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雪、雪、雪  6.
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 翌日。
 あたしは、待ち伏せしていた川嶋一平さんに捕まって、結局ふたりで学内の食堂で昼食を取ることになった。
 うちの大学にはふたつ学食があって、ひとつは新しくてカフェテリア風。サンドイッチやトーストなどの軽食がメニューの中心。もうひとつは古くて、でも、しっかりとお腹に溜まるメニューがある昔ながらの食堂風。あたしたちは古いほうの学食を選んだ。
 ふたりで一緒に定食Aを頼む。今週は、豚肉のしょうが焼きがメインだ。
 熱はひと晩ですっかり下がり、今日のあたしは食欲旺盛。ダイエットなんかどこ吹く風。
 向かい合った川嶋さんはしきりにごめんね、を口にした。
 こんなとこで食事なんて嫌だよね、ごめんね、とか、自分と話をするのは不愉快だろうけど、どうしても一度話がしたかったんだ、ごめんね、とか。その都度あたしも、いいえ、学食はあたしもしょっちゅう利用していますから、とか、全然不愉快なんかじゃありませんとか、適当に言って頭を下げた。
 父から話を聞いたとき、なんて嫌なヤツなんだろうと、まだ会ってもみないうちからあたしは川嶋一平という人間を嫌っていた。きっと「みたむら」を乗っ取るつもりだと、父はいいように手玉に取られているのだと、勝手に想像を膨らませて憤慨していた。
 今、目の前にいる男のひとは、本当にひとが好さそうで、頭も低くて参ってしまう。憎めないのだ。
 というか。このひとに「みたむら」の将来を任せてしまって大丈夫なのだろうかと、逆に心配になってくる。
 このひとの母親はどんなひとだったのだろうか。結局、どうして父の前から姿を消して未婚のまま子供を産んだのかは、わからずじまいだったらしい。全ては藪の中だ。
 きっと綺麗なひとだったんだろうな、と、目の前で豚肉を齧る、意外に整った顔を盗み見た。目許は父に似ているけれど、全体的にシャープな印象だ。喋っちゃうと鈍臭くて、どうにもイケテないのが難点だった。
「変だって、思われるかも知れないんだけど、自分に妹がいるって知って、すごく嬉しかったんだよね。ずっとひとりだったから。会ってみたいって思ってた。一子ちゃんみたいないいコでよかったよ」
 そんなことを恥ずかしそうに言う。あたしはあたしで自分の腹違いの兄となるひとが陋劣な人間でなかったことに安堵して、そしてやはり照れ臭かった。
 はたから見れば、あたしたちふたりのやりとりは、まるで初々しいカップルに見えたかも知れない。
「僕のこと、嫌な人間だって思ってる?」
 そう訊かれたときも正直に、
「実は・・・ちょっとだけ思ってました」
と、答えた。
「・・・そりゃ、そうだよね」
 川嶋さんの顔から血の気が失せる。
「あ、でも、今は、思ってませんよ、今は」
「いや、別に、いいんだ。それがフツーだと思うから」
実はね、と川嶋さんは続けた。「一子ちゃんのお父さんから養子縁組の話があったとき、すごく迷ったんだ。物心ついた頃からずっと母とふたりだけだったし、母が亡くなってから今までもひとりで遣ってきたし」
「『みたむら』の社長が自分の父親だってことは知ってたんですよね?」
「うん。だから入社してやろうって、思ってた。本当は、ちょっとだけ恨んでたんだよね」
「・・・」
「実は母のことも、ね。恨んでた。勝手に産んで、勝手に先に死んで、ひとりにしたって。コドモだったからね」
 川嶋さんは苦々しく笑う。あたしは笑えなかった。このひとがどんな人生を歩んできたのか、その苦労を想像することすらできない。あたしは恵まれていたから。
「でも、面接で顔合わせたとき、何ていうか、込み上げるものがあってさ。笑っちゃうよね。・・・感動してたんだよね。ああ、自分の父親が今目の前にいるって」
「・・・」
「バカみたいでしょ?」
 あたしは首を横に振った。
 あたしと川嶋さんの料理は半分食べたあたりから少しも減っていなかった。もうお肉もスープも冷たくなっている。
