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雪、雪、雪  4.
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 お昼を一緒に食べようと誘われた。
「近くに『オレンジ・カフェ』ってお店が出来たの、美田村さん、知ってる?」
 大野さんが大きな目をくりくりさせて覗き込んでくる。
「あ、はい、知ってます。行ったことはないんですけど」
 そして何だって敬語使ってんだ、あたし。大野さんは同い年だ。
「じゃ、そこにしようよ」
 と、中野くんが微笑む。
 えーと。いいのだろうか。でも、断れる雰囲気ではなかったので、一歩下がって彼らの後をついて歩く。
 後ろから見るとみんなお洒落だな、とつくづく思う。田辺さんはシックで大人っぽい感じ。大野さんはレースなんかもついてる可愛い系。重ね着が上手だと思う。男のコ三人はカジュアルなんだけど、イッキはジーンズにお金をかけてるし、木庭くんも中野くんもそこそこ名の知れたブランドの服を着てる。でもちっとも嫌味な感じがしない。時折服に着られちゃってるなってひとを見かけたりもするけれど、このひとたちは違うと思う。ちゃんと着こなしているのだ。
 「みたむら」の服を着ているひとなんかひとりもいない。いや、あたしも今日は着てないし、まあいいんだけど。
 この大学は国立大学でありながら、どういうわけか実家がお金持ちというひとが多い。偏差値と親の年収は比例するという統計があるらしいが、頷ける気がする。前を歩く五人は典型的なその例だ。
 視線をあちこちに彷徨わせていると、ひとりの男のひとに視線が留まった。
 白いセーターの上に着ているグレイのパーカー。「みたむら」の服だとひと目でわかった。ジーンズは「ユニクロ」のもの。「ユニクロ」は「みたむら」のライバルだと、あたしは密かに思っていたりする。ふうん、こういうひともいるんだと、顔をみると、眼鏡をかけて優しそうな顔立ちをしている。体型もひょろっとしてるし、結構タイプかも、と思っていると視線が絡んだ。
 ・・・あれ。
 向こうもこちらをじっと見ていた。
 何だろう。この既視感。というより、親近感。
 眼鏡の奥の細い目と垂れた目じり。誰かに似ている。
「あ・・・」
 あたしは思わず声を上げて、直ぐさま視線を逸らせた。そういえば、この大学の経済学部にいると聞いていた。
 絶対あのひとだ。絶対。
 あたしは確信した。胸の鼓動が一気に激しくなる。
 もしかしたら向こうはあたしの顔を知っているのかもしれない。そっと窺うと、まだこちらを見ていた。
 イッキの後ろに隠れ、素知らぬ顔で通り過ぎようとしたとき、
「もしかして、美田村一子さん?」
 声をかけられ心臓が止まりそうになった。いきなり話しかけてくるこの図々しさ。誰かさんにそっくりだ。
 色のなくなっただろう顔をゆっくりと上げる。
「・・・は、い」
 メタルフレームの眼鏡の向こうの瞳は柔らかだった。
「やっぱり」
 満面の笑み。うあああ。
 恥ずかしくなってあたしはさらにイッキの陰に隠れた。頭は既にパニック状態で、他の四人の存在なんか考えられなくなっていた。
「僕、川嶋一平かわしまいっぺいです」
「はい。わかります・・・」
「よかった。一度話したいと思ってたんだ。あの、よかったら、今からお昼でも、どう?と言っても、今、持ち合わせがあんまりなくって、学食ぐらいしか奢れないんだけど」
 初対面で、しかもこの状況でいきなりそんなことを言うだろうか。さすがだ。
「すみません」
頭上からイッキの声がした。「俺ら、今から飯食いに行くんですよね」
「え。あ・・・」
間の抜けた声。
 あたし以外の人間の存在にまるきり気がついていなかったみたいな顔だ。イッキや他の四人に視線を走らせると戸惑った表情になった。
「ご、ごめん、そうなんだ」
申し訳なさそうに頭を掻く。「あの、じゃあ、明日は?明日はどう?」
 あたしは頭を横に振った。
「あー、そうか・・・」
 川嶋一平さんは困ったような声を出した。ちらりと見えた、ひとの好さそうな顔。
