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雪、雪、雪  2.
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 何だか背中側だけがすうすうと、やけに寒くて目が覚めた。
 開いた目にいきなり平らな裸の胸が飛び込んできてぎょっとする。
 うわわっ。
 イッキだ。イッキが隣で眠ってる。しかも裸で。・・・っていうか、あたしも裸だ。すっぱだか。一糸纏わぬとはこのことだ。
 ひとりあたふたと真っ赤になりながら布団を抜け出した。深呼吸を何度か繰り返し、幾分落ち着きを取り戻すと、まずはヒーターのスイッチを押した。
 寒い。この部屋は寒すぎるのだ。築三十年、と昨日イッキに教えてもらった。イッキの実家はお金持ちなんだから、もっと高級なマンションでも借りてもらえばいいのにと言うと、おでこをぺちんとはたかれた。
 カーテンの向こう側はうっすら日が射しているようだった。そーっとカーテンの端っこを捲って外を覗くと、もしかして見ることができるかもしれないと期待していた雪景色には、残念ながら至っていなかった。雪の量が全然足りない。家々の屋根のところどころにうっすら白いものが残っているくらい。
 窓側からこっそりイッキのほうを振り返ってみた。
 よく寝ている。
 部屋の隅には、昨日、真夜中に洗ったシーツが干してあった。あのシーツの上で二回、した。カーテンレールと古い柱に刺さった釘とにビニールの紐を張って出来上がった、簡易物干し場。汚れてしまったシーツを洗ってそこに干した。
 その後もう一度真新しいシーツの上で抱かれた。
 イッキは優しかった。信じられないくらい。
 優しくて、いやらしかった。
 思い出すと顔が火照る。両手の甲をそっと頬に当てた。
 さっきから身体中の筋肉が強張ったみたいに痛かった。動くたびに音を立てて軋む感じがする。自分で思っていたよりずっと、必要以上に身体に力を入れていたということだろうか。
 机の横にある背の低いメタルラック製の本棚には、沢山の法律関係の本や辞書が並んでいた。新しい物からかなり使い込んで背表紙がぼろぼろになったものまで。昨日、この本棚を目にしたあたしは呆然となった。イッキがここまで本気で試験に取り組んでいるとは知らなかった。
 きっとイッキは在学中の司法試験合格を狙っているのだ。元々出来がいい上に努力家だったとは。頭が下がる。
 あたしはどうだろう。試験を受けるのだろうか。それすら未定だ。自分が弁護士や裁判官という仕事をこなしているイメージが全くわかない。受けるにしても、本腰を入れるのは卒業してから。大学の勉強との両立なんてあたしには到底無理だから。
 門倉家は法曹一家だ。
 親戚関係の殆どが裁判官、検事、弁護士の司法関係の仕事に従事している。・・・らしい。実際、おじさんは弁護士だし、イッキのふたりのお兄さんも修習生だ。一番上のお兄さんは二年ほど司法浪人していた。イッキの実家を由緒正しきお金持ち、と、あたしが思う理由はこんなとこにある。
 それに比べて。
 あたしの父親はといえば、バブルがはじけてから急成長した極安アパレル系のチェーン店を経営している、元は呉服屋のお坊ちゃま。
 父の会社の顧問弁護を一手に引き受けているのが、イッキの父親が開く法律事務所だ。おじさんとうちの父親もまた、幼なじみだ。今でも妙に仲がいい。全然タイプの違うふたりなのに息が合っている。あたしとイッキも同性同士だったらよかったのに、と。ふたりを見ていると、ついそんなことを思ってしまう。


 時計に目を遣った。
 シャワーを浴びて、服を着て、帰らなくちゃいけない。
 イッキはまだ気持ち良さそうに眠っている。