「今は会えてよかったって、思ってる。養子になるって話を受けたのも、勿論、家族がほしいって気持ちもあったんだけど、本当は、ちょっとくらいお金持ちになってもいいんじゃないかっていう下心もあったんだよね。ずっと貧乏してたから」
 あたしは思わず、すみません、と頭を下げていた。
「え、あ、いや。一子ちゃんは、気にしないでいいよ。ご、ごめん、変な話、しちゃったね」
「いえ」
「あ、あの、これからも会ってもらえるかな?」
「え・・・」
「ケータイの番号、教えてもらっていい?」
「あ・・・」
 あたしは母の顔を思い浮かべていた。
「あ、嫌、かな?」
「いえ」
 お母さんごめんなさい、ごめんなさいお母さん、と胸の中で呟きながら携帯電話を取り出す。
 このひとに肉親はいないと聞いていた。父とあたしだけが血縁者なのだ。
 携帯電話を向かい合わせながら川嶋さんが言った。
「一子ちゃん、似てるよね」
「え」
「お父さんに似てるって言われない?昨日、会ったとき、すぐにわかったよ」
 今度は父の顔を思い浮かべた。目じりの下がった顔。七福神のうちのひとり、恵比寿さまみたいな顔。
「それは、ちょっと複雑ですね」
 真面目な顔でそう言うと、川嶋さんは初めて破顔した。


「後ろにね」
もうそろそろ講義室に行こうかというときになって川嶋さんが言った。「後ろに昨日一子ちゃんが一緒にいたひとたちがいるよ」
「え」
「彼でしょ?一子ちゃんの幼なじみで、婚約者だったひと。ほら、すごくかっこいい。ずっとこっち見てるよ」
「・・・」
 あたしはゆっくりと振り返った。
 例の五人組がいた。勿論、イッキも。
 イッキはあたしと目が合うと直ぐに視線を外した。相変わらずの不機嫌そうな顔。
 木庭くんと大野さんが手を振っているので、あたしも複雑な笑顔で手を振り返した。
「彼にも悪いこと、したよね」
「いえ、そんなことないと思います」
 全然気にしなくていいです、と強い口調で返していた。
 昨日、イッキが最後に残していった言葉が気になって仕方なかったから、どういう意味なのかちゃんと確認したかったのに。
 どうしてイッキのあたしを見る目はあんなに冷たいんだろうと思う。隣にはまた田辺さんが座っていたと、一気に気持ちが暗鬱になった。田辺さんには今日も優しい笑顔で話しかけたりしているのだろう。そう思うと、悔しい。何かを期待してしまった自分が恥ずかしくなる。
 そう言えば、門倉のおじさんとおばさんは、いつイッキに婚約破棄の話をするつもりなのだろうか。
 父と話をして直ぐに、門倉家にあたしと母とで謝罪に行った。おじさんはいなかった。おばさんは、残念ねえ、と本心からそう言っているように見えた。男五人に囲まれて生活しているおばさんは、娘がほしくて仕方がないとよくこぼしていた。みんなないものねだりなのだ。
 あたしはおじさんにもおばさんにも、小さな頃から随分と可愛がってもらった。
「樹に話したらショック受けちゃうだろうから、今度、ゆっくり帰って来たときにでも話そうと思ってるの」
 ショックは受けないと思うよ、おばさん。あたしは心の中でだけそっと呟いた。
 イッキはどう思うだろうか。
 おばさんが言ったみたいに少しはショックを受けるだろうか。
 それとも意に添わない桎梏から解放されて喜ぶだろうか。
 どちらにしてももう決まってしまった話だった。
「じゃあ、また、電話するね」
「はい」
 あたしはイッキのほうは見ないで学食を後にした。

 
 寒いな、と思ったら、いつの間にか雪が降っていた。
 もうじき冬休み。休みが明けたら試験がある。
 深閑とした家に帰るのは何だかつまらなかったので、学内の図書館で勉強をしていた。
 あの後。
 いきなり、川嶋一平さんからケータイに電話がかかってきた。もしかしてふざけてかけているのかと思うくらい、別れて直後のことだった。
「もしもーし。ちゃんと登録してますよー」
『一子ちゃん、ごめん』
 こちらは気安くおちゃらけた調子で出たのに、川嶋さんの声は真剣だった。思わず背筋が伸びる。
「す、すみません。ど、どうしたんですか?」
『ごめん、あの、さっき、彼が来て』
 彼?