「そうか、そうだよね。やっぱ、その、嫌、だよね?」
「・・・」
 返事ができなかった。
「話しかけてごめん。じゃあね、一子ちゃん」
 一子ちゃん。
「あ・・・」
 あたしは顔を上げた。
 去って行く後ろ姿を見詰める。
 「みたむら」のパーカーに、「ユニクロ」のジーンズ。飄々と歩く細い身体の線。
 何だか寂しそうな後ろ姿に思えた。でも、やっぱりあのひとと話をするわけにはいかないのだ。
 そんなことをしたら、母を裏切ることになる。そんな気がしたから。


「ねえ、さっきのひとって、美田村さんの、何?」
 オーダーを告げた後、直ぐにそんな質問をされた。
 長くて幅も広い十二人掛けくらいのテーブルに座っている。テーブルは濃い茶色で、椅子はメタリックシルバー。テーブルの上には試験管のような形の花瓶が等間隔に並んでいて、アイビーの葉っぱが挿してあった。お洒落なお店だった。あたしが端っこで、イッキ、田辺さんの順に座っている。向かいに中野くん、木庭くん、大野さん、だ。同じテーブルの反対側の端っこには女のコ三人組。多分同じ大学のコ。他の四人掛けのテーブルもほぼ、うちの大学生と思しきひとたちばかりで埋まっていた。
「え。と」
あたしは思考を巡らせた。「うちの父親の、知り合いの、息子さん」
「おじさんの?」
 イッキが意外そうに訊く。
「うん」
嘘はついていない。「で。え、と、『みたむら』に就職が決まってるの」
「へえ」
 大野さんがくすりと笑う。
「でも、あのひと、『ユニクロ』のジーンズ穿いてたよね?」
 よく見てる。侮れない。
「いるんだね、うちの大学にも、ああいうひと」
 どういう意味だ?いるよ。ユニクロのジーンズ穿いてるひと、うちの大学にだっていっぱいいるじゃん。あたしはちょっとだけむっとした。みんながみんな、あんたんちみたいにお金持ちってわけじゃないんだよ、と、心の中でだけそっと毒づく。
「あのひとって、新聞奨学生、だよね?」
 少し言いにくそうに中野くんが口を開いた。
「あ・・・」
 うん。そう。
 あたしはこくりと頷いた。
「うちのマンションの近所の販売所で働いてるよ、あのひと」
「そうなの?」
「うん。先輩に聞いた話なんだけど、両親も兄弟もいなくって、高校卒業してから二年くらい働いてたらしいんだけど、やっぱり学歴がほしいからって、うちの大学を受験したらしいよ」
「へえ。そんなんで受かっちゃうの?すごいね」
「うん。頭はいいんだけど、両親いなくてすっごく苦労してたって聞いた」
 あたしは黙って聞いていた。両親も兄弟もいない。少しだけ胸が痛んだ。話ぐらいならしてもよかったかもしれない。
 気持ちが沈む。喉はからからだ。お水でも飲もうとグラスに手を伸ばした。
「あのひとって、美田村さんと、雰囲気似てたよね?それにすっごく優しそうな顔で美田村さんのこと見てたから、なんか訳ありなんだと思っちゃった」
「え、ほんと?」
大野さんの台詞にあたしは思わず上擦った声を上げていた。「似てる?あのひととあたし、ほんとに似てる?」
「う、うん」
 大野さんはあたしの勢いに退いていた。別に褒めたわけじゃないんだけど、と、大野さんは困ったような顔で笑った。あたしはゆっくりとグラスに唇をつける。くすぐったいような暖かいような不思議な心持ちがしていた。
 そこで川嶋一平さんの話は終わった。
 後は、イッキや中野くんたちの司法試験の情報や、田辺さんのアナウンス学校の話になった。
 相槌を打ちながら腰に掌を当てた。下半身がずん、と重かった。身体もだるい。もしかしたら熱が出てきたのかもしれない。昨日に限らず、お父さんが爆弾を落としてからずっと睡眠不足が続いていたし、体調は最悪だった。
「やっぱテレビ映り考えたら、もう少し痩せたほうがいいかもって、言われちゃった」
 田辺さんが真剣な面持ちでそんなことを言う。あたしはぼうっとした頭でもしっかりと反応してしまった。あたしの目に映る、テーブルに乗せられた田辺さんの手首は本当に細かったのだ。白くて華奢、だ。
 女子アナへの道は厳しく険しいらしい。