 ショートブーツを履こうと玄関にしゃがんだ。ブーツの色は濃い臙脂色。内側のジッパーを上げたところで、布団の擦れる音が背中側から聞こえてきた。
 イッキが起き上がる気配。なるべく物音を立てないようにしてたのに。
「・・・一子?」
 寝起きが悪いのか、あまり機嫌のよろしくない声で名前を呼ばれた。
「おはよう、イッキ」
 振り返って笑顔を作った。
 イッキは裸の上半身を起こした格好で、怒ったような顔をこちらに向けている。不機嫌な顔はいつものことだ。
「何してんの?お前、帰る気?」
「あ、うん」
 イッキはさらにむっとした顔になった。
「何で?・・・ここから大学に直接行きゃいいじゃねーか。勝手に黙って帰んなよ」
「うん。でも、着替え忘れちゃって。おんなじ服で行くわけにはいかないじゃん?」
 服を忘れたというのは嘘だった。初めからイッキが起きる前に帰るつもりでいた。
「それに、イッキ、すっごくぐっすり寝てたから。起こせなかった」
 イッキはふうん、あ、そう、とあたしの話を端から信用していないような口調で言って、ベッドから足を下ろした。部屋はあたしが起きたときより随分暖かくなっていた。
 その所為なのか、どうか。信じられないことにイッキはすっぱだかのままこちらに向かってくる。あたしは焦った。
「ば、ばかばか、イッキ。パンツくらい穿いてよっ。信じらんない」
 真っ赤になって顔を背けると、
「あ?」
と、ひと言。うるさそうに言う。
 渋々奥の和室に戻ったイッキは、面倒くさそうにごそごそと布団を捲ったりしたけどパンツは見つからないらしい。
「仕方ねえなあ」
と、ジーンズを直に穿いた。色の褪せた、多分それほど安くはないだろう古着のジーンズ。
 穿きながら言う。
「ってかさ。一子、今日くらい休めば?・・・お前、身体きつくねえの?」
 言外に含むものを感じて、頬がばっと赤くなった。
「そりゃ、ちょっとは。・・・でも、二限の青井あおいの講義は絶対出ときたいから」
「ノート、後で誰かに借りればそれで済むだろ?」
「・・・」
 あたしは首を横に振った。
「・・・真面目だよな、一子は」
 玄関に座り込んだまま動けなくなった。帰るタイミングを逸してしまった。
「煙草、吸っていい?」
 キッチンの換気扇の下に立ったイッキにそう訊かれて、イッキが昨日からずっと煙草を我慢していたことに、あたしは初めて気がついた。
 あ、っと片手を唇に当てた。
「ごめん、イッキ。全然、気づかなくて・・・」
 本当に全然気がつかなかった。あたしはいつだって、自分のことばかりだと恥ずかしくなった。自分のことに必死でイッキのことにまで気がまわらなかった。
 イッキはといえば、
「は?何が?」
と、素っ気無い。素っ気無いのは、多分、照れ隠し。お前の為じゃねーよ、俺が吸いたくなかったから吸わなかっただけなんだよ、と、そういうことなんだろう。イッキらしいけど。ちょっとひねくれてるよなあ、と思う。
 イッキの右手が換気扇から伸びた紐を引っ張った。今風のフィルターに囲まれた立派な換気扇じゃなく、五つの羽のプロペラが剥き出しになったやつ。回転し始めた途端、ばばばばばっっと派手な音を立てた。
 ふーっと、幸せそうに煙を吐き出すイッキの横顔を見詰めた。ごめん、イッキ、とあたしはもう一度小声で呟いたけど、多分換気扇の音に掻き消されて本人には聞こえていない。いや、聞こえるとまた怒られちゃうから、そのほうがいいんだけど。
「これ吸ったら駅まで送ってくから、待ってろ」
 あたしはかぶりを振った。
「・・・何で?」
「道路、きっと凍ってる。バイクじゃ危ないもん」
「じゃ、歩いて送ってくから」
「いいよ、ひとりで帰れるよ。夜じゃないんだし、それに外、寒いし」