『あの、婚約者のひと、一子ちゃんの』
 正確には元婚約者、だ。
 イッキが。川嶋さんのとこに。
 嫌な予感がした。
『なんだか僕と一子ちゃんのこと、誤解してたみたいで。・・・彼、知らなかったんだね、一子ちゃんとの話がダメになったこと。知らなくて、喋ってたら、なんか話がおかしくなっちゃって』
 あちゃー。あたしは身体を仰け反らせていた。
「もしかして、言っちゃったんですか?」
『ごめん』
「・・・あー、いや、いいですよ。どうせ、いつかはわかることだし」
 ってか。本当に大丈夫か、「みたむら」。
『でも、すっごくショック受けてたみたいで。まずかったんじゃないの?』
 ショック?
 まあ、イッキだって、いきなり自分の将来の道筋というものが自分のあずかり知らないところで軌道修正されていたわけだから、少なからず衝撃は受けるだろう。でも、イッキはちゃんと司法試験の勉強もしてるし、彼の将来の展望には何の影響もない筈だ。
 いいです、気にしないでください、そう言って電話を切った。
 駐輪場の近くを通る途中、手袋を鞄の中から取り出しながら、イッキのバイクを目で探す。もう帰ったのだろうか、そこにはなかった。
 イッキは何の話があって、川嶋さんのところに行ったのだろうか。
 吐く息は真っ白だ。頬が刺すように痛い。
 殆ど横殴りになった雪の向こうから人影が近づいてきた。イッキだった。
「あ・・・」
 イッキはあたしの顔を見ると顔色を変えた。でも、それも一瞬だけだ。すぐに皮肉っぽい笑みを浮かべて口を開いた。
「今、帰り?」
「うん。図書館で勉強してた」
「へえ・・・」
「イッキも?・・・今日はバイクじゃないんだね」
「ああ、今日はね」
 寒そうに黒いダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで、肩を竦めている。目を開けていられないくらい風が強かった。イッキの睫に雪の粒がついている。
「今から中野たちと飲みに行くんだ」
「そう・・・」
 何てことない会話。普通の友達同士がするみたいな。
 こんな風に。
 こんな風にあたしとイッキは普通の友達になっていくのだろうか。寂しい気もするけれど、無視されるよりはずっといい。
「じゃ、ね」
 笑って別れた。
 マフラーを巻きなおす。顔を包み込むように。大きな雪の粒がコートの前面にこびりついている。茶色いダッフルコートが白くなる。
 不意に、腕を掴まれた。
 がくん、と後ろに倒れそうになる。あたしの背中とぶつかったイッキのジャケットがかさかさと、擦れるような音を立てた。
「イッキ・・・」
「・・・」
 イッキは唇を引き結んだ顔で、じっとあたしを見下ろしている。
「何すんのよ。びっくりするじゃない」
 びっくりはこっちだよ、とイッキがはき捨てるように言った。
 イッキのダウンジャケットにも、白い粒がいっぱいついている。大きな雪の結晶。ぼたん雪だ。
「どういうことだよ?」
「どういうことって?」
「俺と一子の婚約って、とっくになくなってるんじゃねえか。一子、知ってたんだろ?」
 あたしは、頬を引き攣らせてイッキを見上げる。頬が寒さの所為で固まって、うまく笑えない。
「知ってたんだろ、っつってんの」
「・・・うん。知ってた」
「・・・」
 イッキは、眉間に皺を寄せると黙り込んだ。あたしの腕を解放した手を、頭に持っていき煩わしそうに雪を払った。イッキの髪は水分を含んで濡れていた。
 一子、と名前を呼ばれた。
 イッキの瞳がどういうわけか泣いているみたいに見えた。胸がきゅっと苦しくなる。
「な、に?」
「お前さ」
───お前、何で俺と寝たの?
