキは大学に入ったと同時に家を出た。
 雪、雪、雪。
 イッキの腰に回した左腕のコートの上にも、イッキの革ジャンの肩先にも、雪の結晶は遠慮なく降りかかる。
 高校生の頃は細くて華奢だったのに。今、目の前にあるイッキの背中は、広い。


 イッキ。
 門倉かどくらいつき
 あたしの幼なじみ。
 あたしはひとりっ子で、イッキは男ばかりの四人兄弟の三男坊。同い年のあたしたちはよく一緒に遊んでた。
 ちっちゃな頃は叩かれたり蹴られたり、イッキにはいじめられてばかりいた。なのにあたしは門倉家の優しい兄弟たちの中で、誰よりも乱暴で冷たくて愛想のないイッキと一緒にいるのが一番好きだった。楽しかった。どうかしてる、と自分でも思う。
 多分、イッキは、あたしの世間一般でいうところの婚約者だ。
 あたしの父親が言いだしっぺで、イッキのおじさんとおばさんとうちの母親が承諾して、信じられないことだけどイッキも了承したらしい。それが高校二年生のときの話。
 でもあたしとイッキは恋人同士じゃない。
 硬派なふりしてイッキは相当遊んでる。最近はどうだか知らないけど、高校生の頃はそうだった。
 あたしとイッキは婚約者同士で、でも恋人同士なんかじゃない。
 ふたりはそういう関係だ。