そう言って立ち上がった。急に優しくされてもどうしたいいのかわからなくて困る。
 イッキがこちらを向いた。いつもと変わらない顔。でも、ちょっとだけ眠そうな顔。
「イッキ、昨日はありがとう、ね」
 無意識にそう言っていた。ありがとうという言葉がこの場合適切なのかどうか。
 でも。この時、あたしの心は本当にそう伝えたがっていたのだ。
「は?・・・ありがとうって何だよ。意味わかんねーよ。俺、お前に礼言われるようなこと、なんかした?」
 怒ったような口ぶり。
 あたしはぽかんと口を開けて暫く言葉を失っていた。イッキの愛想がないのはいつものことなのに、心がひんやりと冷たくなった。
 なかなか思いは伝わらない。気持ちを否定されたみたいで後はもう何も言えなくなってしまった。
 もういいや。もういい。
 ポケットに手を突っ込んで俯いた。
 ゆうべのことが嘘みたいに気まずい雰囲気が漂う。暗雲立ち込めるとはきっとこういうことだ。換気扇だけがこの場に不釣合いなド派手な音を響かせていた。帰ろう。そう思ってドアに手を掛けたところで、イッキが口を開いた。
「なあ、一子・・・」
「え?」
 慌ててイッキのほうを見る。
「お前、何か、あったのか?」
 気遣わしそうな声。
 どきっとした。
 瞳が揺れそうになる。
 イッキは相変わらず怒っているみたいな顔をしていた。でも、声の感じで本気で心配してくれていることは、わかる。
「何か、って?」
「何かあったんだろ?じゃなきゃ、お前が俺のとこに来るわけねーもん」
イッキらしくない自嘲気味な言い方だった。「だろ?」
 何にも。
「何にも、ない、よ」
 笑って言おうとするのに、喉が詰まりそうになって、変な喋り方になった。唇が今にも歪みそうだ。
 イッキは銜え煙草でこちらをじっと見ている。
 黒い瞳に探るように見詰められて、耐えられなくなって、視線を逸らした。
「ほんと、帰る。遅刻するといけないから。じゃ、ね」
「・・・わかった。俺も青井の講義出るから。後でな」
 後で。
「・・・うん、後でね」
 後でと言われた。変な感じだ。もう、あの広い大学の敷地内で出くわしたイッキに、あからさまに無視されることはなくなったということだろうか。
 やっぱり不思議な感じだ。
 階段がかんかんかん、と鳴る。
 見上げた空は昨日の暗い色が嘘みたいに澄んでいた。快晴。気持ちのいい、冬の朝の匂いがする。
 鼻がつんとした。
 なんだか泣けてきそうだった。
 後悔はしない。
 と思う。
 でも、これから先、昨日のことを思い出して泣くことは何度もあるだろうな、とも思う。
 広い道路に出た。
 早い時間なので、車道はそれほど混んでいなかった。この辺りを歩くのは多分初めてだ。でも、駅は割りとわかりやすい場所にある。昨日、ここへくる途中に道路標識で確認していた。
 短いスカートを穿いた制服姿の女子高生がひとり歩いていた。多分行く先は同じ。同じ駅。見覚えのある高校の制服だ。あんなに太腿丸出しで寒くないんだろうかと思わず目が釘付けになった。
 あたしの吐く息も、女子高生が吐く息も、真っ白だ。
 信号待ちで停車している車の運転席の女のひとが大きな口を開けて欠伸をしているのが見えた。寝足りていない顔。
 交差点の角っこのガソリンスタンドに大きなタンクローリーが入っていく。店員が張り上げる大きな声。自転車の急ブレーキの音。
 朝だ、と思った。
 夜の間に沈んでいた空気が少しずつ上昇するように動き始める朝。
 どんな嬉しいことや悲しいことや泣きたいことが起こっても、それでも毎日平等に、誰のとこにもこうして朝はやってくる。


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