 気が付かないうちに唇を半開きにしていたみたいで、ぽかんと開けた口の中に人差し指を入れられた。イッキが笑う。
「アホ面してんな」
 あたしは真っ赤になってその手を払った。人前でなんて真似をするのだ。
 くすくす笑う中野くん。
「相変わらずだね、ふたり」
 そう、昔はずっとこんな感じだった。イッキは誰の前でも平気であたしを揶揄ったり、いじめたりしてた。サド。
 それにしても。一昨日までほとんど言葉も交わさなかったのに。今朝だってまだちょっとぎくしゃくしてたのに。少しずつ元のふたりに戻ってる。距離が縮まっている。そんな気がした。嬉しくて、ちょっと怖い。
「樹とずっと喧嘩でもしてた?」
 中野くんが店員の持って来た真っ白なプレートを受け取りながら小さな声で言う。他の四人は別の話に盛り上がっていた。こちらの話は多分聞こえていない。
「随分、口利いてなかったでしょ?」
「・・・」
 あたしは返答に窮した。中野くんは、困った顔になって、
「でもさ、今日、ふたりが一緒にいるの見て安心した」
「安心?」
「うん。樹もさ、なんていうか、いっつも一子ちゃんのこと意識してるのこっちにもわかってたし。無理してるっていうか、早く仲直りすればいいのに、ってずっと思ってたんだ」
 イッキが。
 イッキがあたしを意識してた。
 あたしは頼んだランチメニューのベーグルサンドを口にしながら、中野くんの言葉も一緒に咀嚼する。少し焦げた色のベーグルは、クリームチーズとブルーベリーソースを挟んでいた。齧ると紫色のソースがぽとりと落ちて、白いプレートを汚した。
「樹はもしかしたら一子ちゃんのことを好きなのかな、って俺は思ってるんだけど」
「・・・」
 あたしは黙って首を横に振った。絶対そんなことない。
 ちらっと横目でイッキを見ながら、
「いっぱいカノジョがいたじゃん」
そう言うと、中野くんは笑った。
「あー、高校生の頃はね。確かに」
中野くんは喋り方まで優しい。「ちょっとどうかと思うくらいひどかったよね。でも、大学に入ってからは聞いてないよ。相変わらず、モテてはいるみたいだけど」
「そう、なんだ」
「一子ちゃんは?」
「え・・・」
「好きなの?」
 そう言って中野くんはイッキのほうを見る。好奇心丸出しの表情だ。
「おい」
イッキが怒ったような声を出した。「隣で、ひとの噂話すんなよ」
「あれ?聞こえてた?」
 中野くんがにっこりと笑う。このひともなかなか謎だ。
 あたしはベーグルサンドを白い皿に戻した。あたしとしたことが。食欲までなくなっている。これは本格的に熱が出てきた証拠だ。
「何?食わねえの?」
 イッキが食べかけのまま置かれてしまったベーグルサンドを見ながら言う。
「うん」
「一子が食欲ないなんて、有り得ねえだろ。さすがに危機を感じてダイエット中?」
「うっるさいなあ」
 不意にイッキの左手の甲が頬に伸びてきた。じっと見詰められる。というか、睨んでる?
「もしかして、熱ある?」
「かも」
 首を傾げながら答えた。
「かも、じゃねえだろ」
イッキはあたしの耳許に唇を寄せた。「だから、今日は休めっつったんだよ」
回りに聞こえないように低い声で言われた。テーブルを挟んだすぐ真正面で中野くんがにやにや笑っている。恥ずかしくて顔が赤くなった。
「だって」
 イッキは仕様がねえなあ、と呟くと中野くんに目配せした。中野くんは、ああ、と言ってポケットを探る。あうんの呼吸というやつだろうか。何なのだこのふたりは。
 中野くんが取り出したのは車の鍵だった。銀色の鍵に、持ち手の部分が黒。黒地にHのマーク。
「あ、何?もし、あれだったら、俺も車持ってるから、送ってくよ。美田村さん、家どこ?」
 木庭くんは手に持っていたスプーンを置くと、立ち上がろうとした。でも、
「だめ、だ」
と、言下にイッキに一蹴される。
「えー、なんで樹がそんなこと決めんだよ」
「一子、行くぞ」
「う、うん・・・」
 あたしは慌てて立ち上がった。
 イッキがだめだと言った瞬間、田辺さんの顔色が変わったのをあたしは見逃さなかった。
「えー、あのふたりって結局そういう関係なわけー」