 想像していたよりもずっと古いアパートの、鉄筋の階段の下で、イッキはあたしの背負った大きなリュックに目を当てていた。中には用意周到に準備した、下着だとかパジャマだとかが入ってる。じっと見られると、何だか居たたまれない気持ちになる。
 イッキの顔とジャンバーには水滴が幾つもついていた。鼻の先が真っ赤になっている。
「お前、泊まるって、本気?」
 呆れたみたいに訊かれた。
「本気」
 イッキは首を傾げながら階段を上がる。
「おじさんとおばさんには何て言って来た?」
「お父さん、昨日から沖縄に行ってるの。向こうにも店舗広げたいからって。家には誰もいない」
「・・・おばさんは?」
 イッキはジーンズのポケットを探っている。部屋の鍵を探しているのか、でも、なかなか出てこない。イッキの手もかじかんでいて、きっと思い通りに動かないのだ。
「お母さん、家出しちゃった」
「・・・はあ?」
 イッキが目を丸くして振り返る。
「お父さんがまた爆弾落としちゃって。呆れて家出したの。・・・今、ロスのおばさんのとこにいる」
「ロス・・・」
うへぇー、やっぱお前んちって金持ちなのな、とイッキが揶揄うように言った。
「おばさんが向こうのひとと結婚してるってだけだよ。それにうちは成金じゃん」
 イッキの実家のほうがよほど由緒正しきお金持ちだと、あたしは思っている。
 イッキのポケットからやっと部屋の鍵が出てきた。どこにでもある銀色の鍵。
「おじさん、相変わらず突拍子もねえの?」
 イッキは苦笑していた。
「うん、そう、突拍子もない。変わらないよ、お父さんは」
 突拍子もない。
 その言葉の中には、あたしとイッキの婚約話のこともきっと入ってる。
 イッキがドアを開けた。
 普通の1DKの部屋だった。キッチンの奥の部屋は和室だ。
 入った途端、昔は嗅ぎ慣れていたイッキの部屋の匂いがした。また、胸がきゅっと苦しくなった。
 部屋の雰囲気も、実家のイッキの部屋と何だか似ている。
「寒ぃな・・・」
 イッキは靴を脱ぐと、直ぐに奥に行き、ヒーターのスイッチを入れた。
 あたしは玄関に佇んだまま動けない。靴を脱いでさっさと入り込むべきか否か。泊まる、などと口にしたくせに、ぐずぐず迷っていると、
「何やってんの?入れ」
 と言われた。
「・・・おじゃま、します」
 部屋に入ってからも所在なく立ち尽くすあたしに構うことなく、イッキは薬缶を火にかけた。
 テレビもコンポもつけていないので、部屋はしんとしていた。
 カーテンの開いた窓からは灰色の空が見える。雪は相変わらずすごい勢いで降っていた。明日の朝は積もってしまってるかも、と思う。
 自分の革ジャンをハンガーに掛けた後、イッキはあたしにもハンガーをひとつ寄越した。ブルーの針金ハンガー。きっと木製のハンガーなんか持っていないのだ。
 次に起こさなくてはいけない自分の行動を思って、あたしの心臓は強く打った。もう眩暈がしそうだ。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。
 流しに向かってるイッキの背中を、敷居に立ったまま見詰めていた。
「座れば?」
 振り返らずに言われた。
 あたしは、ずかずかと足音を立ててイッキに近寄った。驚いて身体をこちらに向けたイッキの首に、唐突に抱きついた。
 背伸びをして。
 思い切りぎゅうっと抱きついた。
 イッキの身体が強張るのがはっきりとわかった。ごくっと、息を呑む音さえも。
「・・・おいっ」
 イッキがあたしの腕を掴んだ瞬間、あたしはイッキの唇に自分の唇をぶつけるようにして重ねた。
 直ぐにイッキが唇を外す。
「ふざけんな」
 怒ってる。イッキが猛烈に怒ってる。
 それでも構わず二度目のキスをした。
 もう、必死だった。
 これから先どうしたらいいのか、本当はよくわからなかった。
 舌を絡ませなければならないという知識だけはあったが、できそうもない。
 なので。首を傾げ、強く吸った。
 イッキに肩を掴まれ、引き剥がされた。
「やめろって。何考えてんだ、バカっ」
 至近距離で睨みつけられる。決意が怯みそうになる。
 負けないように、こちらも睨み返した。
 しんと乾いた部屋の音が耳に痛い。
 このまま帰るわけにはいかない。目は外さないままに下唇をきゅっと噛んだ。
 やめろ、と言ったくせに。
 三度目のキスは、イッキのほうからだった。
 唇を重ねた途端、食べれらるみたいに貪られた。荒い息遣い。後ろ頭に回されたイッキの掌が指先が髪をぐしゃぐしゃにする。遠慮なく入ってきた舌が縮こまっていたあたしの舌を探し当てた。怖い。
 あたしの身体はみっともないくらいがたがたと震え始めていた。膝も抜けそうだ。震えながら、必死にイッキのセーターの脇腹を握っていた。
 舌を絡ませながらも冷静に、イッキがコンロの火を消したのがわかった。イッキは冷静だ。こちらは心臓が止まりそうなのに。
 慣れてるんだ、と思った。イッキは慣れている。こんなの、本当はイッキにとっては何でもないことなのかもしれない。でもそう思うのはあまりにも悲しかったので、それ以上考えないことにした。
 押し抱かれるようにして、ベッドまで運ばれた。
 柔らかい布団の感触を背中に感じたところでやっと唇が解放された。あたしは大きく息を吐いた。吐く息すらも震えていた。
「いいの、かよ?」
 イッキの髪の毛が頬に当たる。唇は首筋で動いている。あたしは声も出せないでこくこくと頷いていた。
「途中で泣いても、やめねーぞ」
 嘘だ。
 イッキはあたしが泣けばきっと止める。
 だから絶対泣かないと決めてきた。
「うん。いい」
 目を閉じてイッキの首にぎゅっと抱きついた。
「・・・一、子」
 名前を呼ばれ、再び唇がかぶさってきた。
 イッキ。
 イッキがここにいる。
 そう思っただけで泣けてきそうだった。
 窓の外では雪がまだ舞っていることだろう。閉じた瞼の裏にはさっきシールド越しに見た雪の残像が映っていた。
 こちらに向かってくる雪。
 雪、雪、雪。


 イッキ。
 ごめんね。
 ごめんね、イッキ、と、あたしは心の中で謝っていた。
 こんな騙すような真似をして。
 騙す、という表現はちょっと間違っているかも知れないけれど。
 でも、やっぱり、あたしはイッキに謝らなければならない。
 イッキは知らないのだ。
 あたしとイッキの婚約が取り止めとなったことを。とっくに破談になっていることを。
 その事実を、イッキだけがまだ知らされていなかった。


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※一般道路での二輪自動車のノーヘル走行は違法です。


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