 すぐに視線を落とした。
 わっかんねえよな。
 俺、全然わかんねえんだけど。そう言ってから、ダウンジャケットの雪を両手で払った。
 雪は先ほどより弱まってはいる。それでもまだ相当な量だと思う。
 イッキのごつごつした手が何度払っても、雪は次から次へと直ぐにはりついて来る。
「ほしかったの」
「は?何が?」
 自分から質問を投げかけておいて、冷たくあしらうような声。顔も上げない。
「イッキがほしかったの」
 イッキの手の動きが止まった。ジャケットからこちらへと、ゆっくりと視線が移るのがわかった。
 あたしはイッキの手の甲に視線を置いたまま一気に捲し立てた。
「イッキとの結婚の話がなくなったって聞いて、あたし、目の前が真っ暗になったの。そのくせ頭は真っ白で、どうしよう、どうしよう、イッキとの繋がりがこれで本当になくなっちゃうって、いてもたってもいられなくなったの。変だよね?イッキにずっと無視されてたくせに、お父さんの突飛な行動をずっとバカにしてたくせに、あたし、あんなバカげた婚約話にしがみついて、イッキとの将来をずっと勝手に夢見てたんだって、そのとき初めてわかったの」
 イッキの両手はジャケットの上で止まったままだ。
「笑っちゃうよね?笑っちゃうでしょ?」
「・・・」
「イッキに抱きしめられたかったの」
「・・・」
「一度でいいからイッキに思いっきり抱きしめられたかったの。少女趣味って笑われても初めての相手はイッキじゃないと嫌だったの」
「・・・」
「イッキのことがずっと好きだったの」
「・・・」
「だから、あんなバカな真似したの。・・・ごめんね、イッキ、ごめん」
 暫く向かい合ったままふたりで立ち尽くしていた。吹きつける雪の塊であたしたちふたりの横半身は真っ白だった。
 イッキは茫然とした表情であたしの顔を見ている。信じられないものを見るような目つき。頬は寒さの所為で真っ白なのに、高い鼻梁だけがピンク色に染まっていた。コドモみたいで可愛い、と、こんな時なのに思ってしまう。
 イッキが一歩足を前に出した。あたしは同じように一歩後退る。
 イッキが何か言おうとして唇を開いたのと、後ろから車のクラクションが鳴ったのが殆ど同時だった。
 ふたりでそちらに視線を遣った。
 真っ赤なホンダのフィット。その後ろにはプショー。シルバーの左ハンドルの車。
 フィットの助手席から大野さんが顔を出した。
「この吹雪の中何ふたりで話し込んでんのよ。ふたりとも雪だるまみたいになってるじゃない。早く、乗りなさいよ」
 ほら、美田村さんも。
 そう言われたけれど、あたしは躊躇した。後ろの座席に田辺さんがいたから。木庭くんは、と見ると、後続のプジョーの運転席に座っていた。
「あ、あたし、あっちに乗せてもらいます」
 そそくさと行く。
 ぶちまけてしまった。何もかも全部。ぶちまけた。
 恥ずかしくてもうイッキの顔なんか見られない。
 一子っ、と呼ぶ声が聞こえたような気もしたけれど、あたしは振り返らないでプジョーの助手席に滑り込んだ。
 

 助手席に座ると、木庭くんがタオルを貸してくれた。ありがとうございます、と頭を下げてからコートに当てた。
「今から車置いてさ、みんなで飲みに行くんだけど、美田村さんも一緒に行く?」
 木庭くんが弾んだ声で話しかけてくる。あたしは首を横に振った。
「ごめんなさい。今日は帰らないといけないんで、このまま駅まで送ってってもらっていいですか?」
 声が震えていた。木庭くんが気付かなければいい、と祈った。
「あー、そうなの。残念」
「ほんとに」
「また今度誘っていい?」
「はい」
 あたしは頷いた。
「えーと。・・・ふたりでっていうのはまずいかな?」
「・・・いえ、全然構いませんよ」
「え?ほんとに?」
「ほんとに」
「やった」
 そうだ。
 今までイッキとのことがあったから、誰ともつきあってこなかったけれど、これからは違う。いっぱい恋をしようと思った。古い恋を忘れるには新しい恋をすればいいと言うではないか。
 もう、いい加減イッキから卒業したい。
 雪の所為か車のスピードは遅く、道は混んでいた。フロントガラスのワイパーが忙しなく動く。
 視界を埋め尽くす不揃いな白いぼたん。
 雪、雪、雪。
 前を走るフィットのテールランプが赤く光っていた。イッキは今、田辺さんとどんな会話を交わしているのだろうか。
 イッキも。
 イッキもまたいっぱい恋をするんだろうな、と思った。また女のコを抱きしめたりなんかするのだろう。あたしにそうしたみたいに。
 胸が押し潰されるように痛んだ。
 知らなければよかった。あんな幸せ、知らないほうがよかったのだ。
 後悔しないと強がっていたのに、もう悔いている、と可笑しくなった。
 目を何度も瞬いた。家に辿り着くまでは泣きたくなかった。


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