とのたまう木庭くんの、不貞腐れたような声を背中で聞きながら、田辺さんがどう反応しているのかあたしはそちらのほうが気になって仕方なかった。


 現れたのは真っ赤なホンダのフィット。
 びっくりだ。
「これって、中野くんの趣味なのかな?」
「違うだろ」
イッキが運転席で笑う。「カノジョの好みで選んだんだってよ」
「へえ。そうなんだ」
「別れたらどうするつもりなんだろうな」
 確かに。
「・・・そういうこと言わないの」
嗜めるように言ったけど、イッキは面白そうに笑ってる。別れた後のことをきっと想像しているのだ。やっぱりサド。
「ごめんね、イッキ」
「は?何が?」
「送ってもらって」
 多分往復で二時間近くかかる。よくよく考えてみれば、電車で帰ってもよかったのだ。
「いいんだよ。俺が昨日無理させたからかも知んねえし」
「無理?」
 きょとんとして訊くと、イッキは黙り込んだ。やや間があって、
「いいから、寝てろ」
頭を乱暴にくしゃくしゃっと撫でられた。はい、と素直に頷く。
 国道に出るあたりまで、後は無言だった。車内にはエンヤの曲がかかっている。これも中野くんのカノジョの趣味だろうか。エンヤの曲はどの曲も、真綿で包み込まれるみたいな気分にさせられる。気持ちがいいんだけど、本格的に眠くなってきた。
 あのひとさ、と、唐突にイッキの声が耳に入り込んできて瞼を開ける。
「え?何?」
「さっきの。新聞奨学生のひと」
「あ、うん」
「あのひとって、本当におじさんの知り合い?ただ、それだけ?」
「・・・」
「・・・」
「うん、そうだよ」
「ふうん。そう」
 どうしてそんなことを訊くのだろうか。心臓がばくばく言っている。
 イッキはずっと正面を見ていた。運転しているから当たり前なんだけど。でも、その表情からは何も窺えない。
 また暫く間を空けて、
「ああいうタイプ、一子、好きだろ?」
イッキが揶揄うみたいに笑いながら言った。
「・・・」
「中野とか、うちの兄貴とか、さ。眼鏡かけててひょろっとしたタイプ。で、女に妙に優しいやつ」
「え」
 あたしは驚いた。身を乗り出してイッキに訊く。
「なんで?なんでわかるの?」
 本当にどうしてわかっちゃうんだろうかと不思議だった。幼なじみだから?でも、あたしにはイッキの理想のタイプがどんなだかなんてさっぱりわからない。高校生の頃は来る物拒まずなんて言われてたし。まあ、そういうイッキだからあたしも昨日みたいな行動に出ることができたわけなんだけど。
 でも、さっき中野くんは、イッキは大学に入ってから誰ともつきあっていないと言っていた。
 イッキがブレーキを踏み、車が停まった。信号は赤、だ。
「おっまえなあ・・・」
 イッキはハンドルに両腕を乗せて前を見た格好で、苦笑いしていた。
「イッキ?」
 イッキがこちらを向く。伸びてきた指に鼻を摘まれた。あたしは顔を顰める。
「痛いってば。もう、そういうの、やめてよ」
「寝てろ」
「寝てろって、何よ、自分が話しかけてきたくせに」
「悪い。ほんと、寝てろって。着いたら起こすから。後ろ、行くか?」
 イッキが後ろのシートを指差す。あたしはちょっと考えて首を横に振った。
「いい」
 レバーを引いてシートをゆっくりと倒した。
 イッキの顔を下後方からじっと眺める。こんな角度からイッキを見たことがあっただろうか。
 小さな頃から一緒にいた時間は長かったけど、離れていた時間の分だけ記憶が薄れている気がした。
 イッキの顔を縁取る線は昔よりずっと大人のものになっていた。時折見える唇。ふっくらした唇。昨日、暗闇の中、あの唇が何度もあたしの名前を囁いた。思い返してみても、夢の中の出来事だったような気がして実感はない。
 今、窓から射し込んでくる陽は明るい。
 エンヤの曲は、昔映画の主題歌になっていた曲。主人公の女のひとは、確か病気で死んでしまった、そんな悲しいストーリーだったと映画のラストシーンを思い出していた。
 瞼が段々重くなってきた。
 あたしはそのまま、家に着いたとイッキに起こされるまで、本当にぐっすりと眠っていた。


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